「極楽」というと、思い出すことがある。高校2年の現代国語の時間に書いた作文のことである。テーマは自由ということで、「極楽」について書いた。「どんな欲求も満たされるというような場所なら、きっと退屈でしかたがないに違いない。そんなところには行きたくない」といった内容だったと思う。担当は、後に大学でも教鞭をとられた『平家物語』の研究家、高橋貞一先生だった。作文の評価は「B」。当時はいささか不満だったが、今思えばこれでも甘すぎたようなもので、赤面を禁じ得ない。 「極楽」というのは、いくつもある「浄土」のひとつであり、正しくは「西方極楽浄土」という。「浄土」というのは仏陀の住まわれる清浄な悟りの世界のことであって、そこには煩悩の対象となるようなものは一切存在しない。したがって、その世界に生まれることができれば、煩悩に悩まされることなく、誰もが容易に悟りを得ることができる。その対極にあるのが「穢土」、つまり煩悩に汚れた我々凡夫の住むこの現実世界である。 「西方極楽浄土」というのは、阿弥陀仏の住まわれる浄土である。阿弥陀仏は、法蔵菩薩という名の修行者だったときに衆生済度の誓願を立てて修行を積み、その誓願を成就して仏となり、今から十刧の昔に、西方十万億仏土の彼方に「極楽浄土」を建立された。法蔵菩薩の誓願の眼目は、仏の名号(名前)を念ずる者をもらさずこの浄土に往生させ、悟りに導くというものだった。この誓願は既に成就されている。したがって、名号を念ずる者はみなこの浄土に往生できる。浄土経典にはこのように説かれている。 では、その「西方極楽浄土」とはいかなる世界なのか。浄土経典のひとつである『阿弥陀経』によって、その情景をながめてみよう。…「そこには宝石で飾られた宮殿があり、金・銀・瑠璃・水晶でできた七重の石垣と、七重のターラ樹の並木で美しく飾られている。また、金・銀・瑠璃・水晶・赤真珠・瑪瑙・琥珀からできた蓮池があって清浄な水に満ち、金の砂子が敷きつめられ、様々な色の美しい蓮が咲いている。池の畔には七種の宝石でできた木々が生え、大地は黄金色をしている。常に天上の楽器が奏でられ、白鳥や帝釈鴫や孔雀が美しい声で啼いている。風が吹くたびに、並木や鈴がゆれて妙なる美しい音が流れ出る。ここには身体の苦しみも心の苦しみもない。あるのはただ、無量の安楽を生み出すものばかりである。」 まさしく人間にとっての理想郷である。しかしながら、実はこれは本当の「極楽浄土」の情景を描いたものではない。本来、「浄土」というのは、煩悩の対象となるようなものが一切存在しない世界のことである。つまりは、五感をくすぐって煩悩をかきたてるような、美しい花々や、宝石で飾られた宮殿や、歌い囀る小鳥たちなど、存在するはずもない世界である。では何故、このような情景が説かれたのであろうか。それは、我々欲望に満ちあふれた凡夫には、煩悩の鎮まった境地を説いても到底理解できないからである。そこで、欲望の無くなる世界よりも、欲望の完全に満たされる世界を描くことで、浄土へ生まれたいという気持ちを起こさせようとしたのが、これである。 「極楽」(スクハーヴァティー)というのは「幸いあるところ」「本当の幸福が得られるところ」という意味である。「幸福」なるものを物質的な欲望の充足にしか見出だせない凡夫には、欲望の充足を餌にして泥沼から誘い出す以外に手がない。浄土経典に描かれている「極楽」の情景は、衆生済度の願いから生まれたひとつの方便なのである。そもそも大乗経典というものは、完全なメタファー(隠喩)の世界である。つまりは、不可称・不可説・不可思議な悟りの境地あるいは世界の真実を、一種の「たとえ」を借りてドラマティックに仮構したものである。したがって、知識を求める目で現代語訳経典を読んでみても、そこには荒唐無稽なお伽話しか見えてこない。では、そんなメタファーの裏に隠された本当の「極楽浄土」とはいかなる世界なのか。 「浄土」という言葉は中国でできたもので、インドでは「仏国土」(ブッダ・クシェートラ)と言った。この「仏国土」の「国土」(クシェートラ)というのは、物理学でいう重力場や電磁場の「場」に相当する語である。一般に、空間そのものが何らかの物理的あるいは心理的作用を持ち、そこに現象を生じさせると考えられるとき、その空間を「場」と呼ぶ。たとえば磁場というのは、磁力が働いていて、そこに鉄片を入れると磁気をおびるようになる空間のことである。同様に、「仏国土」というのは、仏力(世界の真実の力)が働いていて、そこに入れば仏性(世界の真実)に目醒めるようになる場所(精神的レベル)のことである。 そんな場所が「西方十万億仏土の彼方にある」というのはどういう意味か。「西方」とは日没の方向である。日が沈めば一日の喧騒が終わる。つまりこれは、心のなかの喧騒が鎮まった状態を方角によって示したものである。「十万億仏土の彼方にある」というのは、世俗の価値観を握り締めた凡夫の努力では到底到達できない距離にあるということであって、つまりは境地の開きを距離の開きにたとえて表現したものである。また、「念仏往生の誓願を成就して、十刧の昔に建立された」というのは、宇宙開闢以来の真実として、念仏によって仏国土(仏の境地)に入れる心的能力が我々には本来的に備わっているということを言わんとしたものである。 「阿弥陀仏」とはアミターユス(無量寿)仏、アミターバ(無量光)仏を言う。「無量寿」とは時間的概念の不在、「無量光」とは空間的概念の不在を意味する。つまり「阿弥陀仏」とは、時間的空間的概念を超越した悟りの境地を象徴する言葉である。我々の心には生れ付きそんな境地へと続く扉が備わっている。その扉を開く鍵が念仏なのである。念仏によって心が鎮まったときに開けてくる高い境地。それが「西方極楽浄土」である。 菊地寛の作品に「極楽」という短篇小説がある。おかんと宗兵衛という夫婦は、信心のかいあって極楽に往生したものの、随喜の涙を流したのは束の間で、やりばのない退屈に苛まれるようになり、「地獄とはどんなところか」と想像することだけが唯一の慰めとなった、という話である。文学者の高橋貞一先生ならこれをどう評価されるか分からないが、仏教徒の目から見れば、留年再履修を勧めたいような気もしないではない。
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