仏教の出家修行者を比丘(ビク)といいますが、これは「食を乞う人」(托鉢僧)という意味です。比丘は托鉢によって食を得ていました。釈尊も例外ではありません。出家修行者が乞食(こつじき)によって食を得るというのは、仏教以前からあったインドの風習です。バラモン教の行者は朝夕2回、鉢を携えて食を乞うのが日課でした。当時のインドは、そういった多数の出家修行者たちを養えるほど豊かだったのです。(もっとも、現在でもインドでは、食を乞いながら旅する聖地巡礼者の姿が見られます。) 当時インドでは、世俗人は財物を喜捨することで功徳を積み、死後に天に生まれることができると考えられていました。ですから托鉢修行者は、施しを受けることで施主に功徳を積ませるという理屈ですから、施しを受けても決して礼を言うことはありません。とはいえ、当時の世人が必ずしも快く施しを行なったわけではありません。托鉢に出かけても何も得られないこともあり、怒鳴られたり、罵られたり、追い払われたり、犬をけしかけられたり、殴られたりすることも珍しくなかったようです。 比丘は朝起きると、まず瞑想の修行を行い、それから托鉢に出かけました。托鉢で村に出かけるのは午前中に一回だけです。村に入ったら静かに家々を廻り、黙って戸口に立ちます。托鉢中は物を言わないのが原則ですし、食を乞う言葉も発してはなりません。怒鳴られても腹を立てず、敬礼されても高ぶらず、生命を保つに足る食物が得られたら速やかに村を出ます。得られた食の寡多によって一喜一憂せず、食物を得られても得られなくても、これで善かったと平然と帰るのです。園林に帰り着くと、得た食物を独り大樹のもとに座して食しました。食事は一日一回だけ、それも午前中に済まさねばなりません。十分な食が得られなかった場合には「水を飲むがよい」(長老偈)と記されています。 では、どのような食べ物が施されたのでしょうか。修行者のために特別に調理した米飯や乳粥も施されたようですが、乞食(こつじき)である以上、世俗人の食事の残り物を施されることが多かったのではないかと思います。ですから当然、残り物のなかには肉や魚も入っていたはずです。後の仏教からは考えられないことかもしれませんが、乞食(こつじき)で暮らしていた初期の仏教修行者たちは菜食主義者(ベジタリアン)ではありませんでした。托鉢修行者たちは、どのような食物を施されようとも、それに満足して、何でも食べたのです。 出家修行者たちにとって大切なのは修行だけでしたから、食物に対する趣味や主義などはありませんでした。食物に関して彼らが心がけていたことを強いて言うなら、殺生を避けることと、節食を守ること、食物にからんで心が乱れないように用心することくらいでしょうか。修行を実践するためには身体を養わねばなりません。食物を摂取するのはそのためでして、食事にそれ以上の理由もそれ以下の理由もありませんでした。ですから、修行の妨げにならない食物なら何でもよかったのだと思います。 初期の仏教では肉を食べることが必ずしも禁止されていませんでした。「三種の不浄肉」以外は食べてもよかったのです。三種の不浄肉というのは、見・聞・疑のけがれのある肉のことを言います。つまり、自分のために殺されるのを見た肉、自分のために殺されたということを信ずべき人から聞いた肉、自分のために殺された疑いのある肉のことです。したがって、自分のために殺すのを見ていない、自分のために殺したのだと聞いていない、自分のために殺したのではないかという疑いのない、そういった肉なら食べてもよかったのです。この三つの条件を充たしている肉を「三種の浄肉」と言います。世俗人の食事の残り物に混ざっている肉なら、まず間違いなく三種の浄肉だと言ってよいでしょう。 出家修行者たちは、常に乞食(こつじき)だけで生活していたわけではありません。時には信者やファンの家に食事に招待されるということもありました。釈尊も、しばしばこういった招待に応じられたようです。富豪の家では金銀の器に山海の珍味を盛って供したと言われておりますが、そういった席で釈尊がどのような食べ方をなさったのかは定かでありません。釈尊当時の習慣をかなり色濃く残しているスリランカなどの南方仏教国の例を見ると、僧侶たちの前に山海の珍味を山のように盛り上げた大きな器が所狭しと並べられ、施主が給仕に付きます。僧侶たちが好みの食べ物を指示すると、施主が彼らの皿に少しづつ取り分けます。食事が終わってもまだ山のように食物が残っていますが、これは全て捨てられてしまいます。僧侶に布施した物ですから、他の者が食べるわけにはいかないのです。何とも勿体ない話ではあります。 この「三種の浄肉」と「招待食」に関連して、釈尊の弟子であり従弟でもあるデーヴァダッタ(提婆)のことに少し触れておきましょう。デーヴァダッタは、仏典では釈尊の殺害を企てた極悪人として扱われていますが、実際にはそうではなかったようです。彼は極端に厳格な戒律を守ることを主張して釈尊に受け入れられなかったために、同調者を伴って教団を去ったのですが、このことが結果的に教団の分裂をもたらし、そのため教団側から極悪人扱いされるようになったのです。彼が主張した厳格な戒律には、先に挙げた「三種の浄肉」や「招待食」の禁止も含まれていました。しかし、釈尊はその必要を認められなかったのです。苦行であれ戒律であれ、極端なものを認められなかった釈尊の姿勢がここにもよく窺われるように思いますが、ある意味で釈尊は肉食を擁護なさったのですから不思議な気がしないでもありません。 さて、齢80となられた釈尊は死期を悟られ、ラージャガハ(王舎城)の霊鷲山から生まれ故郷のカピラ城に向かって最後の旅に出られました。結局、釈尊はカピラ城から70キロほど手前のクシナーラーで亡くなられましたが、直接の死因は食中毒でした。旅の途中、釈尊は侍者アーナンダ他数人の弟子たちと、パーヴァーという都市の近郊にあるマンゴー林に滞在され、鍛冶工チュンダの供養を受けられました。チュンダは釈尊一向のために、「美味なる噛む食物、柔らかい食物、多くのスーカラ・マッダヴァ」を用意しました。食中毒の原因はこのスーカラ・マッダヴァだったようです。ですがこのスーカラ・マッダヴァの実体については古来異説があって、定かではありません。「スーカラ」とは「野豚」のことで、「マッダヴァ」とは「柔らかい」という意味です。有力な説は二つあります。ひとつは「柔らかい豚肉」の料理だとする説です。もうひとつは「豚の掘り出すキノコ」の料理とする説です。キャビア、フォアグラとともに世界の三大珍味といわれているトリュフも豚や犬の嗅覚を利用して探すそうですが、その類のキノコなのでしょうか。 経典には、「チュンダの食物を食べられたとき、激しい病がおこり、赤い血が迸り出る、死にいたらんとする激しい苦痛が生じた」とあります。ですが釈尊は、自ら苦痛に悩みながらも、チュンダが「自分の供養した食物で釈尊が亡くなった」と思って苦しんだり後悔したりしないように温かく気遣われたということです。釈尊は激痛に堪え、更に西行してクシナーラーにたどりつかれ、娑羅双樹の根元に横たわって亡くなりました。それは、最後まで弟子たちを慈しまれた偉大な聖者の死でした。
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