釋昇空法話集・第8話

耳をすませば

私は私を生きればよい、私は私を死ねばよい

(1996年3月20日、彼岸会法話)
 本日は、ようこそお参り下さいました。どうぞ、お楽にお座りくださいませ。昨年は、永代経、報恩講と、いささか難しいお話しが続きましたので、今回はもう少しお分かりやすいお話しになればと思っております。

 さて、私たちは日々、忙しい忙しいと、追い回されるように慌ただしく暮らしておりますが、インドの古い格言に、こういうのがあるそうです。「忙しい心は、病んでいる心。のんびりしている心は、健やかな心。そして、静かな心は、聖なる心」。もう一度申しますね。「忙しい心は、病んでいる心。のんびりしている心は、健やかな心。そして、静かな心は、聖なる心」。

 私たちは毎日、忙しい忙しいと、まるで忙しいのを手柄のようにして生きておりますが、そんなに忙しい忙しいと言っているのは、このインドの格言にあるように、心が病んでいるからではないでしょうか。

 「忙しい」という字は、漢字で書くと「立心偏」に「亡くす」と書きます。忙しい生活というのは「心を亡くす生活」でもあるのです。また、「慌ただしい」という字は「立心偏」に「荒れる」と書きます。慌ただしい生活は「心の荒れる生活」「心のすさぶ生活」でもあるのです。つまり、「忙しい心は、病んでいる心」なのです。

 以前にもお話しいたしましたように、私たちの心と社会は、木の根と葉のような関係にあります。人の心が病んでいると、社会も病みます。またその反対に、病んだ社会に生まれ育つと、心が病みます。

 新聞を見ても、テレビを見ても、あるいは身の回りを見回してみても、どうも社会が病んでいるとしか思えないことが多い。おそらく皆さんも、そうお感じになっておられるのではないかと思います。ですが、それが、自分の心が病んでいるせいだとは、私たちはなかなか思えないのですね。

 そこで今回は、他人ごとではなく、私たち自身の心の問題として「いじめ」や「競争」について考えながら、忙しい心から、のんびりした心へ、そしてさらには、のんびりした心から、静かな心への道を、ご一緒に探ってみたいと思います。どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いください。

 さて、「いじめ」については、最近、毎日のように新聞やテレビで報道されておりますので、これが私たちの社会の大きな問題であることは、どなたもご承知のことと思います。今年に入ってからだけでも、すでに何人もの子供たちが「いじめ」を苦にして自殺しています。

 しかし、「いじめ」は日本だけの問題ではありません。「いじめ」は、たとえば、ヨーロッパ諸国や、アメリカやカナダ、オーストラリアやニュージーランド、中国など、調査すればどこにでも見られる世界的な現象なのです。しかも、「いじめ」は年々深刻になっているのです。

 たとえばアメリカでは、学校での「いじめ」の多さも深刻さも日本の比ではなく、自衛のために拳銃やナイフなどの武器を学校に持ち込む者が年間43万人にものぼり、流れ弾から身を護るために防弾チョッキを着けて登校する小学生もいるといいます。

 また、中国では、昨年11月に、18歳の専門学校生が「いじめ」に報復するために、授業中に爆弾を抱えていじめっ子にしがみつき自爆するという、すさまじい事件まで起きています。ここまでくると、学校というより戦場です。

 わが国では、こうした「いじめ」が社会問題となりはじめてから、すでに20年以上たっていますが、一向に問題は解決されそうにありません。教育関係者や専門家の間でも、「いじめ」はなぜ起こるのか、どうすれば無くなるのかといったことは、どうもよく分からないというのが実状のようです。

 ちょっと意地の悪い言い方かもしれませんが、それは分からないだろうと思いますね。というのは、「いじめ」の本当の原因は、私たち自身の心のなかにあるからなのです。ですが、そう申し上げただけでは、それこそお分りにくいでしょうから、もう少し具体的に見てみましょう。

 さて、私たちは、学校での「いじめ」の問題に心を痛めています。抵抗できない弱い立場の者をいじめて、その子が苦しむのを見て喜ぶような異常な子供たちがいる。そんな残酷なことは断じて許せない。私たちはそう考えています。そうですね。

 ところがです。そんな私たちが、「いじめ」をテレビで見て喜んでいるとしたら、どうでしょう。たとえば「ドッキリカメラ」のような番組です。あれは、タレントをいじめて楽しむ番組ではないでしょうか。

 たとえば、こういうのがありました。タレントに結婚式の司会をさせる。本物の結婚式だと思っているのは当のタレントだけなんですね。現場では事前の打ち合せと違うことが次から次へと出てきて、披露宴の進行が無茶苦茶になる。タレントは青くなり、土下座して謝るという流れになっていました。また、あるときには、ヤクザに扮装した役者がタレントにからむというのもありましたね。皆さんも、一度くらいご覧になったことがおありかと思います。

 そういう仕掛けになっているとは知らないタレントが困り切ったころあいを見計らって、「ドッキリカメラ」と書いた看板を掲げた人が出てくるのですね。「ドッキリカメラ」だと分かったとたん、大声で怒鳴ってもよさそうなタレントが、みな申し合わせたように、力無く「えへへ」と笑うのですね。

 あの笑いは、いじめっ子に囲まれた子供の笑いですよ。日本中の視聴者といういじめっ子が、テレビを通して取り囲んでいるのです。大声で怒鳴ったりしたらタレント生命に響く。ですから、彼らは、そんな「いじめ」に、「えへへ」と笑って堪えるのです。

 私たちは、人を苦しめて楽しんでいるような「いじめ」の残酷さに腹を立てながら、その一方で、実は自分も「いじめ」を楽しんでいるのだということに気が付きません。

 朝や昼のワイドショー番組でもちょっとご覧になったら、すぐにお分りになることと思いますが、芸能人や有名人のゴシップを追い掛けるレポーターたちは、マイクを握ってカメラを向ければ、何をしてもよいと思っているようでして、おおよそ人間らしくないのですね。

 他人には決して踏み込まれたくないというところまで土足で踏み込む。人を人と思っていない。まるで、どこまで厚かましくなれるのか、人間の限界に挑戦しているといった感じなんですね。

 ですが、これは決してレポーターだけの問題ではありません。視聴率というものを介して、「私たち」が、そういうことをさせているのです。もし私たちが、そういった番組を拒否したら世界も変わるのですが、実際には、テレビでも雑誌でも、破廉恥で刺激的なほど、よく売れるのですね。

 タレントは社会のオモチャと言っても、ワラ人形ではない。私たちと同じ感情を持っていることは百も承知。たたけば痛がる。からかえば苦しむ。そういう反応のあるオモチャだからこそ、つついてみたい、たたいてみたい。立場の弱い者ほど、執拗に苦しめてみたい。

 さきほどの「ドッキリカメラ」でも、駆け出しのタレントや、人気が下り坂のタレント、つまり立場の弱い人への仕掛けほど、どぎつくなっているのです。もうお分りだと思いますが、これは間違いなく「いじめ」です。そんな番組を家族で見て喜んでいるというのは、本当は異常な世界なのではないでしょうか。

 私たちはたいてい気付いていませんけれど、「学校でのいじめ」と「ドッキリカメラ」は同じ精神構造の上に成り立っているのです。人を苦しめ、人の嫌がることをやって面白がっている。人の心へ土足で踏み込んで面白いと感じる。知らないうちに、私たちの心は、そこまで病んできているのです。

 私たちは、育っていくあいだに自分が世界からもらったものを、世界に返していきます。人として大切に育てられた人は、人を人として大切にする人になる。その反対に、人として大切にされずに育った人は、人を人として大切にできない人になる。

 「いじめっ子」になりやすいのは、家庭のなかで、精神的な、あるいは肉体的な「虐待」を受けて育った子供だと言われています。簡単に言えば、つまりは、親から「いじめ」を受けて育った子供が「いじめっ子」になりやすいということですね。

 とすると、同じように、私たちが「人を人として大切にできない」ようになったのも、私たち自身が、人として大切にされずに育ってきたからではないのでしょうか。人として大切にされるということは、どういうことか。それはですね、「あなたは、あなたであってよい。ありのままのあなたでよい」と、無条件で愛されるということです。

 ですが、私たちの社会では、大切にされるためには、たいてい何らかの「条件」が伴うのですね。たとえば、子供が親に大切にされようとしたら、勉強ができて、聞き分けの良い「いい子」でなければならない。

 学校でも、先生の期待に応える「いい子」は大切にされますが、勉強に関心が無くて、窓の外ばかり見ているような管理しにくい子供は、なかなか大切にはしてもらえない。

 以前、こういう話を聞いたことがあります。ある小学生が一所懸命勉強して算数で80点を取りました。きっとお母さんは褒めてくれるだろうと、喜び勇んで学校から帰って、お母さんに答案を見せました。ところが、案に相違して、お母さんは褒めてくれずに、こう言うのです。

 「隣のヨシオ君は何点だったの?」
ヨシオ君は90点だったと答えると、
 「お前、だめじゃないの。もっと頑張らないと、お父さんみたいに窓際族になってしまうのよ」と、叱られた。そこで、何とか認めてもらいたい子供が、
 「でも、お母さん、アキラ君は60点しか取れなかったんだよ」と言い返すと、そのお母さんは、
 「他人のことは、どうでもいいの」と言ったというのですね。

 お笑いになりますでしょうが、これは現代の日本で、どこででも見られるような場面なんですね。私も、この話を聞いて、最初は笑いました。他人を引き合いに出したのは、お母さんが先なんですからね。自分も含めまして、親というのは何とも勝手なものだと思ったのですね。

 ですが、しばらく考えているうちに、このお母さんの考え方には一貫したものがあるように思えてきました。つまりですね、自分の子供はヨシオ君に負けている。ですから、ヨシオ君は息子が勝たねばならない相手、つまり目標として意味がある。ところが、アキラ君はそうではない。アキラ君は、すでに負け犬だ。そんな人のことはどうでもよい、ということではないのでしょうか。

 親も先生も、競争、競争と、子供にはっぱをかけるものですから、子供の考え方も、だんだん変わってまいります。以前、子供のマンガで、こんな話を見ました。

 小学校の先生が、黒板に「人」という字を書いて、子供たちに説明しています。
 「みなさん、「人」という字は、二人の人が支え合っている姿からできています。みなさんも、みんなで支え合って、仲良く勉強してくださいね」。

 すると、子供たちは、先生をバカにして、こう応えます。
 「先生、それ、ちがうわ。「人」という字はね、二人の人が支え合っている姿とちがって、大きい人が小さい人に、もたれかかっている姿や。先生、知らんのか」。

 まあ、これはマンガですけれど、どうも考えさせられますね。

 現在の私たちの社会は「富と力」をめぐっての競争社会になっています。ですが、私たちが、こんなふうに、ネコも杓子も競争、競争と、目の色を変えてやっきになるようになったのは、そんなに昔のことではありません。こんなふうになったのは、わが国にかぎって言えば、明治時代からなのですね。

 ご承知のように、日本は、明治以来、世界の一等国をめざし、欧米に追い付け追い越せという国家目標にもとづいて学校教育を行なってきました。つまり、近代日本は、世界の先進国との競争で始まったのです。あからさまに「競争」を賛美する風潮は、このとき始まりました。

 それまでは、競争するなどということは「はしたない、ゲスなこと」だと考えられていたのです。今では見る影もありませんが、それこそ日本が世界に誇れる、きわめて麗しい考え方だったと思いますね。

 まあ、それはともかく、その国をあげての競争で、めざしたものは「富国強兵」でした。つまり、「富と力」です。現在の競争社会の源は、そういった明治時代にあるわけですが、それだけではなく、実は、さきほどからお話ししております「いじめ」の問題も、その時代と無関係ではないのです。

 さきほど申しましたように、明治の日本は、欧米の列強諸国をお手本に選んだのですが、その日本が手本に選んだ欧米の列強とは一体何だったかと申しますと、武力で植民地を広げていく、世界の「いじめっ子」たちだったのですね。

 つまり、日本は、100年以上前に、世界の「いじめっ子」たちにいじめられないように、自分も「いじめっ子」になる道を選んだというわけなのです。このことと、現在の「いじめ」の問題とは無関係でないと思うのですが、いかがでしょうか。

 競争社会では「勝つ」ということが大切になります。勝つためには強くならねばなりません。つまり、競争社会では「強い」ということが絶対的な価値を持ってくるわけです。他の人より強くなる。相手より強くなる。スポーツでも、勉強でも、何でも、相手より強いと誉められる。そういう社会ですから、子供を育てるときにも、何が何でも「敗けない強い子」を育てようとする。

 ですから、「いじめ」の問題に対しても、同じ発想しか浮かんでこないのです。このあいだも新聞に、こういう発言が載っておりました。「結局、いじめから逃げないような強い子を育てないといけないということでしょう」と。

 「結局は、強くなる以外に道はない」。競争社会では、これ以外の発想が生まれてこないのですね。相手が棒を持てば、自分はもっと長い棒を持つ。相手が石を投げれば、自分はもっと大きな石を投げる。そうしてだんだんエスカレートしていって、最初は石を投げ合っていたものが、最後には原子爆弾を投げ合うようになる。結局は、こうなるしかないのが競争社会だとしたら、競争社会そのもの、つまりは「競争」そのものが間違っているのではないでしょうか。

 私たちは競争社会に生まれ、「競争は絶対だ」と教えこまれて育ちますから、「競争」そのものが間違っているとはなかなか思えません。ですが、それは、資本主義社会に生まれて、「資本主義は絶対だ」と教えこまれて育てば、資本主義そのものが間違っているとはなかなか思えないようなもので、一種の催眠術にかかっているのだと思います。

 実際、催眠術にかかっているのだと考えると、私たちの社会に起こっている様々な問題の意味がよく分かるのですね。どう分かるのか。それをお話しするために、ちょっと、興味深い催眠術の実験のお話しをいたします。

 これは、アーネスト・ヒルガード博士という催眠術の研究家が行なった実験です。博士は、まず、氷水を満たしたバケツを用意します。そして、一人の男性に催眠術をかけて、「このなかに左手を入れても冷たくないよ、痛くないよ」と言い聞かせて、左手を入れさせます。当然、普通でしたら、そんな氷水に手を入れていると、すぐに痛くなってきます。ですが、催眠術をかけられて、「大丈夫だ」と言われている被験者は、何の痛みも感じなかったのですね。催眠実験は成功しました。ここまでなら、よくある実験ですが、面白いのはここからです。

 次に、博士は、この被験者の右手に鉛筆を持たせて、「手元を見ずに、右手が書きたがっていることを自由に書かせなさい」と、指示したのです。すると驚いたことに、彼の右手は、「手が凍りそうだ、痛い、痛い、手を出させてくれ」と、書いたというのです。

 つまりですね、心のなかには催眠術にかからない部分がある。催眠術にかかっていたのは心の浅いレベルだけで、心のもっと深いレベルは、何が起こっているのか本当のことを知っていたということです。

 実験の後で、この被験者は、こう言っています。「何も判断せずに、あるがままを見つめている自分がいるようです。それは本当の自分かもしれません。ただ、もっと客観的に物事を見ている感じです。催眠術をかけられた時、私は言われた通り想像し、そう思い込んでしまったのですが、どこかに隠れた観察者がいて、実際に起こっていることを知っていたようです」と。

 彼の話は、以前にもお話しいたしました唯識仏教で言う「心の構造」とぴったり一致しています。ですが、それは後にして、この実験が私たちの社会とどう関係があるのかというと、こういうことです。

 私たちは「競争は絶対だ」という催眠術をかけられて、競争社会という氷水のバケツに左手を入れさせられている。ですが、心の深いレベルにある「本当の自分」は何が起こっているのか本当のことを知っていて、右手の鉛筆で「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ」と書き続けている。その右手の書き続けている「いやだ、いやだ」という叫び声が、つまりは、私たちの社会に起こっている様々な問題なのではないかと思うのです。

 競争社会は、立ち止まれば追い抜かれるという、忙しくてストレスに満ちた社会です。私たちのなかにいる「本当の自分」は、競争などしたくないのです。

 ストレスがかかると、体内でノルアドレナリンや、アドレナリンといった毒性を持ったホルモンが分泌され、さらには猛毒の活性酸素まで発生するといわれています。こういった毒のせいで免疫系が弱まって病気になりやすくなるのです。

 病気の70%〜90%、また成人病のほぼ100%が、ストレスが原因で起こると言われています。

 実際、1994年に全国で人間ドックを受けた働き盛りの世代で、「異常なし」と診断されたのは、わずか18%だったそうです。

 「競争はいやだ」と言えないように催眠術にかけられているものですから、身体が病気になって「いやだ、いやだ」と言っているのです。

 競争社会は、加速社会です。競争によって科学技術が進歩し、生活が便利になると、暇な時間が増えて「のんびり」暮らせるようになるかといえば、そうではありません。かえって「忙しく」なるのです。

 たとえば、昔なら北海道に出張するということになれば、汽車で何日もかかりましたが、今なら、飛行機で日帰りができます。つまり、便利になったことで、何日分もの仕事を一日でしなければならなくなったのです。

 また、昔なら手紙を書いて何日も返事を待っていたものが、今なら、電話やファックスで即座にやりとりができます。さらにこれからは、コンピューター通信やインターネットが普及して一瞬のうちに世界中から情報が集まるようになっていくでしょう。それはつまり、通信手段の進歩によって、一日で処理しなければならない情報量が、ますます増えていくということです。

 そうなると、コンピューターなしでは情報を処理しきれないので、コンピューターを使えることがビジネスマンの必須条件となっていく。ただでさえ、忙しいビジネスマンが、コンピューターを学ばねばならなくなる。それは遠い将来のことではありません。すでに、そういう変化に付いていけず、コンピューター・ノイローゼになって出社拒否を起こしたり、退職したり、自殺したりするビジネスマンも少なくないといいます。

 学校でも、学ばねばならない情報が年々増え、それにつれて、いわゆる落ちこぼれや、登校拒否が、急激に増えてきています。

 処理しなければならない情報、学ばねばならない情報が増えるにつれて、生活はますます忙しくなっていきます。そして、人は情報量の増加スピードにだんだん付いていけなくなって、会社からも学校からも、どんどん落ちこぼれていくということになるのです。

 今も、情報量は加速度的に増え続けています。いまに、情報量の増加するスピードに誰も付いていけなくなる。そんな日が遠からず来るに違いありません。実際、このスピードで情報が増え続ければ、その日は、2012年の12月中に来るという学者もいます。2012年といえば、あと16年しかありません。大変なことです。

 ですが、本当の問題は、情報量が加速度的に増え続けてることではなく、そんな情報を「処理しなければならない」「学ばねばならない」という、この「〜しなければならない」という催眠術のほうにあるのです。

 「〜しなければならない」というのは、私たちに「努力」を要求する言葉です。私たちが、社会の要求に従って、これまで「努力」し続けた結果、その社会自体も私たちも、何やら、とんでもないところまできてしまったように思います。もう、このあたりで、「努力」をやめないと、取り返しがつかなくなるのではないでしょうか。

 「為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは、人の、為さぬなりけり」という言葉をご存じでしょう。米沢藩主だった上杉鷹山(ようざん)の歌です。この歌のせいというわけではないでしょうが、私たちは、「誰でも努力すれば何でもできる」と考えているところがあります。

 特に、努力して何か一仕事できたという経験のある人ほど、そういう傾向があります。ですから、そういう人は、何かができないという人を見ると、それは努力が足りないからだと考えてしまうのです。

 たとえば会社で、どうしてもコンピューターが分からないという人がいると、「学ぶ気がないからだ、努力が足りないんだ、もっと頑張れ」ということになる。また、子供でも、「いじめられて苦しいから学校に行きたくない」とうったえると、「いじめになんかに敗けていてどうする、もっと頑張れ」ということになるのですね。

 私たちは何かあると、すぐに「頑張れ、頑張れ」と言いますが、「いじめ」にあって死を考えるほど苦しんでいる子供たちは、「頑張れ」と言われると、かえって落ち込む。先生や親に相談しても、「頑張れ」と言われることが分かっているから相談できないといいます。

 また、死を恐れ苦しんでいる重病人が、何よりも辛いのは、見舞い客に「頑張ってください」と言われることだと聞きます。「俺は、頑張って、頑張って、頑張っているんだ。もうこれ以上、頑張れないんだ。頼むから、頑張れなどと言わないでくれ」。そう叫びたいのに、こらえているのです。

 「もっと頑張れ」というのは、今のお前ではダメということでしょう。いじめに苦しんでいる子供が、本当に聞きたいのは、「学校なんかいかなくてよい、何があってもお前の味方だから心配するな」という言葉でしょう。

 「病気になったら苦しめばよい。何かにならねばならないわけではない、自分は自分のまま生きてよい、自分は自分のまま死んでよい」。こんなあたりまえのことを教えてくれる人ほど尊い人はいないのではないでしょうか。

 実はこの、「自分は自分のまま生きてよい、自分は自分のまま死んでよい」というのが、仏教の教えていることなんです。

 ではそろそろ、話を仏教の方に移して、今日の締め括りに入りたいと思います。

 さて、お釈迦様のお説法は「対機説法」といわれております。お釈迦さまは、教えを受ける人の素質に応じて教えをお説きになったということです。つまり、仏教は、人はみな持って生まれてきた素質が違うということを前提にした教えなのです。持って生まれてきた素質は、一人一人みな違うのです。このことを仏教では「別業」と申します。

 ところが、競争社会というものは、一人一人みな素質が違うということを無視することで成り立っています。というのは、競争というものは、同じゴールに向かって、同じ1本のコースを走らないと成り立たないからです。本当は、人はみな素質が違って、コースもゴールも違う。ですが、それを認めたのでは競争にならない。

 では、どうして真実を無視してまで競争しようとするのかと申しますと、それは以前にもお話しいたしましたように、「自分と他人を区別する」という煩悩が、教育によって私たちに埋め込まれるからです。この「自他を区別」するという心の働きから、「人と比べて競う」という思いが生まれます。この思いを仏教では「慢」と申します。

 ですが、もう少し正確に申しますと、実際には、「自他を区別」しただけでは競争は起こりません。競争が起こるのは、「自分」というものに不安があるからです。自分というものに不安があるから、「人と比べて競い」、自分の値打を確かめようとするのです。

 「試金石」というものをご存じですか。金をこすりつけて、その純度や品位を確かめるために使われる石のことです。最初から純金であると分かっているものには、試金石に傷をつけて確かめる必要などありません。同じように、自分というものに不安がなければ、他人と競って自分の値打ちを確かめたりする必要はないのです。

 そんな私たちの不安は、ひとりぽっちで世界にほりだされた子供のような、孤独の不安ではないでしょうか。仏教は、「そんな不安に気付いたら、目を内に向けよ、目を内向けて耳をすませよ」と教えています。目を内に向けて、静かな心で耳をすませば、私たちの「魂の故郷」からの呼び声が聞こえてくるからです。以前にもお話しいたしましたね。「目を内に向けて耳をすます」というのは、は、私たち門徒にとっては、「念仏行」のことです。

 私たちは、本当はみんなが「ひとつ」です。ひとりぽっちではありません。ですが、「一如」の方に目を向けないものですから、それが分からない。それで孤独なんですね。それは、こういうことです。ちょっと、こちらをご覧ください。これに似た図は、何度かお目に掛けたかと思いますが、これは唯識仏教でいう「心の構造」のモデルです。このポコポコと山のようになっているのが、私たちの心です。

 私たちの心は、この図で申しますと、上から「五感」「意識」「マナ識」「アラヤ識」という構造になっています。青色に塗った部分が「マナ識」です。催眠術にかかっているのは、この「マナ識」です。その下の黄色に塗った部分は「アラヤ識」です。催眠術にかからず、何が起こっているのか本当のことを知っているのはここです。

 以前にもお話しいたしましたが、私たちが「自分」といっているのは、この催眠術にかかっている「マナ識」のことです。「マナ識」の目は、刺激を求めて、常に上を向いています。ですから、こういうふうに、「アラヤ識」より下の世界があることを忘れてしまっています。そういう状態でいるものですから、誰もが、ひとりぽっちでいるような孤独を感じているのです。

 ですが、本当はそうではない。目を内に向ければ、下に「アラヤ識」がある。その「アラヤ識」は、私たちの魂の故郷である「一如」の世界とつながっているのです。誰もひとりぽっちではない。心の底では、みんながつながって、ひとつになっているのです。

 私たちがみな、こんなふうにつながっているということは、私たち一人一人が、世界を決めていく「鍵」になっているということでもあります。それを、ちょっと目に見えるように、こんなものを作ってみました。これは、画板のようなコルクボードにネットを張ったものです。

 たとえば私たちは、このネットのひとつひとつの結び目のような関係で、みんながひとつにつながっていて、この結び目が私だとしますね。そして、もし、私の心が、こんなふうに忙しく慌ただしく動けば、世界が忙しく慌ただしく動くことになります。その反対に、私が、静かな心で「一如」につながれば、世界も静かになるのです。

 つまり、世界を平和にするのに「努力」はいらないということです。「私」が、そして「あなた」が、静かな心で耳をすまして、「一如」の世界とのつながりを回復すればよいだけなのです。世界が平和になるのを妨げているのは、むしろ私たちの「努力」です。

 「自分の値打ちを確かめるために競争しなければならない、自信をつけるためには競争で勝たねばならない」と、本当は社会にも私たちにも害になる「努力」を要求しているのは、娑婆の催眠術なのです。

 本来、仏教には「努力」というものがありません。仏教では、「努力」とは言わず、「精進」と「懈怠」ということを申します。「精進」とは「一如」の世界に向う生き方、「懈怠」とは、「修羅」の世界にとどまる生き方のことです。

 「精進」とは「捨離」、つまり「捨てること」です。それに対して、「懈怠」とは、「拾うことと」と「捨てずに持っていること」です。では、何を「捨てる」のか、何を「拾う」のか、また、何を「捨てずに持っている」のかと申しますと、それはですね、競争のなかで得た「プライド」と「コンプレックス」なのです。

 競争に勝てばプライドを拾い、競争に敗ければコンプレックスを拾います。私たちは、競争のなかで、心にプライドとコンプレックスをためこんでいきます。つまり、拾ったプライドとコンプレックスを、捨てずに持っているわけです。そうして、私たちの心は、競争に勝っても敗けても、だんだん重くなっていく。生きているのが重荷になっていくのです。

 一方、「精進」というのは、そういったプライドやコンプレックスを捨てていくことです。ですが、それは自分の努力では捨てられないのですね。なぜかといえば、自分の努力でうまく捨てられたと思うと、捨てられない人が愚かに見えてくる。自分は偉い、となるのです。そうすると、またぞろ、自分の努力、つまり自力に対するプライドを拾うことになってしまうからです。

 そうではなくて、静かな心で「一如の声」に耳をすませていると、「他力」が働き、努力、努力と握り締めている手から力が抜けて、自然にプライドやコンプレックスが落ちていくのです。「精進」とは努力のことではありません。「精進」とは、静かな心で「一如の声」に耳をすませ、「他力」の邪魔をしないことを言うのです。

 競争すれば、必ず、勝つ人と敗ける人ができます。みんなが勝つわけにはいかないのです。競争社会というのは、「みんなが幸せになれるわけではない」ということを保証している奇妙な社会です。競争社会が幸せな社会でないのは、私たちはみな一人一人違うという真実を無視しているからです。真実でないところに本当の道はありません。本当の道でないところを歩こうとするから、「努力」が必要になるのです。

 「努力」というのは、「本当は、したくないこと」を我慢してしようとするときに必要なものです。昔から「好きこそ物の上手なれ」とか「好きは上手の元」と言いまして、素質に応じた好きなことをやっている人は、努力などしていませんから、いつまでやっていても疲れない。ですから、当然、努力している人より上手になる。

 自分の素質を無視して「努力」するのは、他人を目標にして競争している証拠です。「努力」というのは、その人自身の素質に逆らうために使われる力、つまりは、「一如の声」「他力」に逆らうための力です。

 世間ではよく、「いじめ」を受けても学校から逃げてはならないと言います。登校拒否は逃げだと言われます。ですが、自分のコースでないと分かった道から出て、何が悪いのでしょうか。一人一人の素質の違いを認めて、素質に適った道を歩かせる。そうすれば、必ず、一人一人のゴールに到達するのです。「あなたはあなたの道を、あなたの歩きたい速さで歩けばよい」のです。それが、「のんびりしている心、健やかな心」で生きる、仏教徒の道なのです。

 お釈迦さまの物語にある「四門出遊」の話をご存じでしょうか。出家されるまでのお釈迦さまは、「病人や老人や死人」といった見苦しいものが目に入らないように、カピラ城のなかで大切に育てられていた。ところが、あるとき、城の四つの門から出て、郊外に散策に行こうとなさったところ、そのたびごとに、病人や老人や死人の哀れな姿に出会い、心ふたぐ思いをなさった。そして、最後に清らかな修行者の姿を目にされ、出家を決意されたという話です。

 しかし、いくら大切に育てられていたお釈迦さまであっても、そのときまで、人が、いずれ、老いて、病気になり、死んでいくことを知らなかったはずがはありません。「病人」や「老人」や「死人」を見たことがなかったはずはないのです。この話は、そういうことが言いたかったわけではありません。

 そうではなくて、この「四門出遊」の話は、お釈迦さまが「老・病・死」を自分の問題として自覚的にとらえられた大切な瞬間を伝えようとしているのです。その瞬間の意味を伝えようとしているのです。どういう意味かと申しますと、それは二つあります。ひとつは、自分が気付くことの大切さ、もうひとつは、他の誰かが気付くための「ご縁」になることの大切さです。

 仏教では、私たちのまわりには常に3人の天使がいると言っています。3人の天使とは、この「病人、老人、死人」のことです。その3人の天使たちは、私たちに伝えるメッセージを持っている。病人、老人、死人は、私たちが「老・病・死」を自分の問題として自覚的にとらえるようになる「ご縁」になるという用事を果たすために、私たちの目の前にあらわれてくるのです。ですが私たちは、その3人の天使が見えてはいても、なかなかそのメッセージを受け取ろうとはしないのです。

 私たちは、一人一人違うという「別業」を持って生まれてきました。「別業」は「宿業」とも申します。真宗では、あまりこういう解釈はいたしませんが、私は、「宿業」というのは「宿題になっている仕事」のことだと思います。どういう仕事かと申しますと、他の誰かが「世界の真実」「一如」に気付き、「生命の意味」を回復する「ご縁」になるということです。

 私たちが、同じ時代に生まれきたのは、そして一人一人違って生まれてきたのは、競争するためではなく、互いに「一如」に気付く「ご縁」になるためなのです。さきほどの3人の天使のように、病人は病人であることによって、また老人は老人であることによって、他の誰かが気付いていく「ご縁」になる。私たちが一人一人違うのは、そのためです。そのことに気付いたとき、「別業」は「宿業」となるのです。

 私は私を生きるしかない。ですが、私が私を生きる、私が私になることが、そのまま、人が「一如」に気付く「ご縁」になるということです。私は私を生きればよい、私は私を死ねばよい。それが、他の人々が「一如」に気付く「ご縁」になるということ、「宿業」を生きるということです。私たちは、そのために生まれてきたのです。

 もうじき、4月8日の「花祭り」に日がやってまいります。「花祭り」はお釈迦さまのお誕生をお祝いする行事です。伝説によりますと、お釈迦さまは、お生まれになるとすぐ七歩あゆまれて、「天上天下唯我独尊」と唱えられたと言われております。

 この物語は、決して奇跡を伝えようとしたものではありません。そうではなくて、私たちに、私たちの本当の姿を伝えようとした物語なのです。「天上天下唯我独尊」の、「尊」という字は、「無条件で大切だ」という意味でして、いわば、絶対的な「とうとさ」を表わす言葉なのです。

 「とうとい」と読む漢字は他にもあります。たとえば「貴」という字です。こちらの方は、「貝」という字が入っていることも分かりますように、もともとは金銭的に高いという意味でして、いわば相対的な「値打」が高いことを表わしています。

 娑婆の催眠術にかかっている私たちは、この相対的な「値打」を求めて競っておりますが、「天上天下唯我独尊」の「尊」の方は、誰かと比べて「とうとい」という意味ではない。そうではなくて、この世界に生命を受けて今あること、そのことの「とうとさ」への気付きを述べたのが、この「天上天下唯我独尊」なのです。

 この「私」が、「私」として今ここにある。まさにそのことが、なにものにも代えがたい大切なことだというのです。「私」は「あなた」と比べて尊いのではないのです。他の誰と比べることもなく、無条件で尊いのです。「私」が無条件で尊いからこそ、他の誰もが同じように、無条件で尊いのです。

 「天上天下唯我独尊」というのは、生命の尊さは相対的なものではなく、絶対的なものだという気付きなのですね。この「天上天下唯我独尊」に気付かれたのがお釈迦さまで、気付いていないのが私たちです。そのことに気付いていないからこそ、「競争」や「いじめ」の問題が起こっているのです。

 「忙しい、忙しい」と言っている私たちの心は「病んでいる」のです。ですが、私たちはみな、自分の心が病んでいるとは思っていません。病んでいると思っていないのですから、当然、心を癒そうなどと思うはずがありません。心の病を癒すということが難しい本当の理由は、ここにあるのです。

 自分の心が病んでいると気付いたときには、もう病が抜けかかっていると言ってよいかと思います。それはちょうどですね、眠っていて、夢を見ていると気付いたときには、もう夢から醒めかかっているようなものです。

 ですが、ことはそれほど簡単ではない。たしかに、眠っていて、夢を見ていると気付いたときには、もう夢から醒めかかっている。では、そのまま夢から完全に醒めてしまうかというと、そうでもない。いつのまにかまた、ウトウトと夢に中に戻ってしまっている。皆さんも、ご経験がおありだと思います。

 仏教の教えに触れ、お念仏に出会って、夢を見ている自分に気付いた。ですが、「ああ、夢を見ているのだ」と思ったのは一瞬のことで、わずかに寝返りを打っただけ。寝返りを打ったことで気分がよくなったこともあってか、いつのまにかまた、夢のなかに戻っていた。誰かのことではありません。私自身のことなのです。

 夢から醒めよう、醒めようと思っているのも、また夢です。夢から醒められると思っているのも、また夢かもしれません。ですが、これが夢であろうとなかろうと、何も心配しなくてよいというのが、お念仏の教えなのです。そして、その教えを信じるところから生まれてくるのが、静かな心なのです。

 本日お話し申し上げたかったことは、これだけです。

 ときどき思うのですが、私はちょうど、縁側で昼寝をむさぼっている猫のようなものです。一日中夢を見ながらウトウトとしている。そして、ときどき頭をあげて、明るい世界の方に目をやったかと思うと、またすぐに夢に落ちていく。

 こうやって皆様の前でお話しさせていただいておりますのも、そんな猫が夢と夢の間でかいま見た、夢ともうつつとも判然としがたいような話でございますが、どうぞまた、お運びいただきまして、お付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。

 次回は、9月23日の「永代経法要」でございます。どうぞまた、お参りくださいませ。お待ち申し上げております。本日は、長い時間お付き合いいただきまして、有難うございました。



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