仏教夜話・14

仏弟子群像(1)

 ご承知のように、現在の日本の仏教界は、多数の宗派に分かれています。もともと一つであったはずのものが、どうしてこうなったのか不思議に思われるかもしれませんが、分派していくというのは集団というもののもつ宿命ではないかと思います。インドでも、仏滅後100年ころのアショカ王の時代には分派の動きが目立ち始め、その100年後には20余りの部派に分かれていました。仏教の歴史は分派の歴史です。

 初期の仏教教団は一味和合の僧団であったように言われておりますが、釈尊は、遊行しながらひたすら相手に応じて法を説かれただけで、教義を統制しようとか、聖典を制定しようとかなさったことはありませんでした。また、釈尊自身、「自分は教団を統御するつもりはない」とおっしゃっていますから、仏教教団を統一して組織化しようという気持ちは持っておられなかったようです。

 釈尊在世当時の仏教教団は、「教団」という言葉から私たちが連想するような中央集権的な組織ではなく、直接的もしくは間接的に釈尊の指導を受けながら自治的に運営されている様々なグループから成っていました。つまり、地域や出自や個性に応じて、あるいは有力な弟子たちを中心にして形成されたグループが、各地に散在していたわけです。ですから、もともと仏教教団には、そういったグループを中心に、いずれは分派へと向かう地盤があったといえます。

 そんな幾つものグループに分かれて微妙な対立の萌芽をはらんでいた初期教団の仏弟子たちの、いささか人間臭い側面を、これから何回かに分けて見ていきたいと思います。

 さて、仏弟子というのは出家して仏陀の教えを実践する修行者のことで、最初は男性だけでした。この男性出家修行者を「比丘」(ビク)と言います。釈尊のまわりに集まった比丘たちは、どんな人たちだったのでしょうか。まずは、このあたりから見てまいりましょう。

 インドには今も「カースト制度」がありますが、そのもとになっているのは古来の階級制度である「四姓制度」です。バラモン(司祭階級)、クシャトリア(王侯・武士階級)、ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(隷属階級)というのがそれです。釈尊は、この階級制度を否定し、四姓平等を説かれました。ですが、実際には、社会の下層階級の人々は、ほとんど教団に加わっていませんでした。

 学者の研究によると、当時の仏教教団は、バラモンが60%弱、クシャトリアが30%弱、ヴァイシャが20%弱、シュードラが3%程度という構成になっていたといいます。つまり、教団のほとんどが、上位三姓の支配者階級の出身者たちで占められていたということです。

 バラモンの優位は、いわゆる仏陀の「十大弟子」にも見られます。十大弟子というのは、舎利弗(サーリプッタ)、目乾連(モッガッラーナ)、迦葉(カッサパ)、須菩提(スブーティ)、富楼那(プンナ)、迦栴延(カッチャーナ)、阿泥楼駄(アヌルッダ)、優波離(ウパーリ)、羅護羅(ラーフラ)、阿難陀(アーナンダ)のことですが、このうちアヌルッダ、ウパーリ、ラーフラ、アーナンダの4名はシャカ族出身で、スブーティは商人出身ですが、残る5人はみなバラモンの出身でした。

 ちなみに、在家信者はどういう階級の人たちだったのでしょうか。仏滅後さほど時を経ていないマウリア王朝時代のストゥーパ(仏塔)に刻まれた寄進者の職業を調べてみると、そのほとんどが商工業者で、他には官吏が若干あり、武士軍人はまれで、農民は一人もいなかったといいます。これは四姓で言えば、バラモンとヴァイシャがほとんどで、クシャトリアが少し、シュードラはゼロということになります。

 釈尊の教団は、四姓平等の原則に則り、誰にでも開かれていましたが、実際に出家して教団に入ったのは、読み書きのできる支配者階級の人たちがほとんどでした。仏教は、本質的に、人間存在の究極的意味を見極めること、つまり涅槃の実現をめざした教えです。現代の言葉で言えば、仏教は実存探求の教えです。呪術や祈祷で現世利益を願うのとはレベルの違う、そういった教えに心ひかれるのは、今も昔も、ある種のエリートだけだと言っては語弊があるでしょうか。

 釈尊は、人間の普遍的真実を説かれ、教団の門戸を四姓に開放されていましたが、社会的に差別され、宗教的にも疎外されていたシュードラは、ほとんどそういった精神世界とは無縁の人たちだったのです。ごく少数ながら、シュードラ出身者の比丘で長老にまでなる人々もいましたが、バラモン出身者が圧倒的に多かった釈尊の教団では、そういった人々の考え方が教団に影響を及ぼすことはありませんでした。

 出家修行者といっても高潔な人たちばかりではありません。比丘たちの間には、嫉みの思いもあれば、侮りの思いもある。いくら教団が四姓平等の原則に則っているといっても、長年の世俗生活の間に身体の髄までしみこんだ、出身階級の上下によるプライドやコンプレックスを、簡単には捨てられなかったというのが本当のところだと思います。つまりは、バラモンを最上とする俗世の階級制度が、教団の上にも影を落としていたのです。

 釈尊の最初の弟子となった5人の苦行者(五比丘)も、バラモンの出身者でした。次回は、その五比丘についてお話しいたします。


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