お忙しいところを、ようこそのお参りでございます。3月も半ばを過ぎて、春らしくなってまいりましたが、まだ風は少々冷たいように思いますね。 今年も、春に遇わせてもらいました。こうして、また、皆さんとご一緒に、聞法のご縁を頂きましたことを、有り難く存じております。 本日は、ご案内のとおり、「煩悩の身のままで」という題でお話いたします。「煩悩」というのは、私たちのこころの中で燃えている欲望の炎のことですね。「もっと、もっと」と、どこまでも満足できない「内なる炎」に、こころを焦がされて苦しんでいるのが、私たちです。 仏教というのは、本来、この「内なる炎」を消し去って、楽になろうという教えなのです。その煩悩の炎が消えた、安らかな境地を、「涅槃(ねはん)」といいます。つまりは、「涅槃」への道を説いているのが、仏教なのです。 ところが、「浄土の教え」は、そうではないのですよ。『正信偈』に「不断煩悩得涅槃(ふだん・ぼんのう・とく・ねはん:煩悩を断たずに涅槃を得る)」とありますね。煩悩の身のままで、涅槃に到る道がある。楽になる道がある。そのことを説いてくださっているのが、「浄土の教え」です。 「浄土の教え」では、「お念仏ひとつで救われる」と言います。その「救われる」とはどういうことなのか。今回は、そのことについて、ご一緒に考えてみたいと思っております。副題は、「凡夫の救われる道」です。どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いください。 さて、いつもお話しすることですが、私たちは、眼が外を向いて付いておりますのでね。他人のことばかり眼に映りまして、自分のことはなかなか見えてきません。仏教は、そんな自分を見る目を育てる教えなのです。 私たちが、悩んだり苦しんだりする原因は、私たちのこころの中にある。そのことに最初に気づかれたのが、お釈迦さまでした。私たちにとっても大事なことですから、そのあたりからお話ししてまいります。 まずは、「三帰依文」から始めます。先ほどご一緒に唱えました「三帰依文」は、『華厳経』という御経から採った言葉です。大乗経典の言葉は、大乗と言うだけあって、気宇壮大なものが多いのです。 さきほどの「三帰依文」でも、「…大道(だいどう)を体解して、無上意を発(おこ)さん」とか、「…深く経蔵に入りて、智慧海の如くならん」、「…大衆(だいしゅう)を統理(とうり)して、一切無碍(むげ)ならん」、とありましたね。 まことに威勢の良いといいますか、スケールの大きな言葉が並んでおりますので、唱えるたびに、いささか気恥ずかしい思いもいたしますが、元々の「三帰依文」は、もっとシンプルなものでした。
ブッダン サラナン ガッチャミ (仏に帰依し奉る) ご存じかもしれませんね。これが、パーリ語という昔のインドの言葉で唱えた、元々の「三帰依文」です。「ブッダ」は「仏」。「ダンマ」は「法」。「サンガ」は「僧」です。 「サンガ」といのは、「集まり、団体、仲間」という意味の言葉です。ですから、「僧」というのは、いわゆる「お坊さん」のことではなくて、仏法のもとに集まった仲間のこと、仏教教団のことなのです。 「サラナン ガッチャミ」は「帰依し奉る」と訳されていますが、「サラナ」というのは、本当は「避難所」という意味の言葉です。 「サラナン ガッチャミ」というのは「私は避難所に行きます」という意味です。ですから、「ブッダン サラナン ガッチャミ」というのは、もともとは「私は仏のもとに避難します」という意味なんですね。 「ダンマン サラナン ガッチャミ」は、「私は法のもとに避難します」、「サンガン サラナン ガッチャミ」は、「私は僧のもとに避難します」という意味です。 「何から避難するのか」といえば、それは「燃え盛る煩悩の炎」からです。お釈迦さまは、こうおっしゃいました。 「比丘たちよ、すべては燃えている。ぼうぼうと燃え盛っている。そのことを、あなたがたは、まず知らねばならない。…(中略)…何に依って燃えているのか。それは、貪欲(むさぼり)の炎に燃え、瞋恚(いかり)の炎に燃え、愚癡(おろかさ)の炎に燃えているのだ」(『雑阿含経』)と。 貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚癡(おろかさ)は、「貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の三毒(さんどく)」といいます。 貪(とん)というのは、「あれも欲しい、これも欲しい、もっと欲しい」という貪りのこころです。瞋(しん)というのは、怒り憎むこころ。癡(ち)というのは、愚かなことですが、無明(むみょう)ともいいまして、「法」(いのちの真実)を知らないことをいいます。 言い換えますと、「貪」は、自分に都合の良いものごとを、近づけようとするこころ。「瞋」は、自分に都合の悪いものごとを、遠ざけようとするこころです。そして、その、自分の都合ばかり思っている、自己中心的なこころの働きが、「癡」です。 私たちの悩みや苦しみの原因は、この煩悩にある。煩悩という「内なる炎」に焼かれて、私たちは悩み苦しんでいる。このことに気づかれたのが、お釈迦樣です。 誰もが、そうは思っていなかったということですね。あいつが悪い、こいつのせいだと思っていたのですよ。それで、お釈迦樣は、そうではないのだ、煩悩なんだ。「そのことを、あなたがたは、まず知らねばならない」とおっしゃったのです。 いかがですか。実際、自分の都合を振り回しても、そうそう思うようにはいきませんね。それで、悩んだり苦しんだりするのですが、私たちはたいてい、その悩みや苦しみの原因は、自分の外にあると思っていませんか。あいつが悪い、こいつのせいだ、なんてね。 お釈迦さまは、そうではないのだ、煩悩なんだ、と教えてくださっている。聞法してこられた皆さんは、「煩悩」という言葉はご存じですよね。そしたら、腹が立ったときなんかに、「あ、煩悩が燃えている」と思ったこと、おありですか。……無いですか。 以前、御法事でね、「煩悩」の話をしたんです。「あれも欲しい、これも欲しい、もっと欲しい」という「貪欲」の話です。そうしたら、そこのご主人が、こうおっしゃった。「人間というのは、欲の深いものですから……」と。 ……「人間」ね。「人間」って、今、70億いるんですよ。70億分の1に、話を薄めてしまったら、当然、さしあたって自分には関係ないということになってしまいますよね。そうではないのですよ。仏法は、「自分は、どうなのか」という話なんです。ここ、結構、敷居が高いのですよ。 仏法に、自分を聞くことを、聞法というのです。「ああ、そや、それ自分のことや」と、ひとことでもそういう言葉に出遇って頂けたらありがたいのですがね。 仏法って何なのかとか、仏法の考え方はどうなんだとか、何か面白い話はないかとか、そういう知識を求める聞き方をなさっていると、なかなか仏様のおこころは聞こえてきません。救いを願うこころにしか、救いの言葉は届かないのですよ。 「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」という言葉をご存じでしょうか。これは聖徳太子のお言葉だと言われております。「世の中のことは、うそいつわりばかり、ただ仏の教えだけが真(まこと)である」という意味です。 同じことを、親鸞聖人は、こうおっしゃっています。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』後序)と。 「世間虚仮」とか、「煩悩具足の凡夫に、まことあることなし」ということは、なんとなく理解できますね。「そら、世の中というのは、ろくでもないところや、煩悩だらけの人間に、まことはないわな」と、まあ、そういうことは、だいたい分かるでしょう。 ですが、「世間虚仮」の「世間」とは「自分のこと」だと受け止められないと、「唯仏是真」(ただ仏の教えだけが真である)にはつながらないのです。 「煩悩具足の凡夫」というのも、「煩悩だらけの人間」のことだと思っているあいだは、「ただ念仏のみぞまことにておわします」につながらない。 「世間虚仮」「煩悩具足の凡夫」というのは、この「自分」をめがけて投げかけられた言葉なんだと気づいたら、その気づきの先に、初めて、「唯仏是真」「ただ念仏のみぞまことにておわします」という世界が開けてくるのです。 仏教関係の本が、沢山出版されていますので、お読みになるかと思いますが、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界」については詳しく書かれていて、「ただ念仏のみぞまことにておわします」というところがお座なりな本は、たいてい、学者の書いたものですよ。こんなことを言うと、ご無礼かもしれませんがね。 仏法は、客観的な目で見て、理詰めで分かるというものではないのです。分かったと言っても、そんな仏教には、「私」を支える力はありません。どれだけ聞法しても、我が身の問題として受け止めて、生活となって開いてこないと、こういう聞法のご縁が、ただの教養講座になってしまいます。 「煩悩具足の凡夫」というのは自分のことだった。その気づきがあってこそ、仏法の話が聞けるのですが、私たちは、どうですか。このあいだの節分でも、「鬼は外、福は内」と豆をまいてから、ご丁寧に「恵方巻」まで頬張って、「どうぞ良いことがありますように」と願っているのが、私たちではありませんかね。 ある方に、この話をしましたら、「悪いことが無いように、良いことがあるようにと、願うのは、当たり前でしょう」とおっしゃいました。皆さんは、どう思われますか。 「損得あったら得とりたい、上下あったら上とりたいって、当たり前でしょう。年を取りたくない、病気になりたくない、死にたくないって、みんなが思うことでしょう」とおっしゃる方もある。おそらく、ほとんどの方が、そう思っておられるのではないでしょうかね。 ですが、その思いは決して実現しません。いずれは、誰もが、年を取り、病気になって、死んで逝くのです。「それが人生さ」って、あきらめの声が聞こえてきそうですが、本当は、「それが人生」ではないのですよ。 まずは、煩悩が見えるということが、大事です。煩悩が見えたら、その先に「いのちの真実」が見えてくるのです。年をとることも、病気になることも、死んで逝くことも、なにもかもが「永遠のいのち」の働きだった。その人生の真実に気付かせてもらうこと、それが、「浄土の教え」の「救い」です。 念仏詩人の榎本栄一さんの詩に、こういうのがあります。「念仏のりやく」という詩です。
念仏をもうせば 「念仏をもうす」とは、「南無阿弥陀仏」と称えること。「南無阿弥陀仏」は、「いのちの真実」へと帰る道です。「いのちの真実」とは、「私たちは、自分の力で生きているのではなくて、生かされて生きている」ということです。 実際そうでしょう。呼吸をするのも、心臓が動くのも、消化の働きも、免疫の働きも、自分の力でやっているわけではありませんね。私たちは、自分の意志で生きているのではなくて、「いのち」の不思議な働きによって、「生かされて生きている」のです。 「いのちの奥底で、この私を生かし、支えてくださっている働き」があるのです。仏法が伝えようとしているのは、ただひとつ。この「いのちの奥底で、私を生かし支えてくださっている働き」に気づくことなのです。 「仏」というのは、この「働き」のことです。その仏の名前を、「阿弥陀(アミダ)」といいます。阿弥陀というのは、「永遠のいのち」のことです。有限な「私」は、「永遠のいのち」のひとつの現れなのです。 「私は、生かされて、生きている」のです。阿弥陀仏の「永遠のいのち」に生かされ支えられて、生きているのです。そのことへの気づきを促しているのが、「南無阿弥陀仏」という名号です。お仏壇に掛けられている「御本尊」ですね。 私たちが、お仏壇の前に坐るたびに、御本尊は、「南無阿弥陀仏だよ」と、声を掛けてくださっているのです。永遠のいのちに、生かされて生きているのだよと、「いのちの真実」への気づきを促しておられるのです。 それに対して、「はい、そのとおりでございます。永遠のいのちに、生かされて生きております」という、私の応答が、「南無阿弥陀仏」というお念仏です。 ところが、私たちは、すぐに忘れてしまうのですよ。「自分が生きている」つもりになってしまうのです。そして、「私が、私が」と、自分の都合を振り回してしまい、苦しむことになるのです。 いつも申しますように、仏教では、人生の背骨とも言える「生・老・病・死」を「四苦」と言います。「苦」というのは、思い通りにはならないという意味です。 生まれたいと思った覚えもないのに、生まれてきた。年を取りたいと思っていなくても、年を取る。病気になりたいと思っていないのに、病気になる。そして、死にたいと思っていなくても、死ぬんです。 「人生は努力次第だ、人生はチャレンジだ」と思っている現代人には、なかなか受け止めにくいことでしょうけれど、人生は、基本的に、自分の思い通りにはならないものなのです。「生・老・病・死」は、与えられるもの。生かされて生きている人生の基本は、「受け身」なのですよ。 そのことを忘れて、何でも、自分の都合で割り切ろうとするものですから、「割り切れない」思いに苦しむことになるのです。考えてみれば、私たちの人生に起こってくる大問題は、どれもこれも、「割り切れない」ものばかりですよ。 病気や事故や災害で、大切な人を亡くしたとか、犯罪の犠牲者となったとか、全財産を無くしたとか。健康診断で、見つかった病気が、すでに手遅れだったとかね。「どうして私が、どうしてあの子が」と、割り切れない思いばかりして、受け止めることができません。それで、苦しくて仕方がないのです。 生かされて生きている人生の基本は「受け身」なのですから、私たちにとって大事なことは、人生をきちんと受け止められること、人生の確かな受け皿を持つことなのです。 その人生の受け皿となるのが、いのちの奥底で、私を生かし支えてくださっている「阿弥陀仏」なのです。人生は、自分の都合では受け止められない。煩悩は人生の受け皿にはなれないのですよ。 人生が、自分の努力や才覚で、何とかなっているあいだは、なかなか気づけないものですがね。いずれ、自分の力では何ともならないということに、ぶつかるでしょう。そんなときですよ、聞法してきたことが、ふと聞こえてくるのは。「南無阿弥陀仏だよ」という、阿弥陀仏から呼び声となって。 相田みつをさんの詩に、こんなのがあります。
長い人生にはな もうひとつ。これは、藤原正遠先生の歌です。
いずれにも 藤原正遠先生は、「どうにもならないのなら、自分で自分のこころの始末がつかないのなら、お念仏を称えさせてもらいなさい」と、おっしゃいました。 「どうにもならない」という苦しみが生まれるのは、「どうにかしたい私」がいるからです。割り切れないものを割り切ろうとしている「私」がいるのです。その、ものごとを自分の都合で割り切ろうとするこころの働きのことを、「分別知(ふんべつち)」といいます。 ものごとを、分別知で受け止めようとして、苦しんでいる「私」に、「いのちの真実」に帰れと呼びかけてくださっている、その阿弥陀仏の呼び声が、「南無阿弥陀仏」です。
分別が 分別をして 出離(しゅつり)なし これも藤原正遠先生の歌です。「無分別智」というのは、ものごとを、分け隔て無く、ありのままに受け止める、仏の智慧です。「出離」というのは、迷いの世界を離れることです。 割り切れない問題を割り切ろうとするから、苦しいのだよ。「南無阿弥陀仏」だよ。あなたを下で支えている阿弥陀仏にまかせなさい。それが、「弥陀のよび声」です。 実際、「煩悩」は無くなりませんね。私たちは、何度も何度も、割り切れない思いに苦しむのです。ですが、そのたびに、「ああ、南無阿弥陀仏でした」と、割り切れない問題を割り切れないままに、阿弥陀様に、引き渡していくことができたら、楽になりますよ。 阿弥陀様の世界こそ、私たちの「人生の受け皿」なのですよ。そのことに気付きなさいという、阿弥陀様の呼び声に、「南無阿弥陀仏」と応えられたら、問題は解決できなくとも、解決できないまま、「南無阿弥陀仏」におさまっていく。それが、「お念仏ひとつで救われる」ということです。 私たちは、「救われる」というと、何か自分にとって都合の良いことが起こるように思っていますけれど、そうではないのです。また藤原正遠先生の歌ですが、こういうのがあります。
たのめとは 助かる縁の なき身ぞと 「助かる」というのは、自分の都合の良いようになることでしょうが、人生は、基本的に、自分の思い通りにはならないものなのです。そのことを忘れて、「私が、私が」と高上がりしている「私」に呼びかけて、少しずつ、仏の手のひらにまで下ろしてくださる。それが、弥陀のよび声、「南無阿弥陀仏」ですよ。 「南無阿弥陀仏だよ」という弥陀の呼び声に、「はい、南無阿弥陀仏です」と応えられたら、それ以上のことは何もありません。そこが、仏の手のひらの上です。 お念仏に出遇うとね、こんな世界が開けてくるのですよ。 かなり前にお亡くなりになりましたが、鈴木章子(あやこ)という方がおられました。ご存じかもしれませんね。鈴木章子さんは、北海道のお寺の坊守さんでした。43歳にときに乳癌になり、肺に転移し、脳にまで転移して、47歳で、夫と四人の子どもを残して亡くなられました。 その鈴木章子さんは、『癌告知のあとで』という詩集を残されました。それは、ひとことで言えば、「助からないなかで、救われた人」の記録です。その本に、こんな詩があります。「今現在説法(こんげんざいせっぽう)」という詩です。 「今現在説法」といいうのは、『阿弥陀経』の中にある言葉でして、「阿弥陀如来が、今現在、法を説いていらっしゃる」という意味です。 今現在説法
肺がんになって 苦しみの真只中で、それまで聞いてきたことが、自分のこととして聞こえてきた。「弥陀の呼び声」が聞こえてきたのですよ。「今現在説法」(阿弥陀様が、今現在、法を説いておられるの)は、この「私」のためだった。助からない私を、救うためだった。 「私が苦しみから救われるのではなくて、苦しみが私を救う」(尻枝正行)とおっしゃった方がありましたが、章子さんは、「助かる縁」がないと教えられて、ようやく仏の手のひらの上に戻れたのでしょうね。 そのとき、章子さんは、助かっても助からなくともよい「喜びの生」に、目覚めたのです。そのことを詠った詩があります。「この生」という詩です。 この生
佛様のおことばがわかる 生前、章子さんは、「私は癌をいただいたおかげで、仏法に出遭わせていただいた。癌にでもなって自分の命を真剣に考えることがなければ、私は一生気付かずに終わってしまったかもしれないけれども、今は、自分の命の帰る場所があることを仏法に聴かせていただくことができた」と、涙ながらに、話されたそうです。 最後にもう一つ、章子さんが、ご家族に残された詩をご紹介いたします。「願い」という詩です。 願い
死の別離の
慎介 啓介 大介
あなた… 「別れは悲しいことだけど、私は、ふる里に帰るのですよ。どうか、あなたたちも、迷わず、このふる里に帰っていく道を歩んでくださいね」と、同じお念仏の道を歩んでほしいと願っておられる詩です。 お念仏の道は、「ふる里」への道です。その道を歩む喜びを、章子さんは、ご家族に、伝えていかれたのです。決して長い人生ではなかったけれど、仏様に出遇えて、人間に生まれてきた甲斐があった。素晴らしい人生ではないでしょうか。 もうお一人、ご紹介いたします。以前、山科の真光寺という、お西のお寺のご住職だった、土橋秀高(しゅうこう)という方です。 土橋秀高先生は、龍谷大学の仏教学の教授でしたが、ご子息が関東の大学で教職に就かれたものですから、ご自分は、門徒さんの教化に専念しようと思われて、停年前に退職して、ご自坊に帰られました。 ところが、その二年後に、急な病で奥様がお亡くなりになった。そして、その一年後に、ご自坊が火事で全焼しました。ご自身の、ローソクの消し忘れでした。 火事の一年後に、一人暮らしの父親を心配して、ご子息は、若坊守さんと子供二人を、東京から山科の寺に帰されて、自分は単身赴任。 で、京都と東京で、毎日のように電話で連絡しあっておられたところ、あるとき、電話が通じなくなった。それで心配なさった土橋先生が、上京してみられたら、ご子息は、電気ごたつに足をいれて、自殺しておられた。 お葬式のときに、「孫二人が成人するまで頑張りますので、よろしく」と、先生はご挨拶なさったそうですが、一周忌の翌日、若坊守さんは、二人の子供を連れて、寺を去ってしまわれました。 不幸な出来事はその後も続くのですが、先生が75歳でお亡くなりになったとき、残されたノートの最後に、こんな歌がありました。
両親(おや)おくり 妻先にゆき 子の急ぐ すごいですね。これだけの不幸が続いたのに、「茜(あかね)の雲は 美しきかな」ですよ。 この歌は、土橋先生の随筆集『雲わき雲光る』の中に収められています。苦しみの雲がわいてくるからこそ、浄土の光に雲が輝くのです。それが、「雲わき雲光る」です。 碍(さわ)りの雲に夕日の光があたると、碍りのまま茜色にかがやく。悩みも苦しみも、涅槃の光に輝くのです。苦しみの雲があるからこそ、阿弥陀仏のお慈悲が知られる。「茜(あかね)の雲は 美しきかな」です。すごいですね。これがね、お念仏ひとつで救われていく世界なのですよ。 暗闇の中で生まれ育った虫は、目が見えません。ですが、その虫を、光の中で育てると、目が見えるようになるといいます。 私たちは、迷いの世界に閉じ込められているのです。そこは、「自己中心的な思い」で一杯になった、冷たい暗闇(くらやみ)の世界です。私たちは、そのことに気付いていません。そんな世界しか知らないからです。 「その冷たい暗闇に、光と熱をもたらしたい」。それが阿弥陀様の願いです。その願いは、「智慧の光」「慈悲の熱」として、つねに私たちに、働きかけています。それは、阿弥陀仏の智慧と慈悲のこもった教えのこと、お念仏の教えのことです。 雨戸を開ければ、光が差し込んで来る。お風呂に入れば、冷えている身体が温まってくる。光は暗闇に入っていこう、熱は冷たいものを温めようとしているのです。 「迷いの目には見えねども、仏は常に照らします」(『和訳正信偈』)。阿弥陀仏の「智慧の光」と「慈悲の熱」が、常に私たちに働きかけているのですよ。 聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、だんだん「いのちの真実」を見る目が育ってくる。見えなかった目が開いてくるのです。これが、お念仏の教えの「現世利益(げんぜりやく)」です。 「念仏とは、私が仏を念ずるというものではない。私を念じたまう仏に目覚めるということ」。これは宮城しずか先生の言葉です。 「南無阿弥陀仏だよ、南無阿弥陀仏だよ」と、阿弥陀様が呼びかけてくださっている。その呼び声に、「南無阿弥陀仏です」と応えていくこと。それが、お念仏一つで救われていく道なのです。どうぞ皆さん、聞法なさってくださいね。ご一緒に、お念仏を称えてまいりましょう。 「南無阿弥陀仏」ひとつですよ。お念仏を称える生活の中に開けてくる「茜(あかね)の雲は 美しきかな」という人生を、ご一緒に喜びたいと、願っております。 では、本日は、このあたりで終わることにいたします。本日は、ご縁を頂き、ありがとうございました。またご一緒に、聞法させて頂くご縁が在りますよう、念じております。ありがとうございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……
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