ゴータマ・シッダッタ(釈尊)は、29歳の時に、父母妻子を捨ててカピラ城を去り、修行の旅にでます。伝説によれば、ゴータマは生老病死の問題を解決するために出家したと言われておりますが、あるいは、宗主国コーサラとの軋轢や、異母弟ナンダに家督を譲るためといった、政治的・家庭的な事情もあったのかもしれません。まあ、それはともかく、ゴータマは、はっきりした計画を持って出家したようで、カピラ城を出ると一路マガダ国の首都ラージャガハに向かいます。 当時の文化の中心地は、コーサラ国の首都サーヴァッティーとマガダ国の首都ラージャガハでした。そこには多くの哲学者や宗教家が集まっていましたから、修行には好都合の場所でした。ですが、サーヴァッティでは近すぎて城に連れ戻される危険がある。そこで、600キロも離れたラージャガハの方を選ばれたのでしょう。 当時、マガダ国には、瞑想の達人として有名な二人の仙人がいました。アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタです。ゴータマは、まずこの二人のもとで瞑想修行に専念し、短期間のうちに師匠の境地を越えてしまいます。ですが、その瞑想修行の成果に満足できなかったゴータマは、彼らのもとを辞してガヤー(現在のブッダガヤ)の苦行林に入り、激しい苦行に打ち込むことになります。その苦行林で出会ったのが、今回お話し致します、コンダンニャ、アッサジ、ヴァッパ、マハーナーマ、バッディヤ、という5人の苦行者たちです。 南方仏教の伝説によると、コンダンニャは、ゴータマが生まれたときに招かれた8人の占相師の最年少者で、「太子は必ず仏陀に成る」と予言したバラモンだったと言われています。後に彼は、ゴータマの出家を知ると、仲間のバラモン4人をさそって出家し、ゴータマの修行につき従います。4人の仲間というのは、アッサジ、ヴァッパ、マハーナーマ、バッディヤのことです。また、後の伝説によると、この5人は、父王スッドーダナ(浄飯王)が太子ゴータマの身を案じて苦行林に送り込んだ警護の待者たちだったと言われています。 いずれにせよ、彼ら5人の苦行者はひとつのグループをなし、いつも行動をともにしていたために、ひとまとめにして「五比丘」と呼ばれています。彼らはゴータマの修行の真剣さにひかれ、ともに修行に励むようになります。そして、ゴータマの苦行が激しさを加えるにつれて、「ゴータマはいまに悟りを開くだろう」と期待をいだくようになっていきました。 しかし、ゴータマが、「身を苦しめることは決して心の平安に導くものではない」とさとって、6年間も続けてきた苦行をすっかりやめてしまうと、5人の苦行者はゴータマを見限って、遠く西方のカーシー国の首都バーラーナシー郊外のイシパタナ・ミガダーヤ(仙人住処鹿野苑)に去ってしまいます。イシパタナ・ミガダーヤは、鹿が放し飼いにされた園林で、苦行者たちが好んで集まる場所でした。 それからほどなく、ゴータマは菩提樹の下で深い瞑想に入り、ついに悟りを開いて仏陀釈尊となられます。釈尊は、成道後も数週間のあいだ、ひきつづき瞑想のなかで悟りの甘露を味わい楽しんでおられましたが、ついには、その教えを人々に説き示す決意をなさいます。その難解な教えを理解してくれそうなのは誰かとお考えになり、まず、かつての師だった二人の仙人を思いつかれますが、彼らはすでに世を去っていました。それでは、次に理解できそうな者はといえば、数年間生活をともにした5人の苦行者がいました。そこで釈尊は、彼らのいるイシパタナ・ミガダーヤ(鹿野苑)へと旅立たれます。 托鉢の旅を重ねて、釈尊が鹿野苑に到着されると、遠くからその姿に気づいた5人の苦行者たちは、「むこうから苦行を捨てて堕落したゴータマがやってくるが、われわれは、彼を親切に迎える必要はない」と、釈尊に対して冷淡に振る舞うように約束します。しかし、釈尊が近付いてこられると、さきの約束も忘れて5人は思わず立ち上がり、丁重に迎えてしまいます。 最初5人は、釈尊が悟りを得たということを信用しませんでしたが、釈尊が以前と違って自信に満ち、おかしがたい威厳をはなっていることに気づいて、ようやく耳を傾ける気になります。釈尊は、欲望の生活も苦行の生活もともに悟りに導く道ではないと「中道」の教えから説きはじめ、「四聖諦」「八正道」の法を説いていかれました。 自分たちの考え方が間違っていたことに気づいた5人の苦行者は、ようやく素直な心で釈尊の教えを聞くことができるようになり、「四聖諦」の法を理論的に理解するという第一段階の悟りに到達します。その後、5人は釈尊に師事して、その教えを実践する修行の生活に入り、順次悟りを開いて阿羅漢となったと言われています。伝説によると、まず悟りを得たのはコンダンニャでした。その次には、ヴァッパとバッディヤ、そして最後に、マハーナーマとアッサジが悟りを開きました。彼らは釈尊の最初の弟子たちでした。特に、釈尊の次に悟りを開いたコンダンニャは、「仏陀の後嗣」と讃えられ、最初期の教団の中心的人物でした。 ですが、後にサーリプッタ(舎利弗)とモッガッラーナ(目連)が、アッサジを縁として250人の仲間とともに釈尊に師事するようになり、新たな教団の指導者となります。コンダンニャは、サーリプッタとモッガッラーナが自分にいくぶん気兼ねしているのを察して、遠くの森に去っていきます。伝説によると、彼はヒマラヤにあるマンダーキニー湖畔のチャッダンタ森(六牙森)に12年間住んだ後、死期をさとって暇乞いに釈尊を訪れたと言われています。 『大無量寿経』では仏弟子たちの名をあげる最初に、「…尊者了本際(コンダンニャ)、尊者正願(アッサジ)、尊者正語(ヴァッパ)、尊者大号(マハーナーマ)、尊者仁賢(バッディヤ)…」と、最初の仏弟子である五比丘の名前を並べていますが、彼らが教団の中心人物になることは、ついにありませんでした。コンダンニャにしても、最初から教団の中心になろうという思いも無かったでしょうし、サーリプッタやモッガッラーナに仏陀の側近の地位を奪われたという思いも無かったでしょう。コンダンニャの隠棲の願いを聞きとどけられた釈尊も、彼のそんな思いをよくご存じだったに違いありません。対機説法にもうかがえるように、釈尊は、弟子の素質に反することは決して強要されませんでした。五比丘たちは本質的に苦行者でしたから、教団を統率していくという政治的な生き方は体質的に馴染まなかったのです。 次回は、初期教団の実質的な指導者となっていくサーリプッタとモッガッラーナのお話しをさせていただこうと思います。
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