仏教夜話・13

門徒もの知らず

 世間では「門徒もの知らず」などと申しまして、門徒の方も、ものを知らないのを売り物のようにしておりますが、昔は、お説教が盛んでしたから、門徒ほどものをよく知っている仏教徒はいなかったのです。

 この「門徒もの知らず」という言葉は、もともとは「門徒物忌み知らず」ということだったそうです。「物忌み」というのは、今ふうに言えば「迷信」のことですから、「物忌み知らず」というのは、「迷信に無関心」ということです。ですが、現在は、門徒のあいだにも「物忌み」が花盛りです。

 まずは、横綱クラスの「物忌み」に、「大安」とか「仏滅」とかいった、いわゆる「六曜」があります。これはもともと中国で生まれた占いがらみの考え方ですが、その本家本元の中国の占いでも「無意味なもの」として廃れてしまっています。

 「大安」や「仏滅」は大昔からあったように錯覚されておりますが、これが日本で流行しだすのは明治10年代のことです。明治政府はこの「六曜」を公の暦に書き入れることを禁止しておりましたが、戦後、出版の自由が叫ばれるようになって、再び流行しはじめます。つまりは、もともと根拠も無ければ歴史も浅いもので、「迷信好き」な人々をあてこんだカレンダー屋の商売ネタにしかすぎません。

 これが大きな迷信であることは、ちょっと頭を冷やして考えればすぐに分かることです。たとえば、ほとんどの結婚式が「大安」を選んで行なわれていますが、必ずしもその全ての夫婦が幸せになっているとは限らないでしょう。毎年十数万組もの夫婦が離婚しているのですからね。

 次には大関クラスの迷信です。それは「4」とか「9」とかいった数を嫌う迷信です。これは言うまでもなく、「4」は「死」に通ずる、「9」は「苦」に通ずるという語呂合わせからきたものですね。

 結構立派なホテルでも、4号室や9号室、それに13号室という部屋がないところもあります。はなはだしいのは、3階の次が5階になっているビルまであるそうです。寺の向かいにあるガレージにも、4番目という駐車場所がありませんで、3番目の次は5番目になっております。

 ですが、それほど「4」という数字が嫌いなら、「四条通り」など避けて通りそうなものですが、そんなことはありません。みんな好んで四条通りに遊びに行ったり、買物に行ったりしているでしょう。また、子供が4人生まれたら、4人目は縁起が悪いから捨てたなどという話も聞いたことがありません。「4」が縁起が悪いというのなら、自動車だってタイヤの数は4つですし、机の足だって4本なんですが、これは一体、どう考えるつもりなのでしょうか。

 日本には、こういった「語呂合わせ」から生まれた迷信が沢山あります。たとえば「中陰」に関するものです。「中陰」とは、ご承知の通り、葬儀のあと忌明までの49日間のことですが、この49日間が「三ヵ月」にまたがるのを嫌って「35日目」に忌明を勤めてしまわれる方が意外に多いのです。これも、「三月」が「身付き」と語呂が合い、「不幸が身に付く」といって嫌われているわけなんですね。

 ですが、月の初めの10日頃までに死ななければ、「中陰」は必ず三ヵ月にまたがってしまうのですから、単純に言って6割くらいの「中陰」が三ヵ月にまたがってしまう計算になります。こんな語呂合わせのような「言葉遊び」に振り回されて、大切な心の整理期間である「中陰」をないがしろにすることの方が、不都合なのではないでしょうか。たとえ「門徒もの知らず」にせよ、これくらいは知っておいて頂きたいと思います。

 タイプは違いますが、「交通安全のおふだ」も、「癌封じの御祈祷」も、「よろず祈願の護摩焚き」も、「背後霊を払う御祓い」も、みんなこの仲間です。ちょっと考えてもみてください。「幸せ」というものに何千円とか何万円とかいった「定価」などついているものなのでしょうか。交通事故でつぶれた車を見かけたら、ちょっとご覧になってみてください。たいてい、例の「おふだ」が貼ってありますよ。

 先日、こんな話を聞きました。或る人の家に、二人の若者が「よろず祈願成就」の護摩木を売りに来たそうです。「この護摩木に願い事を書くと、何でもかなう」と言って、二人はなかなか門口から去りません。そこでその家の主人は、「本当に何でも願いがかなうのか」と念を押すと、「そうだ」との返事。「では1枚だけ買おう。ただし、私の願いは『死にたくない』ということだ。本当にかなうのだな」と、再度念を押すと、二人は黙って去っていった、とのことでした。この手はなかなか洒落ていますよ。

 迷信は絶え間なく次々と作られていくもののようです。「語呂合わせ」などは迷信を際限無く生みだすホワイトホールのようなものです。病人の見舞いに「鉢植え」の花はダメだと言いますが、これも語呂合わせです。「鉢植え」は「根付いている」から「寝付く」といって嫌われるのだそうです。見る見る枯れていく「切り花」の方が病人に良いとでも言うのでしょうか。生命力にあふれる「鉢植え」の方が、長い間、病人の心を和ませることができるのではないでしょうか。私なら「鉢植え」の方が有り難い。私が病気になったら、どうぞご遠慮無く「鉢植え」の差し入れをお願い致したく存じます。


次の話へ


紫雲寺HPへ