あらためまして、こんにちは。今日は報恩講ですが、今年から、ひと月遅れの12月の第二日曜日にお勤めすることになりました。本日は12月11日。師走も中旬となり、ご多用のところを、ようこそのお参りでございます。 本日は、ご案内のように、「自然(じねん)に帰す」という題で、お話いたします。これは、「仏に従いて 逍遥(しょうよう)して 自然(じねん)に帰す 自然はすなわちこれ 弥陀の国なり」という、善導大師の『法事讃』(下)に出てくる言葉です。 私は、この言葉を、信心が定まったときの、こころ安らかな心境として、こんなふうに頂いております。「阿弥陀様と一緒に、そぞろ歩きしながら、自然(じねん)に帰る。自然というのは、阿弥陀仏の国、浄土のことです」と。 阿弥陀様が(名号となって)導いてくださっているから、安心して、ゆったりと景色を味わいながら、この世の旅を終え、阿弥陀様の世界(浄土)に帰っていくことができる。そういうイメージでしょうか。 「帰る」ということは、そこから「来た」ということでもあります。つまりは、私たちはみんな、浄土から生まれてきて、またその浄土へと帰っていくということです。浄土は、私たちみんなの「いのちの故郷」です。 「死ぬ」ということは、「いのちの故郷」に帰るということ。私は、このことを思うたびに、こころが安らぎます。 そこで、今回は、この「帰る」という言葉を考えながら、浄土に帰っていく念仏行者の心境を窺ってみたいと思います。いつもお聞き頂いているような話ですが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いください。 さて、かなり前のことですが、宮戸道雄先生のご本で、こんな言葉に出遇いました。「子どもは大人になるけれど、大人は何になるんですか?」と。小学校5年生の質問だそうです。 宮戸先生ご自身は、「これは子供さんの質問ではなくて、これは如来様が私に体当たりしたんです。…人間の根底を突いてくる問題ですよ」とおっしゃって、ご自分のお答えは記しておられません。大事なことだから、各自、考えてみよ、ということでしょうね。 「子どもは大人になるけれど、大人は何になるんですか?」。皆さんなら、どう、お答えになりますでしょうか。 おそらく、正解というものは無いのでしょうね。正解があるのなら、宮戸先生が、お答えになっているでしょうからね。 そうではなくて、この問いは、宮戸先生がおっしゃっているように、「私への如来様の体当たり」だと受け止められた人にだけ、意味があるのですよ。 たとえば、子供(小人)が成長して、大人になったら、「もう親の責任は果たした。あとは自分の責任で生きていけ」というのが、私たちではありませんか。 自分で働いて食べていける年齢まで育てたら、子供にいのちを与えた親の責任は果たせたのだ、と。 「小人〈こども〉」が「大人〈おとな〉」になったら、もう、それで終わり。「大人」は何になるのかなんて、考えもしないのが私たちでしょう。 ですが、お考えになってみてください。親は子供に「いのち」を与えたと言いますけれど、それは同時に、「死なねばならない」という運命も与えたということになりませんかね。 いかがですか。そちらの方の、親の責任というものを、お考えになったことはおありでしょうか。 「生」と「死」は、一枚の紙の裏表のようなものです。「生」のない「死」も無ければ、「死」のない「生」も無い。いま生きているということは、いずれは死ぬということでもあります。 まあ、そんなことは、誰でも知っていると思いますが、私たちは、たいてい、死ぬことなんて考えたくもない。それで、なんとか死ぬことなんか考えないようにして、生きることだけ考えて、暮らしている。 特に、刺激に溢れた現代社会では、死から目を逸らせておくのに役立つものが、いくらでもありますからね。 そんな、自分の死すら考えたくない私たちですから、子供に、死なねばならない運命も与えたなんてことは、思いもよらないのかもしれませんがね。 ですがね、死ぬことなんか考えない、死ぬことなんか考えないと、この一枚の紙の裏を、どんどん削ってしまうと、人生そのものが薄っぺらなものになってしまいますよ。 「この世を本当に生きようと思う者は、死をごまかさない」。これは、中西智海先生の言葉です。もうひとつ、「死ぬからこそ、本当に生きる道を問う」。これは、金子大榮先生の言葉です。 人が、本当に生きようとしたら、「死」の問題は避けて通れない。ですが、私たちは、死をごまかして、せっかくの人生を台無しにしている。そこで、如来様が体当たりなさったのでしょう。「子どもは大人になるけれど、大人はなんになるのか」と。 「大人になる」というのは、別の言葉で言えば、「成人する」ということでしょう。「成人する」というのは「人に成る」ということ。 「人に成る」というのが、「死をごまかさず、生きるようになること」だとすると、「成人」したら、本当に生きる道を問うて、「成仏」への道を歩むようになる。人は、死を見つめて本当に生きようとすれば、いずれは「仏法」に行き着くようにできているように思います。 さて、「仏」というのは「目覚めた人」という意味です。そして、「法」というのは、「世界のあるがままの有り様、いのちの真実」のことです。ですから、「仏法」というのは、「目覚めた人の目に映った、いのちの真実」のことです。 仏教は、この「目覚めた人の目に映った、いのちの真実」(仏法)を伝えようとしているのです。何のためにかと言いますと、それは、「一切の衆生を、老いと死の不安から救うため」です。 お釈迦様が出家なさったのは、「老・病・死」の不安を解決するためです。また、『大無量寿経(仏説無量寿経)』(梵文)でも、法蔵菩薩の言葉として、こう記されています。 「願わくはわたくしは、法の主である目ざめた人(仏)となって、生ける人々を老いと死〈の不安〉から解放しよう」(『浄土三部経』上、岩波文庫 p.28)と。(〈の不安〉は、講者の補い) 私たちの、苦しみの根元は、死を思う不安でしょう。この不安の解消をめざしているのが、仏教なのです。 ということは、刺激や娯楽のなかで、死をごまかして生きているあいだは、仏教へのご縁は開けてこないということでもありますが、いずれはご縁が開てくると信じて、もう一度、言いますね。 「仏法」というのは、「目覚めた人(仏)の目に映った、いのちの真実」のことです。この「いのちの真実」は、まだ目覚めていない私たちには見えていません。そのために、私たちは、老いと死の不安に苦しんでいるのです。 そこで、「いのちの真実」を伝えることで、私たちを、老いと死の不安から救おうというのが、仏教なのです。 前回にもお話ししたことですが、私たちの頂いている浄土の教えでは、「南無阿弥陀仏」という名号に、その「いのちの真実」が込められています。 親鸞聖人が、『末燈鈔(まっとうしょう)』のなかで、「みだ仏は、自然(じねん)のようをしらせんりょうなり」(『聖典』p.602)とおっしゃっているのは、そのことです。 (訳: 阿弥陀(アミダ)という名号(なのり)は、世界のあるがままの有り様〈いのちの真実〉を知らせる手段であります。) 「アミダ」というのは、インドの言葉で、無量寿(永遠のいのち)、無量光(はてしない光)という意味です。これが、世界のあるがままの有り様〈いのちの真実〉なのです。 仏の目から見れば、本当にあるのは「永遠のいのち」(無量寿)だけです。あらゆる生き物も、山も川も、すべては、「永遠のいのち」の「ひとつのあらわれ」(ひとときのあらわれ、有量)なのです。 かつて、梯實圓先生が、「『浄土は本当にあるのか』と親鸞に問えば、『本当の意味で〈ある〉といえるのは、浄土だけである』と答えられるはずである」とおっしゃったことがあります。それは、このことだと思います。 私たちは、みんな、「永遠のいのち」の「ひとつのあらわれ」なのです。ですが、それぞれの「有限な身体」に執着し、「限りあるいのち」であると思い込んで、不安と孤独に苛まれて生きている。 それは、たとえて言えば、「水」(永遠のいのち)から生まれた「氷」(わたしという自我意識)が、溶けてしまうことを恐れて、ガリガリ(我利・我利)と震えているようなものなのです。氷は、溶けても、水に帰るだけ。「いのちの真実」が教えているのは、そのことです。 その「いのちの真実」の全体像を、ひとつのたとえ話として、絵にしたのが、これ。いつもご覧いただく、「海に浮かぶ三つの島」の絵です。 私たちは、この海に浮かぶ島のように、水平線から上の、目に見える世界では、私とあなたは別の人間だけれども、目に見えない「いのち」の奥底では、みんなつながっていて「ひとつ」なんです。 この「ひとつ」の世界を、「アミダ仏の世界」(浄土)というのです。私もあなたも、みんな、この「浄土」から生まれてきて、また、その「浄土」に帰って往く。浄土は、私たちの「いのちの故郷」なのです。「死ぬ」というのは、その「いのちの故郷」へ「帰っていく」ことなのです。 高見順の『死の淵より』という詩集に、こういう言葉で始まる詩があります。「帰れるから、旅は楽しいのであり、旅の寂しさを楽しめるのも、わが家にいつかは戻れるからである…」(「帰る旅」)。 「死ぬ」のではない、「帰る」のだ。「帰る」という言葉には、どこか懐かしい温もりを感じます。死ぬのではない。浄土に「帰る」のです。それは、死の不安に苦しむ一切衆生のこころに響く言葉です。大人だけでなく、小さな子供のこころにも。 私事に属することですが、孫が二人おります。小学校5年生の女の子と、2年生の男の子です。何年か前、その子供たちのママのお祖母ちゃんが亡くなりました。お葬式から帰ってから、二人は、なにやら落ち着かず、ヒソヒソ話し合っていたそうです。 で、お姉ちゃんが、パパのところにきて、こう言ったそうです。「パパ、死んだら、どうなるの」と。パパが、「仏さまのところへ帰るんだよ」と応えると、お姉ちゃんは、パッと明るい表情になり、「そうか、仏さまのところへ帰るのか」と納得した様子。 すぐに弟のところへ行って、「仏さまのところへ帰るんだって。よかったね」と言ったそうです。孫たちは、ママのお祖母ちゃんが、どこへ行ったのか心配で、落ち着かなかったのですね。 ところで、「帰る」というのは、私たちにとって、ありがたい言葉ですが、「帰る」という言葉を喜んでいるのは、おそらく、煩悩なのでしょうね。 煩悩というのは、他の誰よりも我が身がかわいいという「こころ」の働きのことでしたね。煩悩というのは、自分を守ろうとする本能的な感情です。 そんな「煩悩」が一番恐れているのは、「死ぬ」ことですから、「永遠のいのちに帰る」という言葉は、喜んで受け入れるのです。 浄土に「帰る」ということは、本当は、個別性(自我意識)を失くすことで、「ひとつ」(永遠のいのち)に帰るということです。 ですが、それはともかく、一生、煩悩まみれの私たちなのですから、そんな私たちが、「帰る」という言葉を喜んで、仏法にご縁ができるのなら、それはそれで結構なことだと思います。 仏法にご縁ができれば、聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、いずれは、この絵の意味も、分かってくると思います。 仏の目から見れば、本当にあるのは「永遠のいのち」(無量寿)だけです。あらゆる生き物も、山も川も、すべては、「永遠のいのち」の「ひとつのあらわれ」なのです。 私もあなたも、みんな、「ひとつ」のいのち(無量寿)から生まれて、また、その同じ「ひとつ」のいのちに帰って往くのです。ですから、私たちは、みんな、「いのちの仲間」「仏の子」なんです。 その気付きを、藤原正遠先生は、こんな詩に詠んでおられます。「無量寿の いのち一つと 知らされて 今はやすけし われも宇宙も」。 もうひとつ。「人間の魂に平和がやってくる。自分たちが宇宙と一つであることを悟るとき」。アメリカ先住民の賢者、ブラック・エルクの言葉です。これも同じ気付きを言っているのではないでしょうか。 今、世界の人口は80億人を超えたそうですが、お念仏を称えている人は、どんなに多く見積もっても、1億人もいないでしょう。もしも、お念仏を称えている人だけが、お浄土に帰るのだとすれば、残りの79億人は、どこへ帰るのでしょうかね。 教団としては、まず言わないことですけれど、死後に関して言えば、みんな、同じところ(お浄土)に帰っていくのだと思います。お念仏を称えていても、称えていなくとも。信仰があろうと、なかろうと。仏教徒であろうと、なかろうと。善人であろうと、悪人であろうと。 『歎異抄』(第2章)に、こう記されています。「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」と。(『真宗聖典』p.627) (訳:念仏は、本当に浄土に往生する因(もと)なのでしょうか、それとも、地獄に落ちるしかない行いなのでしょうか。全く私の知るところではありません。) また、「後序」に、「善悪のふたつ総じてもて存知せざるなり」(「真宗聖典』p.640)とあります。つまりは、「そういったことは、仏様にしか分からないことで、私が判断できる事柄ではありません」という意味でしょう。 とすればです、仏様の願いは、一切衆生を救うことですから、死後は、誰もがお浄土に帰る。河は全て、海に流れ込むと、頂いておきたいと思うのです。みんな「いのちの仲間」なのですから。 ですが、信心があろうと、なかろうと、みんな浄土に帰っていくというのなら、信心を獲るということに、どんな意味があるのか。それはです、信心の意味は、人生の味わいが変わることにあるのです。そのことについて、もう少しだけお話しして、終わることにいたします。 ひとことで言えば、信心を獲るということは、南無阿弥陀仏という名号に込められた「いのちの真実」に深く頷くことです。 阿弥陀如来は、仏の目にしか見えていない「いのちの真実」を、名号となって、私の耳に、説き続けてくださっている。 ナムアミダブツ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。「これが真実だよ。迷うなよ、気づけよ、目を覚ませよ、帰って来いよ」と、私の称えるお念仏となって、導き続けてくださっているのです。 この、名号に込められた「いのちの真実」に深く頷いて、「私にはまだ見えていないことだけど、これこそ〈いのちの真実〉なのだ」と、ナムアミダブツの導くままに、浄土に向かって、生きて行き、帰って往こうと、こころが決まったとき、「信心を獲得」した言うのです。 そのときから、少しづつ、人生の味わいが変わってきます。というのは、少しづつ、「いのちの真実」への気づきが深まっていき、不安や孤独の思いが薄れてくるからです。 世界のなかの孤独な「私」だったものが、「私」は世界と「ひとつ」だったと気づきはじめると、「私」を特別視する思いが薄れていきます。「私」を特別視する視野狭窄から解放されていく。それは、自分の都合を握りしめた自分自身からの解放です。 「仏教は、都合よく生きられたら幸せだという夢から覚める教えです」。これは、片山寛隆師の言葉です。 「幸せって何ですか」とお尋ねすると、ほとんどの方は、「健康で、お金があって、生き甲斐があること」とお答えになります。とするとです、「健康でないと不幸」、「お金がないと不幸」、「生き甲斐がないと不幸」ということになりませんか。 「これでないと不幸」という思い込みが、視野狭窄です。「都合よく生きられたら幸せ」というのも、同じように、視野狭窄です。こんな視野狭窄から解放されると、幸せになれるのですがね。 ちなみに、こんな話を聞いたことがあります。心理学者の河合隼雄先生の診察室に、一人の男性が訪ねてきて、「もう、何も生き甲斐がないので、死のうと思うんですが」と言ったそうです。 そこで、河合先生は、「そうですか。しかし、生き甲斐があって、生きているのは、当たり前ですけれど、何も生き甲斐がなくて、生きているというのは、すごいことではないですか」と、おっしゃた。 すると、その男性は、しばらく考えてから、こう言ったそうです。「そうですか。それなら、もう少し生きていることにします」と。 こういう、長閑(のどか)な話にひかれるのは、年を取ったせいかもしれませんが、若い時に見た、こんなテレビドラマのひとこまも、忘れられません。 坂本九主演の「うちの大物」というドラマなんですが、調べてみましたら、1967年のフジテレビで放送されれたものでした。 宇野重吉演じる御隠居「テッペイさん」が町内を散歩していると、通りかかりの男性が、挨拶をして、「何をなさっておられますか」とたずねるのです。 「テッペイさん」が、「いや、何もしておりません」と答えると、その男性は、「いや、なにもなさっていない。それは、たいしたものですな」と感心するのです。「テッペイさん」は、「いや、どうも」と言っただけでしたが、このシーンが忘れられません。 身体が元気なら、たいていは、何かをしていないと落ち着かないものでしょうが、平然と、「何もしておりません」と言った「テッペイさん」も、それに対して、「それは、たいしたものですな」と感心していた男性も、たいした人物だと思いました。何もしていないことに、たいしたものだと感心する人がいる。そういう味のある設定を、ドラマで使える時代だったのです。 後年、明治の俳人・正岡子規の随筆『病床六尺』で、こんな文章に出遇いました。「余は今まで禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きている事であった」と。 「いのちの真実」への気づきが深まっていくにつれ、人は、「何かをしていないと落ち着かない」というところから、「何もしないで平気でおれる」ように成っていくようです。何かを「すること」(Doing)でなく、そこに「いること」(Being)に光がある。 現代の人には関心が持てないかもしれませんが、仏道を歩んだ先達の言葉には、こういう静かな光を感じます。いくつか、ご紹介します。 「『ねばならん』ということが なんにもなくなって いちめんの なむあみだぶつ なむあみだぶつ」(浅田正作) 「なにかを 求めあるくこころ いつしか失せ よくみれば ここには 萌えいずる 草の芽」(帰家温座、榎本栄一) 「波瀾万丈のようなれど ふりかえれば なにごともなかったように ただほのぼのと光だけ」(光だけ、榎本栄一) よく言われる、「小欲知足、和顔愛語」というのは、生き方目標標語でなく、「自分自身」から解放されていくと、自ずとそうなっていくという、結果なのです。 「忙しい心は 病んでいる心 のんびりしている心は 健やかな心 静かな心は 聖なる心」。これは、インドの古い格言です。人がめざす境地は、どこの国でも、同じなんでしょうね。 最後に、もうひとつ。「いのちの河は ゆるやかに 河口に近づいた。 キラキラと 海が光っている」。酒井正知師の言葉です。 海のことは、阿弥陀様におまかせですが、こういう長閑な河口にたどり着きたいと思います。 さて、それでは、本日は、ここまでにいたします。まとまりのない話に、お付き合いくださいまして、ありがとうございました。 次回は、3月21日の春の彼岸です。どうぞまたお参りください。本日は、ありがとうございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…。
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