釋昇空法話集・第82話

救い

右脳回帰

(2023年9月23日 永代経法話)
 では、あらためまして、こんにちは。秋らしくなってまいりましたね。前回、春のお彼岸にお目にかかってから、もう半年も過ぎたわけですが、皆さん、お変わりなくお過ごしでしょうか。

 私は、体調が、いまひとつで、「掲示板が変わっていないけど、ご院さん、大丈夫ですか」と、ご心配を頂いたりしておりますが、お陰様で、首から上は元気なもので、本日も、皆さんとご一緒に聞法のご縁を頂くことができましたこと、ありがたく存じております。

 本日は、ご案内のごとく、「救い」(右脳回帰)という題で、しばらくお話させて頂きます。

 実は、この夏にお参りに来られた方から、「救いって何ですか」というお尋ねを頂きましてね、このお尋ねが、今回のお話の発端なんです。

 この「救いとは何か」というお尋ねは、おそらく、「仏教でいう救いとは何か」という意味だと思いますが、「これはいい質問だ」と思いました。

 と言いますのは、基本的に、宗教というのは、どんな宗教でも、人を「苦」から救う教えでしてね、宗教の核は「救い」なのです。

 ですが、仏教でいう「救い」は、おおよそ、私たちの日常的な感覚で期待する「救い」とは違うので、分かりにくいのです。  そこで、この機会に、お釈迦様は、本当は、何を求めて修行なさり、どんなことを伝えようとなさったのか。私なりに、もう一度確かめてみようと思ったわけです。

 思いつくままの、いささか、まとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いください。

 さて、その「救い」なんですが、これは、だいたい、楽しいときや幸せなときに、思うことではありませんね。

 そうではなくて、お金の問題とか、健康の問題とか、人間関係とかで苦しんでいて、自分ではどうしていいのか分からない。そんなときに願うのが、「救い」でしょう。

 仏教も、もちろん、苦しんでいる人に、救いの手を差し伸べる教えなんですが、そういった生活上の個々の問題を都合よく解決しようという教えではないのです。そうではなくて、仏教は、究極の心の平安をめざす教えなのです。

 あるいは、「そんなことより、やっぱり具体的な個々の問題を解決してほしい」と思われるかもしれませんが、個々の問題は、私たちの「心」の上に乗っかっているのです。「心」の状態が変われば、個々の問題の受け止め方も変わってきます。仏教が問題にしているのは、そこなんです。

 仏教では、まず第一に、「この世は苦だ」(一切皆苦)と説かれています。これは仏教独特の考え方でして、かつて、欧米の学者から、「仏教は虚無主義(ニヒリズム)だ」と誤解されたことがありました。

 もちろん、仏教はニヒリズムではありませんが、実際、私たちの日常的な感覚から言えば、この世には、「苦」だけでなく、「楽」もあるように思えるのです。それを、「一切皆苦」(例外なく苦だ)と言い切っているのは何故か。

 それはです、私たちの心が煩悩に支配されていることに、仏陀(目覚めた人)が気づかれたからなのです。

 そんな私たちが、「楽」だ「苦」だと言ってみても、それは、煩悩に支配された囚人の思いにすぎません。支配されているものに、本当の自由はない。それが、「一切皆苦」ということの意味です。

 仏教が説いているのは、この煩悩の支配から開放されて、本当の自由を取り戻す方法なのです。これが、仏教の「救い」です。

 この教えを、非常にシンプル、かつ具体的に説いた短い経典があります。初期の経典(中部経典)にでてくる「一夜賢者」(いちやけんじゃ)の教えです。その一部をご紹介いたします。

  一夜賢者の偈

   過ぎ去れることを追うことなかれ
   いまだ来たらざることを念うことなかれ

   過去、そはすでに捨てられたり
   未来、そはいまだ到らざるなり

   されば、ただ現在するところのものを
   そのところにおいてよく観察すべし

   揺らぐことなく、動ずることなく
   そを見きわめ、そを実践すべし

   ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ
   たれか明日死のあることを知らんや

   まことに、かの死の大軍と
   遭わずというは、あることなし

   よくかくのごとく見きわめたるものは
   心をこめ、昼夜おこたることなく実践せよ

   かくのごときを、一夜賢者といい
   また、心しずまれる者とはいうなり

         (増谷文雄 訳 『中部経典』より)

 1行目と2行目に、「過ぎ去れることを追うことなかれ。いまだ来たらざることを念うことなかれ」とあります。これが、煩悩に支配されないための具体的なアドバイスです。

 日常の私たちは、何もしていないときでも常に休みなく頭のなかでオシャベリをしています。常に何かを考えていると言ってもよいでしょう。

 過去を誇ったり悔やんだり、未来に期待したり不安を抱いたりして、決して〈いま・ここ〉にとどまっているということがありません。こんな私たちの、心のなかのオシャベリを止めて、〈いま・ここ〉にとどまれというのです。

 お話したかもしれませんが、以前、私は、御法事なんかで、お勤めのあとで、ときどき尋ねてみたんです。「どこへ行ってこられました」と。

 そしたらね、「ずっとここに居りました。どこにも行ってません」と、みなさんお答えになりました。ですがね、体はここに居ても、心がここに居なかったのではないですかね。

 お勤めが始まったら、いつのまにか、子供の頃のことを思い出して後悔したり、先行きを思って、いつまで生きられるか、年金はどうなるのかと、不安になったりしてね。心は、過去へ未来へと走り回って、〈いま・ここ〉にとどまっているということがありません。皆さんは、どうですか。

 あちこち走り回ってくるから、お勤めが終わるころには、疲れてしまってね、「はよ終わらんかなあ」ということになるんですよ。

 その、いつのまにか、私たちを、過去へ未来へと引き摺り回しているもの、それが「煩悩」なのです。

 ですがね、「過去」は過ぎ去ってしまいましたから、いまさらどうしようもありません。「未来」はまだ来てはおりませんから、まだどうなるか分かりません。

 私たちは、煩悩に引きずられて、そんな「どうしようもない」世界と「どうなるか分からない」世界をうろうろしているものですから、いつまでも心がしずまらないのです。

 では、どうすればよいのか。偈の5行目と6行目のところに、「されば、ただ現在するところのものを、そのところにおいてよく観察すべし」とあります。

 「ただ現在するところのもの」というのは、五感で捉えることのできる事柄のことです。たとえば、お線香の香りがした。その香りは、過去のものでも未来のものでもなく、ただ〈いま・ここ〉に「現在するところのもの」ですね。

 「そのところにおいてよく観察すべし」というのは、その香りから過去を思い出したり、未来の何かを想像したりすることなく、そのお線香の香りを、ひたすら感じつづけよ、ということです。

 過去と未来は、頭の中にしかありません。そういう幻影のようなものから、〈いま・ここ〉に「現実に在るところのもの」に、しっかり意識の焦点を移すことで、煩悩の支配から脱しようというのが、仏教の修行です。

 いかがですか、お釈迦様の教えようとなさったことが、お分かりになりましたでしょうか。

 さて、実は、脳科学の研究から、この教えと同じようなところに辿り着いた人がいます。ジル・ボルト・テイラーという女性の脳科学者です。

 ジル先生は、1996年、37歳のときに、左脳から大出血と起こして、死にかけましたが、幸運にも病院に運ばれ、8年間のリハビリを経て、もとの健康を取り戻しました。

 その間のことを記録したのが、『奇跡の脳』という本です。有名な本ですから、お読みになったことがおありかもしれませんね。

 そこに書かれていることが、さきほどの「一夜賢者」の教えと、まことによく似ておりまして、面白いので、ほんの一部ですが、ご紹介いたします。(逐語引用ではありません)

 ジル先生は、言います。「(左脳の出血が広がるにつれて)思考は遠のいていきましたが、平和な感覚が広がり、騒がしい脳内のオシャベリも止まり、どこまでも広がる満たされた感覚がやってきました。意識はまるで、神の恵を受けているかの恍惚感の中にありました。

 時間の感覚さえ無くなり、畏敬の念を覚えるような「今この瞬間」という感覚に足を踏み入れました。そこはとっても美しい場所でした。

 身体の感覚は外部との関係が曖昧になり、身体全体が、周りの空間に溶け込んでいるように感じられました。

 私の自己認識は大きく変わりました。自分が宇宙と同じくらい大きなエネルギーの「球」だと感じました。完全に右脳の意識へと移行し、自分の本質は、広大で、まるで音のない幸せに満ちた海を泳ぐクジラのように、魂が自由に飛び回っているような感じでした。

 生きているって何て素晴らしいことなんだ、50兆個の細胞のかたまりが、ここで、ひとつのいのちとして栄えている。細胞一つ一つが働いてくれていることに感謝しました。そのあまりの素晴らしさに、畏敬の念をおぼえ、謙虚になりました。

 左脳の働きが無くなれば無くなるほど、解放感につつまれ、穏やかで、幸せでした。神に祝福されているようでした」と。

 そして、左脳を回復させる8年間のリハビリのあいだ、ジル先生は、右脳によってもたらされた、どこまでも静かな平穏や、宇宙との一体感が失われてしまわないように、意識的に、自分自身の思考の手綱を握り続けました。

 そして、「左脳のコントロール方法」をみつけたのです。それは、意識の焦点を五感に向けるという、「一夜賢者」の教えに説かれていたものと、ほとんど同じ内容で、こういうものです。

 「意識が、〈いま・ここ〉にいることが、内なる安らぎにつながる。〈いま・ここ〉にいるためには、現在の瞬間に起きている生理的な体験に注意を向ける必要がある。

 タピオカのプニプニした食感を舌の上で感じたり、アロマキャンドルの香りを嗅ぐことだったり、山の頂上で広がる全景の威厳を肌で感じること。それから、洋服の肌触りを感じること。読経に聞き入ること。

 それを頭で分析したり、良し悪しを判断したりせず、あるがままに感じること。

 そうすることにより、意識は左脳マインドが生み出した騒がしい物語のループから抜け出して、右脳マインドを取り戻すことができる。そして、永遠の平和が、いまここにあることを、再び実感できる」。

 いかがですか。お釈迦様の教えと同じものが、2500年も後の、脳科学者のなかに浮かび上がってくるというのは、面白いですね。左脳が損傷しなければ、おそらく、こんな気づきは浮かんでこなかったと思いますがね。

 もう一冊。このあいだ、興味深い本を読みました。〈ネドじゅん〉という人の『左脳さん、右脳さん。』という本です。

 この本によると、ネドさんは、普通の家庭の主婦で、自称、大阪のオカン。若い頃に心身症を患ったことから、心理ワークや精神医学に関心をもち、以来30年近い自己探究の末、ある日とつぜん頭の中の思考が消えた、というのです。

 何の予兆もなく突然でした。自分の部屋で、パソコンに向かっていたときのことです。パチンとスイッチを切ったように、あたまのなかから思考が消えたんです。

 そのとき、世界がひどくキラキラと透明に見え、感動が体を突き抜けていった。そして、「私が、世界に、帰ってきた」という、震えるほどの強い感動を経験した、ということです。

 その、頭の中の思考を消す実践方法は、ネドさんの「右脳さん」が教えてくれたという「エレベーター呼吸」に、意識の焦点をあわせて、お腹にまで下ろし、意識が、左脳の、切れ目なく続くオシャベリや自動思考に巻き込まれることをさける、というものです。

 改めて学ばせてもらったことは、筋肉と同じで、使われなくなった脳細胞は痩せ細って、力を無くす、という指摘です。ナルホドと納得。左脳を監視して、そのオシャベリや自動思考に巻き込まれないようにしていれば、いずれは、左脳が力を失って、沈黙するというわけです。「薬ありとて毒を好むべからず」という親鸞聖人のお言葉を思いました。

 左脳は、言語や、言葉による思考を司る脳です。他にも、過去や未来を考えることや、自他を区別することも、左脳の働きです。昔の人はご存知ないことですが、「煩悩」は、左脳の働きに関係があるようです。

 ごく大雑把に言って、「右脳」は「感じる脳」、「左脳」は「考える脳」です。現代は、左脳偏重の時代ですが、大昔は、右脳の方が優勢だったと言われています。

 「右脳」が優勢だったのは、いつ頃までかというと、定説は無いのですが、今から4000年くらい前までではないか言われています。

 お釈迦様がお生まれになったのは、今から2500年ほど前ですが、そのころ、ほとんど時を同じくして、中国の孔子、ギリシャのソクラテスなど、歴史に残る宗教家や哲学者が、輩出しました。その時代を枢軸時代と言います。

 「左脳」の優勢が確定したのは、そのころで、「左脳」促進タイプの哲学者たちと、「右脳」回帰タイプの宗教家たちが輩出したのではないかという考え方もあるようです。

 お釈迦様は、「一夜賢者」の教えからも分かりますが、「右脳」回帰タイプです。現代は、左脳偏重の時代ですから、精神的バランスのためにも、非常に大切な教えではないかと思います。

 ところで、本来、仏教は、仏が説かれた、仏に成る教えです。ですが、それが時代とともに、仏に成る仏教ではなく、学問仏教へと変質していきます。その様子を少しだけ見ておこうと思います。

 これまで見てきたように、仏陀がお説きになったのは、決して難しい教えではありませんので、実際、お釈迦さまが生きておられた頃には、結構たくさんの人々が悟られたように伝わっています。

 『長老偈(ちょうろうげ)』『長老尼偈(ちょうろうにげ)』という、当時の悟られた方々の詩集には、男女あわせて3百数十名ものお名前がでてまいります。

 その頃は「仏陀」というのは、固有名詞ではなく、普通名詞でした。悟った人はみな、仏陀(目覚めた人)とか、アラカン(尊敬にあたいする人)とか、呼ばれました。

 ところが、お釈迦様がお亡くなりになったあとの、経典編集会議で、「仏陀」は、お釈迦様を表す固有名詞となり、他の悟った人々は、アラカンと呼ばれることになりました。

 さらには、「仏陀が世界に同時に二人現れることはない」(中部「多界経」)と考えられるようになり(一世界一仏主義)、仏陀に成るまでには、「菩薩」として、永遠ともいえるほど長いあいだ、利他行を続けてこられたという物語が生まれます(ジャータカ)。

 そのジャータカには、「ウサギ本生」物語や、「シビ王の鷹と鳩」の物語、法隆寺の玉虫厨子に描かれている「捨身飼虎」の物語など、自己犠牲による利他修行の物語が沢山ありますが、実際のお釈迦様の伝記には、そういった自己犠牲を思わせるような話はありません。

 かくして、仏陀の神格化が進み、超人的な仏陀観が生まれました。

 部派仏教(小乗仏教)は、そういった悟りへの可能性を失いながら、経典の解釈、学問化に進んでいきます。

 大乗仏教は、だれもが仏陀と成れる、お釈迦様の仏教に帰ろうと する運動だといわれていますが、実際には、ジャータカに基づいた菩薩道を採り入れたため、ジャータカに出てこない女性は仏に成れないとされました。

 さらには、五十二段階ある『華厳経』の菩薩の修行階梯が採り入れられ、誰もが仏陀になる可能性をもっているが、この修行階梯を上りきるには、永遠ともいえる時間がかかると考えられるなど、到底、仏には成れないシステムのなかで、どんどん学問化が進んでいきました。

 仏教は、学問化が進むことで、思想が深められたと言われますが、はたして、思想に、私たちを「救う」力があるのでしょうか。

 右脳回帰の教えのはずが、どんどん左脳化していく仏教。みなさんは、どう思われますでしょうか。

 さて、本来の仏教は、右脳回帰の教えだったと、お話してまいりましたが、宗教というのは、たいてい、右脳回帰の教えのように思います。私たちの頂いている「浄土の教え」も、タイプは違いますが、右脳回帰の教えです。その話を、少しだけして、終わりにします。

 『歎異抄』(第12条)に、「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや」(聖典 p.631)とあります。

 (浄土真宗の教えは、本願を信じて、念仏を申さば、仏に成る、ということに尽きる。そのほか、どんな学問が、往生に必要なのか)という意味です。

 浄土真宗は、仏に成る教えですが、たとえどんなに学問があっても、往生には、全く関係ないのです。法然聖人は、「愚者となって往生す」とおっしゃっています。

 言い換えれば、往生・成仏には、左脳(考える脳)の働きは関係ない。というより、むしろ、左脳の働きは邪魔になる。それが、「愚者となって往生す」ということなのですよ。

 さきにもお話しましたように、私たちが、仏の世界(宇宙の源)につながることを、妨げているのは、「左脳」なんです。

 ですから、このお念仏の教えは、左脳がなんと言おうと、耳を貸さずに、「本願を信じ、念仏申さば、仏になる」と、そのまま受け取って、お念仏を称える身となる。それが、仏の世界への第一歩です。

 皆さん、お念仏を称えてらっしゃいますか。お念仏は、称えて、聞くことが大切です。お念仏を聞いているとき、私たちは、〈いま・ここ〉にいるでしょう。〈いま・ここ〉にいると、心が安らかになってきますよ。

 それは、その間、「左脳」のオシャベリや自動思考から、解放されているからです。

 いつのまにか、何かを考えている自分に気づくたびに、「ああ、また左脳の自動思考にまきこまれていたんだな」と、うなずいて、お念仏をなさってみてください。こころが静かになっていきますよ。

 そんなことが繰り返されるうちに、いつか、左脳のオシャベリの声が聞こえなくなり、右脳からの光が漏れてくる。〈ネドじゅん〉さんは、そう言っています。

 〈いま・ここ〉にいることができる。そういう、昔だったら、特別な人の体験だったものが、今や、普通の生活者にも、起こるようになってきたようです。面白い時代になったと思います。

 右脳は、生命の源「宇宙のエネルギー意識」につながっているようです。その「宇宙のエネルギー意識」が、「アミダ」と名乗ってくださった。それが「名号」です。私たちの称えるお念仏は、その宇宙エネルギー意識との共振です。

 「アミダ」というのは、無量寿、無量光、永遠の命、無限の光です。私たちは、動物だけでなく、山も川も、みんな、その永遠の命の「ひとつのあらわれ」なんです。みんな、ひとつの命を生きている「いのちの仲間」、アミダ(仏)の子供なんです。

 私たちは、みんな、そのアミダの世界(浄土)から生まれてきて、また、その世界へと帰っていくんです。アミダの世界(宇宙エネルギー意識)は、私たちのいのちの故郷です。

まさに、梯實圓先生のおっしゃったように、「私の根っこは宇宙全体」なのです。

 最後に、その気づきを詠んだ歌三首をご紹介いたします。

「あやぐもの 流れるごとく 我がいのち 永遠(とわ)のいのちの 中を流れる」。これは藤原正遠先生の歌です。

「生と死の うねりをなして 常住の いのちのみずの 流れゆくなり」。これは暁烏敏先生の歌です。

「一輪の 花をかざして 今日もまた 浄土へ帰る、たびを続けん」。これは甲斐和里子先生の歌です。

 では、本日は、ここまでといたします。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、ありがとうございました。

 次回は、12月10日の報恩講です。どうぞまたお参りください。本日は、ようこそお参りくださいました。ありがとうございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……。



次の法話へ


紫雲寺HPへ