お忙しいところ、ようこそのお参りでございます。暑かった夏も過ぎて、ようやく秋らしくなりました。今日は、お彼岸のお中日です。紫雲寺では、毎年、このお彼岸のお中日に、秋の彼岸会と永代経法要を併せてお勤めいたしております。 今年はたまたま、「彼岸の入り」に「敬老の日」が重なりました。カレンダーを見ていて、そのことに気づいたときに、改めて思いましてね。長く生きた人を敬うのが、「敬老」だろうかと。 人として生まれてきたものは、「彼岸」に向かって生きる。「彼岸」の世界に向かって年を取っている人こそ、「敬老」という言葉に値するのではないかと。 人生は長さではない。たとえ短い人生でも、人として生きられたら、この世で人として生きる時間を与えられたことに感謝できたら、それ以上のことはないと思うのです。 そこで、今回は、ご案内のように、「人として生きる」という題で、お話しすることにいたしました。副題は、「人工長寿の時代に」です。 いつもながらの、いささかまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合い下さいますよう、お願い申し上げておきます。 さて、7月の厚生労働省の発表によりますと、平均寿命が、女性が87.05歳、男性が80.79歳になったそうです。平均寿命が50歳を超えたのは、戦後の昭和22年(1947年)ですから、わずか数十年の間に、平均寿命が30年以上も延びたのです。 江戸時代までの平均寿命は30歳前後だったといいますから、こんなに寿命が延びたのは、歴史上、かつてないことです。 今や4人に1人が65歳以上でして、長寿の人が増えましたが、自然な状態でなら、ヒトという生き物の寿命は、40歳〜50歳なのだそうです。 本川達雄という生物学者のおっしゃっていることですが、動物の種類にかかわりなく、心臓は一生の間に15億回拍動するのだそうです。ネズミの心臓は、トクトクトクトクと、速く拍動するから、寿命が短い。ゾウの心臓は、ドックンドックンとゆっくり拍動するから、寿命が長い。その計算でいくと、ヒトの寿命は、40歳〜50歳となる。 それなら、現在のように、平均寿命が80歳を超えているのは、どうしてかといいますと、それは、科学技術の力で、寿命が人工的に引き延ばされているからなのです。 とくに、医療や衛生、食料生産などの技術が進んだお陰で、長生きできるようになりました。ですが、「良いこと二つは無い」のが、この世の常でしてね。 急に人生の持ち時間が増えたというのは、いわば、寿命の成金状態です。となるとです、無駄遣いをする。いつまでもあると思ってしまう。いかがですか。 今年の春に聞いた話ですが、ある方が、70歳になられた。70歳といえば古稀です。古来稀なりというような歳になったということで、今年から、毎年正月に、写真館で葬式用の写真を撮ってもらうことにしたのだそうです。 で、撮影が終わって写真館を出てきたら、店の主人が追いかけてきて、こう聞いた。「お客さん、あの写真、お急ぎですか」と。それで、はっと気づいたというのですね。葬式用の写真なんて言いながら、そんな日のことは本気では考えていないことにです。 長生きするようになったために、人生が終わるという感覚が薄れ、彼岸を思うこともなくなってきた。ですが、永遠に生きられるようになったわけではありません。人生は、いずれは終わるものです。 そのことを忘れて、「寿命が延びた、また延びた」と浮かれていると、いずれは、「こんなはずではなかった」ということになる。現代は、いわば、「長寿のバブル」に浮かれている時代ですが、バブルは、いずれ、はじけますよ。 何年か前のことですが、80歳も超えたおじいさんで、一度もお寺にお参りになったことがないという方がおられましてね。その方に、「どうぞお参りになってください」と申しましたら、「いやあ、ごえんさん、まだはやいですわ」とおっしゃった。何にはやいのですかね。「まだ行けるは、もう遅い」という交通標語がありましたけれどね…。 まあ、仏法を聞かなくても、生活はできるのです。それは、皆さんも、よくよくご存じのことでしょうけれどね。で、その「生活」というのは何かというと、「生き物としての活動」のことです。 たとえばです、食べものを手に入れるとか、住む場所を作るとか、連れ合いを求め、子供を育てるとか、地位を争うとか、そういったことです。ヒトだけではなくて、生き物なら、みんなすることです。イヌにはイヌの生活があり、ネコにはネコの生活が、ゾウにはゾウの生活がある。 生活というのは、生き物が、生きながらえよう、生き延びようとしてする活動のことですから、生活の基本は、サバイバルなのですよ。このサバイバルだけが、つまりは生活だけが、問題になっているあいだは、なかなか仏法には、ご縁が開けてきませんね。 若いあいだは、たいてい、生活に忙しくて、なかなか気づけないものですけれど、ひと山越して、中年を過ぎますとね、それまで見えていなかった峠の向こうが、見えてくるでしょう。 峠の向こうを見れば、老いの坂道が、死の断崖に続いているのですよ。寿命が延びたといっても、老いの坂道が長くなっただけです。行き着くところは「死」なのです。 そのことに気づいても、なお、「死ぬことなんか考えない、生きることだけを考えている」というのなら、それは、死への不安を、ごまかしているだけだと思うのですが、いかがでしょうか。 生きる「長さ」だけが問題だというのなら、他の動物と変わりません。人が、他の動物と違うのは、生きる「深さ」なのです。いのちを深く生きること。それが「人として生きる」ということです。その「いのちの深さ」を教えてくれているのが、仏法なのですよ。 「仏法は難しい」と、よく言われますが、仏法が伝えようとしているのは、たったひとつのことなのです。それはです、「いのちの奥底で自分を支えてくれている働き」に気づくことなのです。それが、「南無阿弥陀仏」です。そういう話に続けます。 私たちは、たいてい、自分の力で生きていると思い込んでおりますけれど、本当は、そうではありませんね。それは理屈で考えても分かりますでしょう。呼吸をするのも、心臓が動くのも、自分の力でやっているわけではない。私たちが眠っている間も、呼吸は続き、心臓は休むことなく動き続けている。 消化の働きも、免疫の働きも、そうですね。私たちは、自分で生きているのではないのです。私たちは、自分の意志ではない、「いのち」の不思議な働きによって、「生かされて生きている」のです。 ちょっと余談ですが、かつて、NHKスペシャルで「驚異の小宇宙・人体」という番組を見たときは、衝撃的でした。「自分のからだ」なんて言っていますけれど、私は、この「からだ」がどうなっているのか、何も知らないのです。そのことに気づいて、ショックでした。 考えてみれば、誰も知らなかったのですよ。この「からだ」が、どうなっているのか。だからこそ、沢山の学者が、長い年月をかけて調べてきたのです。それで、ともかく、現在までに分かったことは、ひとことで言えば、この「からだ」は、奇跡と神秘のかたまりだということです。 両親が作ったものでもないし、作れるものでもない。「驚異の小宇宙」です。私の「からだ」といっても、私の想像もおよばない不思議なものなのです。まさに、私は、「いのち」の不思議な働きによって、「生かされて生きている」のです。 人生全体で見ても、そうですよ。いつも申しますように、人生の背骨は、「生・老・病・死」です。生まれてきたこと、年老いていくこと、病気になること、死ぬこと。仏教では、この「生・老・病・死」を「四苦」と言います。「苦」というのは、思い通りにはならないという意味です。 生まれたいと思った覚えもないのに、生まれてきた。年を取りたいと思っていなくても、年を取る。病気になりたいと思っていないのに、病気になる。そして、死にたいと思っていなくても、死ぬんです。 人生は、基本的に、自分の思い通りにはならないものなのです。「生・老・病・死」は、与えられるもの。人生の基本は「受け身」なのですよ。 とすればです、私たちにとって大事なことは、人生をきちんと受け止められること、人生の確かな受け皿を持つことではないでしょうか。その人生の受け皿となるのが、「いのちの奥底で自分を支えてくれている働き」への気づきなのです。 仏というのも、浄土というのも、この「いのちの奥底で自分を支えてくれている働き」のことです。私たちは、いのちの奥底で、仏に支えられている。私たちはみな、浄土から生まれてきて、またその浄土へと帰って行く。この「いのちの真実」への気づきを伝えてくれているのが、浄土の教えです。 その仏の名前を、「阿弥陀」といいます。阿弥陀というのは、「永遠のいのち」のことです。有限な「私」は、「永遠のいのち」のひとつの現れなのです。 そのことへの気づきを促しているのが、「南無阿弥陀仏」という名号なのです。「南無・阿弥陀仏なんだよ、南無・阿弥陀仏。阿弥陀仏に南無しなさい」と、呼びかけてくださっている。それが、「南無阿弥陀仏」なのです。 「南無」とは、こころの底から深く頷くことです。「ああ、まことに、大きな働きに、支えられて、生かされて生きておりました。全ては、お与えでございました」と、こころの底から深く頷くこと、それが「南無阿弥陀仏」です。 「南無阿弥陀仏」と呼びかけられて、「南無阿弥陀仏」と応えられたら、それ以上のことは何もありません。それが仏法の全てです。 ちなみに、今から40年ほど前のことですが、御本山で教師の修練を受けました。同朋会館二階の大広間で、200人くらいでしたかね、全国から集まった修練生が、間衣輪袈裟で正座している前に、教導の先生が立たれて、最前列の一人に、こうおっしゃった。「真宗の教えを、ひとことで言ってみろ」と。 大学生くらいの人でしたが、「そんなもん、ひとことでは言えません」と応えたら、「ばかもん、ひとことで言えんでどうする、ひとことで言ってみろ、ひとことで」と、大声で叱られました。 で、その学生さんは、おそるおそる、「南無阿弥陀仏、でしょうか」と応えたら、教導の先生は、「そや、分かっとるやないか」とおっしゃって、それでおしまいでした。そのときの私には、まるで禅問答のように聞こえましてね。この「ひとこと」に頷けたのは、それから何年も後のことでした。 実際、仏法が難しいのは、ここですよね。何が難しいのかと言うと、私たちは、なかなか「南無」することができないということです。私たちには、「全ては、お与えなんだ」と知ることはできても、「全ては、お与えなんだ」という境地に成ることは、まず、できませんね。 「全ては、お与え」なんて言っていては、生きていけないではないか。いったい誰が、食べさせてくれるんだ。自分で、一所懸命に働いて、お金をかせぐ以外にないではないか。「食べないと、死ぬ」のだ。 私たちは、たいてい、そんなふうに思っていますからね。「全ては、お与え」なんて言われても、現実感がなくてね、こころの奥底にまでは響いてこないのですよ。 そんなふうに、「頼れるのは自分の力だけ」と、こころが「サバイバル・モード」になっているあいだは、聞いても、聞こえてきませんね。 かなり前のことですが、親御さんを亡くされてから、この寺に熱心に通われた方がありました。ばりばりのビジネスマンでしたがね。何年も聞法されて、あるとき、相談にこられました。「聞いても聞いても、分かったような分からないような、そんな思いで悩んでいますが、どうしたらいいでしょう」と。 それでね、「おそらく、人生に挫折しないと分からないでしょうね」と申しましたら、こうおっしゃった。「私は、人生に挫折しないように懸命に努力してきました。これからも、そうしていくつもりです。人生に挫折しないと分からないようなものなら、私には、必要無いですね」と。それからお越しになりませんが、どうなさっているでしょうね。 仏法は、競争社会を有利に生きるための教えではありません。ビジネスマンやスポーツマンが、サバイバル能力の向上をめざして座禅を組んでも、仏法の本筋から見れば、たいして意味があることではありません。 スポーツは勝つためにやりますが、仏道修行は負けるためにするのです。実際、「食べないと、死ぬ」といっても、それなら、「食べていたら、死なないのか」といえば、そうではないですね。「食べていても、死ぬ」のです。そのことに本当に気づいたら、何かが変わるのではないでしょうかね。 人生が、自分の努力や才覚で、何とかなっているあいだは、なかなか気づけないものですがね。いずれ、自分の力では何ともならないということに、ぶつかるでしょう。老いの坂道で足がもつれたとか、大病を患ったとかね。 今、門前の掲示板には、「病人は、病床を念仏の道場と思え」(高橋常雄)という言葉が掲げてあります。お読みになりましたでしょうかね。「食べていても、死ぬ」ということが、まぎれもない現実になる。そんなときですよ。聞法してきたことが、ふと聞こえてくるのは。 頼りにしていた「自分」が、お手上げになって、人生のハンドルから手を離したら、それまで聞法してきたことが、ふと、聞こえてきてきませんか。そんなとき、自分を支えてくれている「いのち」が、南無阿弥陀仏となって、あらわになる。 相田みつをさんの詩に、こんなのがあります。
長い人生にはな もうひとつ。これは藤原正遠先生の歌です。
いずれにも 聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、縁あって、ふと分からせてもらう。「私は、生きている」。ですが、「私が、生きている」のではない。「私は、生かされて、生きている」のです。 この、「私を生かし支えてくれている働き」に目覚めたとき、「回心」(えしん)を得たといいます。昔の人は、「仏様のおこころが聞こえた」と言いました。この「私を生かし支えてくれている働き」こそ、仏様なのです。 いわば、私たちは、仏の手のひらの上で、仏の「いのち」を生きているのです。仏の手のひらの上で「生かされて生きている」と分かったら、本当に、楽になりますよ。 そのとき、清沢満之先生は、「天命に安んじて、人事を尽くす」とおっしゃいました。安心して、力一杯生きられるということですね。また、安田理深先生は、「どうすることもできないことは、どうする必要もないこと」おっしゃいました。これも、同じことでしょう。 仏の手のひらの上で「生かされて生きている」と分かったら、何も思い悩むことはない。極楽って、このことではないですかね。
生きるものは生かしめ給う これは、藤原正遠先生の歌です。生きるものなら生かしてくださるし、死ぬものなら死なしてくださる。自分にできることは何もない。いのちのことは、いのちにおまかせです。このことに本当に目覚めたら、この世は浄土ですよ。 仏法はね、なによりも聞法が大事ですよ。自分の限界にぶつかったときに、ふと聞こえてくるといっても、聞法していないと、何も聞こえてこないですよね。仏法を聞かないと、自分が迷っていることにすら、気づきません。 以前、門前の掲示板に、「心が開いている時だけ、この世は美しい」(伝聞)という言葉を掲げたことがあります。それを読んだ男の人が、「この世のどこが美しいんじゃ」と言い捨てて行かれました。仏法を聞いていないと、「心が開いている時だけ」という言葉が、聞こえてこないのですよ。 ちなみに、お釈迦さまは、晩年に、「世界は美しい、人生は甘美だ」とおっしゃいました。当時のインドは、いくつもの大国が争う戦国時代でした。お釈迦さまのお生まれになった国も、滅ぼされてしまいました。それでも、お釈迦さまは、おっしゃった。「世界は美しい、人生は甘美だ」と。これが仏教なのですよ。 まずは、仏法にご縁があるということが大事です。ですが、サバイバル・モードのままで聞いているあいだは、聞いても聞こえてきません。仏法が伝えようとしているのは、サバイバル・モードの目には見えてこない「いのちの深み」なのです。 つまりは、求めないとだめなのですけれど、求めているあいだはだめなのですよ。サバイバル・モードで求めているあいだはね。仏教が難しいのは、ここです。 聞いても、聞いても、なかなか迷いの闇は晴れませんけれど、私たち門徒には、聞こえてくるまで聞いていくという伝統があります。それは、聞く耳から、聞こえる耳に育てていく伝統です。 これまでにお話しさせて頂きました法話の原稿は、全部、紫雲寺のホームページに掲載しておりますので、どうぞ、皆さん、何度もお読みいただいて、お考え頂きたいと思います。 あれは、いわば、私自身の聞法の記録です。拙い話ですけれど、何度も繰り返しお読みになれば、きっと、細い道でも見えてくるだろうと思うのです。 耳で聞いたほういいと思われる方は、法話の録音CDもありますので、どうぞお求め頂いて、何度もお聞き頂きたいと思います。まあ、宣伝でもございませんが、法話CDのリストを資料に付けておきました。ともかく、何度も聞法して、吾が身に引き当てて考えることが大事です。 生活が豊かになったのも、寿命がのびたのも、科学技術が進歩したお陰ですが、それは、私たちの享受できる品物と持ち時間の量が増えたというだけです。 宗教的なものをどんどん切り捨てて、科学万能ともいえる道を進んできたために、私たちは、老いていくこと、病むこと、死んで逝くことのなかに、「いのち」への気づきを深めて生きることが、できなくなっているのではないでしょうかね。 私たちは、たいてい、「死ぬことなんか考えない、生きることだけを考えている」と、サバイバル・モードで突っ走っておりますけれど、全力で走って、死の絶壁から飛び降りていくのが、現代人の生き方なのでしょうか。 私たちの頭には、生きることしかなくて、「食べられないと死ぬ」という思いしかありませんから、子供にも、「食べられないと死ぬんだ、しっかりしろ」と教えます。ですから、子供が自分の食い扶持を稼げるようになったら、「これで、子供に生(いのち)を与えた親の役目は果たせた」と思ってしまいます。 ですが、本当は、親が子供に与えたのは「生(いのち)」だけではありません。「死なねばならない」という運命をも与えたのです。「生」と「死」は一枚の紙の裏表です。 それで、かつて私たち門徒は、「食べていても死ぬんだ、しっかりしろ」と教えたのです。そして、子供が、「死なねばならないいのちだけれど、ようこそ人間に生まれてきた。ようこそ生んでくださった」と、生まれてきたことに感謝して生きられる道に出遇ったとき、親は、はじめて、「これで、親の役目を果たせた」と思ったのですよ。 その「生まれてきたことに感謝して生きられる道」を説いているのが、仏法です。「子供が仏法を聞くようになった。ああ、もうこれで大丈夫だ」。それが、門徒の親心でした。 「一億総活躍社会」なんて言っている現代社会には、サバイバルとヒューマニズムしかありません。「人として生きる」ための指針を持たない現代人は、「死」から問われているのです。「あなたが老いていくように、あなたが死んで逝くように、子供や孫が、老いていき、死んで逝くとしたら、それでよいのか」と。 その問いかけに、「南無・阿弥陀仏」と、生きることで応えていく。「いのちの真実」への気づきを深めて、「彼岸」に向かって生きていく。「死」からの問いかけに、「彼岸」に向かって、生きることで応えていく。それが、真宗門徒ですよ。 私たちはみんな、生かされて生きているのです。人間だけでなく、あらゆる動物も、草や木も、山や川でさえも、みんな、仏の手のひらで、仏の「いのち」を生きているのです。私たちは、心安らかに、その「いのち」いっぱいに生きるだけです。 相田みつをさんの詩に、こんなのがあります。
名もない草も 仏教詩人の榎本栄一さんには、こんな詩があります。
自分がどれだけ この「いのちの真実」への気づきを、次の世代に伝えていくのが、老いていくもの、死んで逝くものの、務めですよ。 まずは食卓で、「いただきます」と言いましょう。「頂(いただき)」というのは、一番高いところのことです。山の頂は、山のてっぺん。私たちの頂は、この頭。「いただきます」というのは、この頭より高いところに持ち上げて、「いただきにします」という意味なのです。最高の敬意と感謝を表す言葉です。 食卓に並んでいるご飯も、野菜も、魚も肉も、みんな自然から恵まれたものです。私たちは、自然の恵みによって、生かされて生きているのです。そのことへの気づきと感謝の言葉が、「いただきます」です。 「自分の稼ぎで食っているものに、何で感謝が必要なのだ」という、サバイバル・モードからは、決して生まれてこない言葉です。「いただきます」が言えて、はじめて、「もったいない」が分かり、「おかげさま」が分かるのです。 子供には、ものごころつく前から、手を合わせて「いただきます」と言うことを、学ばせてくださいね。「学ばせる」というのは「まねをさせる」ということです。子供は親の言うとおりにはしませんけれど、するとおりにはするものです。 お父さん、お母さん、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんが、お内仏に手を合わせて、「南無阿弥陀仏」と称える姿を見て育つ。これは、仏法への、ありがたいご縁ですよ。 まあ、 仏法を聞かなくとも、死ぬことはできます。恐れと不安のなかでです。ですが、それでは、絶望に向かって歩いていくのが人生だ、ということになりませんかね。 そうではなくて、聞法を重ね、お念仏を称える生活の中で、人として、老いを老いていき、死を死んで逝く。その「人として生きる」姿を見せることほど、次の世代のこころに響くメッセージはないと思いますね。 「敬老の日」のテレビを見ておりますと、健康で長生きが人生の目的のような放送ばかりでした。どうですかね。そうではなくて、年を取っていくにつれて、「彼岸」に近づいていく。そして、次の世代の足元を照らす灯火となる。そういう年の取り方こそ、「敬老」という言葉に値するのではないでしょうかね。 仏教詩人、坂村真民さんの詩に、こんなのがあります。「老いること」という詩です。
老いることが こんな歳の取り方ができたらと思いますが、いかがですか。 2025年には、団塊の世代の人が、みんな75歳以上になって、大量死の時代を迎えると言われています。病院のベッド数も、老人の介護施設も足りない、医師も看護師も介護士も足りないと、今から大騒ぎですが、それは、サバイバル・モードでの死です。 仏法にご縁を頂いて、「生かされて生きている」ことに、ふと気づかせてもらったら、どこで、どんな死に方をしても、仏の手のひらの上。それが、人として生きたものの、人としての死ではないですかね。 南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏。このひとことに、こころの底から頷けるまで、「仏さまのおこころ」が聞こえてくるまで、ご一緒に、聞法してまいりましょう。それこそが、本当の親孝行、本当の先祖供養ですよ。 では、本日は、これで終わらせて頂きます。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、有り難うございました。 つぎは、11月13日の「報恩講」でございます。またご一緒に聞法させて頂けるよう、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ… えー、つけたしでございますが、紫雲寺の門前が、ポケモンGOのスポットになっているそうです。「牛に引かれて善光寺参り」という言葉がありますが、「ポケモンに引かれて紫雲寺参り」というのも、よろしいかと思います。お若い方も、どうぞ、お立ち寄り下さい。有り難うございました。
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