あらためまして、こんにちは。ご多用のところを、ようこそお参りくださいました。暖かくなりましたね。あちこちの桜が咲き始めまして、いよいよ春も本番の気配です。 私事ながら、あと一週間で、私がこの紫雲寺の住職を継職しましてから、ちょうど30年となります。で、そろそろ次の世代にバトンタッチ、と思っておりましたら、この30年目に、阿弥陀様から思わぬ贈り物を頂きましてね。 昨年の5月頃から、急に、全身が痛くて動けなくなりました。そんな状態のまま何週間か経ってから、ふと思ったのです。これはきっと、阿弥陀様からの贈り物だと。 それなりに健康で、体が思うように動いている間は、いくつになっても、残り少なくなった「人生」に、真剣に向き合えませんでしょう。そんな私に、「しっかりしろ」と、病を頂いた。そう思ったのです。 それからも、寝たり起きたりで、ほとんど何もできない日暮らしですが、村上速水先生が、かつておっしゃった「病気をして、嬉しいとは思わないが、有り難いと思うようになった」というお言葉を、少しは味わえるようになりました。 そんなことを思いながら、今回は、ご案内のように、「光の中で」という題で、お話しさせて頂きます。思いつくままの、いささかまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくの間、お付き合いください。 さて、まあ、「いまさら」の感もいたしますがね。病気になって、改めて、限りある「いのち」を思いました。 先にも申しましたように、年を取っても、それなりに健康で、体が思うように動いている間は、今日も明日も明後日も、ずっとそのまま続いているように思って、なかなか人生に真剣に向き合うことがありません。 「いつまでも 生きている気の 顔ばかり」という川柳がありますが、鏡をのぞいて、それは、こういう顔のことだと思いました。笑えない川柳です。 実際、限りある「いのち」を思うと、違うのですね。たとえば病院で「あと3ヶ月のいのち」と言われたような場合、二度と帰ってこない一瞬一瞬を歩いていることに気づくでしょう。 「あと3ヶ月」と言われなくとも、私たちは、二度と帰ってこない一瞬一瞬を歩いているのですが、「生活」のなかでは、そのことに気づいていませんね。「死ぬ」ことを考えたとき、はじめて「人生」が問題になってくるのです。 「再び通らぬ 一度きりの尊い道を いま歩いている」。念仏詩人・榎本栄一さんの「道」という詩です。 私たちの、苦しみの根元は、死を思う不安でしょう。元気なうちから、死を思って不安に苦しむのは、人間だけです。他の生き物、犬やネコにはない苦しみです。私たちには、人間に生まれてきたがゆえの苦しみ(人間苦)があるのです。 解決すべき問題が、人間にはあるのです。蓮如聖人が、「後生の一大事」(『御文』、白骨、聖典 p.842)とおっしゃったのは、そのことです。 「人と生まれし悲しみを知るものは、人と生まれし喜びを知る」。これは、仏道を歩まれた先達、金子大榮先生のお言葉です。 死ぬことへの不安だけでありません。私たちは、様々な問題にぶつかって、思い通りにならない人生を、悩み苦しみながら生きています。そんな「人と生まれし悲しみを知るもの」のために説かれた教えが、仏教です。 仏教は、私たちの人生に、人間として生きていく方向性を与える教えです。 その教えを、ひとつのたとえ話として、絵にしたのが、これ。いつもご覧いただく、「海に浮かぶ三つの島」の絵です。 これは、仏の目に映っている「いのちの真実(全体像)」でして、私たちには、この水平線から上の世界しか見えていません。 ここでは、この島のように、私とあなたは別の人間です。となると、他の誰よりも我が身が可愛いという、自己中心的な感情が、自然と生まれてきますでしょう。 ところが、私たちは、そんな大事な「自分」が、いずれは死んでいくことを知っているのですから、これは不安ですよ。 そのうえ、自分を大事にすればするほど、私とあなたの間の溝は広がり、どんどん孤独になっていきます。そんな私たちが、いちばん孤独を感じるのは、やっぱり、死んで逝くときではないですかね。 自分を大事にしているつもりが、生きていることが常に不安で、孤独にさいなまれている。それが、私たちではないですか。 そんな私たちに、仏教は、目に見えない「いのち」の奥底では、みんなつながっていて、「ひとつ」なのだと、教えてくれています。こんなふうにです。 私たちが、アミダ仏の世界、「浄土」と呼んでいるのは、この「ひとつ」の世界、仏様の世界のことです。私とあなたが分かれる以前の、区別も差別もない「本来のいのち」の世界です。 私たちは、みんな、この「浄土」から生まれてきて、また、この「浄土」へと帰っていくのです。この絵をよく見ると、この世の出来事は、すべて、いわば「仏の掌の上」での出来事であることに気づきます。 私たちは、自分の努力で生きていると思っていますが、本当はそうではないのです。私たちは、いのちの奥底で、「仏いのち」に支えられ、生かされて生きているのです。 「私を生かしておる 力というものに 帰っていく歩み それが仏道」。これは、宮城しずか先生の言葉です。 念仏詩人・榎本栄一さんに、こんな詩があります。
私は どこからきて どこへ 人生は旅です。この旅から帰っていく家が、浄土なのです。旅をしている私たちが孤独なのは、この帰って行く家を忘れてしまったからです。 浄土は、私たちの「いのちの故郷」です。聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、そのことに深く頷けたら、きっと、この世の旅は、孤独ではありません。 お念仏を称えることは、大事ですよ。阿弥陀如来は、仏の目にしか見えていない「いのちの真実」を、名号となって、私の耳に、説き続けてくださっている。 ナムアミダブツ、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。「迷うなよ、気づけよ、目を覚ませよ、帰って来いよ」と、私の称えるお念仏となって、導き続けてくださっているのです。 この、名号に込められた「浄土へ帰れ」という呼びかけに深く頷いて、「私にはまだ見えていない世界だけれど、ナムアミダブツの導くままに、浄土に向かって、生きて行き、帰って往こう」と、こころが決まったとき、「信心を獲得」した言うのです。 そのときから、少しづつ、人生の味わいが変わってきます。というのは、少しづつ、「いのちの真実」への気づきが深まっていき、不安や孤独の思いが薄れてくるからです。 私たちは、ボランティア活動だとか、サークル活動だとか、人とつながることで、孤独でないことを確認しようとしますけれど、それは、元気な間だけです。人とつながっているだけでは、死んで逝くときには、やはり孤独ですよ。 私たちは、人との関係を回復することも必要ですが、もっと大事なのは、仏との関係を回復することです。いのちの奥底にある、「あなた」も「私」もない、仏の世界にまで、気づきが深まってこそ、本当の意味で、人と共感できるのです。みんな「仏の子供」なんですよ。 そんな気づきを詠んだ、念仏詩人、榎本栄一さんの詩があります。「ひかりほのかに」という詩です。 ひかりほのかに
世の苦悩にいきるひとを (榎本栄一『念仏のうた 常照我』) 仏との関係は、聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかに、おのずと回復してくるものです。 「信なくば、つとめてみ名を称ふべし、み名より開く、信心の華」という道歌があります。聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、「浄土」への道は、向こうから開いてくるのです。 「お念仏のこころ」に触れた喜びの詩を、ひとつご紹介します。何度かご紹介いたしましたが、念仏者だった東井義雄(とうい・よしお)先生の、「支えられてわたしが」という詩です。 支えられてわたしが
ざしきに上がればざしきが
そればかりではない
ああそればかりじゃない (東井義雄『いのちとのふれあい』) 「独り生まれて、独り死んでいくのだ」と思っていたけれど、そうではなかった。あらゆるものに、あらゆるいのちに、支えられて、わたしは生きているのだ。ああ、それだけではない。聞いても聞いても忘れてしまうわたしを支えて、気づけよ、気づけよと、どこまでも願いつづけてくださっている、ありがたい「いのち」だった、と。 私たちは、独り生まれ、独り死んでいくのではないのです。「お経様に、独生、独死、独去、独来と、書いてある」とおっしゃる方もありますけれど、それは違うと思いますね。 お経様(『仏説無量寿経』巻下、聖典 pp.59f.))には、その言葉の直前に、「人、世間愛欲の中に在りては」と書かれているのです。「世間愛欲の中に在りては」というのは、「私」と「あなた」は別の人間だという「娑婆世間」のなかにあっては、という意味でしょう。 「『私』と『あなた』は別の人間だ、目に見える世界が全てだ」と考えていると、人は、孤独です。「独生、独死、独去、独来」です。ですが、本当は、そうではないのです。私たちは、無数の生き物や品物に支えられて生きている、仏の「いのち」に支えられて生きているのですよ。 お念仏とともに生きる人には、ひとりのときはあっても、独りぼっちのときはありません。 ところで、その、お念仏なんですが、門徒さんのあいだで、だんだんお念仏の声が聞こえなくなってきましたね。全国的な傾向のようですがね。 月参りに伺っても、そうですね。『正信偈』のお勤めは唱和なさる方でも、お念仏になると、はたと黙ってしまわれる。 気になっていたもので、あるとき、おたずねしたことがあります。「お勤めはなさるのに、お念仏はお称えにならないのは、どうしてですか」と。 そうしたら、こう、おっしゃった。「いや、それは、ご院さん、ナマンダブ、ナマンダブ、なんんて、宗教みたいやないですか」と。「宗教」なんですがね、真宗は。 宗教の「宗」という字は、「ウ冠」に「示」と書きます。「ウ冠」というのは、家の屋根を表しています。そして、「示」の方は、横に「申」と書くと、「神」という字になる。 つまり、「宗」という字は、本来、ご先祖を神として祀った御霊屋(みたまや)を表しているのです。一族の人々にとって、もっとも大切な場所ですね。 一般的に言えば、「宗」というのは、生きていく上でも、死んでいく上でも、こころの拠り所となる、精神的な要のことです。 「宗教みたいやないですか」とおっしゃった方は、おそらく、新興宗教のことを考えておられたのだろうと思いますが、本来、「宗教」というのは、人生にとって一番大事な教えのことなのです。人生の拠り所として、宗教は大事ですよ。 真宗は、「お念仏を称える」ことが、教えの核なのですが、皆さんは、お念仏を称えていらっしゃいますでしょうかね。 「み仏をよぶ わがこえは み仏の われをよびます み声なりけり」。甲斐和里子先生の歌です。 「ナムアミダブツ」と称えると、「ナムアミダブツ」と聞こえます。「こころに届くのは、耳から入ったものです」とおっしゃった方がおられました。確かに、そんな気がします。 「アミダ」というのは、インドの言葉で、「無量寿」(永遠のいのち)、「無量光」(はてしない光)という意味です。 人生は短かい。明日のいのちも分からない。この意識が、人を、永遠なるものに向かわせるのですよ。 自分は、限りある命を生きている「ちっぽけ」なものなのだと気づいて、初めて、大きな「いのち」の働きへの気づきが生まれてきます。 大きな「いのち」の前に立って、ちっぽけな吾が身の分を知ると、敬虔な思いに満たされて、おのずと頭が下がる。それが、「南無」する、「拝む」ということです。 目に見える世界が全てで、何でも科学で解決できると思っていると、なかなか、敬虔な思いというのは、生まれてきませんね。 かなり前に聞いた話です。有名な話ですのでお聞きなったことがおありかもしれませんが、ある北国の小学校で、先生が、子供たちに、「雪が溶けたら何になる」と問いかけたそうです。 すると、ほとんどの子供が、「雪が溶けたら水になります」と答えたのですが、一人だけ、こう答えたといいます。「雪が溶けたら、春になります」と。 実際に、こういうことがあったかどうか分かりません。子供の言葉遊びだという人もありますけれど、考えてしまいました。いかがですか。 「雪が溶けたら水になる」というのは、目に見える科学的な事実です。ですが、それだけのことです。そこには、私の居る場所がありません。 それに対して、「雪が溶けたら、春になる」という言葉には、明るさと、温もりを感じ、大自然の営みの只中にいる思いがします。私を包み込む、大きな「いのち」の働きを感じます。 「雪が溶けたら、春になる」。目に見えない大きな働きへの、敬虔な感情といいましょうか。私を包み込む、永遠無限の大自然の営みを感じる言葉です。目に見えないものへの、こういう感性は、大事だと思いますね。 「大いなるものに 抱かれてあることを 今朝ふく風の 涼しさに知る」。これは、禅宗の山田無文老師の歌です。この「大いなるものに 抱かれてある」という気づきこそ、この身の救いです。 私は、仏の手のひらの上で、生かされて生きているのです。そのことに気づいたら、もう、何も思い悩むことはありません。
生きるものは生かしめ給う 藤原正遠先生の詩(うた)です。生きるものなら生かしてくださるし、死ぬるものなら死なしてくださる。いのちのことは、いのちにおまかせです。このことに本当に目覚めたら、死ぬことへの不安はなくなります。 真宗の教えを聞いておりますと、死後に浄土に往生させて頂くことが救いのように思ってしまいますが、大事なのは、そういうことではないのです。 本当に大事なことは、私たちが、摂取不捨の光につつまれていること、大いなるものに抱かれていることを、今生で、知ることなのです。 さて、あと少しだけお話しして終わります。 「念仏を称えても、一向に、安らかな心になってきません」とおっしゃる方がありますけれど、念仏は、私たちの願いを実現するための呪文ではありません。 こんな話を聞いたことがあります。金子大栄先生のお母さんが病気になられて、「肉体的な苦痛の中では、心から如来のお慈悲を喜び、念仏することができないが、どうすればよいか」と訴えてこられた。 そのとき、金子先生は、「お慈悲を喜んでお念仏するのではなく、お念仏の申さるることがお慈悲であります」と、返事の手紙に書かれたということです。ちょっと長いのですが、金子先生のお手紙を読んでみます。 母へ 金子大榮 「…さて『御慈悲を喜ぶ心が起こらぬ』という御歎きですが、それは病める身には御尤(ごもっとも)の事に存じます。 私たちの心は苦しい時には苦しいだけであり、悲しい時は悲しいだけにしか出来ていません。生きたいときには生きたい心で一杯であり、死にたくないときには死にたくない心で一杯であるのが、ありのままの相(すがた)であります。その心の中へお慈悲を喜ぶ心を注ぎ込もうとしたり、その心を転じて有難い心になろうというのが無理といわねばなりません。 されば『唯せつなまぎれ』にてもお念仏の申さるることが有難いのであります。御慈悲を喜んでお念仏を申すのではなく、お念仏申さることが御慈悲であります。せつなまぎれの中からも、お念仏の申さるるが御慈悲であって、それは母上の御計らいではありませぬ。 凡夫の『せつなさ』に御慈悲がまぎれこんでお念仏となって下さるのです。されば、お念仏を申して有難うなるのではありません。お念仏の申さるることが有難いのであります。お念仏の申さるることの外に有難いことがあると思わるるは計らいであります。 称える心は如何ようであろうとも、称えらる、お念仏が浄土へ送り届けて下さるのであります。 近くに居りませぬこと不幸の至りですが、たとえ御側に居りましても、これだけのこと以外に申し上ぐるようもありません。よくよく御覧の上、猶、御不審にて落ちつかぬ点もあらば、また御知らせ下さい。またまた申し上げます。 十月十六日(昭和八年) 大榮(五十三歳) 母上様(七十一歳) このお手紙の大筋は、こうです。 「私たちの心は苦しい時には苦しいだけ、悲しい時は悲しいだけ。それが私たちの心の、ありのままの相(すがた)です。それを、この苦しみも悲しみも、仏様から頂いたものと思って、喜こぼうとしても無理なことです。 ですから、「唯のせつなまぎれ」(唯の苦しまぎれ)のことであっても、お念仏が称えられたとしたら、とりもなおさず、そのことが有り難いことなのです。 凡夫のやるせない心に、仏様の御慈悲がまぎれこんで、お念仏となってくださるのです。ですから、お念仏を申して有り難うなるのではなくて、お念仏を申せること、そのことが有り難いのです。 称える心がどうであっても、称えられるお念仏が、浄土へ送り届けてくださるのです」と。 『歎異抄』(第9条)にある、親鸞聖人と唯円房の応答を思わせるような、心のこもった美しい文章です。ちょっと難しいところもありますが、何度でもお読みになって、味わって頂きたいと思います。 お念仏は、「浄土へ帰ってこい」という、阿弥陀仏の呼び声なのです。それは、誰がどんな思いで称えても、変わりありません。お念仏は、いわば、阿弥陀仏から届いた浄土への道案内です。 「ひとりでも 行かねばならぬ 旅なるを 弥陀にひかれて 行くぞうれしき」。これは蓮如上人のお歌だと聞いています。阿弥陀仏の呼び声(お念仏)にひかれて帰っていく旅は、一人旅より嬉しい。分かりますね。 「一輪の 花をかざして 今日もまた 浄土へ帰る 旅を続けん」。これは甲斐和里子先生のお歌です。この「一輪の花」というのは、お念仏のことだと聞いたことがあります。 米沢英雄先生は、「どういう境遇に おかれても 生きぬく力 それが信心」とおっしゃいました。お念仏が、浄土への道を示し続けている。ですから、つまずいても、転けても、また立ち上がって、次の一歩を踏み出せる。 浄土への旅は、死出の旅ではなくて、この世を、生き切っていく、生き尽くしていく旅です。 私は、大きないのち(御仏)に、生かされて生きているのです。私が、念仏に励むのではなく、私は、念仏に励まされて、また一歩、お浄土への旅を続けます。お念仏は、浄土への応援歌です。 さて、それでは、本日は、ここまでにいたします。まとまりのない話に、お付き合いくださいまして、ありがとうございました。 次回は、9月23日の永代経法要です。半年ほど先ですが、どうぞまたお参りください。本日は、ありがとうございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ…。
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