仏教の伝統では、デーヴァダッタ(提婆達多)は、何かと釈尊に反逆し、異義を唱え、教団の分裂を謀り、あまつさえ釈尊の殺害まで企てた極悪人だったということになっておりますが、本当にそうだったのでしょうか。今回からしばらく、このデーヴァダッタについて、ご一緒に考えてみたいと思います。 伝説によると、デーヴァダッタは若い頃からゴータマ(釈尊)への対抗意識が強く、ヤソーダラー(後のラーフラの母)の婿選びの武芸試合でゴータマと武技を競って負けたといわれていますが、まず、そんなことは実際には無かったと思います。というのはです、ひとつには、デーヴァダッタはゴータマよりずっと若かったはずなのですね。 デーヴァダッタはゴータマの従兄弟で、アーナンダの弟だったと言われていますが、もしそうなら、デーヴァダッタはゴータマより30歳ほど年下だったはずですから、二人が婿選びの競技会などで顔をあわせるはずがありません。また一説には、デーヴァダッタは、当のヤソーダラーの兄弟だったと言われていますが、そうなると、ますます婿選びの競技会でゴータマと競うなどということは考えられなくなってまいります。 たしかに、『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』に記されているように、古代インドには、婿選びの競技会を行うような風習があったようですが、ゴータマがそういった競技会を経てヤソーダラーと結ばれたとは考えにくいのですね。というのは、古い経典に、釈尊ご自身の言葉として、「自分は若い頃から身体が弱くて過保護のようにして育った」と伝えられているからです。 後年も、釈尊はしばしば風邪をひかれたり胃腸をこわされたりして、名医ジーヴァカの治療を受けておられます。また、釈尊はよく、疲労を理由にサーリプッタに説法をゆだねられ、右脇を下にして、つまり胃が下に心臓が上にくる姿勢で横になられましたが、それも消化器系が弱かったからではないかと思われます。 ゴータマは、身体が弱く、「邸内を散歩するときも、寒さ・暑さ・塵・草・夜露が触れないように」気遣われながら育ったのです。ゴータマは、鳥が虫をついばむのを見て胸ふたぐほど悲しんだ、繊細・敏感で、内省的な優しい子供だったのです。ですから、どうみても、そんなゴータマが武芸に秀でていたとは思えないのですね。 実際、古い文献では、ゴータマとデーヴァダッタとが武芸で妃を争ったという話はでてまいりません。ですが、釈尊滅後に、デーヴァダッタが極悪人の標本のように考えられるようになると、いろいろな空想が無遠慮に付け加えられ、ついには、ゴータマが出家した後、デーヴァダッタは、競技会で負けた意趣ばらしにヤソーダラー妃を誘惑しようとして拒絶されたという話にまで発展していきます。 ちなみに申しますと、これは仏典ではありませんが、大正時代に書かれた中勘助の小説『提婆達多』では、デーヴァダッタが誘惑に成功し、ヤソーダラーと愛欲に溺れるという設定になっております。また、昭和36年の映画『釈迦』(大映作品)では、ヤソーダラー妃がデーヴァダッタに陵辱されるという筋書になっており、東南アジアの仏教諸国で物議をかもしたことがあります。デーヴァダッタに着せられた濡れ衣は、時が経つにつれて重くなるようで、いささか同情を感じます。 さて、それはともかく、話を戻しましょう。デーヴァダッタは、釈尊の成道後第15年頃に出家したようです。デーヴァダッタは、サーリプッタが誉め称えたほどに、「智者として知られ、身を修めた者として崇められ、誉れは炎のように高かった」と言われています。そしてデーヴァダッタは、マガダ国のアジャータサットゥ(阿闍世)王子の帰依を受けるようになります(ただし、仏典では、デーヴァダッタの方がアジャータサットゥ王子に取り入ろうとしたのだと書かれています)。 仏典の記述によると、王子は「朝夕に五百台の車をひきいて行って(デーヴァダッタに)奉仕し、五百の釜で食物を煮て供えた」とありますが、一日一食、それも午前中にしか食べない比丘に「朝夕」食事を供したとは、とうてい信じられません。それに、後で改めてお話しいたしますが、デーヴァダッタは「資産者の施す布きれ」すら受け取らないという厳しい生活を守っていましたから、そういった奉仕を受けたはずがないのですね。 デーヴァダッタは優れた修行者でしたから、権力者の帰依を受けたというのは本当でしょう。そんなデーヴァダッタのもとには、多くの比丘が集まったことでしょうし、また同時に、それに対して妬みを抱く比丘たちも多かったに違いありません。釈尊は、「比丘たちよ、デーヴァダッタの得た利得・尊敬・名声を羨むな」と言われたそうですが、かたやデーヴァダッタは、その利得と尊敬と名声とに圧倒されて、「自分が教団を統理しよう」という欲望を抱いたということになっています。 デーヴァダッタは、釈尊が多数の比丘たちに囲まれて教えを説いておられたとき、座から立ち上がって、こう言ったそうです。「尊い方よ。いまや尊師は老い、老衰し、耄碌し、晩年となり、高齢であられます。いまやあくせくしないで、この世で楽しく暮らされますように。比丘たちを私にお譲りください」と。それに対して釈尊は、「デーヴァダッタよ、私は比丘たちをサーリプッタやモッガッラーナにさえも譲らなかった。ましてや六年間も(アジャータサットゥ王子に)媚びへつらってきたお前などにはなおさらだ」と言われ、大衆の面前で罵られたデーヴァダッタは、釈尊に深い怨みを抱くようになったといいます。 この話からも、デーヴァダッタは釈尊より相当若かったことが分かりますが、それにしてもこの場面は、娑婆気がありすぎて不自然ではないでしょうか。以前にもお話しいたしましたように、釈尊には「自分の教団を統理している」という意識がありませんでした。つまり、釈尊には全く権力欲がなかったのです。その釈尊が、「私は比丘たちをサーリプッタやモッガッラーナにさえも譲らなかった」などと、俗っぽいことをおっしゃるものでしょうか。私には、釈尊はもとよりデーヴァダッタも、このような話し方をする人たちだったとは、とても思えないのです。 その後、伝説では、釈尊に怨みを抱いたデーヴァダッタは、アジャータサットゥ王子をそそのかして、ビンビサーラ王と釈尊の殺害を企てるという、私たちにはお馴染みの展開になっていくわけですが、ここから先は次回にお話し申し上げることにいたします。
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