仏教夜話・11

叔父の逝った夏

般若敏郎師追悼記事

法名 慧明院 釋了曉
昭和5年 6月5日 誕生
平成7年 8月5日 往生
俗名 般若 敏郎 享年 66歳



 叔父が逝きました。一夜の夢から覚めて朝を迎えた人が、立ち上がって寝床を離れるように、叔父は逝きました。蝉時雨の降る、夏の朝でした。

 叔母は泣きました。叔父が肉体から解き放たれて浄土に旅立ったことを知り、また逢えることを知って、叔母は泣きました。世界が止まった夏の朝でした。

 叔父は私の「魂の朋」でした。「魂の朋」とは「浄土への旅仲間」のことです。叔父と交わした最後の手紙は、私信の枠を超えて、全ての旅仲間に意味のあるものと信じます。叔父への感謝を込めて、写真とともに掲載致します。


【叔父からの便り】

 菩提樹第十号落掌、早速拝読させてもらいました。なにもかもがお仰せの通り、うなずきの連続でした。病の床にあって毎日激しく変化する容体とともに揺れ通しのこころにさいごに映るものはお念仏以外には一切ありません。死を見つめるこころというものがすでにお念仏ではありませんか。そんなことを日々感じています。先日兄了徹師が二回も来て下され、この身このまんまがそのまんま往生させて頂ける最後の最後のところを聞かせて頂き胸につかえていたもの落涙とともに消えました。今度はもうそう長いことはないでしょう。菩提樹いのちのある限り声援させてもらいます。
  ナマンダブ/ナマンダブ/ナマンダブ 合掌

           立川中央病院二一六室   般 若 敏 郎
               平成七年七月八日(土)記


【昇空 返書】

拝復

 本日、お葉書を頂戴いたしました。ご厚情、身に染みて有り難く存じます。

 あとどのくらい残されているのかは誰にも分かりません。その点に関しましては何とも申しかねます。ただ、叔父上様のお感じになっているとおりになるとすれば、今一度、今生でのお別れを申し上げたく存じます。

 世間では、人は独りで生まれてきて独りで去っていくと申します。ですが私は、そんな思いは甚だ不遜ではないかと思っております。たしかに、私は「ひとり」で生まれてきましたし、いずれ「ひとり」で去っていきます。ですが、それは決して、「独り」で生まれてきて「独り」で去っていくということではありません。

 私を受けとめてくれるために多くの人が先に生まれていたのです。私を支えてくれるために多くの人が後から生まれてくるのです。そして、私を受けとめてくれるために多くの人が先に去ったのです。私が去るのを支えてくれるために多くの人が後に残るのです。思えば、有り難いことです。

 仰せのとおり、私を裸にすれば念仏しか残りません。とはいえ、「私」は、ことのほかだらしないものです。身に苦痛があれば心も苦痛で満たされてしまいます。最後まで念仏を称える力は、私にはありません。ですが、そんな私に代わって、身が念仏を称えてくれるのです。身の念仏。それが苦痛です。この苦痛をおいて、ほかに念仏はないのです。

 悲しいことに、人は一人前になるのに長い時間がかかります。その間に、苦しいことや辛いこと、思い出したくないような恥ずかしいことを山ほど重ねなくてはなりません。それでも、一生の間に一人前に、つまり「人」になれるという保証はないのです。煩悩に振り回された「私」の一生は地獄です。ですが、地獄のないところには救いもないのです。

 人は仏の顔に唾して社会にでます。そして、己れの力の限りに暴れ回り、世界の果てだと思った仏の指に小便をひっかけて終わるのです。あれもこれも、全ては仏の手のひらで見ていた夢なのです。思えば、何もかもが夢でした。ですが、この夢は決して虚しい夢ではありませんでした。この夢は、仏に私自身の本当の姿をみてもらうための夢だったのです。そんな私だったからこそ、仏の手のひらにとどまれたのです。

 偉そうなことを申し上げました。お恥ずかしいかぎりです。お赦しください。叔父上様と同じ時代に生を受けたご縁を有り難く存じております。自分の足元にも気付けぬくせに、叔父上様の残り時間に執着している私をお笑いください。合掌

                    1995.7.10.  昇 空

叔 父 上 様


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