釋昇空法話集・第67話

仏法相続

願いを受けて

(2017年9月23日 永代経法話)
 ようこそのお参りでございます。秋らしくなりましたね、朝夕は肌寒いくらいです。

 本日は、永代経法要でございます。ご承知のように、私たち真宗門徒にとりましては、この永代経法要というのは、迷っている霊の成仏を願うという、いわゆる先祖供養の法要ではありません。

 そうではなくて、お亡くなりになった親御さんやご先祖様が大切になさった信心を、私たちも間違いなく受け継いでいく、そういう仏法相続の法要が、私たちの永代経法要です。

 で、今回は、ご案内のように、その「仏法相続」という題で、お話しさせて頂くのですが、「相続」と言いますと、一番に頭に浮かんでくるのは、「財産相続」という言葉ではないかと思います。家や田畑や、お金やら、そういった目に見える「物」の相続ですね。

 「泣く泣くも 良い方を取る 形見分け」なんて、川柳もありますように、目に見える「物」は、欲もからんで、たいていは、ぬかりなく相続されるんですが、問題は、目に見えないものの相続です。「仏法」は、相続されているでしょうか。

 いかがですか。お仏壇も、お墓も、相続しているのに、仏法が相続されていない、ということはありませんかね。

 「子供たちに迷惑を掛けたくないので、私の生きているあいだに、仏壇もお墓も処分してしまいたいが、どうだろう」というようなご相談を、ときどき頂くことがあります。

 願い事をしても効き目があるわけではないし、といって、粗末に扱うと何か悪いことが起こりそうで、いっそのこと、仏壇なんか無い方がいい、ということのようですが、残念なことです。

 お仏壇はね、自分の願い事を聞いてもらう場所ではありません。そうではなくて、亡き人々の「願い」、仏様の「願い」を聞かせてもらう場所なのです。

 目に見える「お仏壇」には、目に見えない「願い」がこめられている。親の願いが込められている。先祖の願いが込められている。そして、仏様の願いが込められている。

 その親の願いをしっかり受け止めることを、「親孝行」という。先祖の願いをしっかり受け止めることを、「先祖供養」という。そして、仏様の願い(本願)をしっかり受け止めることを、「信心」というのです。

 「私は仏様に願われている」ということに気がつくこと。それが「信心を得る」ということです。ですが、実は、これが大変難しいのです。

 というのは、私たちは、「私はあれが欲しい、私はこう成りたい」といった具合に、自分の願いを大声で言いつのって暮らしておりますのでね、そんな私たちには、なかなか、仏様の願いが聞こえてこないのです。

 「私は、私は」と、自分の都合を振り回していることを、仏教では「迷い」といいますが、私たちは、たいてい、自分が「迷っている」とは思っていませんでしょう。いかがですか。

 「自分が迷っていることに気付かないのが凡夫の迷い」(有国智光)とおっしゃった方がおられましたが、自分が迷いのなかにいることも、仏教にご縁を頂いて、はじめて気づかせてもらえることなんです。

 「亡き人に、迷うなと、拝まれている、この私」。かつて難波別院の掲示板に掲げられていた法語ですが、これは、亡き人に願われていることに気がついた人の言葉です。

 「迷うな」というのは、「迷っていることに気づけ」という呼びかけですよ。「迷っている自分の姿を、仏法の鏡に映して、気づかせてもらえ」という、亡き人からの聞法へのお催促ですよ。

 仏教では、迷いの世界を「六道(ろくどう)」といいます。「六道」というのは、下から順に、「地獄(じごく)」、「餓鬼(がき)」、「畜生(ちくしょう)」、「修羅(しゅら)」、「人(にん)」、「天(てん)」という、この六つの世界(領域)のことです。

 「六道」という言葉は、お聞きになったことがおありだろうと思います。これは迷いの世界の全体像でして、私たちの迷っている姿を映し出している「鏡」なんです。

 一番上にある「天」というのは、欲しい物があれば、何でも手に入る。物事が何でも自分の思い通りになる。そんな、幸せに満ちた世界(境遇)です。

 二番目に、「人(にん)」とあるのは、私たち人間のことです。私たちは、みんな、「幸せ」になりたいと思って生きていますでしょう。そんな私たちは、いわば、幸せの世界「天」をめざして、上へ上へと登っていこうとしているわけです。金持ちになりたい、人の上に立ちたいというわけですね。

 「天」の頂上を「有頂天」といいます。おそらく、大富豪や独裁者は、そのあたりにいるのでしょうね。あちこちに宮殿のような別荘を持ち、自家用ジェット機で世界中を飛び回るような大富豪たちは、まさに「天人」です。

 ですが、「天」にあこがれて、登っていっても、「有頂天」の壁にぶつかったところで、行き止まりになっているのです。何でも思い通りになれば、結局、何をしても喜べない、何をしたいのか分からないということになりますからね。

 それに、迷いの世界は「諸行無常」ですから、たとえ「天」に生まれても、いつまでも続かない。天人は、人間よりうんと快適に生きられるけれど、やっぱり、死ぬんだと、お経様に書かれています。

 ちなみに、死期が近づいた天人には、五つの衰えが現れると言われています。髪飾りの華がしおれてくる。着物が垢じみて汚れが取れなくなる。腋の下から汗が流れて、身体がにおうようになる。眼がキョトキョトと定まらず、何をしていても落ち着かなくなって、じっとしておれない。これを「天人五衰(てんにんごすい)」といいます。

 持っているものが大きいほど、無くしていくものも大きい。高く登れば登るほど、落ちるのが怖くなる。寿命が尽きるときには、何でも思い通りにできたからこそ、何もできなくなっていく、その大きな落差に、天人は、地獄の16倍もの苦しみを味わう、と言われています。

 それに、人が、天をめざせば、めざすほど、競争のハシゴから、ボロボロと落ちていく人が増えて、苦しみの世界が広がっていきます。それが、この下の四つ、地獄、餓鬼、畜生、修羅の世界です。

 「地獄」は、差別・いじめ・虐待の世界。ひたすら責め苛(さいな)まれる苦しみの世界です。「餓鬼」は、貧困・飢餓の世界。

 「畜生」は、過労・搾取の世界。異常な長時間労働、無給残業。牛や馬のように酷使される世界です。そして、「修羅」は、競争・闘争・戦争の世界。

 「修羅」というのは、天を目指して競争する人々のことですよ。競争すれば、おのずと、勝者と敗者が生まれます。「勝ち組、負け組」なんて嫌な言葉ができたのも、競争が激化してきた証拠でしょうね。

 幸せな世界を求めて努力しているだけのはずが、天に向かって進むことで、苦しみの世界を広げている。それはなにも、富裕層の人たちだけの問題ではありません。

 私たちも、たいてい、もっと豊かになれば、もっと幸せになれる、と思っていますでしょう。顔を向けている方向は、やっぱり「天」なのです。

 「天」を目指している限り、本当の「幸せ」を得ることはできません。そのことを教えているのが、仏教なのです。

 人間の知恵は、天に向かってハシゴを登る知恵です。そして、そんなハシゴから離れる智慧が、仏の智慧です。

 ちなみに、「六地蔵(ろくじぞう)」って、ご存じですか。「六道」の各世界には、お地蔵様が、お一人づつおられて、迷っている衆生を、お救いになるといわれています。

 お地蔵様は、六道のいずれにあっても、天を目指している私たちの顔を、「そっちじゃない、こっちだよ」と、仏の世界の方に向けようとしておられるのです。

 街角に、お地蔵様が祀られているのも、仏の智慧ですよ。お地蔵様に、手を合わせてごらんになってみてください。お地蔵様も、「迷うなよ」と、手を合わせて拝んでおられることに気づきますよ。

 仏教は、私たちの人生に、人間として生きていく方向性を与える教えです。お経様に書かれています。「一切衆生を救うという仏様がおられる。その仏の名前を阿弥陀(あみだ)といい、その仏の世界を浄土(じょうど)という。浄土に向かって生きよ」と。そのお示しのままに、話を進めることにいたします。

 浄土というのは、お悟りの世界、「一如(いちにょ)」の世界です。「一如」の「一」は絶対ということ、「如」は平等ということです。「私」も「あなた」もない真実の世界。あなたの喜びが、そのまま私の喜び。あなたの悲しみが、そのまま私の悲しみ。浄土は、そういう世界です。

 そういう世界は、何処にあるのかというと、果てしなく遠いところ、「十万億仏土(じゅうまんのくぶつど)の彼方」(『阿弥陀経』)とも、すぐ近いところ、「ここを去ること遠からず」(『観無量寿経』)とも言われています。

 浄土とは、いのちの奥底で「私」を支えてくださっている「働き」のことです。「私」は「浄土」に支えられている。このことへの気づきを言ったのが、浄土は「ここを去ること遠からず」です。

 その絶対平等の清らかな世界に支えられていながら、「私」は、なんと自己中心的な穢れた存在でしかないことか。その大きな隔たりへの気づきの言葉が、浄土は「十万億仏土の彼方」です。

 昔の真宗門徒は、「ありがたい」「もったいない」とか、「あさましい」「お恥ずかしい」とかいった言葉を、よく口にしました。

 如来の近くにいる自分を感じたとき、「ありがたい」「もったいない」と、また、如来の遠くにいる自分を感じたとき、「あさましい」「お恥ずかしい」と言いました。

 念仏詩人の榎本栄一さんに、こんな詩があります。「私の中」という詩です。

  私の中

    私の中をのぞいていたら
    お恥ずかしいが
    だれよりも自分が
    一番かわいいという思い
    こそこそとうごいている

 「お恥ずかしい」というのは、世間に対して言っているのではありません。そうではなくて、如来の光に照らされて見せてもらった、自分のこころが「お恥ずかしい」というのです。「恥ずかしい」ではなくて「お恥ずかしい」と「お」が付いているのは、如来に対して感じたことだからです。

 「誰よりも自分が可愛いという思い」は、誰もがもっている思いでして、世間的には、とりたてて非難されるものではありません。ですが、「私」も「あなた」もない真実世界(浄土)からは、非常に遠いところにあります。それが「お恥ずかしい」というのです。

 子供の頃からの価値観というのは、なかなか変わりませんね。上へ上へと登って行こうとする思い、「他の誰よりも我が身が可愛いという思い」は、骨がらみになってしまっています。

 そんな「煩悩」でガチガチに固まったこころが、聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、少しずつ解けて、柔らかくなる。煩悩が無くなるわけではありませんが、浄土に向かって生きていくと、おのずと、世界の見え方が変わってきます。

 「念仏申す身になると、この身は変わらないが、周囲の人が、みなよくなる」。これは、金子大榮先生の言葉です。人は、生きていく方向によって、気づきが違い、人生の味わいが違うのです。浄土に向かって生きていると、だんだん、自分の周りに、「いのちの仲間」としての「他人(ひと)」が見えてくる。それが救いの始まりです。

 以前、聞いた話ですが、病気で失明なさった、ある門徒さんが、こんなことをおっしゃったそうです。「目が見えんようになって、初めて、人のこころの優しさに気づかせてもらいました」と。「気づいた」でなくて、「気づかせてもらった」というところが、門徒さんらしいですね。

 だれでも、自分の気づきの深さに応じてしか、現実を受け止めることができません。気づきが深まれば、他人(ひと)への共感も深まって、同じ事でも受け止め方が違ってきますよ。

 仏法にご縁がないと、自分を知ることができません。それはです、いつもお話しすることですが、たとえば、煩悩まみれの「私」が、この「黒マル」で、煩悩まみれの世間がこの「黒い紙」だとしますとね、「黒い紙」の上にあると「黒マル」は見えませんね。

 そこで、この「白い紙」を、煩悩の無い清らかな世界、浄土だとしますとね、この「黒マル」は、白い紙の上においたときに、はじめて、黒いことが分かります。

 ですが、それは、「黒い」ことが分かったときには、とりもなおさず、白い紙の上にあることが分かったということ、煩悩まみれの「私」が見えたときには、仏の手のひらの上にいる自分が見えたということでもありますね。自分を知るということと、仏を知るということは、別のことではないのです。

 聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、煩悩まみれの自分に気づかせてもらった。さきほどの「あさましい、お恥ずかしい」というのは、そういうときの気持ちです。

 そして、その煩悩まみれの自分が、煩悩まみれのまま、仏の手のひらの上にいることに気づかせてもらった。そのときの気持ちが、「ありがたい、もったいない」です。

 その二つの気づきのあいだを、「あさましい」、「ありがたい」と、大きく揺れながら、「あさましいからありがたい、ありがたいからあさましい」という方向に揺れが収まっていく。そこにあるのが、「あるがまま」の世界、「法爾」です。

 まずは、煩悩が見えるということが、大事です。さきほどの念仏詩人、榎本栄一さんの詩に、こういうのがあります。「念仏のりやく」という詩です。

   念仏のりやく

     念仏をもうせば
     この愚昧(おろか)な眼がひらき
     自分のぼんのうが見えはじめる
     ここからが かたじけない

 煩悩が見えたら、その先に「いのちの真実」が見えてくる。年をとることも、病気になることも、死んで逝くことも、なにもかもが「仏の手のひらの上」でのことだった。その人生の真実に気付かせてもらうこと、それが、「浄土の教え」の「救い」です。

 人生は、登って下る、山登りのようなものです。人生の山の形はみんな違います。大きな山もあれば、小さな山もある。とがった山もあれば、平らな山もある。ですが、どんな形の山を描いても、みんなホワイトボードの上にあるように、どんな人生であっても、みんな「仏の手のひら」の上なのです。私を下から支えてくださっている、その「仏の手のひら」に気づくこと、それが「信心を得る」ということです。

 ですが、思い通りになっている人生からは、なかなか気づけないものですね。昔から「蓮の華は泥沼からしか咲かない」と言われているように、悲しいことや苦しいことがご縁となって、ようやく、ハッと気づかせてもらうことがあるのです。

   アミダの国の扉は
   凡夫の泪(なみだ)をご縁として 開かれる

 長崎・西光寺のご住職、藤井理統(まさのり)師のことばです。16歳のお嬢さんを、突然、くも膜下出血で亡くされた。もっとはやく発見しておれば、助かったかもしれない、と、ご自身を長く責め苦しんでおられた。

 そんなある日、蓮如上人の『疫癘(えきれい)の御文』(第四帖目・九通)にある言葉を思い出されたのです。「人が死ぬのは、生まれたときからの定めだ」という言葉です。

 そのとき、ハッと気づかれた。私が何とかすれば、何とかなったのではと考えることは、傲慢(ごうまん)なことだった。いのちのことはいのちにお任せ。すべては阿弥陀仏(永遠のいのち)のお働きであったと。その後、お嬢さんの三回忌を迎える頃に、お寺の伝道掲示板に、お書きになったのが、さきほどの言葉です。

 「アミダの国の扉は 凡夫の泪(なみだ)をご縁として 開かれる」。皆さんも、大切な方を亡くされたご経験がおありでしょう。その悲しい経験が、浄土の教えに頷けるご縁になれば、ありがたいですね。

 こんな話を聞いたことがあります。どこで聞いたか忘れましたが、忘れられない話です。小学生の女の子が、小児癌にかかって、余命わずかとなった。子供でも、感じるものがあって、父親に、こう言った。「お父さん、私、死んだらどうなるの」と。

 皆さんなら、何とお応えになりますか。その父親はね、こう言ったのです。「死ぬなんて、バカなことを言ってはいかん。お医者さんも、かならず治るとおっしゃっているんだ。余計な心配せずに、しっかり養生するんだよ」と。

 それで女の子は黙ってしまったのですが、次の日も、その次の日も、「お父さん、私、死んだらどうなるの」と聞いてきた。それで、父親も、仕方なく、「死んだら、お祖父ちゃんや、お祖母ちゃんと同じお墓に入るんだよ」と、応えたのです。

 ほどなく女の子は亡くなったのですが、その父親は、自分が娘に言った言葉が、気になって仕方がなかった。それで、お葬式のあとで、お手次寺のご住職にたずねた。「あのときには応えに困りましたが、ごえんさんなら、何とお応えになりますか」と。

 そうしたら、ご住職は、こうおっしゃったそうです。「わたしなら、『阿弥陀様のお浄土に参るんだよ、お念仏を称えようね』と言ったでしょう」と。

 いかがですか、皆さん。墓石(はかいし)を目指して生きていけますか。そうではないのですよ。ご住職がおっしゃったでしょう。みんな「お浄土に参るん」ですよ。意味は分からなくとも、「お浄土」という言葉は、清らかな感じがしますでしょう。

 そんな清らかな世界、「お浄土に参るんだ」と頷けてこそ、最後まで生きていけるのですよ。親より先に死ぬ子は親不孝なんていう考え方は、親の身勝手です。「お浄土の教え」へのご縁となってくれたこの子は、親にとって仏様ですよ。

 浄土は阿弥陀仏(永遠のいのち)の世界です。私たちはみんな、その「永遠のいのち」のひとつのあらわれなのです。私たちはみんな、浄土から生まれてきて、またその浄土へと帰って行くのです。浄土は、私たちみんなの「いのちの故郷(ふるさと)」です。

 こういう大事なことは、どちらかというと、仕事で忙しい親から子へというよりも、お祖父ちゃんお祖母ちゃんから孫へと、生活のなかで、自然に伝えられたものですね。

 これも聞いた話ですが、ある方のお父さんが、病気になって、余命わずかと分かった。それで、来年は無いかもしれないと心配した息子さんが、家族や兄弟に声を掛けて、元気な内にいちど、お父さんの誕生日の御祝いをしようではないか、ということになったのです。

 その御祝いの会の最後に、お父さんは、挨拶して、「とっても楽しかった、ありがとう。また誕生日の御祝いをしてな」と言った。息子さんは、「よっぽど嬉しかったんだろうな」と思って聞いていた。そうしたら、孫娘さんが、「うん、おじいちゃん、帰命無量寿如来やね」と応えたんです。

 息子さんは、娘が何を言っているんだか分からなかった。それで、あとで聞いてみたら、こういうことだった。余命わずかと知ったとき、父親は、孫娘に言ったんだそうです。

 「お祖父ちゃんが死んだら、泣いてもいいけど、悲しまんといてな。お祖父ちゃんは、お浄土へ生まれていくんや。それはお浄土への誕生日やから、帰命無量寿如来ってお勤めして、誕生日の御祝いをしてな」と。

 死ぬ日は、お浄土への誕生日。いい話でしょう。「帰命無量寿如来」というのは、『正信偈』の最初の言葉ですね。「帰命」とは「帰依」ということ。「帰依」というのは、死んで「帰」っていく世界を「依」りどころとして生きるという意味です。

 帰って行く世界があるからこそ、次に生まれていく世界があるからこそ、心安らかに生きていくことができる。そして、この世の縁が尽きたときは、みんなに、浄土への誕生を祝ってもらうのです。幸せな人生だとは思われませんか。

 私たちはどうでしょうか。さきに六道の話でいたしましたように、私たちは、ほっておいたら、みんな、幸せを求めて、上を向いて生きていくのです。そして、最後に何と言われるのか。「このたびはご不幸なことでした」と言われるのではありませんか。私たちは、不幸に向かって生きているのでしょうか。いかがですか。

 損だとか得だとか、上だとか下だとか、善だとか悪だとか、あいつが悪い、こいつのせいだとか、世間がどうの、社会がどうのというのは、全部、迷いの世界ですよ。そっちではないのです。仏法は、浄土に向かって生きよと教えているんです。念仏を称えよと教えているんですよ。

 あのね、お念仏を称えるといっても、私たちには、真(まこと)のこころなんかありませんよ。こころを込めてお念仏するといっても、どうですか、皆さん。あるのは、雑念いっぱいで、自分の救いを求める自己中心的な思いばかりです。誰でもそこからスタートするのですよ。

 ですが、お念仏を称え称えしているうちに、いつしか、自分の身勝手なこころは薄れていき、いのちの奥底から、仏の真心が、仏の願いが、ふわっと、お念仏の上に乗るんですよ。そのとき、仏の呼び声が聞こえてくるんです。

 お仏壇を相続なさっておられますでしょう。そのお仏壇に掛かっている「南無阿弥陀仏」の名号は、「おーい、こっちだよ」という阿弥陀仏の呼び声です。そして、私たちの称える「南無阿弥陀仏」のお念仏は、「はい、ありがとうございます」という返事です。

 どうぞ、声に出して、お念仏なさってくださいね。そして、そのお念仏を、仏様からの呼びかけとして聞いてください。お念仏が聞こえる。これが、尊いのです。

 私たちが、お念仏に導かれて、迷わず浄土に向かって生きていくこと。それこそが、「迷うな」と拝んでくださっている、亡き人々の願いですよ。

 お念仏を申させて頂きましょう。お念仏を称えている人の姿には、ほのかな光と、あたたかさがありますよ。それがまた、次の世代にも伝わっていくんですよ。

 今、門前の掲示板に、「聞法する人は、老後が明るい」という、田中秀法師の言葉が掲げてあります。お読みになりましたでしょうか。

 聞法する人は、人間として生きていく道を知る。浄土へと続く、お念仏の道を知るのです。その道の先は明るい。聞法する私たちへの暖かい応援の言葉です。

 では、本日は、ここまでにいたします。まとまりのない話に、長い時間お付き合いくたさり、有り難うございました。

 以前にも一度申し上げましたが、来年の4月から、「歎異抄に聞く」という会を、毎月一回開催する予定でおります。また改めてご案内いたしますが、皆様のご参加を願っております。

 では、次回は、11月12日の報恩講でございます。どうぞ、また、お参りください。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…



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