仏教夜話・27

仏弟子群像(14)

マハーカッサパ(下)

 さて、釈尊は、ベールヴァ村で雨安居(雨期の定住)をなさったとき、死を予感させるほどの重い病を患われましたが、幸いにも回復なさいました。そのとき、アーナンダは、こう申し上げました。「憂慮いたしましたが、今は、尊師は、教団について何ごとか教えを述べられるまでは、涅槃にお入りにならないだろうという、安心感が生まれました」と。

 すると釈尊は、こうおっしゃいました。「アーナンダよ、教団は、私に何を期待しているのか。私には説き残したことは何もない。教団の指導者であれば、事後のこととして何ごとか指示を残すだろうが、私はもともと教団の指導者だとは思っていない。そんな私に、いったい何を語ることがあろうか。他人に頼らず、自分自身を頼りとし、他のものを拠り所とせず、法を拠り所として、それぞれが修行に励みなさい」と。その後ほどなくして、釈尊はクシナガラでお亡くなりになります。「さあ、比丘たちよ、もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい」。これが釈尊の臨終の言葉でした。

 そのころ、500人の比丘たちを引きつれてクシナガラに向かっていたマハーカッサパは、道で出会った修行者から、釈尊の死を知らされます。比丘たちが嘆き悲しむなかで、一人の比丘が、こう言いました。「友よ、悲しむな。嘆くな。これで、われらはかの偉大な修行者(釈尊)から解放されたのだ。かの師は、このことはしてもよい、このことはしてはならないと、たえずわれらを悩ましていたが、今や、われらは、何でもしたいことをし、したくないことはしなくてもよいのだ」と。その傍若無人な放言に、カッサパはわが耳を疑ったことでしょう。教えと教団の将来を憂えたカッサパは、釈尊の葬儀を終えるとすぐに、教法と戒律の結集を提案します。「結集」とは、教典の編纂会議です。

 釈尊は、人々の悩みや苦しみに応じて、その人に相応しい教えを説かれたのでして、はじめから仏教として体系づけられたものがあったわけではありません。ですから、出家や在家の弟子たちが、各自が自分の耳で聞いた教えだけを仏説だと主張するなら、教団が分裂してしまうことにもなりかねません。そこで、カッサパは、様々な人に示された教えをまとめ上げて、「仏説」として確立しようと考えたわけです。

 多くの比丘たちの賛同を得て、悟りを開いた500人の阿羅漢が集まり、王舎城の七葉窟で結集が行われることになりました。伝説によると、戒律の誦出者としては持律第一と言われたウパーリが、そして、教法の誦出者としては25年間も釈尊の待者を務めたアーナンダが適任と考えられましたが、カッサパは、「アーナンダはまだ悟りを開いていないから適任ではない」と言って反対し、アーナンダのこれまでに犯した過失を次々に数え上げて非難しました。

 アーナンダは我が身を恥じ、懸命に修行しますが、結集の開催される前夜になっても一向に悟りを開けません。ところが、精魂尽き果てたアーナンダが、身体を横たえ、頭を枕につけようとした瞬間、突如智慧の眼が開かれ、結集に間に合ったと言われています。かくして、カッサパを上首とし、ウパーリとアーナンダを誦出者として、教典が編集されました。そのときに編纂された教法が、現存する教典の核になっているわけです。

 ところで、伝説とは異なりますが、事実はこうだったのではないかと思います。カッサパが結集を呼びかけたとき、全ての比丘がそれに賛同したわけではなかった。積極的に反対はしなかったとしても、賛同しなかった大物が二人いた。デーヴァダッタとアーナンダです。

 デーヴァダッタもカッサパも、苦行者タイプの比丘で、彼らのまわりには多数の比丘たちが集まっていました。古来、インドの修行者たちは苦行志向が強く、大半の比丘たちにとっては、釈尊の説かれた「中道」より、デーヴァダッタやカッサパの苦行的な修行の方が、理解しやすかったのでしょう。そのことは、釈尊が、おそらくは釈迦族出身の数人の比丘とともに遊行なさっておられたのに対して、カッサパは500人の比丘たちを引きつれていたということからも想像できます。

 頑固者どうしのデーヴァダッタとカッサパは、もともといささか反りが合わない。そこに、カッサパが中心となって結集を行うから参加せよと言ってくる。デーヴァダッタは、「自分は、釈尊から聞いた教えを大切にしていて、これで満足している。結集をなさりたいのなら、ご自由にどうぞ」と、参加しない。それがデーヴァダッタ一人のことなら、さほど問題ではなかったが、彼のもとに集まっていた多数の比丘たちも、それに従った。結果的に、教団が分裂したようになり、そのため、デーヴァダッタは、カッサパの一派から極悪人扱いをされるようになっていくのです。

 一方、アーナンダは、25年も待者として陰のように付き従って暮らすうちに、穏和で謙虚で優しい人柄に磨きがかかり、考え方から身振りにいたるまで、敬愛する釈尊に似てきた。釈尊の意をくんで、面会者の人選や、取り次ぎのタイミングにも心をくだく。厳格で偏屈者のカッサパには、若いアーナンダのそんなところが、虎の威を借る狐のようにも思えて、気に入らない。だが、釈尊の説法を聞いている数から考えて、アーナンダを結集から外すわけにはいかない。そこで、アーナンダに参加を要請した。

 アーナンダは、ためらった。釈尊は、教義を体系化しようとはなさらなかった。もともと、釈尊の説法はみな、相手の問題に応じて説かれたものだから、内容的に齟齬するものもあれば、レベルもまちまちである。対機説法、応病与薬の説法と言われるように、いわば、頭の痛いものには頭痛薬を、腹をこわしているものには胃薬をお与えになったようなものなのだ。それを一纏めにするというのは、病人を薬蔵にほりこんで、自分で薬を選べというようなことになりはしないのか。だが、いまはもう、医王釈尊はおられないのだ。このままにしておけば、正法が消えてしまうという危険も、確かにある。やはり、ここは、自分が聞いている教法だけでも伝えておかねばならないだろう。アーナンダは、そう腹を決めると、結集の会場にでかけていった。

 度重なる参加要請にも返答を保留し続けてきたアーナンダがやってきた。そこで、ようやく結集が行われたわけですが、参加要請にすぐに応じなかったことが、結集の主催者だったカッサパ一派には面白くなかった。また、アーナンダは、カッサパを長老として尊敬していましたが、教団の指導者だとは思っていませんでした。釈尊でさえ指導者ではなかったからですが、それがまたカッサパ一派には不愉快だった。それやこれやで、後には、「アーナンダは、まだ悟りを開いていなかったので、すぐには来れなかった」ということにされてしまったのだろうと思います。

 伝説によると、その後ほどなく、カッサパはアーナンダに教団を託して亡くなったと言われています。しかし、アーナンダへの中傷はその後も続き、ことあるごとにアーナンダを貶める記述が教典に付け加えられていきました。そのあたりのことも含めて、次回からは、アーナンダについてお話ししたいと思います。


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