仏教夜話・2

仏舎利奉迎と覚王山日泰寺(その2)

 シャム公使、稲垣満次郎氏よりの書状を受けた仏教各宗派は、幾度かの予備会議の後、明治33年4月18日より三日間、京都妙心寺にて各宗派会議を開催。仏舎利奉迎の件について種々協議を凝らした結果、奉迎使として以下の4師を選出しました。

   奉迎正使   大 谷 光 演 (真宗大谷派)
          日 置 黙 仙 (曹洞宗)
          藤 島 了 穏 (浄土真宗本願寺派)
          前 田 誠 節 (臨済宗)

 正使の大谷光演師は当時25歳でした。光演師というよりも、あるいは句仏上人と言ったほうがお分かりになるかもしれません。

 南条文雄博士をはじめとする随行14名を伴った奉迎使一行は、シャム王室等への多数の贈り物を携えて5月22日に京都を出発し、翌23日に神戸港より日本郵船の博多丸でシャムへと向かいました。途中、門司、長崎、ホンコン、シンガポール、サイゴンに立ち寄り、6月11日にバンコクに到着。バンコクでは両国国旗が翻々として、花火が天に響き、街は歓迎の人であふれていました。

 6月15日、ワットポー大寺院で仏舎利授受の式典が執り行なわれました。王室よりの勅使である大臣が式辞を読み、正使大谷光演師が答辞を朗読。読経、三帰依文の黙誦三拝の後、大臣は舎利を納めた小黄金塔を正使に授与。正使はこれを拝受して日本から準備していった宝珠形の仏塔に納め、更に金襴の嚢に入れて二重の桐箱に納め、厳かに仏骨授与式が終わりました。その後の18日、シャム国王は奉迎使一行を王宮に招き、鋳造後約千年を経たシャム式釈迦座像一体を日本仏教徒に、また、ほぼ同時代の小釈迦座像一体を奉迎正使大谷光演師に寄贈されました。そのおり国王は、仏舎利を奉安する覚王殿建設については、その用材として「朕および王后、親王大臣等より、各材木を寄贈すべし」との約束までなさいました。

 一行は19日に帰途につき、北清事変のために航路の変更を余儀なくされながら、7月11日に長崎に上陸。15日に長崎を発って17日大阪着。四天王寺での拝迎式には数万人が参拝し、行列の長さは数キロに及びました。19日、御遺形を納め赤地大和錦でおおった唐櫃を奉って、一行は天王寺駅より梅田を経て京都に向かい、午前9時17分、七条駅着。101発の花火が轟然と響き渡り、各寺院の梵鐘が一斉に鳴り渡るなか、国旗や仏旗を掲げ振る奉迎の大群衆をかきわけるようにして、聖櫃は東本願寺へ。阿弥陀堂を経て大師堂内陣に安置し、ひとまず休憩。

 同日午後1時、御遺形を宝輿に移し、かねて仮奉安所に定められていた東山の妙法院(博物館の東向かい)までの大行列が始まりました。順路は東本願寺より烏丸通りを北上、五条通りを東進、伏見街道を南下、そして七条通りを東進して妙法院内仮奉安所にいたる約3キロの道程でした。沿道一帯に無数の露店が立ち並び、奉迎の大群衆を規制するため沿道の両側には竹矢来をめぐらせて3間(約5.5m)おきに巡査が立ち、また行道頭上には日覆の白木綿が延々と張り渡されていました。

 行列は、先払い、天童子50名、六金色旗を先頭に、各宗派の僧侶団、各宗管長、奉迎総理、シャム公使、楽師、仏旗、旗幢、◎宝輿、旗幢、奉迎旗、奉迎正使、奉迎使随行、各宗門跡、各宗派本山住職、各宗派重役、官員、各名誉職、新聞記者、各宗派僧侶、各団体総代、各宗派講中といった順序で二列に並び、都大路を練り歩きました。大谷派をはじめ諸講中は何国何組何々講と染め抜きした色とりどりの旗を押し立て、楽が奏でられ、空也堂は鉦を打ち鳴らし、明暗教会は虚無僧姿で尺八を吹奏、各宗派僧侶の法衣も黒、紅、紫、等々と目にも鮮やかに、市内各寺院の打ち鳴らす梵鐘と奉迎信者たちの南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱える念仏がどよめき渡るなかを、午後2時55分に先頭が妙法院に到着した時に末尾はまだ東本願寺を出ていなかったという、前代未聞、空前絶後の大イベントでした。

 かくして妙法院での盛大厳粛な仮奉安式も無事終わり、仏舎利奉迎も一段落したのですが、まだ大きな問題が残っていました。御遺形奉安所である覚王山建設地の選定が、各地各宗派の思惑がからんでなかなか決定できなかったからです。次回は、この覚王山の建設に至るまでの大騒動についてお話し致します。












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