釋昇空法話集・第70話

合掌して生きる

自分にいうて聞かす

(2018年9月23日 永代経法話)
 ようこそのお参りでございます。ようやく秋の気配が漂うようになってまいりましたが、今年の夏は異常に暑かったですね。

 新聞によりますと、京都は、観測史上2番目に暑い夏だったそうですが、「暑い暑い」と言っているうちにも、非常に強い颱風が次々にやってきて大変でした。そのうえ、北海道では震度7の烈しい地震まで起きました。

 犠牲になられた多くの方々も、大切な人を亡くされた方々も、まことに、お気の毒なことでございました。ご心痛、お察し申し上げます。

 こんな大きな災害や事件が起こるたびに、あらためて思うことですが、私たちは、「何が起こるか分からない世界で、いつ終わるか分からないいのちを生きている」のです。分かっていることは、「たとえいくつまで生きても、いずれは死ぬ」ということだけです。

 考えれば、怖ろしいことですが、普段、私たちは、そんなことは忘れて生きていますでしょう。死ぬことなんか忘れて、いつまでも生きているかのように生きている。本当は、そのことの方が、問題ではないでしょうか。いかがですか。

 生きることだけでなく、死ぬことも込みで、「人生そのもの」を問題とする心を、宗教心と言います。宗教心は、人間にだけある心です。

 私たちは、そう若くはないのです。このあたりで真剣に死を見据えて、死ぬこと込みで、生きることを考えるときではないでしょうか。

 で、今回は、仏法の指し示す方向を見つめながら、改めて、私たちの生きる道を考えてみたいと思います。話の題は、「合掌して生きる」です。どうぞ、しばらくの間、お付き合いください。

 さて、町を歩いていて思うのですが、老人が増えましたね。年々「平均寿命」が延びたこともあって、およそ4人に1人が65歳以上、5人に1人が70歳以上の高齢者だそうです。

 それに、昔と比べると、年の割に元気な人が多いですね。お元気な方は、なかなか、年を取ったという実感がなくて、死を身近に感じることもないのかもしれませんがね、やっぱり、年を取ると変わりますよ。

 病気になったら分かります。ちょっと具合いが悪いとね、「たいそうな病気でないかしら、これで死ぬのではないかしら」と、不安になりませんか。若いときには思わなかったことですよ。

 先日の「敬老の日」のテレビを見ても、思うのですがね。今は、いつまでも若くて、元気で、生き生きとしていることが、いいことのように考えられていますけれど、いつまでも若いというのは、不自然ではないですか。

     花は美しく咲いても 自慢しない
     いつまでも 咲いていたい と欲ばらない

 これは、石上智康(いわがみ・ちこう)先生の言葉ですが、咲いた花は、いずれは散るのです。「諸行無常(しょぎょうむじょう)」という永遠の流れのなかで、花は、咲いて、散るのです。それが、いのちの「あるがまま」です。私たちも、そうですよ。

 「死ぬ話なんか縁起が悪い」と嫌がられること多いのですが、死ぬことを考えなかったら死なない、というわけではありません。「誕生日の数だけ、命日は準備されている」(三浦しをん)のですよ。生と死はセットなのです。

 ちなみに、現代の人は、命日は忘れても、誕生日はまめに祝うようですが、いかがですか。親の命日は忘れていても、孫の誕生日は覚えている、なんて話もありますが、命日は、大事ですよ。それはね、私たちが、限りあるいのちを生きていることを、思い出させてくれるからです。

 昔は、人生の峠を越えたら、いかに死に支度をするかが問題でした。そろそろお迎えが来るころだからといって、死後を考えたものでした。

 『徒然草』(第四段)に、こんな言葉があります。「後の世の事、心に忘れず、仏の道にうとからぬ。心にくし」(来世のことを心にかけて、仏の道に不案内でないのは、奥ゆかしい)。

 「死後のことを思って、仏の教えに親しむところに、いのちの奥行きが生まれる」ということです。今の人に「後世を思う」ということはありますかね。

 今の人には、人生の峠を越えたら、なだらかな老いの坂がダラダラと続いているだけ。その先には、何も無い。となると、死ぬことなんか怖ろしくて考えられない。

 残るは、死に背を向けて、いかに楽しい老後を過ごすか、ということだけになる。しかし、それでは、死への不安を、ごまかしているだけだと思うのですが、いかがでしょうか。

 「楽しい老後」といいますと、以前、『やすらぎの郷』というドラマをDVDで見ました。テレビの全盛期を支えた人たちだけが無償で入れる夢のような老人ホーム「やすらぎの郷」を舞台にして、往年のスターや功労者たちの「老い」をテーマにしたドラマでした。ご覧になったかもしれませんね。

 倉本聰の脚本で、出演者が、石坂浩二、浅丘ルリ子、有馬稲子、加賀まりこ、五月みどり、名高達男、野際陽子、藤竜也、風吹ジュン、ミッキー・カーチス、八千草薫、山本圭などの名優ぞろいです。(私たちが若かったときに、若かった人たちです。懐かしいでしょう。)

 私は面白かったのですが、昨年テレビで放送されたときには、見た人の評価が、星五つと星一つに、くっきり分かれたそうで、その点でも、興味深いドラマでした。

 で、いろんな人に聞いてみたのですが、高齢者に、「あれは見ない、あれはダメだ」という人が、結構おられました。理由を聞きますと、「身につまされて、救いがないから」という応えが多かった。

 なるほどなあ、と思いました。「救い」というのは微妙な言葉ですが、たしかに、このドラマは、ユーモラスに描かれてはいますが、老後の生活の心配はなくとも、さまざまな人間苦からのがれることはできないという話です。

 老いていく寂しさ、病むことの苦しみ、死んでいくことへの不安。それに様々な人間関係の問題。仏教で言う「四苦八苦」に代表される人間苦からは、どこにいても逃れられません。

 どんなに恵まれた環境にあっても、人はみな、過去をひきずり、死への恐怖をいだきながら、死んで逝く。そういう話に、「救いがない」と思われたのなら、それはその通りだと思います。

 しかし、「救い」というのは、つまりは、死を超えて行く道というのは、宗教的な世界にしかないのです。私たち現代人は、科学を信じ、宗教的なものをどんどん切り捨ててきましたが、自分の死をも、しっかりと受け止められる世界、本当の「やすらぎの郷」は、その、私たちが切り捨ててきたもののなかにあるのです。

 科学の進歩は、私たちのいのちを伸ばしてくれましたが、生きる「長さ」だけが問題だというのなら、他の動物と変わりません。

 人が、他の動物と違うのは、生きる「深さ」なのです。いのちを深く生きること。それが「人として生きる」ということです。その「いのちの深さ」を教えてくれているのが、仏法なのですよ。

 「死ぬからこそ、本当に生きる道を聞く」。金子大栄先生の言葉です。いのちの深みへと誘(いざな)う言葉です。そちらの方向に、話を続けてまいります。

 さて、「いのちの深み」を目指すと申しましたが、「深く生きる」というのは、どう生きることなのか。皆さんは、どう思われますか。これまでの人生を振り返って、どうでしょうか。

 私たちは、今まで、どっちを向いて生きてきたのか。世間のことや他人のことばかり気にしながら、いわば水平方向に、生きてきたのではありませんか。損だとか得だとか、上だとか下だとか、善だとか悪だとかいってね。

 「深く生きる」というのは、そうではなくて、そんな自分自身を深く知ることなのです。水平方向でなく、垂直方向に、つまりは、自分の内側に、目を向けることです。

 仏法を聞く、聞法するというのは、その自分自身を聞くことです。聞法すれば、何が分かるのか。それはです、自分が誤っていたということが分かるのです。中川春岳師の、こんな詩があります。

      宗教心は
      教えを聞いてはじめて
      わが胸にひらく
      その時
      自分の求めてきたものが
      全て誤りであったと知らされる
      救いだ これが

 生きることだけでなく、死ぬことも込みで、「人生そのもの」を問題とする心を、宗教心と言います。「宗教心は、教えを聞いてはじめて、わが胸に開く」のです。教えを聞いてはじめて、死ぬことをも込みで、生きられる道が開かれてくる。宗教心は、人間にだけある心です。

 その宗教心が、わが胸に開いたとき、「自分の求めてきたものが、全て誤りであったと知らされる」。これまでに何度も聞法してこられた方は、「うん、そうそう」と頷かれたかもしれませんが、これは難しいですね。

 では、ちょっと、お考えになってみてください。これまでの人生は、いかがでしたか。仕事で、家庭で、一所懸命に生きてきた。いろんな問題にであって、苦労してきたのではないですか。では、その苦労とは何だったのか。「自分の都合」が通らないから、悩み苦しんだのではないですか。

 職場でも、家庭のなかでも、そうですよ。誰かと、うまくいかないというのもね、それはたいてい、その人に、「自分の都合」が通らないからではないですか。おそらく相手もそう思っているはずですがね。あんまり具体的なことを言うと角が立つから言いません。ご自分のご経験のことを、お考えになってみてくださいね。

 私たちが、悩んだり苦しんだりするのは、ほとんど「自分の都合」が通らないからです。病気になって苦しむというのも、病気が、自分にとっての様々な不都合を生み出すからですね。身体が苦しいというだけでなく、仕事ができないとか、お金がかかるとかね。

 年を取っていくというのも、そうですが、自分にとって一番不都合なことは、「死ぬ」ということではないですか。「死」に直面したら、「自分の都合」など、何の力にもなりません。それで、「自分の都合」を羅針盤にして生きてきた私たちは、途方にくれるのです。

 この世は生存競争だ、人生はサバイバルだ、と懸命に生きてきたけれど、生存競争であれサバイバルであれ、結局は死の断崖に向かって走っていただけだったとしたら、なんとむなしいことではないですか。仏教は、そのことに気づけと言っているのです。

 といっても、一所懸命に生きることが間違いだと言っているわけではありません。そうではなくて、「一所懸命」というのは、一つの所に命を懸けるという意味なのです。聞法すると、その命を懸けている所が、問われてくる。どこに命を懸けているのか、ということです。

   私たちはたいてい、「自分の都合」という、自分中心的な思いに命を懸けているでしょう。人生は自分の努力次第なのだと思っている。いかがですか。

 問題は、私たちは、「自分の都合」を人生の羅針盤にして生きていながら、その「自分の都合」こそが、あらゆる悩みや苦しみの原因だということに気づいていないことなのです。

 仏教は、まずはそのことに気づけといっているのです。教えを聞いた「その時、自分の求めてきたものが、全て誤りであったと知らされる」というのは、このことです。

 この、あらゆる悩みや苦しみの原因になっている、「自分の都合」という思いを、仏教では「煩悩」と言います。

 煩悩というのは、いつもお話いたしますように、「他の誰よりも我が身がかわいい」という、自分中心的なこころの働きのことですね。この煩悩こそが、私たちの悩みや苦しみの原因なのです。

 「煩悩」は、私たちのこころの中で燃えている欲望の炎です。仏教は、本来、この「内なる炎」を消し去って、楽になろうという教えです。その煩悩の炎が消えた、安らかな境地を、「涅槃(ねはん)」といいます。つまりは、「涅槃」への道を説いているのが、仏教なのです。

 ところが、「浄土の教え」は、そうではないのです。『正信偈』に、「不断煩悩得涅槃(ふだん・ぼんのう・とく・ねはん:煩悩を断たずに涅槃を得る)」とありますね。煩悩の身のままで、涅槃に到る道がある。楽になる道がある。そのことを説いてくださっているのが、「浄土の教え」です。

 では、煩悩を無くさずに、どうすれば楽になれるのか。それはです、自分が煩悩に支配されていることに本当に気づけばよいというのです。自分の煩悩が見えるようになるということです。それは一体どういうことなのか。

 さて、ここからお話することは、いわば「理屈」です。この教えのまことは、聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、お一人お一人に、確かめられていくことなのです。煩悩が見え始めたら、人生の味わいが変わりますよ。

 「いずれは死なねばならないいのちだけれど、生まれてきてよかった」と言える自分に、出遭いたいとは思いませんか。そんな自分に出遇える「いのちの深み」へと誘(いざな)ってくれるのが、聞法とお念仏の生活です。

 いつもお話することですが、私たちは、いのちの奥底では、みんな、つながっていて「ひとつ」なのです。私たちは、大きなひとつの「いのち」を生きているのです。

 その大きな「いのち」を、私たちは「阿弥陀仏(アミダブツ)」と呼んでいます。「阿弥陀(アミダ)」というのは「永遠のいのち」という意味です。そして、その阿弥陀仏の世界が、「浄土」です。

 浄土は、「あなた」と「私」が分かれる以前の世界、煩悩の無い「本来のいのち」の世界です。阿弥陀仏は、その本来のいのちの世界、浄土に向かって歩め、「いのちの故郷」に帰れと、常に呼びかけておられる。それが阿弥陀仏の本願〔願い〕です。その阿弥陀仏の本願を説いているのが、「浄土の教え」です。

 お仏壇に、「南無阿弥陀仏」という御名号が掛かっていますでしょう。そこにはすでに、お浄土からの阿弥陀仏の呼び声が、届いているのですよ。

 御名号の「ナムアミダブツ」は、阿弥陀仏の永遠のいのちの「鼓動」です。その宇宙に響き渡る、永遠のいのちの「鼓動」に共鳴して、「ナムアミダブツ」と称えるところに、お浄土への道は開かれてくる。

 念仏詩人の榎本栄一さんに、こんな詩があります。「念仏申しもうし」という詩です。

   念仏申しもうし

     照らされて
     自分の煩悩がみえはじめたら
     すこし浄土へ
     近づいている証拠です
                      (榎本栄一)

 「念仏もうす」とは、「ナムアミダブツ」と称えること。「ナムアミダブツ」は、浄土へと帰る道です。

 浄土に向かって、歩み始めたとき、初めて、自分の煩悩が見え始めます。聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、少しずつ、煩悩から離れたところに立たせてもらうようになるからです。そのとき、ようやく自分の煩悩が見えるようになるのです。

 ですが、煩悩が見えても、煩悩は無くなりませんね。親鸞聖人も、「私たち凡夫の心には、苦しみの根源である煩悩が満ちている。その煩悩は、常に動き続け、死ぬまで無くならない」(『一念多念証文』取意)とおっしゃっています。

 それなら、そんな自分の煩悩が見えることに、どんな意味があるのか。それはです、いつもお話することですが、たとえば、煩悩まみれの「私」が、この「黒マル」で、煩悩まみれの世間がこの「黒い紙」だとしますとね、「黒い紙」の上にあると「黒マル」は見えませんね。

 そこで、この「白い紙」を、煩悩の無い清らかな世界、浄土だとしますとね、この「黒マル」は、白い紙の上においたときに、はじめて、黒いことが分かります。

 つまりは、「黒い」ことが分かったときには、とりもなおさず、白い紙の上にあることが分かったということ。煩悩まみれの「私」が見えたときには、仏の手のひらの上にいる自分が見えたということでもありますね。

 自分自身への気づきが深まっていくと、ついには、仏の手のひらの上にいることに気づく。煩悩の身のままで、仏に包み込まれていることに気づくのですね。「煩悩即菩提(ぼんのう・そく・ ぼだい)」です。

 これが、私たちの「いのちの真実」です。仏教は、この「いのちの真実」に気づいて、こころ安らかに生きよと教えているのですが、それには、なによりも、自分のなかにうごめいている煩悩に気づくことが大事なのです。

 煩悩が見えたら、その先に「いのちの真実」が見えてくる。年をとることも、病気になることも、死んで逝くことも、なにもかもが「仏の手のひらの上」でのことだった。その人生の真実に気付かせてもらうこと、それが、「浄土の教え」の「救い」です。

 親鸞聖人は、こうおっしゃっています。「心(しん)を弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶつじ)に樹(た)て、情(じょう)を難思(なんし)の法海に流す」(『浄土文類聚鈔』)と。

 「煩悩で揺れ動く心を、仏様の本願の大地(浄土)に立たせてもらっていると、私の分別知から生まれる愚痴な思いが、阿弥陀様の、全てを受け容れてくださる無分別智の大きな海のなかに流れ込んで、とけていく」という意味です。

 このお言葉のすぐ前には、「慶ばしきかな」(うれしいなあ)と記されています。

 「何が起こるか分からない世界で、いつ終わるか分からないいのちを生きている」。そんな私たちが、本当に安らかなこころで生きていくには、この、「何が起こってもよい、いつ終わっても大丈夫」というところに立たせてもらう以外に、ないのではないでしょうか。

 さて、また理屈っぽい話になってしまいまして、退屈なさったかもしれません。で、最後に、「自分は、どうなのか」という話を、すこしだけさせて頂いて、「まとめ」に代えたいと思います。

 仏法というのは、お釈迦様のお悟りに始まって、長い長い間に蓄積された、人類の智慧の結晶なのです。聞法するというのは、その人類の智慧の結晶に触れることなのです。

 仏法にご縁があって、「お念仏の教え」にご縁があって、ほんとうによかったと、感謝しております。

 ときどき、「お念仏を称えていたら、何かいいことがありますか」と聞かれることがありますが、お念仏を称えていても、何もいいことはありません。

 ですが、お念仏を称えていると、「何かいいことはないか」と、ウロウロしている自分の姿が見えてくる。そうすると、自分が探していた「いいこと」というのは、「どうでもいいこと」だったと思えてきて、楽になりました。仏法にご縁を頂いたおかげだと思っています。

 昔は、こころが揺れ動いて、眠れない夜もありましたが、いつのころからか、ふと気づいたら、お念仏を称えているようになりました。

 しかし、それで問題は無くなったのか、と言えば、そうではありません。何か事あるごとに、やっぱり、こころは揺れ動くのです。

 ですが、そのたびに、自分の煩悩がチラチラ見えて、ナムアミダブツを思います。揺れ動くこころに、帰って往くところがある。それが、私には、救いです。

 甲斐和利子さんの歌に、こんなのがあります。「ともしびを 高くかかげて わがまへを 行く人のあり さ夜なかの道」。

 ふらふらしながらも、お念仏の道を歩んでこれたのは、「いのちの深み」に触れた人たちの、浄土への道しるべのような言葉に出遇えたお陰だと思います。

 これまで法話の中でも、たくさんの言葉をご紹介してきましたが、そういう言葉に出遇うたびに、こころが震えました。「さ夜なかの道」で、この道を歩いた人がいる、と知った感動です。荒野で、人の歩いた跡に出遇ったような感動です。

 この道なんだ。この道でいいのだという感動です。ことばの力に出遇うということでしょうか。ナムアミダブツに出遇うというのも、これと同じことかもしれません。

 たとえば、藤原正遠先生の、「あや雲の ながるる如く わがいのち 永遠(とわ)のいのちの 中をながるる」という歌もそうでした。「そうなんだ、これが〈いのち〉なんだ」と、感動しました。

 私は、「永遠のいのち」の中での「限りあるいのち」なのです。私が生まれても死んでも、宇宙(阿弥陀)から、何かが減るわけでも、増えるわけでもないのです。私たちは、「永遠のいのち」の、ひとつのあらわれなのです。

 いのちのことは、いのちにおまかせするしかない。「生きるものは生かしめ給う 死ぬるものは死なしめ給う われに手のなし 南無阿弥陀仏」。これも藤原正遠先生の詩です。

 「娑婆のこっちゃ どうなるいね お念仏申さんかいね」。これは、亀山純円師の言葉です。この言葉からは、不思議な元気をもらいました。こころの闇が深くて、胸ふたぐときは、この言葉を思います。

 「いのちの深み」に触れた人の言葉に「法」を聞く。「いのちの真実」を聞く。「いのちの真実」を聞かせてもらうと、生きる力が湧いてきます。

 今は、年のせいか、親鸞聖人の晩年にお話になった「自然法爾」の教えや、念仏詩人・榎本栄一さんの晩年の詩に惹かれます。たとえば、この詩です。

    日々礼拝 … 自分にいうて聞かす

      むずかしく考えなくてよい
      ともかく
      日に日に寄せ返る
      大波小波を
      しずかに拝めるようになれば
                      (榎本栄一)

 私は、まだ、これほど枯れてはおりませんが、自分に言うて聞かしています。「何が起こっても、合掌して生きていこう」と。それが今の自分の立っているところでしょうか。

 さて、そろそろ店じまいです。

 京都はお寺の多いところですが、ここは、近くに大徳寺さんがあることもあって、托鉢修行の若い雲水さんたちに、時々出遇います。このあいだも、法務の途中、そこの商店街の交差点を渡ったところで、数人の雲水さんと、ばったり出遇いました。

 皆さん、網代笠(あじろがさ)を取って、いっせいに90度のお辞儀をしてくださいました。私はバイクに乗ってヘルメットをかぶっておりましたので、そのまま軽くお辞儀をしただけでしたがね。いつものことですが、しばらく、この「禅問答」の余韻を味わっておりました。

 雲水さんたちは、私に頭を下げられたのではなくて、私の着けている「法衣」(ころも)に敬意を示されたのです。法衣に敬意を示すことで、私に「挨拶(あいさつ)」なさった。

 「挨拶」というのは、もともと禅宗の言葉でしてね、言葉や身振りで、「お前、どこまで分かっているんだ」と、相手の悟りの程度を試すことをいうのです。

 朝から一本打ち込まれたわけですが、思えば、ありがたいことです。「それでいいのか? 大丈夫か?」と、「法衣」(ころも)を着けている者の自覚を問うてくださった。これは、「法衣」(ころも)の功徳です。

 禅宗の人は、坐禅のなかで真実に触れる。私たちは、お念仏のなかで真実に触れる。「いやいや、坐禅をしているときだけでなく、行住坐臥の全てが禅だ」とおっしゃるなら、私たちも、お念仏を称えているときだけでなく、行住坐臥の全てがお念仏です。

 「その思いを忘れるな」と、忘れそうになるころに、雲水さんたちは、「挨拶」してくださっているように思いました。

 では、次回は、11月11日の報恩講でございます。どうぞ、また、お参りください。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…



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