仏教夜話・24

仏弟子群像(11)

デーヴァダッタ(下)

 さて、釈尊は、生活の規範について比較的ゆるやかに考えておられました。要は、各人が、日常的な些末なことにこだわりを持たず、自分の適性に応じて、修行に専念できればよかったからです。ですから、教団としては、衣食住などについての原則はありましたが、それぞれに例外も認められていましたし、形式的に固執するということはありませんでした。

 しかし、デーヴァダッタは厳格に戒律を実践し、禁欲的な生活をおくったようです。その厳格な生活規範は、もちろん比丘として許される範囲のなかにありましたが、融通無碍ともいえる釈尊の姿勢から見れば、やや厳格に過ぎ、結果的に、主流派から距離をおいた格好になりました。

 前回にもお話しいたしましたが、デーヴァダッタは、次のような五箇条で、主流派より厳しい戒律を実践したようです。「(1)林に住み、村落に住まないこと。(2)托鉢のみで食し、食事の招待を受けないこと。(3)ボロ切れの衣をまとい、資産者の施す衣を受けないこと。(4)樹の根に住み、屋内には住まないこと。(5)魚や肉を食べないこと」。デーヴァダッタの主張した五箇条については諸説がありますが、まあ、それはともかく、主流派にとって面白くなかったのは、そんな禁欲的なデーヴァダッタに同調する比丘が多くでてきたことでした。

 ある伝説によれば、次のようなことがあったといいます。あるとき、多数の比丘が集まっていた場で、デーヴァダッタは座を立ち、「この五箇条が、法であり、律であり、仏の教えるところだと認められる方は、籌(投票のための算木)をとられよ」と、投票を提議しました。すると、五百人の新参の無知な比丘が籌をとったのです。そこでアーナンダが、座を立って上衣を肩にかけ、「この五箇条は、法ではない、律ではない、仏の教えるところではないと思われる方は、上衣を肩にかけられよ」と呼びかけると、六十人の長老比丘が上衣を肩にかけました。そこで、デーヴァダッタは、五百人の同調者を伴って象頭山に去った、つまり、教団を分裂させたというのです。

 伝説によると、これは釈尊在世中の出来事ということになっていますが、それにしては奇妙なことがあります。それは、釈尊が亡くなるまでの25年間、かたときも釈尊のそばを離れなかった侍者のアーナンダが、この集会にいることです。アーナンダがいるということは、釈尊が近くにおられるということですから、「この五箇条が仏の教え」かどうかは、直に釈尊に確かめに行けばよいはずです。それを投票で決しようというのですから、これは奇妙です。ですから、もしもこういう出来事があったとすれば、それは釈尊の亡くなった後のことではないかと思われるのです。

 通説では、仏教教団に分派の動きが見られるようになるのは仏滅後100年頃からだということになっておりますが、それはどうかと思います。と申しますのは、もともと仏教教団というのは、釈尊を頂く一枚岩の集団ではなかったからです。釈尊在世当時の仏教教団は、「教団」という言葉から私たちが連想するような中央集権的な組織ではなく、直接的もしくは間接的に釈尊の指導を受けながら、自治的に運営されている様々なグループから成っていました。つまり、地域や出自や個性に応じて、あるいは有力な弟子たちを中心にして形成されたグループが、各地に散在していたわけです。釈尊は、そういったグループの間を遊行しながら、ひたすら相手に応じて法を説かれただけで、ご自身、教団を統理しているという意識は持っておられませんでした。

 現代の私たちは、仏教といえば、釈尊(シャカ族出身の偉大な聖者)の創始した教えのように思い込んでいますが、どうもそうではないようです。釈尊以前から、過去の仏陀への信仰が非アーリア系の民俗宗教として存在し、ゴータマは、その伝統のなかで、仏陀になることをめざして出家したようなのです。

 たとえば、ゴータマが誕生したとき、アシタ仙人はその人相を占って、「この王子は、もし出家すれば、精神界の王者として、人類を指導救済する仏陀となられるでしょう」と予言したと言われます。また、祇園精舎の施主として名高いスダッタ長者は、「仏陀という名を聞くことさえ難しいのに、本当に仏陀がおられるとは」と、仏陀の出現を聞いて大いに驚いています。つまり、当時の人々は、「仏陀」という言葉が何を意味するかよく知っていて、精神世界の救世主たる仏陀の出現を待望していたということです。

 釈尊も、「真理へ至る道は自分の独創で作り出したものではなく、忘れられていた古聖の道を再発見しただけだ」とおっしゃっていますが、その「真理へ至る道」とは「仏陀(目覚めた人)になる方法」のことでした。当時、「仏陀」というのは固有名詞ではありませんでした。真理に目覚めた人はみな仏陀だったのです。現に、サーリプッタも仏陀と呼ばれていました。

 ところで、仏典によると、デーヴァダッタの主張した五箇条は「過去の諸仏が讃歎した道」(『十誦律』)だと言われています。つまり、過去仏信仰の伝統から言えば、「この五箇条は仏の教えるところ」だったわけです。ですから、こういった戒律の厳守は、デーヴァダッタの新機軸ではなく、釈尊以前の過去仏を信仰する仏教の伝統に属するものだったのではないかと思われるのです。

 つまりです、ゴータマは伝統的な苦行主義から脱皮して、戒律の実践については寛容な態度をとった仏教の改革者だったのです。それに対して、デーヴァダッタは、どこまでも世俗と絶縁して、厳格な苦行主義を守り続けようとした仏教の保守派だったということです。

 おそらく、デーヴァダッタは、過去仏信仰の伝統のなかで、釈尊を過去の諸仏に続く偉大な仏陀とは認めなかったのでしょう。たとえて言えば、イエス・キリストを、ユダヤ教世界で待望されていた救世主(メシア)だと認めなかった人々のようにです。そうすると、四世紀に天竺を訪れた法顕三蔵の『高僧法顕伝』にある、「舎衛城にはデーヴァダッタの教えを信奉する人々がいて、過去三仏を供養していたが、釈迦仏は供養していなかった」という記述とも符号してくるのです。

 それに対して、主流派となったのは、いわば釈尊をメシアだと認めた人々でした。その主流派の伝承のなかで、デーヴァダッタは徐々に極悪人扱いされるようになっていったのです。現在、私たちが手にしている仏典は、ほとんどがこの主流派の系統に属するものです。釈尊の滅後に、その経典を初めて編纂したのが、頭陀第一と言われたマハーカッサパ(摩訶迦葉)でした。次回は、そのマハーカッサパについてお話しいたします。


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