釋昇空法話集・第88話

二尊の教え

「お念仏ひとつ」ということ

(2025年12月14日 報恩講法話)

 まずは、「三帰依文(さんきえもん)」をご一緒に唱和いたしましょう。

 あらためまして、こんにちは。ようこそお参りくださいました。お久しぶりでございます。今年もあと二週間ほどです。師走に入って急に寒くなりましたが、皆さんは、おかわりなくお過ごしでしょうか。

 昨年の今頃は、まだ入院中でしたが、おかげさまで、今年の報恩講は、また皆さんとご一緒に聞法のご縁を頂くことができまして、有り難く存じております。

 で、本日は「二尊(にそん)の教え」という題で、お話いたします。「二尊」というのは、お釈迦様と阿弥陀様のことです。ご存知かもしれませんが、浄土真宗は、一神教ではなくて、この二尊の教え(二尊教:にそんぎょう)だと言われております。

 浄土経典(『仏説無量寿経』)では、お釈迦様が、阿弥陀様の救いを、説いておられまして、お釈迦様は、阿弥陀様の救いを説くために、この世にお生まれになったと記されております。

 そこから、浄土真宗は、お釈迦様を「教主:きょうしゅ」、阿弥陀様を「救主:きゅうしゅ」とする、二尊の教え「二尊教(にそんぎょう)」だと言われているわけです。

 ですが、今回お話ししようとしておりますのは、実は、そういう伝統的な考え方についてではありません。そうではなくて、改めて、この二尊、お釈迦様と阿弥陀様の教えを見比べてみて、仏教の核心を確かめながら、私たち現代人の「安らかに生きる道」を考えてみたいと思いまして、こういう題にいたしました。

 例によって、思いつくままの、いささかまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくの間、お付き合いくださいますよう、お願いいたします。

 さて、報恩講のお知らせに合わせてご案内いたしましたように、今年の四月から、月に一度、「紫雲寺カフェ」という仏法談話会を持たせて頂いております。仏法にご縁のある人たちが集まって、お茶でも飲みながら、気楽に語り合おうという会です。

 その会では何を話してもいいわけですが、それでは返って話しにくいでしょうから、きっかけとして、毎回、「お題」(テーマ)を差し上げることにしております。これまで6回分の「お題」を挙げておきますと、こういうものです。

      第1回:「もしも あと三ヶ月のいのちだとしたら?」
      第2回:「幸せって?」
      第3回:「死んだらどうなる?」
      第4回:「あなたの〈お題〉は何ですか?」
      第5回:「今は昔の ... 振り返ってみれば?」
      第6回:「あなたにとって仏教とは?」

 できるだけ、私たちの関心と仏教との結び付きを考えて選んだ「お題」です。ですが、こういう「お題」を考えながらも、時々思うことなんですがね、果たして、この科学の時代に、浄土往生を願う人は、おられるのでしょうか。皆さんは、いかがですか。

 今は、お釈迦様の時代(2500年前)でも、親鸞聖人の時代(800年前)でもありません。現代は、科学知識が常識になった時代です。私たち現代人は、子供の頃から、目に見えるものが全てで、神や仏のような目に見えないものは迷信だと、教えられて育ちました。そんな私たちの耳には、浄土往生という言葉が、どんなふうに聞こえているのでしょうね。

 親鸞聖人は、「阿弥陀様の浄土というのは、色も形も無い〈悟りの境地)のことだ」(「自然法爾章」『真宗聖典』p.511趣意)とおっしゃっています。阿弥陀様の教えというのは、楽園に生まれることでなく、お釈迦様の教えと同じ、「悟り」を目指す教えなのです。ご存じでしたか。

 ちょっと古い話(大正9年、1920年)ですが、菊地寛の作品に「極楽」という短篇小説があります。おかんと宗兵衛という夫婦は、信心のかいあって極楽に往生したものの、随喜の涙を流したのは束の間で、やりばのない退屈に苛まれるようになり、「地獄とはどんなところか」と想像することだけが唯一の慰めとなった、という話です。

 仏教は、「悟り」という心の平安をめざす教えなんですが、この小説にあるように、「こころの平安」より「刺激」を求めているのが、今の私たちではないでしょうかね。

 例えば、テレビもラジオも消して、何もしないでいるとどうなるか。おそらく、3分も経たないうちに、退屈で仕方がなくなると思いますよ。皆さんも、一度お試しになってみてください。

 私たちは、何もしないでいると不安になってくるのです。というのも、人生は旅だとすれば、私たちは、旅の目的地も、自分の現在地も知らないからです。知っているのは、いずれこの旅が終わるということだけ。そんな旅は、不安ですよね。

 その不安を、何かをすることで、紛らわせているのが、私たちなんです。私たちは、その不安に気づきたくなくて、退屈として受け止めているのです。

 仏教というのは、そんな私たちの「こころの平安」をめざす教えです。その教えの基本は、伝統的に、たった四つの言葉で説明されてまいりました。皆さんのお手元の資料にあります、「四法印(しほういん)」というのが、それです。

 前のボードにも書き出してあります。ちょっと読んでみます。一番目が「諸行無常」(しょぎょうむじょう)、二番目が「諸法無我」(しょほうむが)、三番目が「一切皆苦」(いっさいかいく)、四番目が「涅槃寂静」(ねはんじゃくじょう)です。

 おそらく、皆さんも、お聞きになったことがおありの言葉ばかりではないかと思いますが、この四つが仏法の旗印だということで、「四法印」と呼ばれています。

 一番目の「諸行無常」というのは、「あらゆる現象は変化してやまない」という意味です。昇った日は沈む。咲いた花は枯れる。生まれた人は死ぬ。それが「諸行無常」です。

 鎌倉時代の鴨長明の書いた『方丈記』に、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉があります。「諸行無常」を、河の流れにたとえた、有名な言葉です。

 「あらゆるものは、つねに変化していて、永久不変なものはない」。この「諸行無常」こそが、この世の「あるがまま」の姿だと、お釈迦様は、お説きになったのです。

 もう少し詳しく申しますと、「諸行」とは、因縁によって起こるこの世のあらゆる現象のことです。「無常」とは、常に変化し、不変のものはないという意味です。

 この世の全ては、無数の因縁の中から生まれたものであり、その無数の因縁によって生まれたものが、また因縁の一つとなって、全てが変化していく。

 「私」という人間も、そうなんです。無数の因縁の中で両親が出会い、私が生まれ、育ち、衰え、消えていく。そんな「私」が、また無数の因縁となって、世界が変化していくのであって、永遠不変の「私(我)」というものは、どこにも無いのです。そのことを言っているのが、二番目の「諸法無我」です。

 この「諸行無常・諸法無我」が、目覚めた人(仏)の目に映った、この世の「あるがまま」の姿です。この世は、こうなっているのです。これが、「この世の道理」です。

 この世は、果てしない因縁の海のようなものです。この「私」は、その因縁の海に現れた「一つの波」のようなものなんです。波が生まれ、波が消えても、海の水は増えも減りもしません。生も死もないのです。

 それが「この世の道理」なのに、「私たち」は、この限りある体と心が自分だと思って、この特別な自分という思いに執着して(我執)、苦しんでいるのです。そんな私たちのこころの奥底には、常に不安がある。生きていることへの不安がある。それが、三番目の「一切皆苦」です。

 つまりは、私たちの苦しみの原因は、「我執」にある。この「我執」を手放せば、苦しみから解放され、こころの平安が得られるというのが、四番目の「涅槃寂静」です。この四つが、お釈迦様の教えの核心です。

 お釈迦様の教えは、どちらかと言えば、知的で、ドライです。それに比べて、私たちの頂いている阿弥陀様の教えは、情的で、ウエットだと思いますね。

 阿弥陀様の教えの核心は、南無阿弥陀仏という名号にあります。この阿弥陀(あみだ)というのは、仏様のお名前です。「阿弥陀」という言葉には、「無量寿」と「無量光」という、二つの意味があります。

 「無量」というのは「量ることができない」という意味です。「寿」(寿命)というのは長さのある「時間」のこと。「光」(光明)というのは光の広がる「空間」のことです。それが「量れない」というのが「阿弥陀」という仏様のお名前の意味です。

 このお名前に込められているのは、私たちの人生の出来事は全て、無限大の時間的・空間的な因縁が組み合わさり、働きかけあって出来ているという、この世の「あるがまま」の姿です。お釈迦様の教えで言えば、「諸行無常・諸法無我」です。

 たとえば、皆さんが、今日ここにお参りくださったということも、遠い歴史の背景と、広い周りの働きのつながりによってもたらされたことです。時間的・空間的に、無限大の因縁が組み合わさり、働きかけあって、皆さんは、今ここにおいでになるということです。

 この「諸行無常・諸法無我」ということを、お釈迦様は、「あらゆるものは、つねに変化していて、永久不変なものはない」、「全ては本体のない幻のようなものだ」と、非常に客観的におっしゃっていますが、私たち真宗門徒は、昔から、ちょっと違う受け止めかたをしてきました。

 例えば、私たちが今ここにお参りしているのは、たしかに、時間的・空間的に、そのことを可能にした無数の因縁があったからですが、私たちは、そのことを、「おかげさまで」、「ご縁を頂いて」と、押し頂くように受け止めてきたのです。

   「おかげさまでと 言える人生に 孤独はない」(伝聞)

 また、自分が、無数の因縁によって成り立っていることを、「様々なご縁に支えられて、生かされて生きている」と、両手を合わせて拝んできました。「諸行無常・諸法無我」を、そんなふうに受け止められるということは、ありがたいことではないでしょうか。

   「生きているつもりでいたら 生かされていた 私」(東井義雄)

   「自分がどれだけ世の役に立っているかより 自分が無限に世に支えられていることが 朝の微風(そよかぜ)のなかでわかってくる」(榎本栄一)

 お釈迦様の教えは、知的でドライ。阿弥陀様の教えは、情的でウエットと申しましたのは、このことです。

 さらに、「南無阿弥陀仏」という名号は、色も形もない悟りの世界に、私たちを招き寄せるための方便(手段)だと言われております(「自然法爾章」『真宗聖典』p.511趣意)。それは、私たちから見れば、南無阿弥陀仏は、我執を離れ「悟り」の世界へ向かう通路だということです。

   「名号というものは 仏の世界に出遇う 唯一の通路である」(宮城しずか)

 つまりは、南無阿弥陀仏という名号には、「諸行無常・諸法無我」と、「我執を離れ悟りの世界(浄土)に至る道」という、仏教の核心がすべて収められているということです。仏法は、「お念仏ひとつ」です。

 さて、何だか理屈っぽい話になってしまいましたが、まあ、気楽にお聞きください。

 仏法はね、聞いて分かったというだけでは意味がないのです。頭で分かったことが、体にまで沁み渡ることが大事なのです。身に沁みて分かる。体得するということです。理解と実践とが一致して、体得され、日常生活化する。これは、私たちの頂いている浄土真宗の教えでも大事なことです。

 ですが、科学の時代に生きている私たちには、「浄土の教え」を聞いても、そんな神話的な物語の中に真理を見出すということは容易なことではありません。いくら聞いても、身に沁みてこない。皆さんの実感として、どうですか。

 では、どうすれば良いのかいうと、私自身は、いささか横着ではありますが、あまり難しく考えなくても良いのではないかと思っております。仏教の核心は、「苦しみから解放される道は、我執を手放すことにある」ということでしたね。要は、これを外さなければ良いのです。

 これに相当する阿弥陀様の教えが、「お念仏」です。先ほどもお話いたしましたように、「南無阿弥陀仏という名号は、我執を離れ悟りの世界(浄土)に至る道」なのです。つまりは、このお念仏を忘れずに生活すれば良いということです。まあ、これには少し説明がいると思いますが。

 今日も、最初に「三帰依文」をご一緒に唱えましたが、元々はもっと簡単な形でした。インドの言葉(パーリ語)で、「ブッダン・サラナン・ガッチャーミ。ダンマン・サラナン・ガッチャーミ。サンガン・サラナン・ガッチャーミ」と言います。ご存じかもしれませんね。

 「ブッダン・サラナン・ガッチャーミ」は、「仏に帰依したてまつる」と訳されていますが、「サラナン・ガッチャーミ」というのは「私は避難所に行く」という意味です。ですから、この「ブッダン・サラナン・ガッチャーミ」は、「私は仏陀のもとに避難します」という意味なのです。

 同じく、「ダンマン・サラナン・ガッチャーミ」は、「私は仏陀の説かれた法のもとに避難します」、「サンガン・サラナン・ガッチャーミ」は、「私は仏陀の教えに生きる人々のもとに避難します」という意味です。何から避難するのかというと、「我執」からです。

 南無阿弥陀仏の「南無」は、帰依するということ、つまりは「サラナン・ガッチャーミ」です。ですから、「南無阿弥陀仏」ということは、「私は、我執を離れるために、阿弥陀仏のもとに避難します」ということなのです。

 「阿弥陀」というのは、無量寿、無量光という意味だとお話しましたが、「無量」は「量れない」という意味です。「量れない」ということには二つの意味があります。「無限」という意味と、「ゼロ」という意味です。

 つまり、「阿弥陀」には、時間と空間のゼロポイント(今、ここ)と、時間と空間の無限の広がりという二つの意味がある。

   ですから、南無阿弥陀仏には、「今ここ」に帰るという意味と、無限の因縁の広がりを思うという意味がある。と、私は思っております。

 お念仏とともに暮らし、無限の因縁の広がりの中で、「今ここ」に帰ると、我執が薄れて、こころが穏やかになり、おおらかになる。そんなお念仏を、体得し、日常化していくのが、私たちの頂いている仏法、「お念仏の教え」なのです。

 そんな「お念仏とともにある生活」を願って、もう少しお話しして、終わることにいたします。

  詰まるところ、「身に沁みるまで、お念仏を称えましょう」と言いたいわけですが、基本は、無理をしないことです。仏教でいう「中道」ですね。懸命に修行するのでも、全くのお任せにするのでもない「中道」。両極端は我執の領域です。

 だいたい、安らぎを求めて必死になると言うのは変でしょう。極端に走らず、ゆったり努力を続けること、それが精進するということだと思います。

 しかし、まあ、自分の経験から言っても、なかなかお念仏は称えられませんね。お念仏の温もりを感じると言いますか、お念仏を有り難いと思うようになったのは、「お念仏が出てくださる」ようになってからです。

 「出す力は自力である  出る力は他力である」(日野英宣)という言葉を聞いたことがありますが、「出てくださるお念仏」は「他力のお念仏」ではないでしょうかね。

 初めは、お経様を読んでも、何のことやら、よく分からなかったのですが、この教えによって、実際に救われた人たちがおられることを知りましてね。そういう先達の言葉に育てていただいて、お念仏を称えるようになりました。

 で、お念仏を称えることが、習慣になってから気づいたのですが、時々ですがね、称えようと思ってもいないのに、「お念仏が出てくださる」ことがあるのです。

 思えば、そんな「お念仏が出てくださる」のは、嬉しいとき、悲しいとき、腹が立ったときなど、大きく感情が動いたときなんですね。

 そういった感情は、たいてい、「我執」の感情なんですね。自分にとって都合の良いことがあったから「嬉しい」、自分にとって都合の悪いことがあったから「悲しい」のです。つまり、そんな我執が起こると、お念仏が出てくださって、「南無阿弥陀仏」に引き戻してくださるのです。おかげで、無闇に感情に巻き込まれずにおれます。

 悲しいにつけ、嬉しいにつけ、お念仏を称えておられた、昔の門徒さんたちを思い出しましてね。ああ、あれは、こういうことだったのかと、思いました。

   「ありがたや 愚癡(ぐち)より先の お念仏」(北条絃文)

 我執の心が、過去へ未来へと彷徨って、不安定な感情に巻き込まれそうになった時も、お念仏です。お念仏は、過去へ未来へと彷徨う心を、「今ここ」に引き戻してくれます。

 この世には「今ここ」しかないのです。心が過去へ未来へと彷徨っていることに気づいたら、お念仏を称えて、「今ここ」に帰りましょう。それが習慣になれば、だんだん、心は、「今ここ」にとどまるようになっていきますよ。そこが、お浄土への入り口です。

 「そういう念仏は自力の念仏だ」という人もありますが、こだわることではありません。過去も未来も考えない「今ここ」にとどまることで、「永遠の今」(阿弥陀仏の心)と共鳴する場となる。他力の働く場となる。そういう他力の受け皿となることは、私たちの仕事です。

 ちなみに、真宗では、凡夫の自覚が大事と言われますけれど、無闇に過去を振り返らない方がいいと思いますね。過去の感情に巻き込まれないようにです。過去の心のキズは、海辺の砂浜に描いた落書きのように、放っておくと消えて行くのに、繰り返しなぞると、いつまでも残りますからね。

 門徒は、過去も未来も阿弥陀様にお任せです。そして、前世も来世も。

   「夢を見ない 絶望しない ここに凡夫の 自覚がある」(安田理深)

 こころが「今ここ」に安らいで、我執が鎮まると(諸法無我)、私たちは、無限の因縁の広がりを思うようになります(諸行無常)。世の中のことは全部繋がって起きていることにです。

 例えば、食事の時に、お米が食卓にのぼるまでの、無限大のつながり(因縁の海)を思い、「おかげさま」と、感謝の心が湧いてくる。手を合わせて、「頂きます」と言うのは、その気持ちの表れです。テレビや新聞を見ながら食事をしていたのでは、分かりませんよ。

   「仏法にふれるには 身辺のなんでもないことを ただ こころをこめて すること」(榎本栄一)

 「心を込めて」ということは「心が今ここにあること」。「一心に」というのも同じです。「一心」というのは、「それだけを思う」ということです。

 ご飯を食べる時には、ご飯を食べる。お茶を飲む時には、お茶を飲む。「心を込めてする」(心が今ここにある)と、心は宇宙と繋がるのです。大事な心掛けですよね。

 お念仏を称えるときには、お念仏を称える。合掌してお念仏を称え、頭を下げて、頭を上げる。その間は、心がお念仏で満たされている。そういうお念仏を、せめて一日に10回でも称えられたら、有り難いですね。

   「なむあみだぶつを となうれば ほんのしばらくでも このおろかな眼がひらく」(榎本栄一)

 仏法は、実践し体得するものです。仏壇に向かう、お念仏を称える、お寺にお参りする、法話を聞く、仏教書を読む。いろんな実践がありますが、体得する上で一番大事なのは、やはり、お念仏を称えることでしょうね。

   「気がつけば ひとりごとのような 念仏を申しおり 微(かす)かに明かりがさしてくる」(榎本栄一)

 お念仏とともにある生活のあじわいというのは、この「あるがままの世界」に暮らす喜びなんです。その先にあるのは、「極楽浄土」です。

 最後に、榎本栄一さんの詩を、もうひとつ。

   「むずかしく考えなくてよい ともかく 日に日に 寄せ返る 大波小波を しずかに拝めるようになれば」(榎本栄一)

 ともかく、難しく考えずに、おおらかにいきましょう。まずは、雑念にはこだわらず、こころ穏やかなときには、「私は、今、ここにいます」、こころ騒ぐときには、「私は、今、ここにいるでしょうか」と、つぶやいてみるというのは、どうでしょうかね。

 さて、NHKの世論調査などによりますと、日本では、「自分は無宗教だ」という人が6割を超えているそうですが、その無宗教だという人が、お墓参りをし、初詣に行くのですよ。日本人は、決して無宗教ではないと思いますね。

 日本人の宗教性は、考えるものでも、信じるものでもなく、感じるものなのでしょう。とすれば、先達の感覚を取り戻すことが大切なんですよ。どうぞ、ご一緒に、お念仏の先達に学んでまいりましょう。

 では、本日は、ここまでにいたします。まとまりのない話に、長い間お付き合いくださいまして、ありがとうございました。

 次回は、来年3月20日の「彼岸会」です。また、ご一緒に聞法させて頂くご縁がありますよう、念じております。有り難うございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……

 新年の「修正会」は、1月2日の11時からです。そちらの方にも、どうぞお参りください。お待ちいたしております。



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