さて、伝説によれば、釈尊に怨みを抱いたデーヴァダッタは、アジャータサットゥ王子を訪れて、こう言ったといいます。「王子よ、昔は人は長命でしたが、今は短命です。あなたは王になれずに死んでしまうかもしれません。ですから、あなたは父王(ビンビサーラ)を殺して王となりなさい。私は尊師を殺して、仏陀となりましょう」と。 尊敬するデーヴァダッタにそそのかされ、アジャータサットゥ王子は父王を獄舎に幽閉して餓死させてしまいます。『観無量寿経』の序分にも書かれている有名な伝説ですが、古い聖典では、この事件はデーヴァダッタと無関係に言及されていますから、「デーヴァダッタがそそのかした」という話は、おそらくは後代に付け加えられたものでしょう。 次いでデーヴァダッタは釈尊の殺害を企てたといいます。伝説によると、まずは、アジャータサットゥ王子に頼み、臣下に命じて釈尊を殺害させようとしますが、彼らはみな釈尊に教化され帰依してしまいます。そこで今度は、デーヴァダッタ自身が、霊鷲山の麓を散策しておられた釈尊めがけて、山上から巨石を落として殺そうとしましたが、石は途中で割れて、わずかに破片が釈尊の足を傷つけただけで終わりました。 次には、狂象を放って釈尊を殺害しようとしますが、象が釈尊の広大な慈悲心に打たれて恭順してしまい、これまた果たせませんでした。また一説によると、業を煮やしたデーヴァダッタは、自らの爪に毒を塗って釈尊に襲いかかりましたが、毒が効かず、デーヴァダッタは生きながら無間地獄に落ちて塗炭の苦しみを受けたといいます。 ちなみに、七世紀に天竺(インド)を訪れた玄奘三蔵の『大唐西域記』によると、当時、祇園精舎の東、百余歩のところに大きな坑があり、そこはデーヴァダッタが毒薬で釈尊を害しようとして生きながら無間地獄に落ち込んだ場所だと伝えられていたということです。また、現在、霊鷲山の参道の途中に、立て札が立っていて、デーヴァダッタが象をけしかけたとき、傷ついた釈尊はここまで運ばれたと書かれているそうですが、こういったデーヴァダッタ関連の伝説や遺跡は総じて甚だ怪しげに思われます。 というのは、ひとつには、もしデーヴァダッタがそれほどの悪人だったのなら、早い時期に教団から追放されたはずですが、私の知る限り、そういう記録がないことです。それどころか、仏典によれば、殺害の企てがことごとく失敗した後で、もういちどデーヴァダッタは、戒律についての新たな提案を携えて、釈尊に面会に行っているのです。釈尊の殺害を企てて生きながら無間地獄に落ちたはずの極悪人が、またぞろのこのこと現れたのに、誰も問題にしていない。これでは、話としてもいかにも無理があると思います。 もうひとつには、デーヴァダッタの教えを遵奉する人々が、インドに長く存在したことです。たとえば、四世紀に天竺を訪れた法顕三蔵の『高僧法顕伝』は、当時、「舎衛城にはデーヴァダッタの教えを信奉する人々がいて、過去三仏を供養していたが、釈迦仏は供養していなかった」と伝えています。また、さきにあげた七世紀の玄奘三蔵の『大唐西域記』は、「デーヴァダッタの遺訓を遵奉する者たちが三つの伽藍に住んでいて、乳酪を飲食しなかった」と伝えています。もし、デーヴァダッタが、仏典に示されているような極悪人だったとすれば、その名を伝える教団がそれほど長く存続していたとは考えにくいのです。 また、『法華経』の提婆達多品には、前世で、釈尊はデーヴァダッタの弟子だったと書かれています。そして、釈尊はデーヴァダッタを前世の師として尊敬していると述べられているのです。『法華経』が作られたのは紀元前後頃のことですが、ここにはデーヴァダッタが悪人だったとは、どこにも書いてありません。ですから、素直に考えれば、当時、インドで『法華経』を編纂した仏教徒たちは、デーヴァダッタを優れた宗教家とみなしていたということになります。後世の注釈家たちはみな、「デーヴァダッタのような悪人すら『法華経』では許されている」と解釈していますが、おそらく彼らは、デーヴァダッタを悪人とみなす伝統のなかで育ったために、そういう先入観から抜け出せなかったのではないでしょうか。 さて仏典では、釈尊殺害の企てが失敗したため、デーヴァダッタは、釈尊に「五箇条」の要求をつきつけて、教団の分裂を謀ったと記されています。ですが、さきほども申しましたように、これは殺害計画の後の出来事としては、あまりにも不自然ですから、そういった場面設定は受け入れられませんが、ともかく、デーヴァダッタは釈尊に、次のような「五箇条」を教団全体に適用される規則にしてほしいと申し入れたといいます。 修行者は、生涯、(1)林に住み、村落に住まないこと。(2)托鉢のみで食し、食事の招待を受けないこと。(3)ボロ切れの衣をまとい、資産者の施す衣を受けないこと。(4)樹の根に住み、屋内には住まないこと。(5)魚や肉を食べないこと。 それに対して、釈尊は、次のように応えられたといいます。修行者は、もし欲するなら、(1)林に住んでも、村落のなかに住んでもよい。(2)托鉢で食しても、食事の招待を受けてもよい。(3)ボロ切れの衣をまとっても、資産者の施す衣を受けてもよい。(4)雨の降らない乾季のあいだは樹の根本に座臥してもよい。(5)自分のために殺されたことを見たり、聞いたり、その疑いのあるものでなければ、魚や肉を食べてもよい。 デーヴァダッタの提案した五箇条は、出家修行者の生活としてむしろあたりまえのことですから、釈尊も、そういった生活を排斥はなさいませんでした。ですから、デーヴァダッタ自身が、そういう厳格な生活を欲するのなら、そうすればよいと許されたわけです。しかし、修行者の適応性にはそれぞれ違いがあるから、一律に厳格な規則を適用するという考え方は受け入れられないとおっしゃったのですね。 釈尊は、戒律の実践について比較的ゆるやかに考えられていましたが、デーヴァダッタは厳格に戒律を実践し、禁欲的な生活をおくります。このことによって、伝説では、デーヴァダッタが教団の分裂を謀ったと記していますが、実際には、デーヴァダッタは教団の分裂を謀ったというより、教団の主流派とは別行動をとったというだけのことです。ですが、後世の娑婆気の抜けきらない未熟な仏教徒の目には、そうは映らなかった。そこから、デーヴァダッタが貶められていったと思うのですが、そのあたりの事情については、また次回にお話しすることにいたします。
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