仏教夜話・26

仏弟子群像(13)

マハーカッサパ(中)

 さて、マハーカッサパの続きです。相応部(サミュッタニカーヤ)という南方仏教のパーリ語で書かれた聖典に、迦葉相応という章があって、そこにマハーカッサパの登場する13の経が集められています。いずれも、かなり後になって作られたもののようですが、問題は、その内容です。

 その13経の内訳を言えば、カッサパが釈尊から賞賛を受けているものが7経、カッサパが先輩のサーリプッタに説法するものが2経、カッサパがアーナンダを譴責非難するものが2経、アーナンダの仲間バンドゥ比丘とアヌルッダの仲間アービンジカ比丘を非難するもの1経、そして、釈尊がカッサパに正法から像法への時代の推移を説かれるもの1経となっています。

 各経を見れば、カッサパを釈尊の後継者として持ち上げ、他の仏弟子たちを貶めようとしている意図が読みとれますが、なかでもアーナンダは、カッサパもしくはその取り巻き連中から、そうとう疎んぜられていたようです。たとえば、こんな話が出てまいります。

 仏滅後のある時、アーナンダがカッサパのもとへ赴いて、「大徳カッサパよ、これから比丘尼たちの精舎に説法に行きましょう」と誘います。するとカッサパは、「友アーナンダよ、行きたければ、君が一人で行けばよい。君はなんとも忙しい人だなあ」と、すげなく断りますが、何度もアーナンダに誘われて、とうとう一緒に出かけていきました。

 比丘尼の精舎で、カッサパが説法したところ、一人の比丘尼が、「ここに第二の釈尊と呼ばれるアーナンダ尊者がおられるのに、その面前であなたが説法をなさるというのは変ではありませんか。これはまるで、針商人が針師のところに針を売りに行くようなものでしょう」と、不満を述べました。

 するとカッサパは、アーナンダに向かい、「友アーナンダよ、私が針商人で君が針師なのか、それとも、私が針師で君が針商人なのか、どっちだね」と問いかけ、さらにこう言葉を続けます。「君は、世尊から直に僧団に招き入れられたのかね。また、君は、世尊から自分に等しい境地に達していると認められたのかね」と。

 アーナンダが、「いえ、そのようなことはありません」と応えると、カッサパは、「私は、世尊から直に僧団に招き入れられ、世尊から、世尊に等しい境地に達していると認められている(どちらが針師か言うまでもなかろう)」と言い放ったということです。

 また、こんなこともありました。あるとき、アーナンダの指導を受けていた比丘たちのうちの30人が、そろって還俗したことがありました。そのとき、カッサパは、「まんぞくに比丘の指導もできないのか」と、アーナンダを「童子(ガキ)」呼ばわりして叱責しました。それを聞いたある比丘尼が、「外道の出身である尊者カッサパは、何の故あって、第二の釈尊と呼ばれるアーナンダ尊者を、童子(ガキ)呼ばわりするのか」と責めたところ、カッサパは、アーナンダに向かってこう言いました。

 「アーナンダよ、この比丘尼は、無謀にも私を外道の出身者だと言いよる。私は出家してから世尊以外の師についたことはない。私は、バフプッタカ廟のところで世尊と出会い、弟子となって8日目に悟りを開いた者である。また、私は、世尊に自分の僧衣を差し上げ、世尊の着用したまえる糞掃衣を頂戴した者ぞ。友よ、世尊の子、嗣子、法の相続者と呼ぶべき者がいるとしたら、まさに私こそそうだ」と。

 実際に、こういうやりとりがあったかどうかは定かでありません(私は、なかったと思っています)。以前にもお話しいたしましたように、釈尊は、ご自身が教団を統率しているとはお考えになっておられませんでしたから、後継者云々という考え方がでてくるはずもないのですが、教典には、カッサパこそ釈尊の後継者であるという内容の記述があちこちに見られます。

 たとえば、先にご紹介しました迦葉相応の教典には、釈尊自ら、カッサパは自分と同じ境地に到達していると讃えられたと記されています。また、同じ内容の漢訳教典では、この時、カッサパが粗末な糞掃衣を着ていたので比丘たちが軽蔑したため、これを見た釈尊は、ご自分の座をあけて半座を分かち与え、カッサパを讃えられたと付記されています。

 また、釈尊の葬儀の様子を伝える教典には、こんなふうに書かれています。釈尊がクシナガラでお亡くなりになったとき、付き従っていたのは、待者のアーナンダと、アヌルッダの他、数人の弟子たちだけでした。悲しみのうちに亡骸を荼毘にふそうとしたところ、なんとしても薪に火がつきません。ところが、知らせを聞いたカッサパが到着すると、それを待っていたように火がついたと言います。

 インドでは、古来、父親の火葬の火を点ずるのは、後継ぎの息子の役目ということになっております。ですから、カッサパが到着するまで、薪に火がつかなかったという伝説には、カッサパこそ釈尊の後継者だというメッセージが込められているわけです。

 主立った弟子で、釈尊の死に立ち会ったのは、アーナンダとアヌルッダだけでした。しかし、それでは、カッサパを教団の後継者にしたい取り巻きたちには、いかにも都合が悪い。そこで、やむおえず、カッサパが到着するまで薪に火がつかなかったという話を捏造した。そういうことではないかと思います。

 先にお話ししましたように、迦葉相応のある経では、アーナンダとアヌルッダの指導している比丘たちが非難されていますが、それは間接的に、指導者であるアーナンダとアヌルッダへの非難でもあります。釈尊の死に立ち会ったアーナンダとアヌルッダには、何とかハンディをつけておかねばならない。釈尊の火葬に遅れたカッサパたちは、あるいはそう考えたのかもしれません(ちょっと勘ぐり過ぎかもしれませんが)。

 釈尊は、社会的身分制度(四姓制度)や性による差別を否定し、極端を廃して中道を歩まれた方でした。ところが、このシリーズの始めの頃にもお話しいたしましたが、現存する初期教典には、釈尊の精神から遠い記述がたくさん出てきます。たとえば、シャカ族が軽んぜられ、女性蔑視のバラモン的色彩が強くなっていくこと。教団が、戒律にウエイトを置いた中央集権的組織になっていくことなどがそうです。そういったことの根本原因は、釈尊滅後に、カッサパが中心となって、教典の編集を行ったことにあると思います。次回は、そのあたりの事情をお話しいたします。


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