釋昇空法話集・第84話

楽になろう

体感する浄土真宗

(2024年9月22日 永代経法話)

 まずは、「三帰依文(さんきえもん)」をご一緒に唱和いたしましょう。

 あらためまして、こんにちは。お忙しいところを、ようこそのお参りでございます。

 ようやく秋の気配が漂うようになってまいりました。「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、今年の夏も異常に暑かったものですから、そろそろ夏の疲れが出てくるころかもしれませんね。どうぞ、お気を付けください。

 さて、本日は、永代経法要です。亡き人を偲び、亡き人をご縁として、聞法のひとときを持たせて頂く。それが、私たちの永代経法要です。

 聞法というのは、仏様の教えを聞くことです。どんな教えかというと、それは、ひとことで言うと、「楽になろう」という教えなんです。

 お釈迦様は、苦しみに満ちたこの世界(一切皆苦)を離れて、この上ない安らぎの境地(涅槃寂静)に至る道をお説きになりました。つまりは、「楽になる道」です。

 私たちの頂いている浄土の教えでも、そうです。お経様に書かれています。「一切衆生を救うという仏様がおられる。その仏の名前を阿弥陀(あみだ)といい、その仏の世界を浄土(じょうど)という。浄土に向かって生きよ」と。

 「浄土」というのは、仏様の世界(境地)のことです。阿弥陀仏の浄土を、極楽浄土・安楽国といいます。つまりは、極め付けの楽(極楽)、この上ない安楽な境地(安楽国)に向かって生きよということですね。

 苦界から楽土へ。仏教は、私たちの人生に、人間として生きていく方向性を与える教えです。そして、この教えを聞いて、「楽になろう」というのが、浄土真宗です。

 そこで、今回は、私自身、できるだけ肩から力を抜いて、「楽になろう」というタイトルで、お話ししてみたいと思います。話のテーマは、「体感する浄土真宗」です。

 思いつくままの、いささかまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくのあいだ、お付き合いください。

 さて、浄土真宗では、聴聞ということを大切にいたします。「ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり」(『蓮如聖人御一代記聞書』)。これは蓮如聖人のお言葉です。

 ですが、皆さんは、これまで、聴聞を重ねてこられて、どうでしょうか。聞いても聞いても、よく分からない、「楽にならない」ということは、ありませんでしょうか。

 私は、聞いても聞いても、よく分からなくて、長い間、悩み苦しみましたが、実は、仏法は、聞いたら分かるのかといえば、そうではないのです。

 そのあたりのことが、先達・伊藤元(いとう・はじめ)先生のご本では、こんなふうに書かれていました。

 「仏法を聞いて、分からん、分からんとしきりに言っていたら、先輩から、『仏法を聞いても分からないという人は、聞いていないのだ』と言われた。
 仏法を聞いて分からんということは、聞いていない。分かろうとしているだけだ。自分の理解という枠に入れようとしているだけのことだ」と。

 仏法を聞いて、分かろうとするのは、仏法を、自分の理解という小さな枠に入れようとしているだけだ。だから、仏法が、聞こえてこない。これは、本当に大事なことを教えてくださっているのです。

 いかがですか、みなさんは。聞いたら分かるはずだと思っていませんか。今はまだ勉強していないし、聞いていないから分からないけれど、聞いていたら、そのうち分かるはずだと思っていませんかね。

 まあ、最初は誰でも、「聞いたら分かるはず」だと思って聞くのでしょうね。私自身を振り返っても、そう思います。ですが、仏法は、分かろうとして聞いているあいだは、聞こえてこないのです。

 以前、こんな話を聴いたことがあります。訓覇信雄(くるべしんゆう)先生は、よく、こんな話をなさったそうです。ご自身のお若いころのことです。

 伊勢のご自坊の、檀家さんのおじいさんが、青年時代の訓覇先生に、「若さん、他力の信心というのはな、にぎって、はなして、むこうから、ということやぞ」と。にぎって、はなしてと、身振りを交えて、教えてくれた。

 それが始めは何のことやら判らなかったが、仏法をわが身に即して学ぶにつれて、深く頷けてきた、ということです。

 こういう話を聞かせてくれる人は、少なくなりましたね。まあ、それはともかく、始めはみんな、握り込もうとするのです。「聞いたら分かる」というのも、そうです。

 「聞いたら分かるはず」というのは、自分の力(自力)で分かるはず、ということでしょう。そんな私たちは、いわば、仏法が自分の手のひらにのせられると思っているのです。仏法を、手のひらにのせて計れるものだと思っている。

 いつも言うように、ゴルフボールは握れても、カボチャやスイカは握れない。仏の大きな智慧を、自分の小さな知恵で握り取ろうとするのは、虫取り網で、お月様を捕ろうとしているようなものですよ。

 そうではないのです。仏法は、握ろう、取りに行こうとせずに、心を開いて、ただただ、「聞こえるまで聴く」ものなんです。

 この「聞こえるまで聴く」というのも、そうですよ。取りに行こう、追いかけようという思い(聴)が無くなったら、おのずと聞こえてくるものなのです。「にぎって、はなして、むこうから」です。

 「信心」も、そうでしょう。『歎異抄』(後序)に、「弥陀よりたまわりたる信心」と、あります。「信心」は、自力で得るものではなくて、他力(阿弥陀仏の本願力)によって、たまわるものなのです。

 『歎異抄』(第16章)にも、「日ごろのこころにては往生かなうべからず」(日ごろのこころでは、極楽には往けませんよ)と示されています。

 「日ごろのこころ」というのは、「自分が、自分が」という「自力」のこころです。そんな「自力」のこころでは、仏法に説かれていることは体感できないということです。

 ちょっと理屈っぽい話ですが、仏法の教えというものは、お悟りによって体感された(いのちの)真実を、言葉にしたものです。これを言葉のまま頭で理解しても知識にしかなりません。お悟りによって体感された真実を本当に味わうには、言葉になった教えを、もう一度、体感するしかありません。

 たとえば、コーヒーをフリーズドライにすると、それを味わうには、もう一度、コーヒーに戻すしかないようなものです。

 お釈迦様の「お悟り」は、自力の苦行を捨てられたときに、おのずと体感されたものです。つまりは、「にぎって、はなして、むこうから」なのです。ですから、そのお悟りを、もう一度、体感するにも、「にぎって、はなして、むこうから」しかないのです。

 「大声の自力が黙るとき、他力の声が聞こえてくる」。仏教で説かれている本当に大事なことは、これひとつです。

 この、頭の中で大声でしゃべっている自力を、仏教では「煩悩」と言います。

 この煩悩を滅して「楽になる」ことを説いているのが仏教なのですが、はたして、煩悩を滅することなどできるのでしょうか。

 実は、「滅する」という言葉の原語は、「二ローダ」といいます。「二ローダ」というのは、「コントロールする」と言う意味の言葉です。

 煩悩を滅するというのは、煩悩をコントロールするということ。とすれば、煩悩をコントロールするとは、どうすることかという話になってまいります。その方向に、話を続けます。

 さて、日常の私たちは、何もしていないときでも、常に休みなく頭の中でオシャベリをしています。常に何かを考えていると言ってもよいでしょう。

 過去を誇ったり悔やんだり、未来に期待したり不安を抱いたりして、決して〈いま・ここ〉にとどまっているということがありません。

 その、いつのまにか、私たちを、過去へ未来へろ引きずり回しているもの、それが煩悩なのです。

ですがね、「過去」は過ぎ去ってしまいましたから、いまさらどうしようもありません。「未来」はまだ来てはおりませんから、まだどうなるかわかりません。

 私たちは、煩悩に巻き込まれて、そんな「どうしようもない」世界と「どうなるか分からない」世界をうろうろしているものですから、いつまでも楽にならないのです。

 過去と未来は、頭の中にしかありません。そういう幻影のようなものから、〈いま・ここ〉に「現実に在るところのもの」に、しっかり意識の焦点を移すことで、煩悩の動きに巻き込まれないようにする。

 たとえば、お香の香りに、意識の焦点を向けてというのも、そうです。香りであれなんであれ、五感に受け止められるものは、全て〈いま・ここ〉に、現実に在るものです。そこに意識の焦点を向けていると、煩悩のオシャベリに巻き込まれずにおれます。

 以前、ご紹介しました、お釈迦様の「一夜賢者」の教えにも、これと同じことが説かれていましたが、煩悩をコントロールするというのは、このことでしょう。

 こういう話をすると、「それは自力だ」とおっしゃる方もおられますが、どうでしょうね。たとえば、さきほどの、お香の香りに意識を向けるというのは、お香の銘柄や、値段を考えたりせずに、ただ香りを感じるということです。「感じる」というのは、受け身だと思うのですが、いかがですかね。

 こういった、頭の中のオシャベリを止めるというような話になりますと、現代の私たちは、脳科学の恩恵を受けることができるだけ、昔の人より、理解しやすいのではないかと思います。

 現代の脳科学によると、私たちの脳は、左脳と右脳に分かれていて、ごく大雑把に言えば、左脳は「考える脳」、右脳は「感じる脳」です。

 想像の中で、常に考えているのは、「左脳」の働き。それに対して、世界を感じているのは、「右脳」の働きです。いわば、「左脳が苦しみを生み、右脳が安らぎを生む」のです。

 安らぎや、美しさ、心地よさ、そういったことを感じるのは、右脳の働きです。それに対して、仏法で「煩悩」と呼んでいるものは、ほぼ左脳の働きと重なります。

 とすれば、極楽浄土や涅槃寂静といった、仏法が指し示している世界(境地)は、左脳の働きを鎮め、右脳の働きを促すところに、体感されるものだと想像できます。

 また、「自力」は左脳の働きに関係があり、「他力」は右脳の働きに関係があるようだということも、見当がつきますね。

 とは言いましても、こんなことが分かっても、ほとんど意味がありません。仏法は、受け身になって、受け入れることでしか、体感できないものなのです。「にぎって、はなして、むこうから」です。

 今日は、「体感する浄土真宗」というテーマでお話ししておりますが、現代は、体感することが難しい時代でもあります。

 特に、都市部では、そうです。音、光、空気、臭い、人混み、等々の刺激が過剰なため、人は、無意識的に、刺激を避けて五感をシャットアウトしているからです。

 都市部に住んでいると、感覚はどんど鈍っていく。これは、困ったことですが、大橋力(つとむ)著『音と文明』という本によれば、自然の中に出かけて、自然の音を全身で感じるようにすれば、感覚が回復するといいます。

 自然環境音には、人間が聞こえる周波数より高い、超高周波が、豊かに含まれていて、その超高周波は、聞こえないけれど、生命に作用する。

 実際、聴こえる心地よい音と一緒に、聴こえない超高周波音を体の表面から受けると、脳が活性化して、健康増進や、安らぎの感覚をもたらすそうです。

 ですが、ヘッドフォンでは効果がなく、都市環境音やテレビ、CDなどの音には超高周波成分は含まれていません。(せせらぎの音を録音したヒーリングCD なんかは効果がないということです。)それで、ライブで聴くしかないというわけです。

 吹く風にも、小川の流れにも、超高周波音は含まれているはずです。そんな自然の音を全身で感じるひとときを持つようになれば、都会に暮らす私たちの鈍った感覚も、おのずと回復していくに違いありません。

 心身が安らかになるだけでなく、〈いま・ここ〉にとどまる習慣も養えます。これは、皆さんにも、お勧めしたいと思います。

 では、もう少しだけお話しして終わります。

 「聞法してきたけれど、なかなか、お念仏は称えられません」という話を、よく聞きます。それもね、聞法した「仏の智慧」を、小さく握って「知識」にしているからですよ。

 「分かっている、知っている」というのが、知識です。その握りしめている手を放してお念仏する。そこに働きだすのが、「仏の智慧」です。「にぎって、はなして、むこうから」ですよ。

 私たちは、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、お念仏を称えます。この「阿弥陀(あみだ)」というのは、仏様のお名前です。「阿弥陀」という言葉には、「無量寿(むりょうじゅ)」、「無量光(むりょうこう)」という、二つの意味があります。

 「無量」というのは「量ることができない」という意味です。「寿」(寿命)というのは「時間」のこと。「光」(光明)というのは「空間」のことです。

 「量れない時間」というのは、過去も未来もない〈いま〉のこと。「量れない空間」というのは、あっちもこっちもない〈ここ〉のことです。

 つまり、〈いま・ここ〉というのが、阿弥陀という仏様のお名前の意味です。「名は体を表す」といいますが、阿弥陀というのは、〈いま・ここ〉のことなんです。

 私たちにとって確かなことは、〈いま・ここ〉に生きているということだけなのです。その唯一確かな〈いま・ここ〉に帰ってこいと呼びかけているのが、「南無阿弥陀仏」という、お名号です。そして、その呼びかけに、〈いま・ここ〉に帰りますと、応じるのが、私たちの、お念仏です。

 私たちの「こころ」は、すぐに「からだ」から離れて、どこかへさまよっていきます。けれど、そんなふうに、「からだ」と「こころ」が離ればなれになっている、「こころ、ここにあらず」というのは、本来の自分の姿ではない。

 そうではなくて、「からだ」と「こころ」が、〈今、ここ〉に重なっている。それが、「本来の自分」の姿です。

 実は、仏教が説いているのは、この「本来の自分」に戻って、かけがえのない「自分の人生」を生きるところに、人間の「しあわせ」があるということなのです。

 私は、この方向にこそ、「体感する浄土真宗」への道があると思っています。実際、過去世がどうの、来世がどうのと、言っても、それは頭の中にしかないことです。「いのちの真実」は、〈いま・ここ〉にしかないのです。常に彷徨いでている「こころ」を、〈いま・ここ〉にある体に引き戻す。そこに体感されてくるのが、「いのちの真実」、本願他力でしょう。

 「人生はチャレンジだ、努力すれば何でもできる」と考えている人には、受け入れにくいことかもしれませんが、人生は、基本的に、自分の思い通りには成らないものなのです。「生・老・病・死」は、与えられるもの。人生の基本は「受け身」なのですよ。

 とすればです、私たちにとって大事なことは、人生をきちんと受け止められること、人生の確かな受け皿となることではないでしょうかね。

 それは、さきほどからお話しております、「からだ」と「こころ」が重なって「本来の自分」に戻っていくということと、別のことではないのです。

 右手が「からだ」、左手が「こころ」。その「からだ」と「こころ」を重ねるところに、「本来の自分」が戻ってくる。

 何が起こっても、合わせる両手のなかに、「これが私の人生だ」と受け止めていける。両手を合わせる生活のなかに、人生の全てを受け止めていく。そこにこそ、かけがえのない「自分の人生」を生きる「しあわせ」がある。と思うのですが、いかがですかね。

 何かを努力して手に入れようとするところには、慢性的な欲求不満しかない。そうではなくて、その「何かが欲しい」という思いが解消されていくところにこそ、「こころの平安」がある。

 人生を両手で受け止めるといっても、人生には、私の両手では受け止めきれないことが、いろいろ起こってきますね。そんなときにも、雑念が湧いてくるままに、人生を受け止められないままに、聞法を重ね、お念仏を称える生活を続けていく、ということが大事なのです。

 何が起こっても、合わせる両手のなかに、「これが私の人生だ」と受け止めていける。聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、そういう「こころ」と「からだ」が、おのずと育ってくる。「仏法にお育てを頂く」というのは、そのことですね。

 法然上人は、お弟子さんから、「お念仏を称えていても、雑念ばかりわいてきます、どうしたものでしょう」と問われて、「雑念のままに称えなさい、私たち凡夫から、雑念のなくなることなどありません」とお応えになったそうです。

 もっと、おおらかにいきましょう。まずは、雑念にはこだわらず、こころ穏やかなときには、「私は、今、ここにいます」、こころ騒ぐときには、「私は、今、ここにいるでしょうか」。両手を合わせて、お念仏を称えるときに、そんなふうに、つぶやいてみるとどうでしょうかね。

 仏法は、ままならぬ人生を、こころ安らかに生きる智慧です。聞法を重ね、お念仏を称える生活のなかで、死ぬまで、お育てを頂いていく。それが、お念仏の教えを頂いた私たちの、生き方です。どうぞ、皆さん、ご一緒に、お念仏を称えてまいりましょう。

 では、本日は、ここまでといたします。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、ありがとうございました。

 次回は、12月8日の報恩講です。どうぞまたお参りください。本日は、ようこそお参りくださいました。ありがとうございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……。



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