釋昇空法話集・第87話

我執のかなた

じぶん このやっかいなもの

(2025年9月23日 永代経法話)

 まずは、「三帰依文(さんきえもん)」をご一緒に唱和いたしましょう。

 あらためまして、こんにちは。ようこそお参りくださいました。春のお彼岸以来ですね。お久しぶりでございます。暑い夏でしたが、皆さん、おかわりなくお過ごしでしょうかね。

 私は、昨年末に退院しましてから、おかげさまで、少しづつ元気になってまいりましたが、年を取ったせいか、時が過ぎるのが驚くほど速くて、一日が、あっという間に過ぎて行くように感じております。

 まあ、それは、今生での縁が尽きる日が駆け足で近づいてくるということでもありますが、そんな一日の尊さ、生きていることの有り難さに気づかせてもらえるのも、仏法にご縁を頂いたおかげと、ありがたく思っております。

 「この老いのぎりぎりでは 一日さまが ほとけさま 一日さまのふところで 目がさめたり またねむったり」。これは、念仏詩人・榎本栄一さんの詩です。

 人生で一番幸せなことは、安らかなこころで生きること。その、こころ安らかに生きる道を教えているのが、仏法です。ですが、仏法は、その道を直接指差しているというより、道を塞いでいる大きな石を取り除けば、おのずと道が開けるという教えなのです。

 その、大きな石、道を塞いでいる障害物、それを「煩悩」といいます。「煩悩」というのは、「他の誰よりも我が身が可愛いというこころの働き」のことでしたね。その煩悩の根本には、自己(我)への強い執着があります。その執着を「我執(がしゅう)」と言います。

 この「我執」という大きな障害物を取り除けば、その向こうに「こころ安らかに生きる道」が開かれる。それが仏法で説かれていることの核です。そこで、今回は、「我執のかなた」という題でお話しすることにいたしました。

 副題にあげました、「じぶん このやっかいなもの」という言葉は、相田みつをさんの詩から頂きました。

 例の如く、思いつくままの、いささかまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくの間、お付き合い下さい。

 さて、まずは、煩悩の話から始めます。皆さんも、「煩悩」という言葉はご存知のことと思いますが、いかがですか。…はい、頷いて頂いて、ありがとうございます。

 お釈迦様は、こう、お説きになりました。「人生は思い通りにならない苦に満ちている。苦の原因は煩悩である。その煩悩を滅すれば、苦のない悟りの境地(涅槃)に至る」と。

 皆さんも、人生が思い通りにならなくて苦しいと、お感じになったことがおありかもしれませんが、そのとき、「この苦しみの原因は煩悩だ」とお考えになりましたでしょうか。…ああ、これは少ないだろうと思いますね。

 もう一つだけ、お尋ねいたします。「煩悩」って、何だと思われますか。…いろいろ伺っておりますと、どうやら、「煩悩とは、欲望のことだ」と思っておられる方が多いみたいなんですが、皆さんは、いかがですか。

 たとえば、「欲望を抑えて、足ることを知るのが仏教だ」と思っておられる方もあるようですが、「足ることを知る」というのは、お釈迦様のおっしゃったことではなくて、中国の老子の言葉です。

 それが間違いだというわけではありませんけれど、「煩悩とは、欲望のことだ」と思い込んでしまうと、仏法の話を誤解してしまうかもしれません。

 私たちの苦しみの原因になっているという「煩悩」とは何か。仏法を聞いて行くうえで、まずは、これが最重要事項です。

 煩悩というのは、いつもお話しいたしますように、「他の誰よりも我が身が可愛いというこころの働き」のことですが、その根本は、この体と心に、これが「自分」だと執着することなんです。それが「我執」です。

 煩悩の根本は、自他を区別して、自分が大事という思いにしがみつくことです。これこそが、私たちの苦しみの原因なのです。

 「自分が大事」「他の誰よりも我が身が可愛いという」煩悩にとっては、この「自分(我が身)」というのは、何としても守らねばならない大切なものです。

 ところが、そんな煩悩は、何としても守りきれないということも知っているのですね。この「自分」は、いずれは死ぬのだということを知っているからです。

 何としても守らねばならない「自分」なのに、何としても守りきれないことを知っている。そのために、私たちは、常に、生きていることが不安なのです。お釈迦様が、「一切皆苦(いっさいかいく:人生は苦しみだ)」とおっしゃっているのは、このことはないでしょうかね。

 こんな生き死にの問題だけではありません。私たちの関心は、いつも、「誰よりも可愛い」特別な自分にあるのですね。神様・仏様に「無病息災、家内安全、商売繁盛」を願うというのも、そうでしょう。自分の得になることが起こるように、神様・仏様を利用しようとしているだけですよ。私たちには、神様・仏様より、「オレ様」が大事なのです。

 ですが、差別する者は、差別される者でもありまして、特別な自分は、傷つきやすいのです。褒められれば、舞い上がり、貶されれば、落ち込む。そして、こころのなかに、プライドとコンプレックスを、溜め込んでいく。これは重い荷物ですよ、人生という旅路にとってね。

 特別な自分は、つねに褒められたい、感謝されたい。生きているあいだも、死んでからも、死に際もです。ところが、なかなか、そうはいきませんね。もともと、この世は、自分の思い通りにはならないものなのです。

 結局、私たちは、そんな特別な待遇を要求する自分自身を、持て余して、悩んだり苦しんだりしているのですよ。まさに、「じぶん このやっかいなもの」です。

 それはみな、自分のこころなかにあって、「いのちの真実」を覆い隠している煩悩のためなのですが、私たちは、そのことに、なかなか気づけないのですね。だからこそ、何度も何度も、仏法に聞いていくこと、聞法していくことが大事なのですよ。

 仏教の最大のテーマは、自分自身を知ることです。聞法するというのは、仏法に自分を聞くことなのです。

 私たちはたいてい、自分のことは自分が一番よく知っているように思っておりますけれど、本当は、そうではないのですね。私たちが一番知らないのは、自分自身のことなのですよ。

 「自分とは何か」を、とことん掘り下げていくこと。それが仏法の本筋なのです。それは、「自分を問題にする」ということ、「自分の内を見る」ということですが、これはなかなか難しいことですね。

 自分を知るというのは、反省することではないのです。倫理や道徳といった世間的な価値観で、自分を反省してみても、心がだんだん暗くなるだけです。自分を知るというのは、そういうことではないと思いますね。

 「仏法」というのは、仏(目覚めた人)の目に映った、法(この世のあるがままの姿・いのちの真実)のことです。その「いのちの真実」を、まだ目覚めていない「私」に教えてくださっているのが、仏教です。

 真宗でよく言われる、「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)、煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生(しゅじょう)」(『歎異抄』第一条)というのも、仏の視点からみた「私」のことなんです。「罪悪深重、煩悩熾盛」というのは、「罪や悪が深く重く、煩悩が燃え盛っている」ということです。

 それは、私にはまだ見えていないことなのですが、たとえば、この黒丸を、煩悩まみれの私だとしますと、この黒丸が見えるのは、白い背景(ホワイトボード)の上にあるからですね。

 白い背景というのは、仏のことです。自分が「罪悪深重、煩悩熾盛」であるということは、仏の光のなかに置かれて初めて分かることなんです。それが分かったら、煩悩の身のままで、仏の手のひらの上にいることを知るのです。

 自分を知るといいますが、その知るべき「自分」というのは、単に、この黒い丸だけのことではなくて、「白い背景の上にある黒い丸」のことなのです。

 仏の光のなかで、自分を見ること。仏の視点から自分を見ると、煩悩の身のままで、仏の手のひらの上にいる。

 真宗は「ありのままで救われる」教えだと言われていますが、仏の視点をもたないと、ありのままの自分は見えません。この、仏の視点を持つことが「信心」なんです。

 「自分というものに 光をあてて お知らせいただく そのほかに 宗教というものが あろうか」(浅田正作「呟き」)

 「確かに死ぬる人間なれど よくみておれば みな仏の手掌(てのひら)で暮らしている」(榎本栄一「無辺の手掌」)

 浄土への道は、信心を得るところから始まります。ですが、信心は、アミダ仏の本願の力(他力)によって頂くものでして、煩悩まみれの自分の努力(自力)で得られるものではありません。

 「自力、他力」という言葉はご存知だと思います。「自力」というのは、我執に執われている自分の力です。一方、「他力」というのは、一切衆生を救おうと願われたアミダ仏の力のことです。

 仏教は、我執からの解放をめざす教えですが、我執である自分の力(自力)で、我執から解放されるということは、まず、できません。いつも申しますように、「右手で右手は叩けない」のです。

 そんな、自分の力(自力)では救われないことを自覚して、アミダ仏の力(他力・本願力)にゆだねよう、というのが、私たちの頂いている浄土真宗の教えです。

 「このわが身を 思い知らされるほかに 聞くということも 信ずるということも ないように思う」(浅田正作「聞思」)

 『歎異抄』(後序)に、「弥陀よりたまわりたる信心」と、あります。「信心」は、自力で得るものではなくて、他力(アミダ仏の本願力)によって、たまわるものなのです。

 ですが、信心はアミダ仏から賜るものだから、自分は何もしなくてよいというわけではありません。アミダ仏から賜る信心を、受け入れる場を作ることは必要です。「信じられない」というのは、受け入れ態勢が整っていないからです。

 自力無功を自覚した私たちにできるのは、「他力」の邪魔をしないことだけです。邪魔をしないというのは、いつもお話しいたしますように、こころのおしゃべりを止めるということです。お馴染みの言葉で言えば、「はからいを離れる」「分別を捨てる」ということですね。

 他力は常に呼びかけているのですが、自力(煩悩)が大声でしゃべっているものですから聞こえないのです。大声でしゃべっている自力を止めると、他力の声が聞こえてくる。

 自力(煩悩)を止めると、他力と共鳴する場(他力の働く場)がこころにできるのです。そこにできた空間が本願と共鳴する。他力の働く場となる。「信を得る」というのは、自力無功を知り、他力の働く場となることなのです。

 では、頭の中のおしゃべりを止めるには、どうすれば良いのか。それはです、頭の中に絶えず起こってくるおしゃべりに「気づく」ことです。「煩悩が動いた」と気づくだけで、煩悩の動きは止まります。

 それは実際にやってごらんになったらお分かりになると思いますが、『スッタニパータ』という古い経典にも、こう記されています。

 「世界における諸々の煩悩の流れを堰き止めるものは〈気づくこと〉です。煩悩の流れに〈気づくこと〉が、煩悩から私たちを守ってくれるのです。煩悩の流れは、この智慧によって塞がれるでしょう」(『スッタニパータ』 1035)と。

 ちなみに、現代の脳科学では、自他を区別し、自分を守ために常に考えている(おしゃべりをしている)のは、左脳の働きだと言われています。

 とすれば、使わなくなった筋肉は衰えていくように、我執のおしゃべりに気づいて、何度も止めていくうちに、我執はだんだん力を無くしていくということでしょう。

 先ほどの、「煩悩の流れは、この智慧によって塞がれる」というのは、そのことではないでしょうか。お釈迦様は、脳科学などご存知なかったはずですから、これは修行の中で体験的に学ばれたことなのでしょうね。

 しかし、煩悩は止まっても、無くなるわけではありません。信心を得ても、煩悩(我執)は残ります。それはですね、私たちが、この体を生きているかぎり、「私」と「あなた」は別の人間だからです。ですから、事あるごとに、「他の誰よりも我が身が可愛いというこころ」が蠢くのです。

 こんな言葉を聞いたことがあります。「仏法にご縁を頂く前は、〈自分が可愛いいのは、当たり前。何もやましいことをしているわけではない。ただ幸せになろうと努力しているだけなんだ〉と思っていたが、信心を頂いた後でも、そんな自分でしかないことが悲しい」と。

 しかし、「あたりまえ」だったものが、「悲しい」と思うようになっているのは、大きな変化だと思いますね。信心を頂いたからこそ、そういう思いが生まれるのでしょう。「罪悪深重、煩悩熾盛の我が身」というのは、そういう悲しい自分への気づきのことなんです。

 「自分がかわいい ただそれだけの思いで生きてきた それが深い悲しみとなったとき 違った世界が見えてきた」(浅田正作)

 そういう私を、悲しむ眼差しがある。煩悩に執われて苦しんでいる一切衆生を救いたいという、アミダ仏の大悲心です。

 「悲しみは 悲しみを知る 悲しみに救われ、涙は 涙にそそがれる 涙にたすけらる」(金子大榮)

 これは金子大榮先生の言葉です。人は悲しみにおいて仏の大悲心にふれる。こころのなかに、仏の悲しみを感じ、仏の悲しみと共鳴する場所がある。信心を頂いたということは、そういうことなのでしょうね。

 「浄土真宗に帰すれども 真実の心(しん)はありがたし 虚仮不実(こけ・ふじつ)のわが身にて 清浄(しょうじょう)の心(しん)もさらになし」(『正像末和讃』愚禿親鸞悲嘆述懐)

 これは親鸞聖人の『正像末和讃』の「悲嘆述懐(ひたんじゅっかい)和讃」に詠われている言葉です。「浄土の真実の教えに帰依しているけれど、とても真実のこころがあるとは言えない。嘘偽りばかりで誠実でない、この私には、清らかなこころなど、あるはずもない」という意味です。親鸞聖人の最晩年、85歳頃のお言葉です。

 これは親鸞聖人の絶望の言葉ではなくて、そういうご自身への深い悲しみのなかで、アミダ仏の大悲心に触れておられたのだと思います。

 一旦、本当の自分を知ったら、つまり、煩悩の身のままで、仏の掌の上にいるのが自分だと知ったら、たとえ煩悩が蠢いても、もとの自分にもどることはありません。それは、信心を得て、仏の視点をもらっているからです。

 仏の視点から、仏の手掌(てのひら)の上にいる「本当の自分」が見えるものですから、煩悩が蠢いても、むやみに苦しみ悩むことはない。信心を得たら、安らかなこころで生きられるようになる。真宗で「安心(あんじん)を得る」というのは、このことです。

 このあたりのことが、『正信偈』では、太陽と雲のたとえで詠われていますから、お勤めなさるときに、お探しになってみてください。これは、宿題ではなくて、お土産です。

 では、もう少しだけお話しして、終わることにいたします。

 ご承知のように、私たちが頂いている浄土真宗は、「自力」でなくて、「他力」で救われるという教えです。

 「他力」なんて考えられないかもしれませんが、「自力」の声が鎮まっていくと、感じることができるようになります。そのためには、こころを向ける方向が大切なのです。

 「こころを閉じてないで、こころを開け、オープンマインドが大事」などという言葉をよく聞きますが、煩悩まみれの人や世間に向かって、こころを開くと、またぞろ、世間の価値観に傷つくことにもなりかねません。

 煩悩まみれの世間に向かってこころを開くのではなくて、大慈大悲のアミダ仏(無量寿・無量光)に向かっていると、しがみついている煩悩の手が緩んで、閉ざしていた心が、おのずと開いてくる。「こころを開く」のは「自力」。「こころが開く」のは「他力」の働きです。

 蓮如上人が、「仏法をあるじとし、世間を客人(まろうど)とせよ」(『蓮如上人御一代記聞書』32)とおっしゃっているのは、そのことです。

 これは、「仏法の方にこころを向けていることが大切なんだよ。世間というのは、やってきても、すぐに帰っていくお客さんのようなものだから、ご主人の仏法がおっしゃるように応対すればよいのだよ」ということでしょう。「世間」というのは、仏法の方にこころを向けていても、ときどき起こってくる「煩悩」のことです。

 「人の目の中ではなく、如来の目の中で生きる」という法語があります。「煩悩まみれの世間の視点でなく、仏の視点から見た自分を生きる」いうことです。これも同じことを言っているのだと思いますね。

 私たち日本人には、本来、富士山のような大きな山や、千年杉のような大木、そういった尋常でないスケールのものに敬虔な思いを抱くという、感性(宗教性、霊性)があります。

 富士山や千年杉に心を向けるというのは、誰もができることではありませんが、大空を見上げることなら、誰にでもできるでしょう。

 一日一度は、大空を仰ぎ見る。大空を見上げて、心が開いてきたら、自分、自分と、しがみついている自分が、いかにちっぽけなものか、感じられて、我執の熱が少しでも冷めるのではないでしょうか。

 現代の私たちは、煩悩の世界を映し出すテレビに向かって、多くの時間を過ごしているのではないですか。そんな私たちだからこそ、一日一度は大空を見上げることを、お勧めします。

 そういうことが、私たちが、本来の霊性を回復し、アミダ仏(無量寿・無量光)という、途方もないスケールの存在に気づく、きっかけになるかもしれません。

 大空を見上げると、宇宙の中に、生かされて生きている自分を感じます。生かされて生きている、ということは、生きることが願われているということ。とすると、その願いとは何か。それはです、私を生かしているものへの気づきだと思います。

 本当の自分というのは、「白い背景の上にある黒い丸」でしたね。この黒い丸は、白い背景に支えられて生きているのです。煩悩の身のままで、仏の手掌の上で生きている。私がこのことに気づいて、安らかに生きること。それが、私を生かしているものの願いです。

 いつもお話しいたしますように、私たちはみんな、いのちの奥底でアミダ仏の永遠のいのちに支えられ、生かされて生きている「いのちの仲間」です。みんな、アミダ仏の浄土から生まれてきて、また、その浄土へと帰っていく「いのちの仲間」なんです。

 「私を生かしておる力というものに帰っていく歩み それが仏道」(宮城しずか)

 「みんなが助からなければ仏にならないと誓われた法蔵菩薩が、アミダ仏という仏になられたのだから、われわれは何もしなくていいんだ」というようなのは、理屈です。信心というのは理屈ではなくて、他力(アミダ様の働き)を感じることなんです。

 「〈ねばならん〉ということが なんにもなくなって いちめんの なむあみだぶつ なむあみだぶつ」(浅田正作「いちめんの」)

 お仏壇に掛かっている「ナムアミダブツ」という名号は、「目を覚ませ、仏の視点に帰れ、本当の自分を思い出せ」という、仏様からの呼びかけです。その名号が、私の称える「お念仏」となって、常に私に呼びかけてくださっているのです。

 私が、煩悩の夢から目覚めて、安らかに生きること。これがアミダ仏の願いです。そして、「目を覚ませ、仏の視点に帰れ、本当の自分を思い出せ」という願いを込めた呼びかけが、「ナムアミダブツ」なんです。

 「なむあみだぶつを となうれば ほんのしばらくでも このおろかな眼がひらく」(榎本栄一「念仏のりやく」)

 「なにかを求めあるくこころ いつしか失せ よくみれば ここには 萌えいずる草の芽」(榎本栄一「帰家穏座」)

 何でもない日常が、やさしく輝いている。みんな「いのちの仲間」なんだ。この気づきこそ、お念仏とともに生きる人生の味わいだと思いますが、いかがですか。ご一緒に、お念仏とともにある人生を、味わわせてもらいませんか。

 では、本日は、ここまでといたします。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、ありがとうございました。

 次回は、12月14日の報恩講です。どうぞまたお参りください。本日は、ようこそお参りくださいました。ありがとうございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……。

 お急ぎでない方は、どうぞ、総代さん方が準備して下さった、紫雲寺名物の「おはぎ」を召し上がっていってください。



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