仏教夜話・21

仏弟子群像(8)

シャカ族について

 シャカ族は、現在のインドとネパールにまたがった東西約80キロ、南北約60キロほどの比較的狭い地域(京都府より少し広い地域)に住み、稲田と家畜の生産物で生活していました。

 タラーイ盆地の一部をなすその領地は、北方はヒマラヤ連山、東方はローヒニー河、西と南はラプチ河を境とする極めて肥沃な低地で、沙羅樹の高く茂り聳える森林の間には魚類の豊かな湖沼が点在していました。村々が黄金色に実る稲田の周りに散在し、あちこちに池を囲んでマンゴウやタマリンドが茂り、牛が叢林を徘徊していました。

 シャカ族は、経典に「繁栄と大いなる快楽とを恵まれた種族」とあるように、豊かな種族でした。ガンジス河流域諸国と山地とを媒介する地理的条件にも恵まれていましたが、その富の源泉は、疑いもなく稲作にありました。

 釈尊の父親の名前はスッドーダナといいます。漢訳経典では「浄飯王」と訳されていますが、スッドーダナとは「浄い米飯」「白米の御飯」という意味です。また、スッドーダナの3人の弟たちの名前も、スッコーダナ(白飯)、ドートーダナ(斛飯)、アミドーダナ(甘露飯)というように、みな「オーダナ」(飯)という語を含んでいます。こういう名前から見ても、当時、シャカ族ではすでに稲作が行われていて、白米が珍重されていたことが分かります。

 シャカ族の国の首都は、カピラヴァットゥ(カピラ城)という名の町でした。シャカ族は、カピラヴァットゥの公会堂での会議を重んじ、一種の共和制を実施していました。ですから、スッドーダナは、後の経典では「王」と呼ばれていますが、実際には、専制君主ではなく、選挙で選ばれた種族の代表者だったわけです。

 シャカ族は、隣接する強大なコーサラ国に従属していましたが、コーサラ国王パセーナディと同じく、ヴェーダ聖典に出てくる伝説の英雄イクシュヴァーク王(甘藷王)の後裔であると主張し、極めて自尊心が強かったと言われています。

 シャカ族の起源に関して、経典にこんな伝説が伝わっています。「シャカ族はオッカーカ(イクシュヴァーク)王を先祖とみなしている。昔オッカーカ王は寵愛した妃の王子に王位を譲ろうと欲して、年長の王子たち4人を国外に追放した。継母の企みによって国外に追放された王子たちは、ヒマラヤの麓にある湖水の畔に、サーカ樹の大きな森のあるところ(カピラヴァットゥ)に住居を定めた。彼らは、血統の乱れることを恐れて、自分らの妹たちを配偶とした」と。

 後代の文献に、「犬や野牛のように、自分の妹たちと夫婦になったものの子孫」と、シャカ族が罵られたことが伝えられていますが、それはこの伝説によるものです。血統正しき種族であると主張する伝説が、裏目に出たというところでしょうか。

 それはともかく、シャカ族は、イクシュヴァーク王の後裔、つまり「太陽の子孫」を自称するだけあって、実際に歴史の古い種族だったようです。そのため、政治的には微々たる勢力しかなかったにもかかわらず、「シャカ族の自尊」という諺にもなっているくらい自尊心が強く、バラモン教の権威を全く認めていませんでした。ですから、バラモンたちの眼には、シャカ族は、尊大で野卑な種族に見えていたのです。

 経典に、コーサラ国のアンバッタという青年バラモンが、釈尊に向かってこう呼びかけています。「ゴータマよ、シャカ族の生まれの人々は粗暴である。…粗野である。…軽はずみである。…狂暴である。隷属している者でありながら、バラモンたちを崇めず、重んぜず、敬わず、供養せず、尊ばない。そういうことは、適当でなく、ふさわしくない」と。

 つまりは、シャカ族はバラモンの権威を無視し、バラモンたちはシャカ族を軽蔑していたのです。仏弟子の50%以上はバラモン出身の者たちでしたが、そのバラモン出身の仏弟子たちは、内心、シャカ族を良く思っていなかったわけです。そのうえ、釈尊の滅後に経典を編纂したマハーカッサパもバラモン出身でした。現存する経典に、釈尊の出身種族であるシャカ族を非難するような言葉が散見されるのは、そういう事情もあってのことではないかと思います。

 ちなみに、シャカ族は人種的に何人種に属していたのかよく解っていません。アーリア人の聖典であるヴェーダの権威を全く認めていないのですから、アーリア人ではなく、ネパール人と同様、モンゴロイド(蒙古系人種)だったのかもしれません。

 かつて、イギリスの歴史学者ヴィンセント・スミスが、「釈尊は生まれは蒙古人であったらしい。すなわち蒙古人の特徴をそなえチベット人に似たグールカのような山岳民であったらしい」と発表して、議論を巻き起こしたことがありました。また、インドの著名な歴史学者チャクラヴァルティも、「(シャカ族は)多分ネパール地域のモンゴル人であった」と言っていますから、歴史学畑では、シャカ族はモンゴロイドだったと考えられているのかもしれません。

 実際、インドの古い文献には、シャカ族はアーリア人種ではなく、キラータ(山の民)だと書かれているといいます。キラータというのは、ヒマラヤ東部からアッサム、雲南にかけての山岳地帯に住むモンゴロイド(蒙古系人種)のことです。インドに稲作を伝えたのは、このキラータだといいます。釈尊の頃のインドでは、麦や粟や稗が主食で、米はまだ珍しかったはずですが、シャカ族だけは、ちゃんと米を食べていたのです。ですから、シャカ族がキラータだという説には信憑性があるようにも思えます。

 「太陽の子孫」を自称する種族は、農耕文化と結びついて世界中の古い種族にみられますが、農耕文化というものは、不思議なことに、古代のある時期に世界中でほぼ時を同じくして始まっています。それは世界中を舐め尽くしたという伝説の大洪水の後のことです。また、シャカ族には、従兄弟姉妹交互婚という特殊な習俗があったと伝えられていますが、これは、「歴史はシュメールに始まる」と言われるメソポタミアのシュメールの王家にも見られた、非常に古い習俗です。

 シャカ族は、古い起源を持ち、当時のアーリア人とは異なった文化を持っていたのです。とすると、あるいは、タラーイ盆地でキラータたちが稲作を行っていたところに、北西から少数のアーリア人が入ってきて主導権を握った(さきほどのシャカ族の伝説は、そういう歴史的事実を反映しているのかもしれません)が、文化的にはキラータの側に飲み込まれてしまったということなのかもしれません。これは想像に過ぎませんが、ありうることのようにも思えます。


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