釋昇空法話集・第78話

人生回復

聴聞にきわまる

(2022年3月21日 彼岸会法話)
 ようこそのお参りでございます。だんだん暖かくなって、花の便りも聞こえてくるようになりましたが、この時期になると思い出されるのは、良寛さまの辞世の句です。

 「散る桜 残る桜も 散る桜」。お聞きになったことが、おありだと思います。

 去年・今年と続けて、私と同じ団塊の世代のお同行を送りまして、この「残る桜も 散る桜」のお訓(さとし)が、改めて、身に染みる思いがしております。

 私たちは、今、生きています。そして、死ぬことなんか、できるだけ考えないようにしています。ですが、それでも、いずれは「散る桜」なのです。

 このことを知っているのは人間だけ。そして、このことに悩み苦しむのも、人間だけです。仏教は、この人間だけの問題、「人生」の問題に向き合ってきた教えなのです。

 「死ぬからこそ、本当に生きる道を問う」(金子大榮)。仏法に問うていく。無数の人たちが救われてきた教えを、聴聞する。人生を回復する道は、ここにしかないと思います。

 そこで、本日は、身を以てお訓しくださったお同行を思いつつ、ご案内のように、「人生回復」という題で、聴聞の道について、お話をさせていただこうと思います。どうぞ、しばらく、お付き合いください。

 さて、みなさん。ご承知のように、浄土真宗では、聴聞(聞法)ということを大切にします。蓮如上人は、「ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり」(『蓮如聖人御一代記聞書』)とおっしゃっていますね。

 で、皆さんは、これまで、聴聞を重ねてこられて、どうお感じでしょうか。「仏法は、聴聞にきわまる」というけれど、聞いても聞いても、一向に、救われた気がしないということは、ありませんか。

 浄土の教えというのは、「お念仏ひとつで救われる易行道だ」と言われています。お聞きなったことがおありだと思いますが、そうかと思うと、先ほどご一緒にお勤めしました『正信偈』には、「難中至難無過斯(なんちゅしなん・むかし)」(この教えを信じることより難しいことはない)とありますでしょう。

 いったい、浄土の教えというのは、易しい教えなのか、難しい教えなのか。どっちなのでしょうね。どう思われますか。

 おそらく、それはね、仏様は易しくしてくださっているのに、私たちが難しくしてしまっている、ということではないかと思います。

 お悟りの世界、こころ安らかな世界(浄土)に至る道は、ふたつある。これはインドの龍樹菩薩のおっしゃったことですが、山あり谷ありの陸路を、ひとりで歩く「苦しい道」と、みんなと共に、大きな船に乗って、水路を行く「楽な道」がある。難行道(なんぎょうどう)と易行道(いぎょうどう)ですね。

 仏様の願いでできた大きな船に乗って、水路を行く楽な道のほうが優れている。それが、「ナムアミダブツ」と仏様の名号を称える、お念仏の道だと、龍樹菩薩は、説いてくださった。大乗仏教というのは、この大きな船に乗ろうという教えなんです。

 このお念仏の教えは、『大無量寿経』というお経に説かれています。龍樹菩薩は、お釈迦様が説かれた一番大事な教えはこれだと気づいて、教えてくださった。それで、七高僧の一番目にあげられているのですね。

 ところが、私たちは、そんな大きな船を見たことがないものですから、この教えが、なかなか分からないのですね。

 前に聞いた話ですが、かつて大航海時代に、ヨーロッパの人々が、南方の島々に大きな船でやってきたときに、島の人たちは、その大きな船に気づかなかったそうです。心理学の研究で分かったことですが、人は、見たことがないものは、目の前にあっても、見えない、ということがあるらしいのです。

 私たちが、そうではないですか。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」と言った人がありましたが、私たちは、どこかに行こうと思ったら、自分の足で歩くことしか知らないのです。

 たとえば、家が欲しいと思ったら、一所懸命に働いて、お金を貯める。また、希望の大学に入ろうと思ったら、一所懸命に勉強する。そんなふうに、何かを手に入れたい、何かに成りたいと思ったら、自分が努力するしかない。

 そんな、私たちが頼りにしている自分の力を「自力」というのです。それに対して、一切衆生を救いたいという仏様の願いの力(本願力)を、「他力」といいます。

 仏法にご縁をいただいて、聞法するようになっても、私たちは、長年、自分の力を頼りに生きてきましたので、なかなか「自力」の生き方を手放せません。それで、「他力」の教えを聞いても、わからないのです。これが浄土の教えの難しい理由です。

 こんな話を聞いたことがあります。かなり昔のことですが、加賀の藤原鉄乗先生の御法座にお参りなさった方が、藤原先生に、こうお尋ねになったそうです。「難度海を度する大船というが、あの大船というのがちょっとわかりません」と。そうしたら、藤原先生は、「大船は浅瀬には着かんからのう」とお答えになったそうです。

 「難度海を度する大船」というのは、「お念仏ひとつで救われる」ということです。この言葉は、『教行信証』の最初に出てまいります。そこには、「難思の弘誓は難度海を度する大船」(真宗聖典 p.149)とあります。

 「一切衆生を救うと誓われた阿弥陀如来の本願は、渡ることが難しい荒海のような苦悩の中を生きる人を、苦しみを超えた世界へと渡らせる大きな船だ」という意味です。

 「大船は浅瀬には着かない」。私たちの生活は、まさに苦悩に満ちた大海そのものです。大船は、その大海に着く。「浅瀬」というのは、その苦悩の深さに気づかず、「まだまだ自分の力で泳げるわい」と思っている人のことでしょう。そう思っている間は、本願の大船にご縁が無いのです。

 自分の才覚や能力(自力)で、物事が何とかなっている間は、誰でも、「これでいいのだ」と思いますでしょう。「これでいいのだ」と、自分を肯定しているあいだは、人が何と言おうと、耳を貸しませんね。

 ですが、生きているあいだには、いろんなことに出会います。子供が巣立っていき、愛する人との別れもあり、老いていき、病気にもなり、死が予感されるようになる。そうなったとき、初めて、人は、大海の底知れぬ深さに気づくのですね。

 浅瀬を、悠々と泳いでいたはずが、太平洋の真ん中で、溺れている自分に気づくのです。かくして、もう自分にできることは何もないと、「自力」が手放した身に、はからずも、「他力」が働き出てくださる。そのことを、藤原正遠先生は、こんなふうに詠っておられます。

     いずれにも 行くべき道の 絶えたれば
     口割りたもう なみあみだぶつ

 また、酒井正知師の『いのちの花だより』というご本に、こういう言葉があります。「本願というのは、我々に自信があるあいだは、あらわれようがない。”ただ念仏”の信は、人間の限界状況を機としている」と。

 仏法は聞いているが、もう一つ本気になれない人間には、聞こえてこない。それでも、仏さまの眼は、常に、そそがれているのです。

 「仏さまの眼は、何十年しか生きない人間の、愚かさといとしさを、まばたきもせず、見てござる」。念仏詩人、榎本栄一さんの言葉です。

 阿弥陀様は、常に呼びかけてくださっている。ですが、その「他力」の呼び声が聞こえてくるのは、大声でしゃべっている「自力」が黙ったときだけです。

 同じことですが、前回もご紹介しました、伊藤元先生のご本には、こんなふうに書かれていました。

 「仏法を聞いて、分からん、分からんとしきりに言っていたら、先輩から、『仏法を聞いても分からないという人は、聞いていないのだ』と言われた。仏法を聞いて分からんということは、聞いていない。分かろうとしているだけだ。自分の理解という枠に入れようとしているだけのことだ」と。

 私たちは、仏法を聞いて、分かろうとする。だから、仏法が、聞こえてこない。これは、本当に大事なことを教えてくださっているのです。

 私たちは、真面目に、一所懸命に、聞法するのですが、どうしても、分かろうとしてしまうのですね。これが、聴聞するうえでの大問題です。

 まあ、最初は、誰でも、分かろうとして聞くのでしょうね。自分自身を振り返ってみても、そう思います。

 しかし、妙なことを言うようですが、仏法は、聞いても、分かりません。と言いますのはね、私たちは、自分が経験したことしか分からないからです。

 たとえば、子供を亡くした人の悲しみは、子供を亡くした経験のある人にしか分からないでしょう。

 仏様は、真実に目覚めらた方です。私たちには、その目覚めの経験がありません。ですから、仏様は、私たちのこころをご存知ですが、私たちには、仏様のおこころは分からない。

 阿弥陀様は、「私の名前(名号)を呼んだものは、かならず、苦しみのない私の国(浄土)へ迎え入れて、目覚めさせる。これが私の願いだ」とおっしゃいました。

 この阿弥陀様の願い(本願)が説かれているのが、『大無量寿経』です。その経典を拠り所としている浄土真宗は、ひとことで言えば、「本願を信じ、念仏を申さば、仏に成る」(『歎異抄』第12条)という教えです。

 ですが、なぜ、仏様は、「ナムアミダブツ」と称えよとおっしゃったのか、私たちには、分かりません。私たちには、考えても分からない「不可思議」です。ですが、不可思議なことは、不可思議のままに頂く。それが、仏様のお心を頂くということです。

 つまりね、お念仏って何だとか、お念仏を称えたらどうなるんだとか、そういったことを考えずに、お念仏を称えるということです。

 それができたら、浄土の教えは「易行道」です。それができずに、分かろう、分かろうと、「自力」の分別心を握り締めているから「難行道」になる。

 「他力」に憑(ま)かせるというのは、この「自力」を手放すということですが、それもまた、できないことなのです。手放そうというのも「自力」ですからね。右手で、右手はたたけません。

 そこで、さきほどの、蓮如上人お言葉です。「仏法は聴聞にきわまる」というお言葉の前の方を見てみると、「水、よく石をうがつ」ように、とあります。

 「聴」は、よく聞くということ、「聞」は、聞こえるということです。よくよく聞いていると、必ず、「水、よく石をうがつ」ように、ふと、聞こえるようになる。「仏法は聴聞にきわまる」というのは、そのことです。

 分からないままに、懸命に聴聞を続けていると、あるとき、「ふと分からせてもらう」ということが起こるのです。そのとき、真宗では「安心をえた」といいます。

 たとえば、妙好人といわれた因幡の源左さんは、18歳のときに、父親が伝染病でにわかに亡くなるのですが、父親は「おらが死んだら親さまを頼め」と遺言なさった。そのときから懸命に聴聞に励んだ源左さんは、30歳のころに、「ふとわからせてもらった」と伝わっています。

 おそらく、懸命に、仏様の方にこころを向けていると、あるとき、ふと、自力の分別心を握り締めている手が緩むのでしょうね。

 昔から、他力の信心というのは、「にぎって、はなして、むこうから」と言われています。「分かろう」と握り締めている「自力」の手がはなれると、「他力」の呼び声が、おのずと聞こえてくるのです。ただただ、「聞こえるまで、聴く」。それが、私たち真宗門徒の伝統です。

 私たちの所依の経典、この阿弥陀如来の本願他力の教えが説かれている『大無量寿経』(仏説無量寿経)は、主に、阿難(あなん、アーナンダ)というお弟子に向かって、説かれた経典です。

 その『大無量寿経』に、「仏仏相念(ぶつぶつ・そうねん)」という言葉が出てきます。「仏と仏とが互いに念じあう」という意味です。つまり、「仏の心がわかるのは、仏だけ」ということです。

 お釈迦さまのお弟子で、つねに身の回りのお世話をなさっていた阿難尊者が、ある日、お釈迦様のお顔を拝見して、驚きをもって、こうおっしゃった。

 「世尊、今日のお姿は、このうえなく神々しく輝いておられます。きっと、過去・未来・現在の仏さまたちと互いに念じあっておられたのですね」と。

 それをお聞きになって、お釈迦様は、たいそうお喜びになった。つねにお側にありながら、まだお悟りの開けていなかった阿難が、仏にしか分からない「仏のお心」(仏仏相念)を感じとったからです。「ようやく阿難は、仏の心がわかるようになった」と、喜んで説かれたのが、「阿弥陀如来の本願他力の教え」です。

 阿難は、釈尊のご在世のうちには、お悟りが開けなかった人だといわれております。ご在世のうちに、お悟りが開けたと記されているのは、唯一、この『大無量寿経』だけです。

 阿難は、釈尊の侍者として常に説法を聴いていたことから、「多聞第一」と称えられていました。「多聞」とは、よくよく聴聞しているということです。ひたすら聴聞することで、阿難に、お悟りが開かれた。

 阿難が、聞いて聞いて聞き抜いて、聞こえてきたのが、仏様のお心、阿弥陀如来の本願です。聴聞を極めた阿難尊者は、私たちの大先達です。

 聴聞するというのは、具体的には、仏様のお心に触れた先達の言葉を聞くということです。これまで法話の中でも、たくさんの先達の言葉をご紹介してきました。私は、そういう言葉に出遇うたびに、こころが震えました。

 藤原正遠先生の、「あや雲の ながるる如く わがいのち 永遠(とわ)のいのちの 中をながるる」という歌もそうでした。「そうなんだ、これが〈いのち〉なんだ」と、感動しました。

 ふらふらしながらも、お念仏の道を歩んでこれたのは、「いのちの深み」に触れた人たちの、浄土への道しるべのような言葉に出遇えたお陰だと思います。

 そういう言葉に出遇うと、不思議なことですが、なにか懐かしい思いがするのですね。経験したことしかわからないとすれば、私は、おそらく、その「いのちの深み」を知っているのでしょう。私だけではなく、みなさんも、そうなのですよ。

 親鸞聖人は、「仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。すなわち、一切群生海の心なり」(『唯信鈔文意』)とおっしゃっています。「如来は、あらゆるところに満ち満ちている。つまりは、一切衆生の心は、如来なのだ」という意味でしょう。

 一切衆生は、仏の心を持って、生まれてくる。私たちはみんな、仏の世界(浄土)から生まれてくるのです。浄土は、一切衆生の「いのちの故郷」なのです。

 故郷の話を聞くと、懐かしい。ときには、山も川も、鳥も花も、ふと、故郷を、思い出させてくれることがある。

 「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」。これは、松尾芭蕉の句です。小さなナズナの花に、仏のいのちが輝いている。私もあなたもない、本来のいのちの姿。ふと気づいた芭蕉は感動し、ナズナは、そんな芭蕉に、微笑んだかもしれません。

 この世の全ては、仏の心を持って生まれてきているのです。一切衆生・悉有仏性です。なのに、私は、自他を区別する心(分別心)を手放せないで、苦しんでいる。

 そんな私の手を、そっと指差してくれるものを、「諸仏」といいます。仏というのは、私を救う働きのことです。それが、一輪の花であれ、吹く風であれ。私たちは、諸仏に囲まれているのですよ。

 私たちはみんな、仏の命を生きている「いのちの仲間」「仏の子」なのです。その気づきを深めていく方向に、浄土がある。私もあなたもない、いのち本来の世界、浄土があるのです。

 私もあなたもない「いのちの深み」に触れた人の言葉に「法」を聞く。「いのちの真実」を聞く。「いのちの真実」を聞かせてもらうと、生きる力が湧いてきます。そういう言葉に出遇うことが、救いではないでしょうか。

 さきほどの伊藤元先生のご本に、こんな話がありました。先生は、ご友人から、「伊藤さん、あんた坊さんやろ、仏教信じられるか」と、問われて、「さあ、信じられるとか信じられんとか言えんけど、ただ一言言えるのは、自分より先に、仏法を聞き、念仏申して救われていった方々がおられた、ということは信じられる」と、お答えになったということです。

 「前(さき)に生まれん者(もの)は後(のち)を導き、後(のち)に生まれん者(ひと)は前(さき)を訪(とぶら)え」。これは道綽禅師の言葉です。「前に生まれた者は後に生きる人を導き、後の世に生きる人は先人の生きた道を問いたずねよ」。

 仏法は、私が信じるとか信じないとかいうような、ちっぽけなことではありません。私はただ、浄土の教えに救われて行った無数の先人たちの言葉に救われ、その言葉が、次の世代にも伝わっていくことを願うばかりです。先達の歩まれたところにこそ、人が、人として生きる道があると思います。

 「静かに思う。聴聞とは、廣劫多生(こうごうたしょう)の眠りから、よびさまされることではなかろうか。念仏とは、眠りつづけたいのちが、呼びさまされて、今、一輪の花をひらくということではないだろうか。…大きないのちは小さないのちを呼びさます。大地の春がタンポポの花を咲かせるように」と。

 先達、酒井正知師の言葉です。

 では、そろそろ終わることにいたしましょうか。

 真宗の「宗」という字は、「いちばん尊いこと」という意味です。ですから、「宗教」というのは、「いちばん尊いこと」を伝える教えです。

 私たちは、人生にとって「いちばん尊いこと」を、仏様の前で伝えてきました。各家庭には、お内仏がありましたし、何か相談事があるときにも、お寺に集まって、仏様の前で話し合ったものです。ですが、今は、そういう習慣が無くなって、「いちばん尊いこと」を伝えるのが難しくなってしまいました。

 その理由は、ひとつには、戦後、核家族化が進んで、お仏壇のない家庭が増えたことです。もうひとつは、戦後、GHQ がそういう宗教的な習慣を嫌って、終戦の明くる年に、全国に公民館を建てて、相談事であれ催し物であれ、みんな公民館でするように、命令したからです。

 かくして、寄り合いは、みんな公民館でするようになって、だんだん仏様とのご縁が切れていきました。そんな状況のなかでも、北陸地方では、村々の集会所にお内仏を安置したそうで、さすが真宗王国です。

 しかし、一番大きな理由は、テレビの普及でしょうね。テレビを見ているあいだは、人生を忘れておれる。テレビというのは、そういう道具です。まさに、「世間虚仮、唯仏是真」(聖徳太子)です。

 私たちは、毎日、多くの時間を、テレビという箱を見つめて過ごしていますが、そんな箱を見つめながら、孤独に年老いていったのでのは、悲しいですよ。どうぞ、テレビを消して、仏法に耳を傾け、本来の人生を回復してまいりましょう。「生きがい」ではなく、人間に生まれてきてよかったという「生まれがい」を。

  「テレビが消えると、ようやく日常が戻ってくる。ありきたりな物音といっしょに」(田口ランディ)

  「日常の平凡な生活こそ、人生の檜舞台である」(梅原真隆)

 では、本日は、これで終わらせて頂きます。次回は、秋の彼岸会・永代経法要です。6ヶ月ほど先ですから、コロナもおさまっているといいですね。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますよう、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……



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