稲垣公使よりシャム王室の仏舎利分与の意向を伝え聞いた当初より、日本仏教会は超宗派の帝国仏教会を設置し、御遺形を奉安する塔廟(覚王殿)の建設、建設地の選定、およびその費用の捻出に関して種々に論議を重ねておりましたが容易に決着せず、ひとまず建設地の選定は後日のこととし、天台宗の門跡寺院である妙法院の宸殿を仮奉安所に定めて、あわただしく奉迎使一行を送り出したのでした。 奉迎使の渡暹中、帝国仏教会は名古屋の伊藤満作氏に覚王殿の予定平面図の製作を依頼し、1500分の1の図が7月12日に出来上がりました。それによると覚王殿および付属建築物の建坪数5800余坪、敷地10万余坪となり、建設費はほぼ1千万円を要するという大構想でありました。現在の東本願寺の境域は22500余坪と言われておりますから、10万余坪といえばほぼその4.5倍の広さになります。 建設費の1千万円というのは、現在ならどのくらいの額になるものでしょうか。試みに物価を比較してみますが、これは比較するものによってかなり差があります。たとえば現在の標準価格米10キロの値段は税抜きで3684円(1993年1月)ですが、明治33年には白米10キロが約1円15銭でしたから、この比率だと当時の1千万円は現在の約320億円くらいになる計算です。しかし入浴料で比較しますと、明治33年が約2銭3厘で現在が270円(1993年1月)ですから、約1174億円となります。また現在250円くらいのコーヒー一杯が当時は約2銭でしたから、これだと約1250億円。給与から見ると、明治33年の小学校教員の初任給は10〜13円だったそうですから、現在の初任給が18万円くらいだとすると、ほぼ1400億円〜1800億円くらいになる計算です。簡単には比較できそうにもありませんが、米は人為的に価格が抑えられておりますから、これを別にして考えますと、当時の1千万円は現在のほぼ1千億円前後に相当する金額ではないかと思います。 さて、仮奉安式が終わっても建設地は一向に決せず、御遺形は妙法院に仮奉安したまま2年が過ぎました。その間、覚王殿建設位置に関して諸種の説が起こり、あるものは東京が適当と主張、あるものは京都に定めるべしと論じ、またあるものは遠州三方ケ原に建設すべしと説くなど紛糾を極める一方、各地で用地の寄付を申し出るものが続出しておりましたが、各宗派の思惑が錯綜して一歩も話が進展しないという有様でした。 シャム公使館の外山義文領事は、再三シャム国王より御遺形日本到着後の情況について尋ねられ、国内仏教界の紛糾せる事情を有り体に申し上げるわけにもいかず、ほとほと困り果てていました。やむおえず「目下地所の選定中でございます」とお答えすると、「まだ地所も決まっておりませんのか、早く建築資財を寄贈したいと思っておりますのに」とシャム国王はすこぶるご機嫌がよろしくない。そのうえ、日本の各宗派よりシャム国王に献進する約束になっていた書籍なども、二三の宗派を除いてはこれを果たしていないという、日本国としてもはなはだ面目無い情況になっておりました。たまりかねた外山領事は、仏舎利奉迎の中核団体である大菩提会(帝国仏教会)の会長村田寂順師と副会長前田誠節師に明治34年11月26日付けで書簡を送り、「一個人との約束と一国の国王との約束とでは重さが異なることをよくよく考慮し、日本仏教徒の恥辱にならぬよう、早急に対処されたい」との旨、厳しく申し入れました。 大菩提会では、やむおえず各宗派より9名の委員を選出して協議し、覚王殿を京都に建設するとの仮決議をいたします。しかし、仏舎利分与の話が出た当初より、聖遺骨を我が宗派で独占しようというような動きも少なくなかったくらいですから、なかなか一筋縄ではいかず、これも頓挫。そこに、名古屋市の会員50余万人を擁する御遺形奉安地選定期成同盟が熱心かつ強力に覚王殿の誘致運動を展開し始め、2百万円を越える寄付金と建設用地を準備して、有志数百名の連署で大菩提会に請願書を提出しました。その動きに応じて愛知県知事沖守固男爵と名古屋市長青山朗氏も何度となく大菩提会に覚王殿誘致の書簡を送り、また外山領事と稲垣公使も渡りに舟と強力にこれを後押しするという展開になるのですが、少し長くなりますので、この続きは次回にお話しすることに致します。
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