釋昇空法話集・第89話

教え

月を指さす

(2026年3月20日 彼岸会法話)

 まずは、「三帰依文(さんきえもん)」をご一緒に唱和いたしましょう。

 あらためまして、こんにちは。ようこそお参りくださいました。お久しぶりでございます。お水取りも終わりましたが、まだまだ寒いようで、花冷えでしょうかね。皆さんは、おかわりなくお過ごしでしょうか。

 今日は、ご案内のように「教え … 月を指さす」という題でお話しようと思います。内容は、例によって、自力と他力の狭間(はざま)を歩みながら、思いつくままの、いささかまとまりのない話ですが、どうぞ、しばらくの間、お付き合いください。

 まずは、お手元の資料に載せました 絵をご覧ください。これは江戸時代の禅僧、仙崖義梵の描いたもので、「指月布袋画讃(しげつ・ほてい・がさん)」と呼ばれています。

 これは、仏教の本質をついた「指月のたとえ」(出典:龍樹『大智度論』)を描いたものです。いたずら描きのようなユルユルとした絵ですが、ヒゲのおじさんが布袋さん。横で両手をあげて、楽しそうにしているのは、子どもです。

 布袋さんが指さしているのは、夜空に浮かぶ「月」です。月は描かれていませんが、この絵の讃に「を月様幾ツ、十三、七ツ」という童歌(わらべうた)の一節が書かれていますので、「ああ、布袋さんは、子どもを相手に、月を指さしているんだ」と、分かるんですね。

 この二人。「ほら、お月さまだよ、見てごらん」。「え、お月さま、どこ?どこ?」という感じでしょうかね。

 ですが、よくよく子どもの目線をたどってみると、どうも「月」ではなくて「布袋さんの指」を見ているように思えますが、いかがですか。

 「月はあそこだよ」と指さして示しているのに、その「指」ばかり見て、肝心の「月」を見ようとしない。この絵はね、空をさす「指」を経典にたとえ、悟りの境地を「月」にたとえて、指先ばかり見ていても悟りには至れないよと諭しているのです。

 「月」というのは、言葉で表現できない「悟り」(真理、理法)のこと。「指」というのは言葉で説かれた「教え」のことです。仙崖和尚の絵に月が描かれていないのは、「真理」は言葉で表現できないものであることを表しているのかもしれません。

 教えは、言葉の限りを尽くして、言葉を超えた真理を指し示そうとしているのです。教えは、真理そのものではなくて、真理を指し示すものなのです。

 「教え」(指)は大切ですが、本当に大切なのは、教えがさし示している、言葉を超えた「真理」(月)を体得することなのです。

 親鸞聖人も、この「指月のたとえ」を、仏教の真理を理解する上で非常に重要なものと受け止めておられます(『教行信証』化身土巻)。

 何度もお話しすることですが、浄土真宗の「教え」(教)をひとことで言えば、「本願を信じ(信)、念仏を申さば(行)、仏に成る(証)」(『歎異抄』第12条)という、たったこれだけです。

 「本願」というのは、『大無量寿経』に説かれている阿弥陀仏の第18願のことです。そこで、「苦しみのない阿弥陀仏の世界に生まれたいと、こころより願って、私の名前をたとえ10回でも称えるなら、必ず(どんな人でも)、この極楽浄土に迎え入れて、成仏させる」(第18願趣意)と、阿弥陀仏は誓っておられます。

 その阿弥陀仏の本願を、信じて(信)、念仏を称える(行)なら、極楽浄土に生まれて、成仏できる(証)。これが、私たちが頂いている浄土真宗の「教え」なんですね。改めてお聞きになって、いかがですか。

 いつか「紫雲寺カフェ」(仏法談話会)の「お題」(テーマ)にしたいような気もしますが、私たち現代人にとっては、おそらく、現実離れした遠い話に聞こえるのではないかと思いますね。

 そんな私たちは、「阿弥陀仏の本願」(教え)を聞いても、「極楽浄土に生まれて、悟りを開く」(証)と聞いても、「ああ、そうなんですか」と、単に知識として受け取るだけに終わってしまうものですから、「信じて(信)、念仏を称える(行)」というところに繋がらないのです。

 「知識として受け止めるだけ」というのは、「言葉の世界にとどまる」ということです。ですが、大事なのは、言葉(指)がさし示している、言葉を超えた「真実」(月)の方なのですね。

 言葉の世界に止まらず、言葉を超える。それは、「考えずに、信じる」ということですが、浄土真宗の教えで一番難しいところは、ここだろうと思います。

 以前にもお話ししたことなんですが、昔、浄土の教えを学び始めた頃、『大無量寿経』で阿弥陀仏の本願の教えを読みまして、愕然としましてね。こんな神話のような話を信じているのが真宗門徒かと思うと、この寺も、父親の代で終わりだと思って、途方に暮れました。

 どう考えても信じられないのです。この、どうしても信じられないという思いが、いつの間にか腹の底にドッシリと居座ってしまいまして、鬱々としておりました時に、どこでだか忘れましたが、「信じられるのも他力による」という言葉に出遇いましてね。

 その言葉を見た途端に、一挙に腹の底が抜けてしまいました。もう、何もかも分かったような気がして、可笑しくて可笑しくて仕方がないのです。心の中で半日くらい笑っていましたが、それで、何が分かったのかと言いますと、何も分かっていないのです。ですが、分からないということに不安がなくなりました。不思議な経験でした。

 「疑う」というのは、「ああだろうか、こうだろうか」と、自分の過去に得た知識や経験に照らして、辻褄の合うことかどうか、いろいろ考えることですが、「考える」というのは「言葉」ですることですね。言葉をいくら重ねても、言葉を超えた「真実」には届きません。

 言葉で「ああだ、こうだ」と考えることは、「自力」の思考です。その「自力」が限界まで使われて、尽き果てた時、「自力」の雲が消えた夜空に浮かんでいるのが、「他力」の月ということでしょうか。

 おそらく、お釈迦さまのお悟りも、そうだったのではないかと思います。お釈迦さまは、命懸けの苦行(自力)を6年間励まれましたが、これでは悟れないと気づかれて、苦行をお捨てになった。そして、大樹の下で静かに瞑想(坐禅)をなさっていたところ、ふと夜明けの明星をご覧になった。その瞬間、お悟りを開かれたと言われています。

 命がけの苦行を6年間もお続けになったことで、自力が限界まで使い尽くされてしまった。その自力の雲の消えた心に、明星の光が届いたとき、この世のあるがままの姿が顕になった。そういうことだったのではないでしょうかね。

 他力の月は、常に輝いているのですが、その姿に接することができるのは、自力の雲が消えた時だけなんですよ。

 では、自力の雲を消すには、どうすれば良いのかと、またぞろ言葉で考えてしまうので、難儀なんですが、蓮如上人は、「ただ、仏法は、聴聞にきわまることなり」(『蓮如上人御一代記聞書』193)とお示しなって、こうおっしゃっています。

 「したたり続ける水が、硬い石に穴を開けるように、どれほど信じられなくとも、真剣に聞法を続けたなら、阿弥陀様もお慈悲をくださいますから、きっと信心が得られます」(原文省略)と。

 つまりは、疑い(自力の思考)が尽きはてて、阿弥陀仏の本願力(「他力」)に触れるまで、命懸けで聞法せよということです。

 浄土真宗は易行道だと言われていますが、実際には、それほど簡単ではないのですね。信心を得る(頂く)というのは、「悟りを得る」というのと同じくらい難しいことなのかもしれません。

 とくに現代人は、頭でっかちですから、法然上人が「愚者になれ」の一言で済まされたことに四苦八苦してしまいます。他人事ではありません。

 言葉をいくら重ねても、言葉を超えた「真実」には届かないのです。では、どうしたものかと、仙崖和尚の絵を見つめているうちに、ふと、思ったのです。「この指が見えるのも、光の中にあるからだよなぁ」と。

 その途端に、指と月が反転してしまいました。指が月をさしていると思っていたのに、月が指を照らしているのです。「なあんだ、そうだったのか」と、可笑しくなってしまいました。

 つまり、こういうことです。仏(真理)の光の方が、「お前たちに言葉で伝えられるのは、ここまでだよ」と、経典を照らし出しているということです。

 経典に書かれているのは「仏法」です。「仏」というのは目覚めた人のこと。その目覚めた人の目に映った、この世のあるがままの姿が、「法」です。この「仏法」を、まだ目覚めていない私たちに伝えようとしているのが、「経典」なんです。

 ですから、『大無量寿経』に説かれている、「苦しみのない阿弥陀仏の世界に生まれたいと、こころより願って、私の名前をたとえ10回でも称えるなら、必ず(どんな人でも)、この極楽浄土に迎え入れて、成仏させる」という阿弥陀仏の本願は、「目覚めた人の目に映った、この世のあるがままの姿」を伝える言葉なのですね。

 仏の目から見たら、この世は「そうなっている」ということです。私たちが信じるか信じないかに関わりなく、「そうなっている」のです。「自然法爾(じねん・ほうに)」というのは、そのことでしょう。

 「信心を得る」というのは、「そうなっている」阿弥陀仏の本願を、そのまま受け取るということです。

 阿弥陀仏は、「どんな人でも漏れなく、極楽浄土に迎える」と誓っておられるのですから、そのまま受け取れた人は、「どんなことをしてきたか」という「過去の業」が問題でなくなります。(過去の業は「宿業」も含めて問題でなくなりますから、地獄や餓鬼や畜生に生まれ変わることもないのです。)

 「罪悪深重(ざいあく・じんじゅう)・煩悩熾盛(ぼんのう・しじょう)の我が身を自覚せねばならない」と思い込んでいると、どんどん心が暗くなりますよ。

 蓮如上人は、「わが身の罪のふかき事をば、うちすて、仏にまかせまいらせて」(『御文』五帖目四通)とお示しです。

 過去の怒りも驕りも後悔も、プライドもコンプレックスも、何もかも捨ててしまって、仏様におまかせなんです。

 そして、死後は極楽浄土に往生すると決まっているのですから、「未来」には何の不安もありません。つまり、信心を得たら、過去と未来から自由になるのです。

 過去と未来から自由になったら、生きるのが楽になりますよ。ただただ「今」起こってくることを、受け止めて、「今」を味わい、丁寧に誠実に生きるだけです。

 ある妙好人は、人から、「あんたみたいになったら、腹は立たじゃろう」と言われて、「いや、腹は立つわい。じゃが、根が切ってあるでのう」と答えたそうです。

 この「今」には、いろんなことが起こってきます。時には、腹の立つことも、起こってくるのです。ですが、過去と未来から自由になっている(過去へ未来へと伸びていた根を切ってある)から、過去を思い出して恨みを深めたり、未来に復讐を図ったりしないのですね。

 お釈迦さまも、同じことをおっしゃっています。「二本目の矢は受けない」と。

 実際、お悟りを得られたお釈迦さまにも、いろんなことが起こってきました。

 例えば、若い頃の苦行のせいか、よく健康を壊されて、医師(ジーヴァカ)の治療をお受けになりました。また、一番信頼していた弟子たち(舎利弗と目連)に先立たれるということもありました。さらには、晩年、コーサラ国の侵攻を受け、釈迦族は全滅し、故郷のカピラ城も廃墟となったのです。

 悟った人でも感情が無くなるわけではありません。生身の身体である以上、苦痛は感じます。これが「一本目の矢」です。この一本目の矢は、誰でも受けるものです。ですが、悟った人は、その苦痛に、意味づけや感情を上乗せしてエスカレートする(二本目の矢を受ける)ということはないのです。

 「悟る」ということは、過去と未来を彷徨い続け、苦しみを生み出す「煩悩」の支配から自由になるということです。悟った人は、まさに「いま・ここ」だけを生きているのです。

 これは、信心を得た人と同じではないでしょうか。阿弥陀仏の本願は、お釈迦さまの「悟り」と同じ世界を、別の言葉で教えてくれているのだと思います。

 いわば「経典」は、仏(真理)からの贈り物です。贈り物には、必ず、贈り手の心が込められているものです。経典は、そこに添えられた仏の心(慈悲の心)を感じることができなければ、ただの印刷物に過ぎません。そういう大いなるものへの感受性を養い育てることが大事だと思いますね。

 もう少しだけお話しして、終わります。

 この寺では、毎月一回、「紫雲寺カフェ」という、仏法談話会を開いております。先月は、「どんなときに拝みますか。拝んだあとは、どうですか」という「お題」(テーマ)を頂いて、話し合いました。なかなか面白い話合いでした。

 「どんなときに拝むか」というと、まずは、「ありがとうございます」と感謝するときですね。

 二番目には、「お願いします」と依頼するとき。(「ごめんなさい」という謝罪も、ここに含まれるでしょう。)

 そして、三番目には、神聖なものを拝む。畏怖の念を抱き「仰せのままに」と帰順(帰依)するときです。「信心」というのは、これですね。

 「ナムアミダブツ」の「ナム」は、「拝む」という意味の言葉です。「阿弥陀仏の仰せのままに」、ナムアミダブツと称える。それが、「お念仏」です。「念仏は、無義をもって義とす」(『歎異抄』第10条)というのは、そのことでしょう。

 私たち日本人は、古来、山にも川にも、木にも草にも、どんなものにも魂が宿っていることを感じて、手を合わせてきました。それは、山や川や、木や草や、全てのものを支えている「大いなるもの」への畏敬の念からです。人間の都合を超えた「いのちの根元」を拝んできたのです。

 「阿弥陀仏」というのは、「経典」が教えてくれた、その「大いなるもの」の名前なのです。私たちはみんな、「大いなるもの」に支えられ、生かされて生きている「いのちの仲間」なんです。その「大いなるもの」に気づく力(感受性)を回復し、養い育てることが大事なんですよ。

 「大いなるものに 抱かれてあることを 今朝ふく風の 涼しさに知る」(山田無文)

 「自分がどれだけ世に役に立っているかより 自分が無限に世に支えられていることが 朝の微風(そよかぜ)のなかでわかってくる」(榎本栄一)

 「大いなるもの」。それは、何も考えずに「今」を感じたとき、「ふと」気付かせてもらうものなんです。あれやこれや考えるのをやめて、外に出たら、「あるがまま」の世界が広がっていた。他力の信心は、「にぎって、はなして、むこうから」と言われているのも、このことでしょうね。

 「信じよう、信じよう」としなくても、いいのですよ。「信じよう」というのは自力です。「信じられるのも他力による」のです。他力は、頭で考えることではなく、ただ今日なすべきことを心を込めてするなかで、体で感じることなんです。

 「むずかしく考えなくて良い ともかく 日に日に 寄せ返る 大波小波を しずかに拝めるようになれば」。これは、仏教詩人、榎本栄一さんの、「日々礼拝 自分に言うて聞かす」と言う詩です。

 日々、何が起こるかわりませんが、何が起こってきても、両手を合わせて、お念仏を称える身の上に、しずかに受け止めていけるようになればいい。

 心に沁みる言葉です。私も、日々、自分に、そう言うて聞かしています。

 仏教は、日々を、心安らかに生きるための教えです。「救い」であれ、「悟り」であれ、未来に求めている間は、心安らかにはおれません。あれやこれや考えるのはやめて、阿弥陀仏の本願、ナムアミダブツの上に、今を受け止めてまいりましょう。ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。

 では、本日は、ここまでにいたします。まとまりのない話に、お付き合いくださいまして、ありがとうございました。

 次回は、9月23日の永代経法要です。半年ほど先ですが、またご一緒に聞法のご縁がいただけますよう、願っております。どうぞまたお参りください。本日は、ようこそお参りくださいました。ありがとうございました。ナマンダブ、ナマンダブ、ナマンダブ……。



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