仏教夜話・16

仏弟子群像(3)

舎利弗と目蓮(上)

 初期仏教で最も有名な仏弟子は、舎利弗(サーリプッタ)と目蓮(モッガッラーナ)です。この二人は、釈尊在世中の仏教教団を支え、教団の拡大発展に大きく寄与した重要人物です。今回と次回は、この二人についてお話しいたします。

 サーリプッタは、マガダ国の首都ラージャガハ(王舎城)近郊のナーラカという村の裕福なバラモンの家に生まれ、本名をウパティッサといいました。また、モッガッラーナも、ナーラカ村に近いコーリタという村の裕福なバラモンの家に生まれ、本名は村名と同じコーリタといいました。二人はともに群を抜いて聡明で、村が近いことや、家庭環境が似ていたこともあってか、若い頃から無二の親友でした。

 あるとき二人は王舎城の祭りに出かけ、行列を見物しながら共に楽しんでいましたが、ふと、「これらの人々は、今は晴れやかな顔をして笑いあっているが、百年経ったときには、生きている人は一人もいないのではないか」と考え、深い無常感におそわれます。もはや安閑と祭りを楽しんではおれなくなった彼らは、喧噪を逃れて心中を語り合い、一日も早く出家して真実の道を求めようと誓います。

 両親を説得して許しを得た彼らは、解脱への道を求めて出家し、まず、王舎城で有名だった六師外道の一人、懐疑論者のサンジャヤに師事し、修行に励みました。六師外道というのは、当時の中インド地方で勢力のあった6人の思想家たちのことです。知力に優れた二人は、数日のうちにサンジャヤの思想をすべて学びとってしまい、師の代講を務めるまでになりましたが、出家の目的だった心の平安は一向に得られません。そこで、二人は、優れた師が見つかったときには連絡しあって一緒に入門しようと約束するのです。

 それから何年も経ったある日のこと、サーリプッタは、王舎城の北門近くで、前回お話しいたしました五比丘の一人、アッサジが托鉢から帰るところに出会い、その端正な姿にうたれ、「あなたの師は誰で、どのような教えを説かれるのですか」と訊ねます。するとアッサジは、「私はシャカ族出身の偉大な聖者に師事しています。まだ入門して日が浅く、その教えを詳しく説くことはできませんが…」とことわりながら、「もろもろの事がらは原因から生じる。真理の体現者はそれらの原因を説きたもう。またそれらの止滅をも説かれる。偉大な修行者はこのように説きたもう」という偈を唱えました。これを聞いたサーリプッタは大いに感銘を受け、急ぎ戻ってモッガッラーナに伝えました。かくして二人は、サンジャヤの弟子250人を連れて、釈尊に帰依したのです。

 二人をご覧になった釈尊は、すぐにその優れた資質と才能を見抜かれ、すべての弟子の上座にすえられました。その後二人は修行に励み、数日の間に解脱を得たと言われています。釈尊は、この二人の弟子をことのほか信頼され、人々の指導や教団の運営をほとんど彼らに任せてしまわれただけでなく、ほどなく出家した実子ラーフラの指導をも彼らの手に委ねられました。

 特にサーリプッタは、しばしば釈尊に代わって人々に教えを説きましたが、その説法の内容について釈尊が咎められたことは一度もありませんでした。また、遠くに旅立つ弟子たちが釈尊のもとに挨拶に来ると、「サーリプッタには挨拶したのか、旅立つ前に彼のところにも挨拶に行きなさい」と、必ずおっしゃったそうです。初期の仏典を見ると、常に釈尊は手放しでサーリプッタを賞賛され、彼を真の後継者とみなしておられたことが分かります。サーリプッタは間違いなく釈尊と同じ境地に到達していました。そして、釈尊はそのことをはっきりと認めておられたのです。

 以前にもお話しいたしましたが、釈尊は、自ら「自分は教団を統御するつもりはない」とおっしゃっておられたように、教団の統一や組織化といったことには、ほとんど関心を持っておられませんでした。また、「犀の角のようにただ独り歩め」という初期教典の教えから見ても、釈尊は、教団の指導者というよりも、孤高の聖人とでもいうべき人だったのではないかと思います。群成すことは釈尊の本意ではなかった。そのことは、釈尊の最後を看取ったのが侍者のアーナンダほか数人の弟子たちだけだったということからも分かるような気がします。

 一方、智恵第一と称されたサーリプッタは、様々な知識に通じ、洞察力が鋭く、そのうえ教団統率にも優れた能力を持っていました。あるいは釈尊は、そんな彼に教団を任せて肩の荷を降ろしたような気持ちになられたのかもしれません。実際、サーリプッタは教団の代表者として大いに活躍したようです。ある研究によると、古いジャイナ教の文献『聖仙のことば』には、仏教というのはサーリプッタの教えだということになっていて、釈尊の名は出てこないのだそうですが、おそらくはこれも、サーリプッタが初期の仏教教団を代表する「顔」だったからではないかと思います。

 釈尊の教えは、もっぱら「執着するな、こだわるな」という点に重きが置かれていましたが、学者の研究によると、サーリプッタは「おのが敵に対しても慈しみを起こすべし」と説き、慈悲の徳をとくに強調したといいます。また、当時の修行者は森や林に住むことが多かったのですが、サーリプッタは、必ずしもそのような場所に住む必要はないと主張したということです。仏教が急激に広まったのは、こんなサーリプッタの温かくて柔軟な考え方によるところが大きかったのかもしれません。

 ご承知のように、釈尊は、命がけの激しい苦行を経験されたのち、その苦行を捨て、瞑想によって独力で真理に到達されました。ご自身は、「真理へ至る道は自分の独創で作り出したものではなく、忘れ去られていた古聖の道を再発見しただけだ」とおっしゃっています。ですがそれでも、釈尊が、いわば満身創痍となって古の道を覆っていた茨を独力で切り開いた偉大な開拓者であることに変わりありません。

 一方、サーリプッタには、苦行をしたという記録が全くありません。また彼は、釈尊に帰依してからも苦行に重きを置きませんでした。サーリプッタが自ら認めているように、彼には、何事であれ、苦労せずに楽々と達成できるような、計り知れないほど大きな能力が備わっていたようです。彼はいわば、釈尊によって切り開かれた道をさらに広げ、慈悲の心をもって舗装を施した人です。サーリプッタは、ある意味では釈尊より偉大な人だったのかもしれません。あるいはまた、釈尊に出会わなくとも、いずれ自ら解脱の境地に到達した人だったのかもしれません。

 しかし、サーリプッタは、自分に解脱への道を示してくださった釈尊を終生敬愛し続けました。それだけではなく、彼は釈尊への縁を結んでくれたアッサジへの恩を忘れず、いまアッサジが居ますと聞いた方角に足を向けて寝ることは生涯なかったということです。サーリプッタという人は、宗教的に偉大だっただけでなく、何とも奥の深い魅力的な人だったように思います。


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