さて、問題のマハーカッサパ(摩訶迦葉)です。結論めいたことを最初に申しますと、私は、伝承されている仏典というものは、その大本のところで、マハーカッサパ、もしくは、その取り巻きの比丘たちによって相当歪曲されているのではないかと考えております。通説とは異なりますが、マハーカッサパの一生をたどりながら、その点について少しお話ししたいと思います。 マハーカッサパは、マガダ国の首都ラージャガハ(王舎城)に近いナーランダ近郊のマハーサッダ村に、富裕なバラモンの子として生まれ、幼名をピッパリ(ピッパラ)といいました。八歳になると、規定どおりバラモンの入門式を受け、バラモンとして必要なすべての教養を身につけましたが、幼い頃から世俗の快楽を嫌い、いつしか出家を願うようになります。 家の後継ぎが絶えることを恐れた両親は、ピッパリに結婚するよう強くすすめました。最初はきっぱりと断っていたピッパリも、ついに両親の願いを断りきれなくなって、一計を案じます。ピッパリは、工匠に黄金の美人像を作らせ、このような人となら結婚してもよいという、とうてい実現しそうもない条件を出したのです。 ところが、不思議なことに、その黄金像とそっくりの美人が見つかったのです。その女性は、マッダ国サーガラ市(一説には、ヴェーサーリー郊外のカラビカ村)のバラモンの娘で、バッダー・カピラーニーといいました。しかし、不思議な巡り合わせもあるものでして、聞けば、バッダーも以前から出家を願っていて、結婚を承諾したのは両親を安心させるためだったと言うのです。 心の内を話し合い、喜んだ二人は、その後、夫婦の交わりをもつことなく形だけの結婚生活を送り、両親の亡くなったあと、二人は同時に出家します。途中まで同じ道を歩んだ二人は、私情が修行の妨げにならないようにと袂を分かちます。バッダーは右に道をとってコーサラ国の首都サーヴァッティー(舎衛城)に向かい、ピッパリは左に道をとってマガダ国の首都ラージャガハ(王舎城)に向かいました。 ピッパリは、ナーランダからラージャガハに向かう途中のバフプッタカ廟というところで、ニグローダ樹の下に坐って休んでおられる釈尊を見て、非常に感銘を受け、ただちに弟子となりました。そして、教えを聞いて八日目にして悟りを開いた(智を証した)と言われています。それは、釈尊成道後三年目頃のことでした。 ピッパリは、仏弟子となって、カッサパ(迦葉)と名をかえます。マハーカッサパ(偉大なカッサパ)と呼ばれているのは、以前お話しいたしましたカッサパ三兄弟と区別してのことです。釈尊とカッサパは、ほぼ同年輩だったようです。 仏弟子となって間もない頃のこととして、こんな話が伝わっています。カッサパは、釈尊に従って歩いていると、釈尊は、道の傍らにあった一本の樹の下に近寄られ、休息をとろうとなさいました。それを見たカッサパは、自分の僧衣を四つに畳んで座を設け、そこにお座り頂きました。 釈尊は、その座に坐られて、こう言われました。「カッサパよ、この僧衣の布はとても柔らかいね」と。カッサパは、すっかり恐縮してしまい、「世尊よ、どうか私の僧衣をお受けください」と申し出て、自分自身は、釈尊の着古した粗末な糞掃衣を頂いて、身にまといました。それ以来、カッサパは、常に汚れた粗末な僧衣をまとっていたと言います。 カッサパは、十大弟子のなかで「頭陀第一」と称せられています。「頭陀」というのは、サンスクリットの「ドゥータ」を音写した言葉で、衣食住に関する貪りを払い除く修行のことを言います。具体的に申しますと、打ち捨てられた汚いぼろ布で作った僧衣(糞掃衣)だけを身に着け、常に托鉢乞食によって食を得る。乞食するのに家の貧富を選ばず、一日の食事は午前中の一食だけとし、食べ過ぎない。人里離れた森林や、樹下、野外、墓地などに住み、常に坐して横にならない。「頭陀第一」というのは、こういった頭陀行の実践をだれよりも厳格に行っていたということです。 こういった頭陀の生活実践は、本来の出家修行者としては当然の習慣でしたが、教団が発展するにつれて、比丘たちは僧院に定住するようになり、寄進された綺麗な僧衣をまとったり、招かれて信者の家で食事の供養を受けることも、ごく普通となっていきます。ですが、カッサパは、そういった新しい変化を好まず、出家修行者本来の頭陀行をかたくなに守り続けていたのです。 そんなカッサパに、ある時、釈尊は、こう声をおかけになりました。「カッサパよ、そなたも年老いたことだから、そのような粗末な糞掃衣を身にまとっていては重いだろう。そなたはもうそんな衣を着ないでもよい。供養の食事に招待されたら受ければよいし、なるだけ、私の傍にいるがよい」と。ですが、カッサパは、その釈尊の勧めを断って、頭陀の行を続けたいと応えます。 「カッサパよ、では、そなたは、どういうつもりで頭陀の行をやっているのかね」との釈尊の問いかけに、カッサパは、こう応えます。「大徳よ、ひとつには、このような生き方が私には楽しいのです。また今ひとつには、私がこのような生き方をすることで、いささかでも、後の人々に教えるところがあれば、うれしいと思いまして」と。そこで、釈尊は、「よいかな、カッサパよ、では、そなたの思うままにするがよかろう」と、カッサパの頭陀行を許されたのでした。 頭陀は、いわば苦行に属します。釈尊は、苦行を捨てて中道を歩んだ人でしたから、必ずしも頭陀行を強要されたわけではありません。人は、それぞれの能力に応じて、相応しい道を歩めばよい。そう教えてこられたのが釈尊です。だからこそ、相応の理由があって頭陀の生活が自分には向いているという人には、その生き方を認められたのです。 以前、デーヴァダッタが、比丘たちに頭陀行を徹底してほしいと釈尊に申し出たときのことを思い出して頂きたいのです(『菩提樹』第23号)。釈尊は、デーヴァダッタにも、同じようにお応えになっていましたね。インドの伝統的な苦行の道を尊ぶという意味で、デーヴァダッタとマハーカッサパは、同類でした。そのため、デーヴァダッタの追従者たちとマハーカッサパの追従者たちの間には、いわば近親憎悪とでもいうような感情があったのではないかと思います。
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