釋昇空法話集・第84話

愚者になりて

安心(あんじん)への道

(2024年3月20日 彼岸会法話)

 まずは、久しぶりに、「三帰依文(さんきえもん)」を唱和いたします。

 あらためまして、こんにちは。ようこそのお参りでございます。日差しも、明るく暖かくなりまして、桜もちらほら咲き始めました。春ですね。「春が来た」という童謡がありますが、今年もその春を迎えることができました。ありがたいことです。

 朝起きて、雨戸を開けると、寒くて暗い部屋に、明るく暖かい日差しがサッと差し込んできましてね、こわばった体と心が、フッと緩むのを感じます。思いますに、阿弥陀仏の本願他力のお働きというのも、この日差しのようなうものではないでしょうかね。

 限りある人生を思い、死への不安に苦しんでいる私に、阿弥陀仏は、「まことの安らぎ」(安心、あんじん)をもたらそうと、慈悲の温もりと智恵の光を向けてくださっている(本願力回向)。

 ですが、その光は、自分自身がたてた雨戸に遮られて、こころの中まで届いていないのです。それでね、浄土の教えを聞いても聞いても、こころが安らかにならないのだと思います。仏法を聞いてあれこれ考えているより、雨戸を少し開けてみたほうがいいのです。

 親鸞聖人のお師匠さま、法然聖人は、こうおっしゃっていたそうです。「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」(『末燈鈔』聖典 p.603) と。これは親鸞聖人の最晩年、88歳のときのお手紙に記されている言葉です。

 阿弥陀仏の本願の力に救われる道、「まことの安らぎ」にいたる道は、「愚者になる」ところに開かれる。「愚者になる」というのは、自分の愚かさを自覚する身となる、ということです。

 人は、沙婆(しゃば)で生きているうちに、いつのまにか世間の知恵が身についていき、いわば、賢くなるわけですが、娑婆の価値観は、優劣や上下を競う相対的なものですから、それでは、いつまでも本当の安らかなこころにはなれません。

 「胸の中をのぞきこむな。顔をあげて聞け。賢さを捨てて外に出よ。外はもうすでに夜が明けている」(出典不詳)。これは 安田理深先生の言葉です。

 賢さを捨てて、愚者になる。真宗の言葉で言えば、「自力を捨てて、他力に帰す」ということです。「まことの安らぎ」にいたる道は、ここにしかない。

 ということで、今回は、この「愚者になる」という言葉を、話の題にいただきまして、気休めでも慰めでもない、「まことの安らぎ」への道を辿ってみたいと思います。思いつくままの、まとまりのない話ですが、どうぞしばらくの間、お付き合いください。

 さて、「愚者になる」というテーマでお話しさせていただくわけですが、いかがですかね。私たちのこの日常的な感覚から申しますとね、「愚者になる」というのは、何かピンとこないように思われませんですかね。

 私たちは、「愚者になる」というより、むしろ、何とか賢く生きたいと思ってますからね。社会的地位であれ、学問の世界であれ、教養の世界であれ、自分の力を信じて、上へ上へと、上を目指して努力する。それが、賢い生き方なんだと、私たちは考えている。ですからね、「愚者になる」と言われてもピンと来ないのです。

 ですが、なぜ、この上へ上へというハシゴを登っていこうとするのかというと、上に行けば行くほど、安心できると思ってるからなんですね。つまり、私たちは、安心したいんですよね。

 まあ、たしかに、私たちには、いろいろ不安がありますからね、やっぱり、お金があったら安心だろうということになるわけでしょうけれど、では、「いくらあったら安心ですか」というと、「それは多い方が安心ですね」と、いうことになる。ですが、本当にそうなんでしょうかね。

 こういう話を聞いたことがあります。アラブの産油国の大富豪の話なんですがね。私たちの想像もできないようなお金持ちが沢山いるんです。その人たちは、たとえば、自家用ジェット機を何機ももっていたり、宮殿のような家をあちこちにもっていて、地下には核シェルターがあったりね、私設の軍隊を持っていたり、常にボディガードに守られたりして、暮らしているわけですよ。

 そういう、お金はいくらでもあって、安全に役立ちそうなものは、とことん揃えましたという、そういう人たちがですね、これでもう安心だと思っているかというと、そうではないんですね。

 そういう人たちが、「不安で不安で仕方がない」とおっしゃる。「何が不安なんですか」といいますとね、こうおっしゃった。「何かことが起こったときに、私の周りにいるボディガードたちから、私自身をどうやって守ればいいのかと思うと、それが不安でしかたがない」と。

 人は、上に行くほど、孤独になって、もうこれで安心というところには行き着けないんですね。

 私たちも、たいてい、似たような生き方をしていますから、他人事ではないのですが、そのことに気づいたら、あるいは、「愚者になりて往生す」という言葉が聞こえてくるようになる、かもしれません。

 「愚者になる」というのは、自分の愚かさを自覚する身となる、ということです。わかりにくい言葉ですが、実践的には、阿弥陀仏のお働き(本願力)に対して、「分別しない、はからわない、疑わない」という意味だと思います。

 たしかに、お念仏を称えるものを、もれなくアミダ仏の世界に受け入れるというような、お経の言葉を、「疑いなく」信じるというのは、難しいと思います。

 ですが、そもそも、お経というのは、「私」を救うために説かれたものなんです。お経のなかの、神話のような表現は、夢物語ではなくて、言葉では表現できない真実世界を伝えるための方便なんです。分かるとか、分からないとか、分別せずに、ただただ味わうものなのです。

 浄土の教えを聞くときも、そうです。これは「私」を救うために説かれた教えだと、味わうことが大事です。

 で、その浄土の教えですが、ひとつ、「たとえ」を使って、お話しいたします。またもや理屈っぽい話に戻るようで心苦しいのですが、まず、このホワイトボードの中央に、線を引いて、右と左に分けます。

 右が「此岸(しがん)」。私たちの世界です。(穢土)
 左が「彼岸(ひがん)」。仏様のお悟りの世界です。(極楽浄土)

 此岸は、自他を区別して「我執」に苦しむ、「我」の世界です。
 一方、彼岸は、「すべてはひとつ」という、安らかな「無我」の世界です。

 この彼岸から此岸への働きかけを、他力(本願力)といいます。

 「悟る」というのは、苦しみの世界(此岸)から、安らかな世界(彼岸)に渡る、ということですが、これは、我執を握り締めたままの「私」(我)には、できないことなんです。「我」のまま「無我」にはなれませんからね。

 そんな私たちが、彼岸に渡る道は、彼岸からの働きかけ(他力)に乗ずるところにしかない。そのことを説いているのが、浄土の教えなんです。

 アミダ仏は、我執に苦しむ私たちを哀れんで、一切衆生を彼岸に招き入れたいという願いを起こして、彼岸から働きかけてくださった。その働きかかけが、「アミダ」という名乗り(名号)なんです。

 アミダ仏は、その名号を称えるものを、苦しみの世界から、安楽な世界(極楽浄土)へ、導こうとなさっている。「苦」から「楽」へ、そして「楽」が極まったのが「極楽」です。もっとも、この我執のもとである生身を引きずったまま、「無我」にはなれません。それで、「極楽」には死後に往生するというわけです。

 「極楽」というと、かなり前のことですが、テレビで、「極楽はあると思いますか」という、街頭インタビュー番組があったそうです。

 そのインタビューで、「極楽はある」と答えた人はなかったようですが、最後に質問された小学生は、「極楽って何?」といったそうです。

 これは、岐阜県にある、明知(あけち)鉄道という第3セクターの鉄道に、「極楽駅」という駅が新設されたことをアピールするための企画だったそうですが、「極楽」の知名度も落ちたものですね。

 皆さんは、どう思われますか。「極楽」はあると思われますか。

 極楽は、パラダイスのような場所だと考えられがちですが、そうではありません。親鸞聖人は、そういう誤解を嫌って、浄土という言葉を好まれ、次のように記しておられます。

 「阿弥陀仏の浄土は、かたちのない無上涅槃(むじょうねはん)の世界です。アミダ仏という名号は、その無上涅槃の働く様を知らせるための手段です」(『末燈鈔』趣意訳、聖典 p.602)。

 「アミダ」というのは、無量寿(永遠のいのち)、無量光(限りない光)を表す言葉です。無上涅槃(法性法身)は、常に、衆生済度の働きかけをしておられるのですが、「かたち」がないため、私たちには、そのことがわかりません。

 そこで、無量寿、無量光(方便法身)という「かたち」となって、かたちなき無上涅槃の働き(本願力)を伝えようとなさったのが、アミダという仏の名前なのです。つまりは、彼岸から此岸への呼びかけが、アミダという名号なんです。

 「涅槃を、真如、一如、仏性、等々ともいいます。仏性というのは如来のことです。この如来は、微塵世界に満ち満ちておられます。…阿弥陀仏は、光明です。光明は、智慧の形です」(『唯信鈔文意』趣意訳、聖典 p.554)と。

 「涅槃(ねはん)」というのは「如(にょ)」(あるがまま)のことです。その「あるがまま」を「あるがまま」に見られない者たち(私たちのことですが)のために、「如」からやってきたのが「如来(にょらい)」です。

 この「如来」は、宇宙に遍満していますが、「涅槃」と同じで、「かたち」がないので、私たちには分かりません。そこで、「アミダ」(無量光)という「かたち」をもった如来が現れました。それが「アミダ仏」です。その光は、「あるがまま」を照らし出す「智慧」として働いています。

 宇宙はアミダ仏の光に包まれている。壮大なスケールの言葉ですが、いかがですか、イメージできますでしょうか。

 「アミダ」というのは、「無量」(無限)という意味です。「すべてはひとつ(一如)」という、宇宙の真実の姿(あるがまま)を表す言葉です。

 「有量」(有限)な私たちは、「無量」に含まれている。有量は無量の一部ですからね。たとえて言えば、私たちは、アミダ仏の手のひらの上にいるのです。

 ですが、私たちは、そのことに気づかず、こころに雨戸をたてて、「特別な自分」という「我執」の殻に閉じこもっているんです。

 お念仏を称えるとき、このアミダの名乗り(名号)が、私の我執の殻を突き破って、私の耳に聞こえてくる。それこそ、阿弥陀仏の本願のお働きが届いたしるしです。

 『歎異抄』に、「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」(第10条、聖典 p.630)(人の分別できるものではない、ということが、念仏の本義です。はかることも、説明することも、考えることもできないものだからです)とあります。

 100年ほど前、三重県の一身田(いしんでん)に、村田静照(じょうしょう)という、高声(こうしょう)念仏で有名な和上がおられました。その村田和上は、この「念仏には無義をもって義とす」という言葉を、素直に受けて、「理屈はよし。まず念仏せよ」と教えておられたそうです。

 この和上のもとに、あるとき、清沢満之先生が、門弟一人を伴って、訪れ、「私はなかなかお念仏が唱えられませんが、どうすればあなたのようにお念仏が唱えられますか」と尋ねたところ、村田和上は、何も言わずにただ念仏を唱えていた、ということです。

 清沢先生は、哲学者でしたから、念仏を称えることに苦労なさったのでしょうね。

 念仏は、ただ称えるだけ。愚者になって称える念仏が、浄土往生への道なのです。

 さて、もう少しだけ、お話しして、終わることにいたします。

 いかがですか、お念仏を称えておられますか。お念仏は大事ですよ。お念仏は、あるがままの世界への道を開いてくれます。あるがままの世界こそ、「まことの安らぎ」の世界です。

 いつもお話しすることですが、「あるがままの世界」というのは、どこか遠くにあるのではなく、「今・ここ」にあるんです。問題は、私たちが、その、「今・ここ」にいないということなんです。

 体は「今・ここ」にあっても、こころが「今・ここ」にいない。こころは常に、過去へ未来へと彷徨い出て、不安の種を拾ってきます。過去のことを考えて、悔やんだり。未来のことを考えて、不安になったりしているんです。

 過去も未来も、頭の中にしかない世界です。つまり、思考によって生み出されている幻の世界なんです。そんな幻の世界を彷徨っているから、こころがいつまでも安らかにならないのです。

 現代の脳科学によると、私たちの脳は、左脳と右脳に分かれていて、ごく大雑把に言うと、左脳は「考える脳」、右脳は「感じる脳」です。

 想像の世界で考えつづけているのが、「左脳」。世界を感じているのが、「右脳」です。

 「愚者になる」というのは、考えないということ。左脳のオシャベリを止める、左脳の思考を止めるということです。

 あのね、お念仏を称えていると、だんだん頭の中のオシャベリが鎮まってきますよ。ただ、お念仏は、称えることより、聞くことが大事なんです。

 お念仏を「称える」ことは、だんだん惰性になっていって、気づいたら、何かを考えながら、称えているということになってしまいます。落語の「小言念仏」みたいにです。

 ですが、お念仏を「聞く」ということに集中していると、頭の中のオシャベリは、いつのまにか、聞こえなくなっています。

 もし、いつのまにか、また頭の中のオシャベリが始まっていることに気づいたら、「あ、また始まった」と気づくだけで止まります。

 何度も何度もオシャベリが始まっても、そのたびに「あ、また始まった」と気づくだけで、問題ありません。いずれは、聞こえなくなっていきますから。

 何かを始めて習慣になるまで、少なくとも3週間はかかるといいます。ゆっくりやればいいのです。ゆっくり、おおらかに。安らぎを求めて急ぐというのも変でしょう。

 私は念仏瞑想と呼んでいますが、以前、「それは自力の念仏ではないのか」と言われたことがあります。まあ、そう思う人の気持ちもわかりますが、私は、そうは思っていません。

 「称える」というのは能動でしょう。ですが、「聞く」というのは受動だと思います。念仏を聞く、というのは、念仏を受け取るということ。お浄土から届いたお念仏を受け取る。そういう思いで、お念仏を称えたらいいのです。仏法の基本は「受け身」です。

 いずれ、左脳のオシャベリが、小さくなっていき、お説法で聞いていたことに、頷けるようになっていきます。何も起こらなくても、いいではないですか。まあ、それくらいおおらかな気持ちで、続けることですね。

 世界は、考えるものではなく、感じるものです。お念仏を称えて、世界を感じていると、すべての人につながっていることが、わかります。

 宇宙(他)と切り離された「私」はいないのです。すべては「ひとつ」。みんな、「永遠のいのち」(無量寿)のひとつのあらわれなんです。「無我」というのは、この体験のことでしょう。

 「無我」だと知ったら、もう自分を守る必要はないのです。

 「無量寿の いのち一つと 知らされて 今はやすけし われも宇宙も」(藤原正遠)

 「人間の魂に平和がやってくる。自分たちが宇宙と一つであることを悟るとき』(ブラック・エルク)

 自分を守る必要がないと気づいたら、こころの雨戸が、おのずと開き、アミダ仏の光が差し込んできます。熱は冷たいところを目指し、光は闇へ入っていくようにです。

 阿弥陀仏の本願他力は、常に、闇に差し込もうとしている、慈悲の光です。その光に触れたとき、常に、守られ、願われているという言葉の意味に、気づくのですよ。

 「まあ、どこにおっても、お慈悲の中だからのう」(山本仏骨)

 ナムアミダブツは、闇に届いている光です。雨戸を少し開いてみるときですよ。

 「気がつけば ひとりごとのような 念仏を申しおり かすかにあかりが さしてくる」(榎本栄一)

 「日が西の空に沈んでから きょういちにち 光の中で過ごせしことに気づく」(榎本栄一)

 お念仏とともにある生活のあじわいというのは、この「あるがままの世界」に暮らす喜びなんです。その先にあるのは、「極楽浄土」です。

 では、本日は、ここまでといたします。まとまりのない話に、お付き合いくださいまして、ありがとうございました。

 次回は、9月22日の永代経法要です。半年ほど先ですが、どうぞまたお参りください。本日は、ようこそお参りくださいました。ありがとうございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……。



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