釋昇空法話集・第75話

不安に立つ

コロナ禍中に思う

(2021年3月20日 彼岸会法話)
 (御讃題)「何よりも、去年・今年(こぞ・ことし)、多少男女おおくの人々の死にあいて候らんことこそ、あわれにそうらえ。ただし、生死無常のことわり、くわしく如来の説きおかせおわしまして候ううえは、驚きおぼしめすべからず候。まず、善信が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定の人は、うたがいなければ、正定聚(しょうじょうじゅ)に住することにて候なり。さればこそ、愚痴・無智の人も終わりもめでたく候え」と。(『末灯鈔』第6通、真宗聖典 p.603、一部、仮名を漢字に改め)

 (訳)「いずれの年にもまして、去年と今年に、老若男女、多くの人々が相次いで亡くなられたことは、誠にいたわしいことであります。けれども生死の無常である道理は詳しく如来の説き置かれておられるところでありますから、いまさら驚かれることではありません。まずわたくし(善信)といたしましては、臨終の善し悪しは申しません。信心の定まった人は疑いの心がありませんから、必ず浄土に生まれる身となっているのです。だからこそ愚かで無智な私たちであっても心安らかに亡くなっていくことが出来るのです」と。


 本日は、ようこそのお参りでございます。日差しも春めいて、暖かくなってまいりました。

 こんなふうに、ご一緒に聞法させて頂くのは1年ぶりですかね。コロナが、なかなか終息しませんので、どうかなと思いましたのですが、ようこそお参りくださいました。

 初めに読み上げましたのは、親鸞聖人の88歳のときのお手紙の最初の部分です。お手元の資料に、原文と訳文を載せております。「こぞ・ことし」とありますのは、1259年と1260年のことでして、このとき全国的な飢饉と伝染病の大流行が起こりました。その時のお手紙です。

 伝統的には、法話の最初に、どういう御聖教の文章をご縁にして、本日のお話をさせて頂くのかという典拠を読み上げます。それを「御讃題(ごさんだい)」と申します。

 今回は、いつもの「三帰依文」の代わりに、「御讃題」を挙げましたが、こういうスタイルも、なかなか厳かで、よろしいですね。

 で、今回は、ご案内のように、「不安に立つ … コロナ禍中に思う」という題で、お話申し上げます。はなはだまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いください。

 さて、そのコロナですが、コロナの問題が起こってから、もう一年以上になります。時とともに、やや緊張感は薄まってきましたが、変異種が現れたりして、まだまだ不安な日々が続いておりますね。

 病原のウイルスが目に見えないというだけでも不安なのに、感染しても発症しない人が多数いると聞くと、疑心暗鬼になってしまいます。そんな状況がいつまで続くのか分からないというのですから、まことに難儀です。

 最近、ワクチンが出始めましたから、いずれコロナは終息するでしょう。これは医学のお陰です。ですがね、どんなに医学が進んでも、「生きているものは必ず死ぬ」のです。

 さきほどの「御讃題」(親鸞聖人のお手紙)にありました「生死無常(しょうじむじょう)のことわり」というのは、このことなんです。

 私たちは、何が起こるか分からない世界で、いつ終わるか分からない命を生きているのです。今は健康でも、だんだん年を取って、いずれは病気にもなり、ついには死んで逝かねばならない。この「生死無常のことわり」からは、逃げも隠れもできないのです。

 仏教は、この「生死無常のことわり」に、ずっと向き合ってきました。そして、私たちが「生死無常」の世界を生きる力となってきたのです。

 コロナ・ウイルスは、世界中に「死の不安」を呼び起こしました。しかし、私たち仏教徒は、「死への不安」を、目覚めのご縁として、受け止めてきたのです。死を自分の問題として、この「不安に立つ」からこそ、真剣に生きられる。

 「この世を本当に生きようと思う者は、死をごまかさない」。これは、中西智海先生の言葉です。

 「死ぬからこそ、本当に生きる道を問う」。これは、いつもご紹介しております、金子大榮先生の言葉です。真実の言葉が、身に染みて感じられる。これも、コロナのお陰というと、語弊があるかも知れませんが…。

 仏教では、人生は「苦」だ、その原因は「煩悩」だと、説かれています。皆さんは、どう思われますか。「人生は苦だ」と思われますか。もし、「人生は苦だ」と思われるのなら、ぜひ、どうぞ、しっかり仏法を聞いてくださいね。

 しかし、まあ、私たちはたいてい、「人生は苦だ」というよりも、「苦しいこともあるけれど、楽しいこともある」というくらいに、思っているのではないですか。いかがです。

 コロナ禍のせいで、時間ができましてね、本を読んだり、ユーチューブでお説法を聞いたりすることが多くなりましたが、そのユーチューブで、先日、池田勇諦先生のご法話にあいまして、こんなお話を聞きました。

 先生がお若かったころ、ある御同行のお家で、「仏法は、応病与薬(おうびょう・よやく)の教えです」というお話をなさった。「応病与薬」というのは、人の病気に応じて薬を与えるということです。

 そうしたら、そのお家の奥さんが、こうおっしゃったそうです。「ありがとうございました。私は、仏法を聞いて、薬の方ばっかり聞いてきたんですが、違うんですね。仏法を聞くということは、自分の病を聞くことでした」と。

 大事なお話ですね。仏教は、「苦を楽にする薬」です。ですが、病の自覚があればこその薬ですから、まずは、病んでいることに気づかねばなりません。聞法するというのは、自分の病を知ることなのです。

 で、池田先生は、「みんな病んでいるんです、その『病』は『不安』です」と、おさえられました。実際、私たちは、病気になったら、失業したら、交通事故に遭ったら、家族が死んだら、地震が起きたらと、沢山の不安をかかえていますよね。

 それはね、いつもの「海に浮かぶ三つの島」の絵でいいますとね、私たちは、ここ、この、水平線から上の世界だけで、生きているからですよ。

 この世界では、「私」は死んだら終わりです、ね。世界から消えてしまうというのは、思うだけでも、不安で怖ろしい。そうは思われませんか。

 それに、ここでは、「私」と「あなた」は別の人間であって、ほんとうに「わかりあえる」ということがない。孤独な世界ですよ。私たちは世界とは、こういうものだと思っている。

 ですが、本当の世界は、これですよ。何度も見ていただいていますので、お分かりですよね。目に見える世界が全てではないのです。水平線の下には、みんながつながっている世界がある。お浄土がある。

 でも、私たちは、「いやいや、それは、仏教のお話の世界で、やっぱり、現実は、こっちではないか、この世界ではないか」と思ってしまう。そして、大切な、仏法を受け流してしまうのです。

 相変わらず、水平線から上の、閉じられた世界で、不安一杯に生きている。自分を護ろうと、自分の都合を振り回している。そういう世界に閉じこもっていることに気付いていない。それが、私たちの「病」なんです。

 「目に見える世界が全て」ではないのです。目に見えない「いのち」の奥底では、みんなつながっていて、「ひとつ」です。この「ひとつ」の世界を、「アミダ仏の世界」(浄土)というのです。

 「アミダ仏」は、無量寿(永遠のいのち)・無量光(はてしない光)です。私たちは、いのちの奥底で、「無量寿」に支えられて、「生かされて、生きている」のです。仏様に支えられているのです。

 「煩悩」は、「無明(むみょう)」ともいいます。「無明」というのは、「明かりが無い」ために見えていないということです。何が見えていないのかというと、自分が暗闇のなかに閉じこもっていることです。

 聞法することで、「無明」のなかに、アミダ仏の智慧の光がもたらされたら、そのとき、はじめて見えるようになってくる。これは「たとえ」です。聞法するというのは、言葉を通して、言葉を超えた世界に触れていくことです。

 ですが、これ(水平線から下の世界)はね、実際に、アミダ仏の智慧の光のなかに立たせてもらい、「浄土」に向かって生きるようになって、初めて、開けてくる世界なんです。

 それまでは、この絵は、いわば、ただの地図です。この地図を見て、「なるほどねえ、そういう理屈か」なんて言っているだけなら、頭で理解しているだけ。それが、「薬の方ばっかり聞いている」ということではないですか。理屈は、いくら知っても、救われませんよ。

 親鸞聖人は、「いったん理屈が分かったら、もうそのことは考えるな、分別に戻ってしまうから」(『末灯鈔』第5通、取意) とおっしゃっています。

 この地図は、「架空の産物」でも「話のネタ」でもありません。そうではなくて、これが「真実世界の姿」なんです。この「真実世界」の中に入ることが、信心なんですよ。

 仏教を研究する学者なら、仏教は、研究対象なのです。いわば、仏教を上から見るのが、学問なのです。ですが、仏教に教えを受けようとするなら、仏教の下に立たねばなりません。

 『歎異抄』(第2条)のなかで、親鸞聖人は、こうおっしゃっています。「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と。
 (訳:この親鸞においては、ひたすら念仏を称えて、阿弥陀仏にお救いいただくのです、という法然上人のお言葉を身に受けて、それを信じているだけで、他に何か理由があるわけではありません。)

 「かぶりて」というのは、「この身に受けて、いただいて」ということです。「信心」というのは、教えの下に立って、はじめて、この身に受けられるものなのです。

 「仰げば尊し…」という歌がありますが、仏法は、仰ぎ見るこころが大事です。仰ぎ見るこころがなくなると、仏法は、ただの知識になってしまいます。

 大事なのは、知識を増やすことではなくて、アミダ仏の智慧の光のなかに立たせてもらうことです。アミダ仏の智慧の光のなかに立たせてもらうということは、「救われない私を、救わずにはおれないという、アミダ仏の物語」の中に入ること。それが、「まかせる」ということなんですよ。

 この物語の中に入れる人だけが、物語のままに救われる。「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」(法然上人)と教えて頂いているのは、そのことです。

 「大悲を受け入れる心がなければ、その人には、浄土は開けてこない」(梯實圓)。「念仏の身とならないで、本願がわかるはずがない」(寺川俊昭)と教えて頂いているのも、そのことなんです。

 合掌礼拝して、ナムアミダブツと称える。これは大事なことです。「行い」は「習慣」となり、「習慣」は「人格」をつくる。日々、合掌礼拝して、念仏申す。それが習慣となり、念仏に生きる人となるのです。

 「お念仏を称える」というのは、アミダ様の方に顔を向けることです。お念仏を称える生活のなかで、体でわかってくる。アミダ様から見られているという感性(気付き)が、育ってくるのです。

 私たちは、自分のことは自分が一番よく知っているように思っておりますけれど、本当は、そうではないのですね。アミダ仏の智慧の光のなかに立って、初めて、私たちは、自分の姿が見えるようになるのです。

 「自分を知る」というのは、見ている自分でなくて、見られている自分を知るということです。仏様に見られている自分が、本当の自分。「煩悩具足の凡夫」というのは、仏様の目から見た自分のことです。

 「自分を知る」というのは、反省することではないのです。反省というのは、自分で自分を見てすることです。煩悩の色メガネを掛けたままね。

 煩悩というのは、「自分の都合」のことですね。私たちはみんな、自分にとって都合の悪いものは「あっちへ行け」、都合の良いものは「こっちへ来い」と思いながら生きていますでしょう。

 これ、私は「豆撒き根性」と言っていますが、私たちは、2月3日の節分だけでなく、一年中、「鬼は外、福は内」と、自分の都合を振り回して生きているのですね。ですが、そうそう自分の思うようにはなりませんから、苦しくてしかたがない。

 「鬼は外、福は内」。「コロナよ、去れ。もとの生活よ、戻れ」というのも、煩悩ですよ。といっても、アミダ様は、決して、「煩悩の身」であることを咎めておられるのではありません。

 「鬼滅の刃」ではないですが、知らないうちに、みんなこころの中に鬼を飼っている。その鬼の苦しみ悲しみに、向けられているのが、仏様の眼差しなんです。

 昔は、お月様が見てござる、仏様が見てござると、よく言われました。大きなものに向かって、見られるものとなれ。人の目の中でなく、如来の眼差しの中で生きよ。忘れてはいけない、大事なことだと思いますね。

 仏様に見られている私。とうてい救われない、この煩悩具足の凡夫を、必ず救うとおっしゃっているのが「アミダ様」なんです。中川春岳師の、こんな詩があります。

     仏心 それは
     どのような状況にあっても
     決して自己を見捨てない自己
     最後まで 救われない者と共にある

     癌(がん) もうダメ
     倒産 もうあかん
     このいのち(仏心) まっ先に
     見捨てるのは誰か

 「もうあかん。もうダメ」。そんなとき、お念仏を申し、仏の眼差しを思うことができたら、ありがたいですね。大きなものに向かって、見られるものとなれば、視野狭窄がゆるんで、何とかなるもんです。

 「立ちすくむ その時々に さす光」。これは、池田勇諦先生の言葉です。問題は解決しないかもしれませんが、仏の眼差しのなかにいることを思い出したら、楽になりますよ。

 浄土真宗はね、悲しみが無くなる教えではなく、泣きながら喜べる教えです。人生の喜びは、お念仏とともにある日日(にちにち)の、味わいにある。私は、そう思います。

 本来、真宗門徒というのは、「死ぬからこそ、本当に生きる道を問う」人たちでした。「お念仏」は、その問いかけであると同時に、答えです。

 「ナム・アミダブツ」の「ナム」は、「帰命」と訳されています。親鸞聖人は、この「帰命」という言葉は、「帰ってこい」というアミダ様の命令(本願招喚(ほんがんしょうかん)の勅命)だとおっしゃっています。

 ここ(目に見える世界)で苦しんでいる私たちに、アミダ様は、「帰ってこい」と呼びかけておられるのです。それが、名号の南無阿弥陀仏。

 その呼び声に、私たちは、ただお念仏(ナムアミダブツ)を称えて、アミダ様の世界「浄土」に向かって歩む。アミダ様は、私たちに、生きて行く方向、死んで逝く方向、帰って往く方向を、教えて下さっているのです。

 親鸞聖人は、こう仰いました。「念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また、地獄に落つべき業(ごう)にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」(『歎異抄』第2条)と。
 (訳:念仏は、本当に浄土に往生する因(もと)なのでしょうか、それとも、地獄に落ちるしかない行いなのでしょうか。全く私の知るところではありません。たとえ、法然聖人にだまされて、念仏したがために地獄に落ちたとしても、決して後悔はいたしません。)

 「浄土があってよかったね」ではないのです。とうてい「浄土」にご縁がないような「煩悩熾盛の身」であることが、本当に見えたら、そこはもう、仏の手の平の上なんです。死後のことは、もはや、どうなっても、「おまかせ」です。

 「御讃題」にありましたね。「信心決定の人は……終わりもめでたく候え」(訳:信心の定まった人は……心安らかに亡くなっていくことが出来るのです)と。

 以前、門前掲示板に、「死に方は 選べないが 生き方は 選べる」(木村世雄)という言葉を掲げましたところ、数人の中学生が下校時に目を留めてくれたようで、こんな声が聞こえてきました。

 「『死に方は 選べないが 生き方は 選べる』か。ハハハ。『生き方』も選べないよな……」。

 想定内の感想でしたが、中学生の心の屈託を思いました。まあ、考えようによっては、「死に方」も選べるわけですが、真宗門徒の私たちとしては、「死に方をおまかせできるような、生き方を選べる」ということが、大事なのですね。

 ただ、この「おまかせ」は、「自力」ではできないことなのですね。

 「一生聞法して、この世を迷いの終わりとせねばならん」。これは、曽我量深先生の言葉です。ご一緒に、お念仏を称え、聞法してまいりましょう。「生涯聞法、南無阿弥陀仏」ですよ。

 では、このあたりで、終わろうと思いますが、最後に、念仏詩人・榎本栄一さんの詩をひとつ。「シャバの開眼」という詩です。

   シャバの開眼

     私を彼土(かのど)へはこぶ車は、
     ここでゴトゴトゆれ、
     迷妄ふかい私は、
     このゴトゴトで眼をひらく

 コロナは目覚めの縁です。「生活」の中に眠り込んでしまう私たちが、「人生」を取り戻す「ご縁」です。

 仏法は、人生の上に受け止めて、生活へと開くことが大事です。生活に開くとは、生き方になるということです。私たちにとって、仏法は、教養でも学問でもない、「生き方」なんです。

 では、また、ご一緒に聞法させ頂けるよう、願っております。本日は、ようこそ。有り難うございました。ナムアミダブツ、ナムアミダブツ……



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