本日は、ようこそお参り下さいました。どうぞ、お楽にお座り下さいませ。秋は何かと行事が多ございまして、お忙しいことと存じますが、どうぞこの報恩講の間だけでも、慌ただしい日常の生活を離れて、しばし穏やかな時をお過ごし頂けたらと存じます。 前回、9月23日の永代経法要のおりには、「修羅を離れる」というテーマで、私たちの心を支配している煩悩についてお話し致しました。「修羅を離れる」というのは、煩悩の足枷から解き放たれて「自由になる」ということです。今回は、この「自由になる」という観点から、もう少し具体的に「一如」への道を探ってみたいと思います。どうぞ、しばらくの間お付き合いください。 テレビを見ておりましても、世間では、「宗教」というと、何か特殊な価値観を埋め込もうとしているもののように考えておられる方が多いように思いますが、そうではありません。本当は、あらゆる価値観を捨てていこうとしているのが「宗教」なのです。今回は、どうぞ、その点をよくお聞き頂きたいと思います。 さて、私たちは決して生れ付き「修羅」だったわけではありません。私たちは、「修羅」の社会に生まれ、「修羅」の教育を受けることによって、「修羅」になったのです。つまり、私たちが「修羅」になった原因は、教育にあるのです。もう少し正確に言えば、教育に「一如」への気付きが欠けていることが原因です。 「教育」というのは、何も学校教育だけを言うのではありません。私たちは、社会全体に漂っている無数の情報を無意識のうちに学びとっていきますから、私たちは社会から教育を受けているわけです。別の言葉で申しますと、私たちは社会からマインドコントロールを受けているということです。 私たちはマインドコントロールによって社会の価値観を埋め込まれていくのです。「社会人」になるためには、このマインドコントロールを受けねばなりません。ですが、「社会人」を超えて「本当の自分」になるためには、このマインドコントロールをはずさねばならないのです。マインドコントロールをはずす。実は本来、「宗教」は、そのためにあるのです。 ですが、こう申しますと、皆さんは、あるいは納得なさらないかもしれません。「私はマインドコントロールなど受けていない、私は自分の意志で行動している。社会教育はマインドコントロールなどではない。マインドコントロールというのは、むしろ宗教がやっていることではないのか」と思われるのではないでしょうか。実は、そういう疑問を感じて頂いたほうが、問題点がはっきりして、有り難いのです。 今回のお話しのポイントは二つです。そのひとつは、「私たちは社会からマインドコントロールを受けている。自分の意志というものはマインドコントロールの産物だ」ということです。もうひとつは、「そういったマインドコントロールをはずして自由になることが、本来の宗教の目的だ」ということです。 マインドコントロールというのは、最近生まれた新しい言葉です。私たちがこの言葉を知るようになったのは、統一教会やオウム真理教がマスコミで問題にされるようになってからです。 ですから、私たちは、マインドコントロールと聞くと、破壊的カルト集団が信者や会員を獲得するために使う、一種の洗脳テクニックだと考えています。勿論、それもマインドコントロールには違いありませんが、今回お話ししようとしているのは、もっと広い意味でのマインドコントロールです。 マインドコントロールには大きく分けてふたつあります。反社会的なマインドコントロールと、社会的なマインドコントロールです。 反社会的マインドコントロールというのは、先程申しました破壊的カルト集団の洗脳テクニックのようなものを言います。一方、社会的マインドコントロールというのは、私たちがこの社会に生まれてから、家庭での躾や学校での教育などの、いわゆる自然な方法で「社会の価値観」を身に付けていくことを言います。 いずれの場合でも、そのマインドコントロールの内容は、「自力を原動力にした様々な価値観」です。この「自力を原動力にした様々な価値観」をはずしていくことでしか、私たちの心は本当に自由にはなれません。 まあ、小難しい前置きはこのくらいにして、話を進めていくことにいたしましょう。 さて、生まれたばかりの子供の心は、社会的な意味では、何も書かれていない真っ白な画用紙のようなものです。たいていの場合、その真っ白な画用紙に最初に何かを書き込み始めるのは親です。何を書き込んでいくのかといえば、私たちの社会に特有の様々な「価値観」です。別の言葉で言えば、社会通念です。 たとえば、「男らしさ」とは何か、「女らしさ」とは何か、何が善くて、何が悪いのか、人生でどうなれば「成功」と言えるのか、といったようなことです。子供は、こうやって心に書き込まれたメッセージに、従うと褒められ、逆うと叱られます。 叱られるより褒められるほうが嬉しいものですから、理由は分からなくても、褒められる方を選ぶようになっていきます。かくして、書き込まれたメッセージが、徐々にその子供の行動の判断基準になっていくわけです。 善意からであれ、悪意からであれ、心に書き込むというのは、すでにマインドコントロールです。ある人間が他人をコントロールしようとする意図をもって、相手の心(マインド)にメッセージを書き込むこと、これがマインドコントロールなのです。 私たちの心に書き込まれているメッセージを直接見ることはできませんが、よく考えてみてくださいね。私たちの心の画用紙に、人生でどうなれば「成功」だと書かれていますか。どうなれば「幸せ」だと書かれていますか。 たいていは、こう書かれています。お金持ちになること、社会的に高い地位につくことが人生での「成功」であり、その目標に一歩でも近付くことが「幸せ」だ、と。これにはまた、たいていは、幸せになるには「努力」しなければならない、と書き加えられています。 「努力」というのは「自分の利益」をはかるためにすることです。しかし、人が集まって生活する社会のなかでは「自分の利益」ばかり強調すると、かえって「自分の利益」がはかりにくいものですから、普通はもう一言「人のためになる」というメッセージが書き加えられているものです。「一所懸命努力して、人のためになる人間になる、社会の役に立つ人間になる」。どなたの心にも書き込まれているでしょう。こういったメッセージは、みな社会から書き込まれたものです。 私たちは、小さい頃に心に書き込まれてきたメッセージに反することをしようとしても、叱られた記憶が無意識のなかに残っていて、なかなかできません。 たとえば、「台所の手伝いなどまともな男のすることではない」と、「男子厨房に入らず」的メッセージを書き込まれて育った男性は、台所には立てません。それは、茶わんを洗うということが技術的に難しいからではなく、「それをすればまともな男ではなくなる」というメッセージによって、心が支配されている、つまり、マインドコントロールされているからです。 私たちは、親や社会からマインドコントロールされることによって、社会人になっていきます。特定の社会で社会人として生きていくためには、このマインドコントロールを受けねばなりません。ですが、コントロールされているということは、同時に、自由ではないということでもあります。 私たちが人生を重荷に感じ、ときとして敗北感に苦しむのは、たいてい、こういった社会的マインドコントロールが原因です。たとえば、学歴に関するコンプレックスも、社会的マインドコントロールが原因になっています。 以前、ある自動車会社の営業マンで、会社一の売り上げを誇る人のことを聞いたことがあります。その人は、目から鼻へぬけるほど頭がよくて、人当たりもよい。親切で、押しつけがましくなく、アフターサービスも申し分ない。そんな人ですから、お客さんのなかには、よっぽど立派な大学を出た人だと思って、出身校を尋ねる人がいるのですね。 ところが、その人は大学には行っていなくて、一番の悩みの種は、どこの大学を出られましたかという質問だというのです。その人も、頭では大学などどうでもよい、要は仕事ができるかどうかだ、と分かっているのです。ですが、どうしても大学を出ていないということが恥ずかしくてしかたがないというのですね。 私たちの社会には、「学校に長く行っているほど、人間は高級になる」という奇妙な感情があります。言うまでもなく、こんな感情には何の実体もありません。嘘だと思われる方は、『政治家・公務員の犯罪と事件』という本がでておりますから、一度お読みになってみてください。最高学府を出ているはずの政治家や公務員の犯罪がいかに多いか、あきれるほどですよ。 しかし、それでもやはり、私たちは有名大学にこだわるのですね。頭では、大学などどうでもよいと思っている。しかし、できることなら自分の子供には立派な大学を卒業させて、自分のような肩身の狭い思いはさせたくない。これが親心というものでしょう。ですが、こんな思いは全て、社会的マインドコントロールによって生まれているのです。 そんな幻のような思いに縛られて、自分自身や他人の値踏みをしている。何か変だとは思われませんでしょうか。それもこれも、全て、私たちが社会からマインドコントロールされているからなのです。こんなマインドコントロールをはずす以外に、私たちの心が本当に自由になることはありません。 そもそも、「学校へ行かねばならない」という思い込みからして、マインドコントロールなのです。そのことが、頭ではなく、心の底から分かれば、学校で「いじめ」を受けている子供たちや、登校拒否児童の両親たちは、もっと心穏やかになれるのではないでしょうか。 私たちはみな、歴史的に何度も塗り重ねられた様々なマインドコントロールから自由になってはおりません。たとえば、私たちの社会的価値観の根底には、「儒教道徳」が埋め込まれています。そして、この「儒教道徳」によって、今でも私たちは、日常の何気ない行動まで無意識のうちにコントロールされているのです。 「儒教道徳」によれば、親孝行は子供の義務だということになっておりますが、本当は親孝行などというものは義務ではなく愛情によって支えられているものでしょう。ですが世間では、今でも、儒教的な思い込みによって、親孝行は子供の義務のように受け止められています。 親孝行は子供の義務だという思い込みがありますから、親孝行をしない子供がいれば、私たちはたいてい、義務を果たしていない子供の側に非があるという発想になってしまいます。「親を大切にしないとは、とんでもない子供だ」と子供を非難して、親の方には目が向きません。 ですが現実には、傍目には分からないようなとんでもない身勝手な親もいて、子供が親に愛情を感じていないという場合もあるのです。それでも義務だということになっているのが私たちの社会ですから、親孝行ができない子供は、罪悪感を抱き葛藤に苦しむことになるのです。 親であれば子供から無条件に孝行される権利がある。子供であれば無条件に親に孝行する義務がある。親というのは目上の人を代表する言葉です。無条件で目上の人を敬えという教えの根本にあるのが無条件の親孝行です。ですが、そういう意識は、無条件で「お上」に従わねばならないという支配者の作った枠組み、つまりマインドコントロールによって生まれているのです。 親子の愛情に、義務とか権利とか言う枠組みを押しつけることが、そもそも妙なのです。しかし、そんなことを私たちは日常生活のなかで自覚的に意識しているわけではありません。マインドコントロールというものは、本人が意識していないだけに、問題が難しいのです。 社会的なものであれ反社会的なものであれ、マインドコントロールを受けている人は、そのことを自覚していません。私たちは何でも全て自分の自由意志で行なっていると思っているのです。 たとえば、オウム真理教の信者たちは、テレビのインタビューに答えて、こう言っていました。「私たちはマインドコントロールなど受けていない。私たちは自分の意志で行動している。マインドコントロールを受けているのは、あなたがたの方だ」と。皆さんも、お聞きになったのではないかと思います。 また、何ヵ月か前に、北朝鮮(朝鮮民主主義共人民和国)からのテレビ中継を見ておりましたら、インタビューに答える北朝鮮の人々は、みな同じことを言うのですね。「私たちはすでに何でも持っている。何の不満もない。私たちは世界一幸せだ。これもみなお父さま・お母さまのお陰だ。私たちは何としても、このお父さま・お母さまのご恩に報いねばならない」。不思議な気持ちがしましたが、皆さんは如何でしたでしょうか。 ご承知のように、北朝鮮では、外国の情報はいっさい遮断され、国家が都合よくねじ曲げた情報が氾濫しています。私たちから見れば、完全にマインドコントロールされているとしか思えないのですが、彼らは、そうは思っていません。自分たちは世界一幸せで、外の世界は不幸にあふれていると本気で信じているのです。そして、自分の意志で、お父さま・お母さまに従おうとしているのです。 この北朝鮮の様子は、戦前の日本と、どこか似ているとは思われませんでしょうか。キム・イルソン首席の葬儀に泣き伏す北朝鮮の人々と、天皇崩御の知らせに皇居前で泣き伏した人々の姿がオーバーラップして、複雑な思いになるのは、私だけなのでしょうか。いささか気に掛かるところです。 情報が操作されているのは、何も北朝鮮に限ったことではありません。教科書やマスメディアを通じて私たちに与えられている情報は、たいてい「なま」のままではなく、操作されたものです。 日本は、明治以来、世界の一等国をめざし、欧米に追い付け追い越せという国家目標にもとづいて学校教育を行なってきました。教科書は、戦前は国定教科書、戦後は検定教科書と呼び方は変りましたが、国家が検閲しているということには変わりないのです。 教育と情報は、どの時代、どの世界でも、多かれ少なかれ意図的に操作されています。どの時代、どの世界でも、教育と情報は権力者の手のなかにあります。私たちが何を知るべきか、どの程度、どういうふうに知るべきかを決めているのは彼らです。 たとえば、戦前の日本政府は、教育勅語と教科書によって軍国主義を埋め込み、国民をコントロールしようとしていました。皆さんのなかには、戦後まもなく、占領軍と文部省の命令で、教科書に墨を塗ったことを覚えておられる方もおいでかと思います。占領軍が墨を塗らせたのは、教科書から軍国主義的マインドコントロール・メッセージをはずそうとしたからですが、それは同時に、民主主義的マインドコントロール・メッセージを埋め込もうとしていたわけでもあります。 占領軍は、日本国民が、現在の北朝鮮と同じようにマインドコントロールされていることをよく知っていました。ですが、占領政策の都合上、そのマインドコントロールをはずさずに、大部分残すことに決めたのです。その結果、多くの家庭の鴨居の上には天皇の写真が残り、国民の心の中には忠君愛国的マインドコントロールが残ったわけです。 私たちが抱きがちな、欧米の人々に対するコンプレックスも、東南アジアの人々に対するプライドも、全て明治以来続いていた戦前の軍国主義的マインドコントロールの後遺症です。なんでもかんでも欧米人に似ていると喜んでいる。「日本人離れした顔」などという奇妙な表現が褒め言葉になっているのは日本だけでしょう。 私たちの心の自由を縛っているのは、こういった様々なマインドコントロールです。これをはずす以外に、私たちが本当に自由になる道はありません。ですが、たとえ理屈では分かっていても、心に染み込んでいるものですから、どうしてもできない。それがマインドコントロールの恐さなのです。 いかがでしょうか。これで、「私たちは社会からマインドコントロールされている」ということが、少しはお分り頂けましたでしょうか。 しかし問題は、これだけではないのです。科学の進歩にともなって、最近では、非常に危険なマインドコントロール・テクニックが開発され、ぼつぼと実用に移され始めています。それは、マインドコントロール・メッセージを、直接、私たちの潜在意識に埋め込むというテクニックです。 このテクニックで用いられるメッセージを、サブリミナル・メッセージと言います。サブリミナル・メッセージというのは、私たちの気付かないうちに潜在意識に埋め込まれて、私たちの行動の判断基準を変えてしまうようなメッセージのことを言います。 ちょっと、こちらの図をご覧ください。これは何度かご紹介いたしました唯識仏教の心のモデルです。私たちには「目・耳・鼻・舌・身」という五つの感覚器官があります。私たちは、その五つの感覚器官を通して、外の世界から様々な情報を取り入れるわけです。 目や耳を通して外から入ってきた情報は、まず全部この潜在意識であります「アラヤ識」におさまります。次に、「アラヤ識」に入った情報の一部が、煩悩で色付けされた「マナ識」のフィルターを通って、意識にまでのぼってくる。そして、私たちに自覚されるわけです。つまり、この「マナ識」のフィルターの網目を通らないような情報は、私たちは自覚できないということです。 私たちの心は、「マナ識」のところで情報の検閲を行なっています。この下にある「アラヤ識」は、天体の運動から地球の磁気の変化まで、あらゆる情報を感じています。ですが、私たちが生活していく上で必要無いと「マナ識」が判断した情報は、意識にまでのぼりませんので自覚できません。 アメリカの心理学者ノーマン・デイクソン博士の研究によると、私たちが自覚的に意識できる情報量は、潜在意識で感じている情報量の1000分の1程度だそうです。 「マナ識」のフィルターの網目は、先程からお話ししてまいりましたマインドコントロールでできたものです。別の言葉で申しますと、後天的煩悩です。この後天的煩悩のお眼鏡にかなう情報だけが意識にまでのぼります。たとえば、道端に雑草の花が一輪咲いていても気付かないのに、札束が落ちていたらすぐに気付くということですね。 サブリミナル・メッセージというのは、意識にまでのぼってこないで、「マナ識」のフィルターの網目を変えてしまうようなメッセージのことです。つまり、サブリミナル・テクニックというのは、私たちの行動の判断基準を、私たちに気付かれずに操作するテクニックなのです。 その実例をお目にかけます。まず、この音楽をお聞きになってください。(ここで使用した音楽CDは、「〜特効音楽〜サブリミナル効果による禁煙」,APOLLON INC.,APCE−5415です。) いかがですか、小川のせせらぎの音をバックにした、静かな音楽でしょう。ですが、この音楽は、ただの音楽ではないのです。私たちが自覚できないような音で、メッセージが挿入されています。 ここに挿入されているのは、実は、「禁煙」のためのメッセージです。このCDには、たとえば「タバコはまずい、タバコは嫌いだ、タバコは捨てよう」といったメッセージが、私たちの耳には聞こえないような高い音で、1秒に12000回もの速さで繰り返されているのです。耳には聞こえなくとも、潜在意識は聞いています。これが、サブリミナル・メッセージです。 これを繰り返し聞くと、自然にタバコを吸いたくなくなっていくという効果があります。もちろん100%そうなるというわけではなさそうですが、効果は十分にあるのです。このCDは、最初から、禁煙のためのサブリミナル・メッセージが入っていると分かっているから、聞きたくない人は聞かなくてよいわけですが、これは非常に危険なテクニックなのですね。このテクニックを使えば、どんなメッセージでも、相手に気付かれずに伝えることができるからです。つまり、気付かれずに人の心を支配できるということです。 たとえば、アメリカのスーパーマーケットでは、万引き防止のために、このテクニックを使っているそうです。店内に流れるBGMに、サブリミナル・メッセージを隠して流すのですね。たとえば、「私は正直です、盗みは悪い行為です」といったメッセージを入れるらしいのですね。これで、万引きが50%も減ったそうです。 これには従業員の労働意欲をかきたてるためのメッセージも入っています。たとえば、「私は一所懸命働きます。勤勉に働くと成功します。この店は従業員に親切です」といったメッセージです。 ですが、BGMに入っているメッセージは、これだけではないのですね。「私は他の従業員の悪事を密告します」といった、互いに監視させるようなメッセージも入っているというのです。もちろん従業員は、そんなことは知りません。どうですか、そろそろ、これが危険なテクニックだということがお分りになってきたでしょう。 サブリミナル・メッセージには、耳で聞くものだけではなく、目で見るものもあります。サブリミナル・メッセージのテクニックは、犯罪防止であれ、イデオロギー教育であれ、それこそ何にでも使えますが、資本主義社会に暮らす私たちにとって、一番気掛かりなのは、テレビ放送にサブリミナル・メッセージが使われることです。 私たちの小さいころとは違って、今の子供たちはテレビで育ちます。テレビで育つ子供たちは、現実と虚構との間が曖昧になっています。それに追い打ちをかけているのがテレビゲームです。 新聞によると、近々、アメリカのタイム・ワーナー社から、サブリミナル・メッセージを入れたテレビゲーム・ソフトが発売されるそうです。メーカーは、「子供たちが元気になるメッセージしか入っていない」といいますが、私たちにはそれを確認する方法がありません。いったん製品に組み込まれたメッセージは、内容の確認ができないのです。 ある研究によると、テレビを30分見ると、脳波が10サイクルのアルファー波になり催眠状態になるそうです。これは、サブリミナル・メッセージを埋め込むのに最適な状態です。サブリミナル・メッセージを知らないうちに埋め込まれ、イデオロギーと欲望の奴隷に育っていく子供たちの未来には、何が待っているのでしょうか。考えるだけでも、そら恐ろしいような気がします。 今のところ、政界も産業界も認めようとしませんが、このサブリミナル・テクニックは、人間性を破壊してロボットにする最終兵器です。これがこのまま進めば、私たちが自由になる道を永久に閉ざしてしまうかも知れません。サブリミナル・テクニックは、資本主義社会にとって最高の武器ですが、これがいずれ資本主義社会そのものを崩壊させることになると思います。 この問題にはこれ以上詳しくは触れませんが、マインドコントロールというものの危険性が、これまでとは比較にならないほど大きくなってきていることが、少しお分り頂けたのではないかと思います。 私たちの「心」は、教育と情報で形成されていきますから、その教育と情報が操作されていたら、私たちの「心」も操作されているということになります。つまり、私たちはマインドコントロールされているということです。そんな私たちの「自由意志」など、何とも怪しげなものだと言わねばなりません。 私たちが本当に自由になるには、こういったマインドコントロールをはずさねばなりません。ですが、誤解のないように申し上げておきます。「自由になる」というのは、「何かから自由になる」という意味ではありません。「何かから自由になろう」とすれば、必ず、その「何か」と戦わねばなりません。 たとえば、身勝手な親の支配から自由になろうとすれば、親と戦わねばなりませんし、資本主義的イデオロギーから自由になろうとすれば、資本主義社会と戦わねばなりません。しかし、外の世界との戦いに勝っても、問題は解決しません。しいて言えば、上下の関係が変るだけでしょう。 前回にも申しましたように、仏教徒の目は、外ではなく内を向いているのです。「自由になる」というのは、私たちの内にある「心の囚われ」を無くしていくことを言うのです。仏教は、いかなる戦いとも無関係です。何ものとも戦わず、私たちの心から、あらゆるマインドコントロール・メッセージをはずしていくことが仏教の道なのです。マインドコントロールをはずして自由になる。心の画用紙から色を抜いて白紙に戻る。このためにあるのが仏教なのです。 では、そろそろ、最初に挙げました二つ目の問題、「マインドコントロールをはずして自由になるのが、本来の宗教の目的だ」というお話しに移って、今日のお話しをまとめたいと思います。 近年、オウム真理教などの問題が起こってから、「宗教というものは、みなマインドコントロールではないのか」という声をよく聞きます。そういう声が出てくる理由も分からないわけではありませんが、本当は、あらゆるマインドコントロールをはずしていこうとしているのが宗教なのです。 マインドコントロールとは、意図的に人の心を操作して特定の判断基準を植え付けようとすることですが、その目的は、何らかの現実的な利益にあります。 マインドコントロールされている集団には必ず受益者がいます。つまり、人の心を操作して利益を得ている人がいるということです。また、マインドコントロールされている集団は、特定の価値観に背くと不幸になるという「おどし」で維持されています。 たとえば、オウム真理教でいえば、教組と幹部たちは贅沢な生活をし、信者たちはオウムを離れるとハルマゲドンに生き残れない、地獄に落ちると脅されている。これがマインドコントロール集団の姿です。 マインドコントロールされている集団とは、「特定の価値観で縛って、ピラミッド形に維持されている集団」のことです。マインドコントロールされている集団を見分ける基準はこれです。 オウム真理教のような破壊的カルト集団も、霊感商法も、ネズミ講も、みなこの基準にあてはまりますが、よくよく考えてみれば、共産主義社会も資本主義社会も、あるいは、たいていの教団宗教も、みなこの基準に当てはまっているのではないでしょうか。思えば、何らかの価値観によって心の自由を拘束するというのは、集団というものの持っている宿命的要素かもしれません。 しかし、価値観というのは相対的なものです。価値観だけでなく、人生観も、歴史観も、およそ「観」と付くものは全て相対的なものでしょう。「観」というのは、特定のものの見方のことを言うのです。「観」とは、いわば「思い込み」のことです。「思い込み」で縛られている集団というのは、虚偽の集団です。 国家というものも、「思い込み」で縛られている虚偽の集団です。誰だったか名前は忘れましたが、宇宙から地球を眺めた宇宙飛行士が言っていましたね。「宇宙から地球を眺めると、どこにも国境線など無かった」と。私たちは「無いものを有る」と思い込んでいる。これが「迷い」なのですね。私たちは迷っている。宗教が教えようとしているのはそのことなのです。 しかし、誤解のないように、もう一度だけ申し上げておきますが、「国家は虚偽だから国家を潰さねばならない」というのが宗教ではありません。善悪の価値観を振りかざして外の世界を変えようとするのは宗教ではありません。そうではなくて、心のなかのあらゆる虚偽に気付いていく、あらゆるマインドコントロールをはずしていく、そこに「いのちの真実」があらわになってくる、それが宗教なのです。 マインドコントロールをはずしていくということを、たとえば禅宗では、「仏に逢えば仏を殺せ、祖に逢えば祖を殺せ」という言葉で教えています。僧侶は仏に帰依し、師匠を敬って修業しています。仏や師匠は僧侶にとって、かけがえのない尊い存在です。ですがこの、仏への帰依や、師匠への尊敬さえも、全てとらわれだというのです。 自分の心を見つめていて、たとえ仏や師匠といった、自分が尊いと思っているものに出会っても、そんなものにとらわれるな。むしろ、自分がこのうえなく価値を感じているものこそ問題なのだ。あらゆる固定観念、あらゆる価値観を捨ててしまえ。そこにあらわになってくるものこそ「いのちの真実」だ、というのです。 ところが私たちは、捨てていくのではなく、手に入れていこうとしているのですね。問題が起これば解答を手に入れようとする。そんな私たちですから、「仏教は人生の問題に解答を与えてくれるものだ」「仏教は人生の問題を解決するためにある」と思い込んでしまうのです。ですが、それは違うのですね。 「お金が必要だ」という問題を「解決」するには、お金を手に入れるしかない。「病気に苦しんでいる」という問題を「解決」するには、病気が治るしかない。私たちは常に、問題の解決を求めているものですから、何か手に余るような問題が起こると仏様に手を合わせて「答え」をねだることになるのですね。 私たちは学校教育のなかで、問題は答えを出せば解決したと考える習慣が身に付いてしまっています。たとえば、「1+1=2」ですね。私たちは、この「1+1」が問題で、「2」が答えだと教わりました。そして、「2」という答えが出たところで問題は解決したと考えるわけですね。 しかし、私たちは大切なことを忘れている。私たちは、この「イコール」という記号の意味を忘れているのです。イコールという記号は、本来、その左辺と右辺が等しいことを表わしているだけなのです。つまり、「1+1」は「2」と等しいのです。「1+1」が「2」に姿を変えただけなのです。 何を言いたいかと申しますとね、もし「1+1」が「問題」なら、イコールで結ばれている「2」も「問題」だということになりはしないかということです。姿が変っただけで、問題であることに変わりはない。ひとつの問題を解決すれば、かならず新たな問題が生まれるということですね。 これと同じように、あらゆる「問題」は、「解決」しようとするかぎり、決して解消されることはありません。問題は消えて無くなるのではなく、姿を変えて新たな問題となるのです。 たとえば、冬になると道路に雪が積もって車が走れない。これが「問題」ですね。そこで融雪剤をまいて雪を溶かした。これで「問題」は「解決」した。ところが、融雪剤というのは塩でできているものですから、春になると田畑に塩が流れ込んで塩害を引き起こした。「解決」から、新たな「問題」が生まれたわけです。 そこで今度は、融雪剤の代わりに砂をまくことにした。これで「問題」は「解決」した。ところが今度は、春になると砂埃が巻き上がって、周辺の家々では窓も開けられない、洗濯物も外には乾せないという、新たな「問題」が生まれたわけです。 私たちのしていることはみな、多かれ少なかれ、これと似たようなものではないでしょうか。昔は、冬になって雪が降ると、家のなかで春を待った。春の日差しが、雪を溶かしてくれる。何も「解決」しなくても、雪が溶けて、自然に「問題」がなくなったのです。太陽に任せるしかない、自然に任せるしかないということが、肌身で理解できる生活を、昔はしていたのですね。 しかし、今は違います。私たちは、経済活動というものを最優先に考えています。つまり金儲けですね。「春になれば雪は溶ける」などという悠長な生活は最初から頭にない。雪が邪魔なら雪を溶かせばよい。私たちは、「努力」すれば「問題」が「解決」できると思っている。たしかに、「問題」は、ひとまずは「解決」できる。ですが、その「解決」が、同時に新たな「問題」を生み出していることには、なかなか気付けないのです。 「問題」に苦しんでいる私たちに「答え」をあげようというのは、マインドコントロールです。何をどう考えるべきか、何が幸せかという価値観、人生の「問題」に対する「答え」を与えようとするのが、マインドコントロールなのです。 たとえば、お金があれば幸せになれる、この花瓶を買えば幸せになれる、といったものから、お坊さんに御経を読んでもらえばご先祖様が幸せになれる、ご先祖様を大切にすれば幸せになれる、といったものまで、「幸せ」を求めて迷っている人に、こうすれば「幸せ」になれるという「答え」を与えようとするものは、全てマインドコントロールだと考えて間違いありません。 「問題」は「答え」をもらっても無くならないのです。たとえば、誰かを怨んで苦しんでいるとしますね。私たちは、「怨みは捨てるしかない」という「答え」は知っている。ですが、怨みを捨てればよいといっても、捨てられない自分がいる。私たちが苦しんでいるのは、この点でしょう。 どんな問題にも答えはある。善悪を基準にした倫理的な答えならあるのです。ですが、そんな答えをいくら聞いても、「問い」はなくならない。私たちは、人生の様々な「問い」に苦しんでいるのではなく、「答え」に苦しんでいるのですね。この「答え」こそ、マインドコントロールで与えられたものなのです。 仏教は、私たちに「問題」の「答え」を与えてくれるものではありません。「問題」は、姿を変えながら、どこまでも「問題」であり続ける。そうではなくて、「問題」そのものが消えて無くなる道がある。その道を教えているのが、仏教なのです。 様々なマインドコントロールの核にあるのは、「自分と他人は別なんだ。問題は自分が努力して解決するしかないんだ」という、「自力信仰」「自力への執着」です。私たちの苦しみは、この「自力への執着」から生まれてきます。 たとえば、私は今年47歳になります。47歳というと、お年を召した方から見れば若造ですが、世間一般でいえば、そう若い歳ではない。同級生名簿から抜け落ちていく人もいる。ですから、たとえば疲れて妙に胸が苦しいという日があると、ひょっとしたらこれでお仕舞かもしれないと思ったりするわけですね。 そんなとき、身体の苦しみ以上に、心が苦しいのですね。自分には、まだやり残したことがある。まだ死ねない。たとえ自分のことは置くとしても、子供はどうなる。妻はどうなる。せめて、子供が大学に入るまでは生きてやらねばならない。今はまだ死ねない。そんな思いに苛まれて、身体の苦しみを忘れてしまうほど、心が苦しいのですね。 本当は、子供が大学に入るまでどころか、できることなら仕事が決まるまで、結婚するまで、孫ができるまで見届けたいと、欲には限りがないわけですが、そんな思いに苦しんでいる自分の心を見つめてみると、実に切ないほどの「自力への執着」があることに気付くのですね。 自分のために、家族のために、これだけのことをしておかねばならない、あれだけのことをしておかねばならないと、自分の力しか信じられなくて苦しんでいる自分が、そこにはいるのです。 ですが、よくよく考えてみれば、たとえ私が今死んでも、子供は子供で生きていけるに違いありません。妻は妻で生きていけるに違いないのです。違いがあるとすれば、それは「私の思い通りではない」という点だけです。ということは、私が支えようとしていたのは家族の「いのち」ではなく、私自身の「思い込み」だったということですね。 子供には子供の「いのち」があり、妻には妻の「いのち」がある。思えば、「いのち」を与えたのも、「いのち」を支えているのも「私」ではないのです。私たちは自分の努力で「生きている」のではなく、「生かされている」のです。真宗では、私たちに「いのち」を与え、その「いのち」を支えてくれている力のことを「他力」と呼んでいます。私たちが苦しんでいるのは、この「他力」が信じられないからです。 私たちは生かされて生きているのです。思えば、「死」を恐れることなどなかったのです。臨死体験のお話しを思い出してくださいね。死ぬ時が来ていなければ、たとえ「あの世」に行っても、「あなたには、まだやらねばならないことがある。帰りなさい」と、追い返されるのです。私たちは、死ぬ時が来るまで、絶対に死なないのです。 私たちは「人生」という舞台に送り出されてきました。この舞台で演ずるべき役割があるから送り出されてきたのです。私たちは、途中でこの舞台を降りることはありません。この舞台を降りるときは、私たちの役割が終わったときです。それがいつかは分かりませんが、それがいつであっても、その時、私たちの今生での役割は終わった、私たちの人生は完結したのです。そこには、私たちの「思い込み」を超えた「他力」が働いているのです。 幸せになれないのは「努力」が足りないからだ、「信心」が足りないからだ、というのはマインドコントロールです。「努力」で、つまり「自力」で、「問題」を「解決」すれば「幸せ」になれるというのは、マインドコントロールなのです。 私たちの苦しみは、自分の「思い込み」から生まれている様々な「問題」を、自力で「解決」しようとするところから生まれているのです。そんな私たちの心には、常に大波が渦巻いています。ですが、この大波は自力では鎮められません。大波を起こしているのが、自力だからです。 「お念仏」を称える生活のなかで、自然に大波が鎮まっていけば、光り輝く生命の洪水のなかにいる自分に気付くのです。「お念仏」を称える生活のなかから、生きている自分ではなく、生かされている自分に気付いていく、他力に気付いていく、すでに満たされている自分に気付いていく、それが私たち門徒の生活なのです。 自力の正体を見抜き、自力を諦める。自力を諦めるとは、他力を信じることです。しかし、いったん「他力」の働きを信じたら、迷いはなくなるのかと言えば、そうではありません。「自力で問題を解決する」というマインドコントロールは、なかなか簡単にははずれません。何度も何度も、自力に迷いながら、他力への信が深まっていくのです。 親鸞聖人のご生涯も、そうでした。親鸞聖人の奥様であった恵信尼が、その晩年に、娘の覚信尼にあてた手紙が残っております。「恵信尼文書」と呼ばれているものですが、この手紙に、こういうことが書かれております。 寛喜三年(1231)四月に、親鸞聖人が珍しく風邪をひかれ、高熱をだして八日間ほど寝ておられた。そのとき、病の床にあった聖人が、ぼそっとつぶやかれた。「今はさてあらん」(ああ、そういうことか)と、つぶやかれた。そこで恵信尼が、「どういうことですか」と尋ねると、こうお答えになった。 ……高熱のなかで、自分はずっと『大無量寿経』を読み続けていた。『大無量寿経』の文字が、一字一字きらきらと輝きながら、休みなく目の前に流れていた。念仏の信心より他にないと思い定めているはずなのに、御経を読んでいるとは、どういうことかと、よくよく考えてみると、思い当ることがあった。 その十六・七年前に、関東の佐貫というところで飢饉に苦しむ人々に出会い、何か自分にできることはないかと、衆生利益のために『三部経』を千回読もうとしたことがあった。しかし、読み始めてすぐ、自分は何をやっているのかと気付いて、やめた。 『三部経』を千回読むというのは、自分が比叡山にいたころに励んでいた自力の行だ。自力を捨てて、他力に帰した我が身であったはずなのに、これは何としたことか。そう気付いて、御経を読むのをやめたのだ。 ところが、病の床にあって、またまた自分は無意識のうちに御経を読んでいた。自力の心、自力への執着は、かくも根深いものかと、気付いたのだ、と。…… このとき、親鸞聖人は59歳でした。29歳のときに法然上人に出会い、「他力」の教えに触れて、自力の行を捨てたはずだった。しかし、それまでの20年間に比叡山で埋め込まれた、「自力の行で悟りを得て、自力で衆生を済度するしかない」、「幸せになるには自力で問題を解決するしかない」というマインドコントロールは、骨の髄まで染み込んでいたのですね。 ですが、親鸞聖人は、そのことに気付き続け、「自力信仰」のマインドコントロールをはずし続けて、「自然法而」という絶対他力の世界にまで到達されたのです。理論や信念だけではマインドコントロールをはずせない。生活という実践の場で迷い、迷っている自分に気付き続けていくしか、マインドコントロールをはずしていく道はない。そのことを生涯かけて私たちに教えてくださったのが、親鸞聖人なのです。 「他力」の教えを信じて生活していても、常に「問題」が起きてきます。たとえば、受験生をかかえている家庭では、みな同じような「問題」を「解決」しようとしているのではないかと思います。それは、「幸せになるには立派な大学を出ていないとダメだ」という、「学歴信仰」マインドコントロールから生まれている「問題」です。 子供が生まれてきたときには、「健康で元気に育ってくれたら他には何も望まない」と本気で願っていた私たちが、小学校であれ、中学校であれ、子供が受験の年令にまで達すると、ころっと言うことが違ってくる。 「まだ寝る時間ではない、まだ勉強できるだろう」と、元気のない青白い顔をした子供に、今は健康などどうでもよいとばかりに、「勉強しろ、努力しろ」と言い続けているのが私たちです。 「努力しないと幸せにはなれない」という「自力を原動力にした価値観」は、「修羅」の社会からマインドコントロールによって埋め込まれたものです。この「自力への執着」を誘うマインドコントロールが、ことあるごとに、今ここに生かされてある私たちの「いのちの意味」を覆い隠し、圧迫しているのです。 ときには、「ああ、これが自力への執着なんだ」と、一瞬気付くことはあっても、「今は、それどころではない。ともかく受験が済まないことには話にならん」と、「自力」が先に立つ。「自力への執着」に気付くご縁を、次々に「自力」がつぶしていくのです。 「今がその時でない」と言うのなら「いつがその時なのか」といえば、「問題」が「解決」したときだということになるのですが、そんな時は決してやってきません。そんな「今はまだその時でない」と「自力」にしがみつき続けている私たちに、「今がそのときなのだ、今しかない」と教えているのが仏教なのです。 「問題」を生み出し、その「問題」を「解決」するように迫っているのは、「自力」です。「問題」を「問題」たらしめている力こそ、「自力」なのです。だからこそ、「問題」が生じてくることをご縁として、「自力に執着」している自分に気付いていくことができる。そして、この「気付いていく」ことでしか、「自力への執着」が無くなっていく道はないのです。 「自分が、自分が」と、握り締めている手を開けば、「問題」そのものが消えて無くなっている。お念仏を称える生活のなかで、この握り締めている手が自然に開かれていく。それが、私たち門徒の生活なのですね。 私たちの心は、マインドコントロールの闇でおおわれています。この闇を晴らして「いのちの意味」を回復する道を教えているのが、仏教なのです。 私の心をおおっている「闇」は、私が生み出したものではありません。「修羅」の世界のマインドコントロールで、心にかぶせられたものです。私の心をおおっている「闇」は、決して私個人の「闇」ではなく、人類共通の「闇」なのです。 ですから、私の心をおおっている「闇」を晴らすことは、人類共通の「闇」に窓を開けることです。私が私の「いのちの意味」を回復していくことは、そのまま、人類全ての「いのちの意味」を回復していくことなのです。 「何かに成らなければ幸せにはなれない、何かを手に入れなければ幸せになれない」というのは「思い込み」にすぎません。私たちにとって、本当に大切なのは、「思い込み」の糸をたぐって明日も生きていることではなく、今生かされてある「いのち」に気付くこと、今ここにある「いのちの意味」を回復することなのです。 それが、心を縛っているマインドコントロールの「糸」を切って、「自由になる」ということです。 今日は、「自由になる」というテーマでお話しさせて頂きました。今日のこの日を、皆様とご一緒に過ごさせて頂いたご縁を有り難く存じております。 人生には様々なご縁があります。私たちの心にマインドコントロール・メッセージを書き加える人との出会いもご縁です。私たちが社会人として育つためには大切なご縁です。また、その一方で、私たちの心からマインドコントロール・メッセージを消し去っていくご縁もあります。それは私たちの「いのちの意味」を回復していくご縁です。私は、今日のような集いが、そういう「いのちの意味」を回復していくご縁になればと、心から願っております。 さて、今回のお話しはこれで終わりです。次回のテーマはまだ決まっておりませんが、ここしばらく、いささか難しい話が続きましたので、次回は、もう少し分かりやすいお話しをさせて頂ければと思っております。 また、「いつかこんなテーマで話が聞きたい」というご希望がおありでしたら、お聞かせ頂きますよう、お願い申し上げておきます。 次回は、来年の3月20日の彼岸会でございます。どうぞ、また、お参り下さいますよう、お待ち申し上げております。本日は、どうも、長い間お付き合い下さいまして、有難うございました。
紫雲寺HPへ |