お忙しいところ、ようこそのお参りでございます。寒くなってまいりましたね。秋の深まりを感じます。お陰さまで、今年も報恩講を迎えることができました。 報恩講というのは、ご承知のように、御開山、親鸞聖人の祥月命日の法要でして、私たち真宗門徒にとりましては、一年のうちで最も大切な仏事です。 実際、かつては、「一年は、報恩講に始まり、報恩講に終わる」と言ったくらい、大切な仏事でした。私が子どものころは、報恩講には、御本山の前に屋台や出店がずらっと並びまして、賑やかなことでしたが、今はね、変わりましたね。 今年の1月25日でしたか、真宗十派から成ります真宗教団連合が、あるアンケート調査の結果を発表しました。真宗十派の本山がある、京都、滋賀、三重、福井の四府県で、インターネットで、アンケート調査をしたところ、約4000人から回答があったそうです。 それによりますと、私たち真宗門徒にとって最も大切な法要であります「報恩講」について、よく知っているという人は、わずか20パーセント程度。さらに、真宗の重要な教えであります「悪人正機」について、よく知っているという人は、10パーセントもなかった。 そこでですね、「皆さんは、宗教について一体何を求めておられるのですか」と問うてみたら、その回答のトップは、「先祖の供養」だった。 「報恩講って、聞いたことあるなあ。悪人正機って、何やったっけ。そんなことより、大事なんは、ご先祖様の供養やん」。と、まあ、そういう結果に、真宗教団連合の事務総局は、頭を抱えてしまったそうですが、皆さんは、いかがですか。 「ご先祖様を供養してくださるのなら、別に何宗でもかまいません、仏教ならみんな同じでしょう」というような声も、ときどき聞きます。つまりは、御本尊より、その前にある位牌の方が大事だということですが、それは果たして仏教なのでしょうかね。 まあ、真宗では位牌を用いませんが、それはともかく、本来、仏教徒というのは、御先祖様でなく、仏様を拝む人のことなのです。手を合わせる方向が違うと、大事なことが伝わってこない。 そこで今回は、位牌よりちょっと上に目を向けて、仏教徒の原点に立ち帰る。そういう話をさせて頂こうと思います。話の題は、「月を仰ぎ、月を映す」です。どうぞしばらくのあいだ、お付き合いください。 さて、まずは、先祖供養の話から始めます。『歎異抄』(第五章)に、親鸞聖人の、こんなお言葉が伝わっています。 「親鸞は、父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一辺にても念仏まふしたること、いまださふらはず」。 「私、親鸞は、父や母の追善供養のためにと、念仏申したことは、一度もありません」という意味ですね。つまりは、「先祖供養はしていない」ということですが、それに続けて、その理由が述べられています。 「そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々(せせ・しょうじょう)の父母(ぶも)兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生(じゅんじしょう)に、仏に成りて、助けさふらふべきなり」と。 「というのは、生きとし生けるものは、みんな、生まれ変わり死に変わりして、たがいに親となり子となり、兄弟・姉妹であったわけですから、私の父母に限ることではなくて、みんな、私が次の世に仏となったら、等しく救うべき人ばかりだからです」という意味です。 仏教は、一切衆生を救う教えです。親鸞聖人のお父さんは日野有範という人でしたが、お父さんが大事、日野家が大切というのではないのですね。「身内だけが大事」というところからは、一切衆生を救うという世界への道は開かれてきません。 奈良の唐招提寺に、鎌倉時代に造立された「釈迦如来立像」が伝わっています。この仏像の内には135通もの文書が納められていました。その文書から、この像は、正嘉2年(1258年)に、およそ一万人の人々がかかわって造立されたものと分かりました。 その文書のなかに、一切衆生の成仏を願って、多くの結縁者の名前が列挙されているなかに、人の名前に交じって、様々な生き物の名前が書かれているものがあるのです。 「クモ・ノミ・シラミ・ムカデ・ミミズ・カエル・トンボ・カ・アリ・魚(いほ)・獣(しし)・貝(つひ)・カニ・カイコ……」。自分たちと同じく、ノミやシラミまでも成仏できるよう願った人たちが、かつて日本にいたのです。感動しますね。 で、私たちは、どうでしょうか。お墓には、よく、何々家の墓とありますが、あれは明治以降のはやりでして、本来は、門徒のお墓には、「南無阿弥陀仏」か「倶会一処」(くえいっしょ)と彫りました。ご存じでしたか。 「南無阿弥陀仏」は、仏様からの呼び声です。「倶会一処」は、「また浄土で会おう」という、亡き人々の呼びかけです。亡き人々をご縁に、仏様と向き合い、浄土を思う。そんな場所が、お墓なのです。 お墓に関しては、ときどき、こんな話も聞きます。「お墓参りのときには、向こう三軒両隣にお花をお分けして、よろしくお願いしますと言うものや」という人と、「いやいや、よその墓をかまうな、霊がなついて付いてくるぞ」という人がいるが、どちらが正しいのか、と。どうしたものでしょうかね。 「正しい先祖供養の仕方」というような本まで出ていますが、もともと先祖供養を大切にするのは、仏教ではなくて、儒教です。儒教では、先祖を大事にしたら、先祖からも大事にされると考えます。それで、先祖供養を大切にするわけです。 私たちの先祖供養の「こころ」は、どうですか。やっぱり、先祖を大事にすれば、良いことがある。先祖を粗末にすると、バチが当たる、というのではないですか。 病気になったり、何か都合の悪い事が起こったりして、見てもらったら、「三代前のご先祖様の供養をしていないからだ」とか、「お墓が傾いているからだ」とか言われた。よく聞く話ですが、迷っているのは、どちらでしょうね。ご先祖様か、私たちか。 お墓がすがすがしく整っているのは、結構なことですが、そうでなくても、ご先祖様が祟ったりしませんよ。先祖の願いは、子孫の幸せでしょう。そう思われませんか。 「亡き人に 迷うなと 拝まれている この私」という法語があります。亡き人の願いは、残されたものが、迷いから目覚めて、ほんとうの幸せを知ることですよ。 仏教詩人〈相田みつを〉さんの詩に、こんなのがあります。
そんかとくか 私たち人間は、「そんかとくか」のモノサシを握りしめて、いわば「うそ」の闇のなかで迷っているのです。そんな「うそ」の闇を、「まこと」の光で照らすのが、仏法なのです。 ここにも「常照我(じょうしょうが)」という扁額が上がっていますが、仏は常に私たちを照らしてくださっているのです。ですが、私たちは、その光と出遇っているでしょうか。 「月影の 至らぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞ住む」。法然上人の歌です。「月の光は、あらゆる場所を平等に照らしているけれど、その月を仰ぎ見る人のこころにしか、光はとどかない」という意味です。 私たちが、その光と出遇っていないとすれば、それは、顔を向けている方向がちがうからでしょう。 仏の光には、どこで出遭うのか。光に出遭うのは闇の中でです。こころの中の闇の中で、仏の光と出遇うのです。このことが、「悪人正機(あくにん・しょうき)」という教えに繋がってまいります。で、そちらの方向に、話を続けてまいります。 さて、その「悪人正機」ですが、「悪人正機」というのは、「悪人こそ救われる」という教えです。『歎異抄』(第3章)に、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とありますね。 高校の教科書にも載っている、有名な言葉ですから、おそらくご存じだと思いますが、私たちは、善とか悪とかいうと、倫理や道徳や法律のことを思いますから、この教えは誤解されやすいのです。 たとえば、「悪人こそ救われる」と聞くと、「悪いことをしたら救われる」とか、「悪いことをしても問題ない」とか、思う人も出てくるわけですね。 ですが、仏教でいう「善悪」は、そういう倫理的な善悪ではありません。仏教でいう「善」とは、煩悩の支配から自由になること。そして、仏教でいう「悪」とは、煩悩の支配から自由になれないことをいうのです。 ですから、「悪人正機」でいう「悪人」とは、「自分は、何としても、煩悩の支配から自由になれない」と自覚した人のことなのです。つまりは、罪悪深重・煩悩熾盛(ざいあくじんじゅう・ぼんのうしじょう)の凡夫、と自覚した人です。 この「悪人の自覚」がポイントです。「煩悩の支配から自由になれない」と自覚するということは、とりもなおさず、「煩悩に支配されている自分」が見えているということですね。 そういう「煩悩に支配されている自分が見えている人(悪人)こそが救われていく」というのが、「悪人正機」の教えなのです。 「煩悩が見えている人こそ、救われる」。仏教が問題にしているのは、常に「煩悩」なのです。 「煩悩」というのは、「他の誰よりも我が身がかわいい」という、こころの働きのことですね。仏教が、「煩悩、煩悩」と言うのは、私たちの悩みや苦しみは、みんなその「煩悩」から生まれてくるからです。 煩悩というのは、自分中心的なこころのこと、「エゴ」のことです。そんなエゴに支配されて、人は、ときに、嘘をつき、物を盗り、人を殺すのです。 ちなみに、ある統計によりますと、世界中で年間、約48万人が、人によって殺されているといいます。これには戦争で死ぬ人の数は含まれていませんから、それをも含めると、膨大な数になるでしょう。 煩悩の闇が、人のこころを覆い、社会を覆っている。貧困や飢餓の問題も、そうです。分け合ったら余るほどあるものを、奪い合うから足りなくなるのですよ。 「科学が進歩したら、もっと豊かに、もっと幸せになれる」と言う人もいます。ですが、もし、そうなら、100年先、1000年先の人は、今の人より、うんと幸せで、800年前の親鸞聖人や、2500年前のお釈迦様は、うんと不幸だったということになりませんかね。 科学も大切ですが、エゴの手にある限り、闇を深める道具ですよ。たとえばです、「死にたくない」というのは、誰もが思うことですが、ロシアやアメリカでは、遺体を冷凍保存して、いずれ科学技術の進歩が、死から蘇らせてくれる日を待とうという人たちがいます。思わず、溜息がでる話です。 また、臓器移植に関しても、来年、あるイタリアの医師が、中国で、頭部の移植手術をする計画があると聞きました。首の移植というのは、首側から言えば、胴体の移植ということですが、いずれにしても、とうてい正気とは思えません。フランケンシュタインの話を思い出します。 歴史の本を読んでいても思うのですが、人間の歴史は、煩悩の歴史ですね。戦争や処刑や拷問の歴史を読むと、人間が、いかに残虐なことをしてきたかに、怖気をふるいます。 源信僧都の『往生要集』に出てくる様々な地獄は、全てこの世にあるのです。地獄の絵は、全て、人間が実際に経験してきたことだから、あれほどリアルに描けるのでしょうね。「地獄」というのは、人の心の闇の深さを教えてくれる言葉ですよ。 豊かで平和な時代に生きている私たちには、そんな自分のこころの闇を見るということは、なかなかできません。ですから、たいていの人は、「自分は、善人とまでは言えないにしても、けっして悪人ではない」と思っている。いかがですか。 たしかに、私たちは、たいてい、とりたてて悪いことをしているわけではありません。ですが、それは、私たちのこころが浄いからではなくて、たまたま、悪いことをしなくてもよい情況にあるからです。本当は、情況が変わったら、何をしでかすか分からないのが、私たちなのですよ。 親鸞聖人は、そんなご自分のこころの中の闇を、じっと見つめられた。そして、比叡山での長い修行の末に、法然上人に出遇われて、ついに、「自分は、何としても、煩悩の支配から自由になれない」との自覚を得られた。「悪人の自覚」を得られたのです。 『歎異抄』(第2章)に、「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」とあります。「どんな修行でも悟れない自分だから、どうしたところで地獄に行くに決まっている」という意味です。 「悪人の自覚」を得られたとき、親鸞聖人は、こころの闇の中で、煩悩を照らし出している「光」に気づかれた。阿弥陀如来の智慧の光です。つまりは、「悪人の自覚」を得るということは、とりもなおさず、こころの奥底の闇の中で、阿弥陀如来の智慧の光に出遭うことなのです。 誰のこころにも闇があります。全ての人に、仏の光に出遇える場所があるということです。あるいは、それが、「一切衆生、悉有仏性」という言葉の意味なのかもしれませんね。 さて、私たちは、その親鸞聖人の教えを頂く、真宗門徒です。親鸞聖人が、こころの闇のなかで出遇われた、阿弥陀仏の智慧の光に、自分も出遭いたいと願っているのが、私たちです。 親鸞聖人は、「私たちは、現に、仏の光のなかで生きているだから、その仏の光に気づいて、心安らかに生きなさい」と、お説きになりました。 『正信偈』に、「煩悩障眼雖不見、大悲無倦常照我」(ぼんのうしょうげんすいふけん、だいひむけんじょうしょうが)とありますね。 「煩悩にさまたげられて見ることができないけれど、阿弥陀仏の大悲の光は、倦むことなく、常に、私を照らしてくださっている」という意味です。 私たちは、あらゆる衆生を救い取って捨てないという、阿弥陀仏の摂取不捨(せっしゅふしゃ)の光のなかで生きているのです。ですが、煩悩にさまたげられて、なかなか、そのことに気づけないでいるのです。 大事なのは、すでに仏の光のなかにいることに気づくということですが、「気づき」は、努力して手に入れるものではなくて、向こうからやってくるものなのです。 「さあ、気づこう」なんて思っても、気づけるものではありませんね。「気づき」は、こちらから深めるものではなくて、向こうから深まるものなのです。 私たちにできることは、常に、阿弥陀仏に向かって、心を開いて生きることだけ。それが、聞法とお念仏の生活なのです。 この、「阿弥陀仏に向かって心を開く」ということですが、以前、こんな話を聞いたことがあります。蓮如上人と一休禅師の話です。 一休さんの方が20歳ほど年上でしたが、このお二人は、非常に仲が良かったそうで、いろいろエピソードが残っております。ある時、一休さんが蓮如さんに、こんな歌を送ってこられた。 「阿弥陀には まことの慈悲は なかりけり たのむ衆生を よりたすくとは」 「あらゆる衆生を救いとって捨てない(十方衆生摂取不捨)というのなら、たのもうと、たのむまいと、救うのがまことではないか」という問いかけの歌です。それに対して、蓮如さんは、こういう歌を返された。 「阿弥陀には へだつる心 なけれども 蓋(ふた)ある水に 月はやどらじ」 タライに水をはって外に出すと、夜空に輝く月が、水面に映りますね。この水をはったタライが私たちの心で、月が仏です。月影は、誰のタライにも、わけへだてなく映ります。ですが、タライに蓋がしてあると、映りませんね。タライは、月に向かって開いていることが大事なのです。 それでね、私たちのご本尊は、阿弥陀仏ではなくて、「南無阿弥陀仏」なんです。「南無」というのは、「たのむ」ということ、「まかせる」ということです。つまりは、タライの蓋を取るということですね。 タライの蓋を取らないとき、「南無」のないとき、私の心に阿弥陀仏はない。美術館などでは、展示品に「阿弥陀仏一体」なんて書いてありますが、「南無」のない「阿弥陀仏」には、働きがない。私に働きかけてくださる仏様は「南無阿弥陀仏」です。 「南無」とたのむことは、「まかせる」ということ。「私が、私が」と言うのをやめて、南無阿弥陀仏の働きを受けるということ。月を映す、蓋のない水になるということです。 蓋のない水になる。それは、仏に向かって、心を開いて生きるということ、聞法とお念仏の生活をするということです。 阿弥陀仏の方にこころを向けて、聞法とお念仏の生活をする。「生活」というのは、フルタイムです。お念仏の教えを頂いた私たちには、生活そのものが、フルタイムの修行の場です。 聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、お念仏が、だんだん、こころの奥底にまでしみこんで、こころの闇を照らすようになる。 それは理屈ではなくて、信心の歴史のなかで、念仏の教えに生きた人たちが、実際に体験してきたことなのです。 「ありがたや 愚痴より先の お念仏」。これは、北条紘文師の言葉です。 煩悩が動くと、私が気づく前に、お念仏が出てくださる。そのことで、私は、阿弥陀仏の光のなかにいることを知る。ありがたいことです。煩悩の身のままで、仏の光のなかにいることを知る。これが、救いです。 さて、もう少しだけお話しして、終わります。 最初に、「仏教徒の原点に立ち帰る」ということを申しましたが、私たち真宗門徒にとっての原点は、聞法とお念仏です。 「聞法」というのは、仏法を聞くことですが、仏法が伝えようとしているのは、分けて言えば、二つです。 一つは、私たちが、煩悩の暗闇のなかで迷っているということ。もう一つは、そんな私たちを、光となって救い出そうとしている、阿弥陀という名の仏がおられるということです。 ですが、私たちは、自分が迷っているとは思っておりませんから、仏法を聞いても、自分の問題としては、なかなか、聞こえてこないのですね。 ですが、それでも、聞いたことは、わずかでも残ります。お寺にお詣りになった方々の衣服に、わずかにお香のかおりが残っているようにです。分かるということよりも、聞き続けていくことが大事です。 「聞法しているけれど、自分のことという実感が湧いてこない」という人は、おそらく、お念仏を称えていないからですよ。つまりは、タライのフタが開いていないのです。「南無」することで、はじめて、「阿弥陀仏」の方を向くことができるのです。 『歎異抄』(第1章)に、「弥陀(みだ)の誓願(せいがん)不思議に助けられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心の起こるとき、即ち、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)にあずけしめたまふなり」とあります。 「阿弥陀仏」に「南無」しようと思ったとき、救われたいという私の願いと、救いたいという阿弥陀仏の願(本願)とが共鳴して、そこに信心の世界が開かれてくる、ということです。 「阿弥陀仏」に「南無」しようと思ったということは、こころに「南無阿弥陀仏」を頂いたということです。そして、こころに「南無阿弥陀仏」を頂くことが、信心を頂くということなのです。 念仏もうさんと思い立つこころの起こるとき、私は、「他力」の働く場になるのです。 「念仏を称えても、一向に、安らかな心になってきません」とおっしゃる方もありますけれど、念仏は、煩悩の子守歌ではありません。 こんな話を聞いたことがあります。金子大榮先生のお母さんが病気になられて、「肉体的な苦痛の中では、心から如来のお慈悲を喜び、念仏することができないが、どうすればよいか」と訴えてこられた。 そのとき、金子先生は、「お慈悲を喜んでお念仏するのではなく、お念仏の申さるることがお慈悲であります」と、返事の手紙に書かれたということです。お念仏を称えるということは、そういうことなのですね。 お念仏を称えるということは、仏の光の前に立つということです。そのとき、はじめて自分の煩悩の影が見えてくる。と同時に、生・老・病・死に苦しむ煩悩の身のままで、仏の手のひらにいることに気づくのですね。 念仏詩人の榎本栄一さんの詩に、こんなのがあります。「念仏のりやく」という詩です。 念仏のりやく
念仏をもうせば 煩悩が見えたら、その先に「いのちの真実」が見えてくる。年をとることも、病気になることも、死んで逝くことも、なにもかもが「仏の手のひらの上」でのことだった。その人生の真実に気付かせてもらうこと、それが、「浄土の教え」の「救い」です。 人生は、登って下る、山登りのようなものです。人生の山の形はみんな違います。大きな山もあれば、小さな山もある。とがった山もあれば、平らな山もある。ですが、どんな形の山を描いても、みんなホワイトボードの上にあるように、どんな人生であっても、みんな「仏の手のひら」の上なのです。 私を支えてくださっている、その「仏の手のひら」に気づくこと、それが「信心を得る」ということです。信心を得たとき、人生の味わいが変わりますよ。 どうぞ、声に出して、お念仏なさってください。そして、そのお念仏を、仏様からの呼びかけとして聞いてください。お念仏が聞こえる。これが、尊いのです。 私たちが、お念仏に導かれて、迷わず浄土に向かって生きていくこと。それこそが、「迷うな」と拝んでくださっている、亡き人々の願いですよ。 お念仏を申させて頂きましょう。お念仏を称えている人の姿には、ほのかな光と、あたたかさがあります。それがまた、次の世代にも伝わっていくのです。 さて、店じまいにいたします。 少し歩いたところに公園がありましてね。ときどき散歩で行ってベンチに座ってくるのですが、そのそばに中学と高校があるのですよ。50年前に、私の通った学校です。 年とともに、私を照らす光と、私の影とが、だんだん見えてきましてね。公園のベンチで、じっと座っているだけでも、ありがたいのです。 50年前には、公園の日だまりのなかで、ベンチに座っている老人の気持ちは、分からなかったですね。 親鸞聖人は、「一人でお念仏申しているときは、二人だと思いなさい。二人でお念仏申しているときは、三人だと思いなさい。その一人は、私だからね」(『御臨末の書』趣意)と、おっしゃっています。 信心の人には、ひとりのときはあっても、独りぼっちのときはありません。ご一緒に、お念仏申してまいりましょう。 では、本日は、これで終わらせていただきます。長い時間お付き合いくださいまして、有り難うございました。 9月・10月と休んでおりました「歎異抄に聞く会」の第6回目を、今月の24日(土)に開きます。どうぞお気軽にご参加ください。お待ちいたしております。 ではまた、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますように、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ
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