ようこそのお参りでございます。このところ、ことんと寒くなりましたねえ。年のせいですか、そうそうにストーブのお世話になっておりますが、皆さんは、いかがでしょうか。 本日は、親鸞聖人の祥月命日のお勤め、「報恩講」ですが、今回は、前住職の七回忌と、前々坊守の三十三回忌を、併せて勤めさせていただきました。この法要に会うご縁を皆様とともに頂けましたことを、有り難く存じております。 ご縁を頂きまして、皆さんの前でお話させていただくのも、これで74回目でございます。これまでにお話いたしました法話の原稿を、全て、インターネット上のホームページに掲載しておりますので、インターネットをご利用でしたら、ぜひ、お読み下さい。 自分でも、ときどき読み返しておりまして、懐かしく思ったり、頷いたりしておりますが、年のせいですか、だんだん、あれほどエネルギーのいる話はできなくなってきましてね。 いささかお耳だるい話になるかもしれませんが、今回は、ご案内のように、「光みちて」という題で、しばらくお話させて頂こうと思います。 ここの扁額に「常照我(じょうしょうが)」とありますでしょう。「仏は、常に我を照らしたもう」という意味です。『正信偈』の中に出てくる言葉ですが、私たちは、今、すでに、仏の光の中にいるのです。 仏の「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」の光につつまれている。浄土の教えの救いは、私たちが、その光を感じるところにある。そういう話です。 では、まずは、私たちの御本尊・阿弥陀如来は、光の仏様だという話から始めることにいたします。 阿弥陀如来を表すインドの言葉は、二つあります。アミターバ(無量光)と、アミターユス(無量寿)です。この「無量光」と「無量寿」を合わせもつ仏様が、「阿弥陀如来」です。つまりは、阿弥陀如来は、「全宇宙を隈無く、永遠に照らし続けている光」の如来なのです。 私たちは、その阿弥陀如来を本尊として頂いています。皆さんのお家には、お仏壇(お内仏)がおありのことと思いますが、お仏壇の中をご覧になると、中央に、御本尊「阿弥陀如来」の御絵像が掛かっていますでしょう。 その阿弥陀如来のお姿からは、光が放たれていますでしょう。あの光の線は、48本描かれています。阿弥陀如来の48の本願を表しているのです。 その御本尊の、向かって右側には、「帰命尽十方無碍光如来(きみょう・じんじっぽう・むげ・こうにょらい)」という十字の名号、そして、向かって左側には、「南無不可思議光如来(なむ・ふかしぎ・こうにょらい)」という九字の名号が掛かっていますでしょう。 お東(大谷派)のお仏壇では、だいたい、こういう形になっております。中央の御本尊は、御絵像のことが多いのですが、木像や、「南無阿弥陀仏」という六字の名号のこともあります。 「南無阿弥陀仏」(ナム・アミダ・ブツ)というのはインドの言葉を漢字で音写したものです。珈琲(コーヒー)、亜米利加(アメリカ)のようなものでして、漢字そのものに意味があるわけではありません。 左右二幅のお脇掛けは、ともに、その「ナムアミダブツ」というインドの言葉を、中国語に訳したものですが、どちらも「光如来(こうにょらい)」となっていますでしょう。「阿弥陀如来」は「光の仏様」なのです。ご存じでしたか。 親鸞聖人は、この「帰命尽十方無碍光如来」という十字の名号を御本尊として掲げておられました。そして、『尊号真像銘文』という書物のなかで、自ら、その十字の名号の解釈をなさっておられます。ご参考までに、お手元の資料には原文も載せておりますが、おおよそこういうことをおっしゃっています。 「帰命尽十方無碍光如来というのは、阿弥陀如来のことであって、この如来は光明なのです。この光は、宇宙全体に満ち満ちていて、煩悩や悪業とかかわりなく、無差別に一切の衆生を照らしています。それが尽十方無碍という言葉の意味です。この光の如来は、阿弥陀仏であり、不可思議光如来ともいいます。この如来は智慧のかたちであって、全宇宙に満ち満ちていると知らねばなりません」と。 (『尊号真像銘文』原文:「『帰命尽十方無碍光如来』ともうすは、すなわち阿弥陀如来なり。この如来は光明なり。尽十方というは、尽はつくすという、ことごとくという。十方世界をつくして、ことごとくみちたまえるなり。無碍というは、さわることなしとなり。さわることなしともうすは、衆生の煩悩悪業にさえられざるなり。光如来ともうすは、阿弥陀仏なり。この如来はすなわち不可思議光仏ともうす。この如来は智慧のかたちなり。十方微塵刹土にみちたまえるなりとしるべしとなり」真宗聖典 p.518) 阿弥陀如来から光が出ているというのではなくて、この如来は光なのだ、光として存在している如来なのだということですね。宇宙は、如来の光に満ちている。私たちはみんな、その如来の光のなかにいるということです。 「不可思議」というのは、考えること(思議)が出来ない、人間の思考能力を超えているという意味ですが、それだけでなくて、この「不可」という言葉には、考えても仕方のないことだから、考えるなという禁止の意味もあるのでしょうね。 「この如来は智慧のかたち」ということは、つまりは「この光は智慧のかたち」ということです。「智慧」というのは、よく分からない言葉ですが、あれも知っている、これも知っているというようなことではなくて、その働きから言えば、ものごとを照らし出して、はっきり見せる「光」なのだ、と、そういうことではないでしょうか。 思いますにね、私たちが苦しむのは、たいてい、ものごとがはっきり見えていないから、ものごとの「あるがまま」の姿が見えていないからですよ。 10年ほど前のことですが、ある受験生から、「毎日が、むなしくて仕方がありません。自分で死のうとまでは思いませんが、はやくこの人生が終わってほしいと思っています」という、メールを頂きました。 私自身も、同じような経験がありますので、気持ちは分かりましたが、なかなか手軽な解決法はないものです。心理学者の河合隼雄先生は、「問題がある方みんなそうですけれど、世界が狭くなっているのです」とおっしゃいましたが、確かに、そうなんですね。 「毎日が、むなしい」と言った受験生には、受験のことしか見えていない。受験に合格する以外に、幸せはない。そんな視野狭窄に陥りながら、勉強の成果が上がらないとなると、「むなしい、はやくこの人生が終わってほしい」ということになってしまうのですよ。 また、「はやくお迎えが来てほしい」とか、「よかったのは若いうちだけだ」「人生がむなしい」「さびしい」というような言葉を、よくお聞きします。おそらく、これも、同じことではないですかね。 「健康で、お金があって、生き甲斐があること」が、幸せの条件だと思い込んで、握り締めていると、健康も、お金も、生き甲斐も無くしていったときに、こんなはずではなかった、「はやくお迎えが来てほしい」ということになってしまいますでしょう。こういう人も、気づかないうちに、視野狭窄に陥って、世界が狭くなっているのではないでしょうかね。 私たちは、自分の「思い」を握り締めて、世界を狭くしてしまうのです。私たちは、いわば、自分の思いの中に閉じ込められて、苦しんでいるのです。 その狭い暗闇から、もっと大きな世界に出してもらおう。「あるがまま」の世界を照らしている仏の光の中に立たせてもらおう。そのとき、本当の幸せを知るでしょう。そういう広い世界があることを説いているのが、仏法なのです。 仏法というのは、仏陀(目覚めた人)が説かれた「法(真理・真如)」のことです。「法(真理・真如)」というのは、「あるがまま」の世界のありさまのことです。 仏の目から見れば、私たちは、「特別な自分」という思いを握り締めて、煩悩の暗闇の中で苦しんでいる凡夫です。そして、そんな私たちを、暗闇から救い出そうと、照らし続けている光がある。その光が阿弥陀如来ですが、凡夫の私たちには、その光が見えていないのです。 『正信偈』に、「煩悩障眼雖不見(ぼんのう・しょうげん・すいふけん)、大悲無倦常照我(だいひ・むけん・じょうしょうが)」とありますでしょう。「煩悩が眼をさえぎって、光を見ることが出来ないけれど、阿弥陀如来の大悲の光は、倦くことなく、常に私を照らしてくださっているのです」という意味です。それは、このことですね。 なぜ、そんな光があるのかということは、考えても分かりません。阿弥陀如来は「不可思議光如来」です。ただただ、「あるがまま」の世界のありさまとして、「そうなっている」のです。それが自然法爾(じねんほうに)ですが、考えても分からないものは、感じるしかありません。その光を感じる道が、お念仏なのです。 念仏詩人・榎本栄一さんの詩に、こんなのがあります。「じねんほうにへ」という詩です。
ようやく見つけた入口 お念仏は、救われるとか、救われないとかいった「はからい」を離れて、ただ称えるだけです。お念仏は、こころを込めてとか、感謝のこころをもってとか、いろいろ考えないで、ただ称えればよいのです。むしろ、自分勝手なこころの込もらない、空念仏(からねんぶつ)でいいのです。 藤原正遠先生に、「空念仏」という言葉で始まる、こんな歌があります。
空(から)念仏 まことによろし 空念仏でも、称え称えしているうちに、いつの日か、「こんなことして何になるんだ」という「分別心」が壊れ落ちていって、いのちの奥底にある「まことのこころ」(無分別智)が働き出てくださる。それを、藤原先生は、口割り給う「ナムアミダブツ」と詠われました。そんな藤原先生の歌を二首。 いずれにも 行くべき道の 絶えたれば 口割りたもう 南無阿弥陀仏 おまかせが 出来ざる故に お念仏 口割りたまう ことがおまかせ お念仏は、ただ称えるだけ、という話を、もう少し続けます。かつて、宮城しずか先生は、「名号というものは、仏の世界に出遇う、唯一の通路である」とおっしゃいました。つまりは、光の世界への入口です。 「名号」というのは、「南無阿弥陀仏と言いなさい」という仏からの呼びかけです。その呼びかけに応えて、私たちの称える「南無阿弥陀仏」が、お念仏です。 阿弥陀如来の、衆生を救う働きを「本願他力(他力)」といいますが、その阿弥陀如来の救済力(他力)は、南無阿弥陀仏という名号に込められているのです。 ですから、自分の計らいをまじえず、ただ南無阿弥陀仏とお念仏を称えることは、私自身が、その名号(他力)の働く場になるということなのです。名号(他力)の働きに憑(まか)せるということですね。 そのことを分かりやすく伝えている話があります。以前にもご紹介しましたが、一休禅師と蓮如上人の話です。 一休さんの方が20歳ほど年上でしたが、このお二人は、非常に仲が良かったそうで、いろいろエピソードが残っております。ある時、一休さんが蓮如さんに、こんな歌を送ってこられた。 阿弥陀には まことの慈悲は なかりけり たのむ衆生を よりたすくとは 「あらゆる衆生を救いとって捨てない(十方衆生摂取不捨)というのなら、たのもうと、たのむまいと、救うのがまことではないか」という問いかけの歌です。それに対して、蓮如さんは、こういう歌を返された。 阿弥陀には へだつる心 なけれども 蓋(ふた)ある水に 月はやどらじ タライに水をはって外に出すと、夜空に輝く月が、水面に映りますね。この水をはったタライが私たちの心で、月が仏です。月影は、誰のタライにも、わけへだてなく映ります。ですが、タライに蓋がしてあると、映りませんね。タライは、月に向かって開いていることが大事なのです。 それでね、私たちのご本尊は、阿弥陀仏ではなくて、「南無阿弥陀仏」なんです。「南無」というのは、「たのむ」ということ、「まかせる」ということです。つまりは、タライの蓋を取るということですね。 タライの蓋を取らないとき、「南無」のないとき、私の心に阿弥陀仏はない。美術館などでは、展示品に「阿弥陀仏一体」なんて書いてありますが、「南無」のない「阿弥陀仏」には、働きがない。私に働きかけてくださる仏様は「南無阿弥陀仏」です。 「南無」とたのむことは、「まかせる」ということ。「私が、私が」と言うのをやめて、南無阿弥陀仏の働きを受けるということ。本願他力の働く場になるということ。それが、月を映す、蓋のない水になるということです。 蓋のない水になる。それが「ナム」です。タライの水に月が映った。それが「アミダブツ」です。具体的には、ただ無心に「ナムアミダブツ」を称えるということです。 かくして、私自身が、ナムアミダブツを称え、ナムアミダブツを聞く身となったら、つまりは、私自身が、南無阿弥陀仏の働く場になったら、そこからは、南無阿弥陀仏のひとり働きです。自ずと闇は晴れて、光の世界が広がってくる。 『高僧和讃』に、こういう一首があります。
本願力にあひぬれば 「名号に込められた本願の働きに出遇うことができたら、むなしく迷いの世界にとどまる者はありません。名号の無量の功徳が身に満ちて、煩悩の濁った水も、功徳の海に解け去ってしまいます」という意味です。 私たちの、根本的な視野狭窄は、「特別な自分」という思いを握り締めていることです。この思いが、「あるがまま」の世界を照らし出す光のなかで、解けてしまうのです。それが「救い」ですよ。 お念仏を称える身となって、つまりは、他力の働く場となって、一度でも、阿弥陀如来の摂取不捨の光を感じたら、人生の味わいが変わりますよ。 しかし、私たち現代人は、科学万能のような時代におりますのでね、仏様とか光の世界とか言いましても、御伽話のように思ってしまうところがありますでしょう。それで、なかなか大切なことが伝わらないのです。 阿弥陀如来の本願力(他力)は、私たちの「分別知」では触れることのできない、仏の「無分別智」なのです。つまりは、私たちには、考えても分からないことなのです。 私たちにできるのは、考えることではなくて、感じることだけなのです。お念仏を味わい、お念仏の働きを感じる。大事なのは、知性よりも、感性なのですね。 阿弥陀如来の摂取不捨の光のなかで、「あるがまま」(真如)の世界に触れた人々が、そのときに感じたことを、言葉にして残してきた。それが私たちに伝わっている「念仏詩」であり、「仏教文学」であり、「大乗経典」なのです。 初期仏教の経典は、いわば、お釈迦様と仏弟子方の言行録です。それに対して、大乗経典は、「あるがまま」の真実世界に触れた感動から生まれた「文学」なのです。 「文学なら、やっぱりフィクションではないか」と思われるかもしれませんが、そうではありません。皆さんも、小説を読んだり、映画を見て、心の底から感動したということがおありでしょう。そんな感動を呼ぶ作品は、その感動を知っている人たちによって、作られたものではないですかね。大乗経典も、そうなのですよ。 私たちは、お念仏の教えを生きた先達の言葉に感動し、その言葉に救われるのです。そういう経験が、私たちの感性を育むのだと思います。 さて、もう少しだけ、お話しして、終わります。 今日は、本尊の話から始めましたが、かつて、広瀬杲先生は、「本尊というのは、本当に尊い事という意味です。物ではない、尊い事なのです」とおっしゃったことがあります。 私たちは、本尊に手を合わせていますが、それは、阿弥陀如来の眼に見えるお姿にではなくて、私たちを迷いの世界から救いだそうとなさっている、その尊い働きに、手を合わせているのです。 その尊い働きを、本願力といいます。その本願力は、一切衆生をもらさず救う「摂取不捨」の光となって、全宇宙に満ち満ちているのです。親鸞聖人は、「そのことを知らねばならない」とおっしゃいました。 浄土の教えを聞いておりますと、死後に浄土に往生させて頂くことが救いのように思ってしまいますが、大事なのは、そういうことではないのです。仏法は、問題を先送りにする教えではありません。 本当に大事なことは、私たちが、摂取不捨の光につつまれていること、大いなるものに抱かれていることを、今生で、知ることなのです。 タライのフタを開くと、月の光が入ってくる。ですが、フタを閉じているときも、光の中にいたのです。そうでしょう。私たちは、念仏を申すようになって、はじめて、照らしずめに照らしていた摂取不捨の光の中にいたことを知るのです。 念仏(名号)は、仏の世界に出遇う、唯一の通路です。親鸞聖人は、その阿弥陀仏の世界(浄土)を、「無量光明土(むりょう・こうみょう・ど)とおっしゃいました。 無量光明土(浄土)は、私たちの「いのちの故郷」です。私たちはみんな、阿弥陀仏の世界(浄土)から生まれて来て、また、その浄土へと帰って往くのです。そして今も、阿弥陀仏の光に包まれて、生かされて生きているのです。 そんな、生かされて生きている「いのち」への気付きを詠んだ詩を、いくつかご紹介いたします。 まずは、中川静村先生の詩です。
生かされて 生きてきた こうして現に、生まれてきたこと、生きていること、死んでいくこと、そのことが、とりもなおさず、本願力の証(あかし)なのです。 次は、念仏詩人・榎本栄一さんの詩です。「いのちのはてより」という詩です。
どんな苦を負うても 私たちは、仏の光のなかで、仏のいのちを生きているのです。尊い「いのち」ではないですか。同じく榎本栄一さんの詩をもうひとつ。「無辺の手掌(てのひら)」という詩です。
確かに死ぬる 私たちは、気づいていなくとも、みんな、阿弥陀如来の摂取不捨の光につつまれているのです。そんな光のなかで、だれもが、仏の手のひらのうえで生きている。そして、仏の手のひらのうえで死んで逝くのです。いのちのことは、いのちにおまかせです。そのことに本当に頷けたら、楽になりますよ。 生き甲斐や、健康や、お金を、私たちは、生きていく力としていますが、そういったものは、死んで逝く力とはならないでしょう。お念仏の教えを頂いた私たちには、なにもかも無くなっていっても、お念仏が残っている。 「念仏は、さとりもなく、悩みのままに生き、覚悟なくして、死ねる道」。これは、正親含英(おおぎ・がんえい)先生の言葉です。仏の手のひらの上にいると知ったら、なにもかもお憑(まか)せです。泣いても笑っても、おかまいなしですよ。 さいごに、もうひとつだけ、榎本栄一さんの詩です。「凡夫合掌」という詩です。
日が西の空に 「仏の光に、生きているあいだに気づけ」というお諭しでしょう。私の大切にしている詩です。浄土真宗は、ただ、お念仏を申して、摂取不捨の光の中に立たせてもらうという教えです。どうぞ、皆さん、ご一緒に、お念仏を称えてまいりましょう。 では、「ご院さんの話は、『もう少しだけ』と言ってからが長い」と言われたりしておりますので、本当に、このへんで終わることにいたします。 しかし、このごろ、とみに年を感じましてね。まあ、ほどなく70歳になりますから、年を感じても、不思議はないのですが、体力のうえでも、気力のうえでも、なにか一つの曲がり角を曲がったような気がしております。 それでといいますか、あるいは、これまでのような原稿は準備できないかもしれませんので、そんな場合は、ひょっとすると、ホームページへの掲載は、休ませて頂くことになるかもしれません。 とは申しましても、これからも、話ができるあいだは、させて頂きたいと思っておりますので、どうぞ、またお参りください。皆さんとご一緒に聞法させて頂けることを、なにより有り難く存じております。 本日、法事の記念に差し上げましたのは、この寺でいつもご一緒にお勤めしております『正信偈』の本です。これには、漢字で書かれた本文だけでなく、おおよその訳も付いておりますので、親鸞聖人の御教えを味わいながら読んで頂けるかと思います。 蓮如上人は「聖教は読み破れ」とおっしゃいました。そのお諭しのごとくに、常に手元に置いて、繰り返し、お読み頂ければと存じます。 本日は、有り難うございました。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますよう、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……
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