仏教夜話・28

仏弟子群像(15)

アーナンダ(上)

 さて今回は、仏典中に、その名前が最も多く出てくる仏弟子、アーナンダ(阿難)についてお話しいたします。(このアーナンダの話をもちまして、「仏弟子群像」の連載を一時休止する予定でおります。)

 出家以前のアーナンダについては、ほとんど伝わっておりません。伝説によれば、釈尊の父スッドーダナ(浄飯王)の弟アミトーダナ(甘露飯王)の子供だったといいますから、デーヴァダッタと同様、釈尊の従弟にあたるわけです。アーナンダは、後に釈尊のお世話をする待者となりますから、年齢は、おそらく釈尊より20歳以上若かったはずです。

 アーナンダが出家したのは、釈尊成道後15年目頃のことと思われます。釈尊は、この年の雨期を故郷のカピラヴァストゥのニグローダ園で過ごされた後、そこを去って、東南のマッラー国のアヌピヤー村におられたときのことです。アーナンダは、シャカ族の青年、アヌルッダ、バッディヤ、キンビラ、バグ、デーヴァダッタ、ウパーリとともに、七人で釈尊の後を追い、出家を願って同時に出家したと言われています。

 後の伝説によれば、そのとき、アーナンダとデーヴァダッタだけは出家を許されず、雪山(ヒマーラヤ)の麓で修行していた或る長老比丘のもとで出家し、後に釈尊の承認を受けたということになっています。また、別の伝説では、このとき同時に出家した七人のうち、アヌルッダ、バッディヤ、キンビラ、バグ、ウパーリは、間もなく阿羅漢の境地(悟りの境地)に至ったが、アーナンダは預流果(いずれは悟りを開くという初歩的境地)にしか至れず、デーヴァダッタは神通力しか得られなかったと言われています。

 ここでは、デーヴァダッタとともに、アーナンダまで低い扱いを受けています。以前にもお話しいたしましたように、デーヴァダッタがあからさまに極悪人扱いされるようになるのは、釈尊入滅後のこと、それも、恐らくは第一回の経典結集以降のことと思われますから、こういった後に成立した伝説は、必ずしもあてにはなりません。ただ、デーヴァダッタを敵視していたグループ(恐らくはマハーカッサパ一派)では、アーナンダに対しても含むところがあったのです。現存する経典類の大本は、そのグループが編集し、伝承したものです。ですから、ここでも、その点を踏まえて読み解くべきかと思います。

 さて、釈尊成道後15年頃(釈尊50歳頃)に、アーナンダは20歳前後で出家したと思われますが、その5年後に、アーナンダは釈尊の待者となります。待者の務めというのは、まあ、秘書と執事を兼ね合わせたようなものでしょうか。優れた待者の素質とは、聡明・謙虚・穏和・従順で、骨身を惜しまず、思いやりのあることではないかと思いますが、アーナンダはまさに適任でした。

 成道後の20年間は、釈尊に一定した待者はありませんでした。時々に、ナーガサマーラ、ナーギタ、ウパヴァーナ、スナッカッタ、チュンダ、サーガラ、メーギヤといった比丘たちが待者を務めましたが、いずれも釈尊の意に満たず、長続きしませんでした。伝説によれば、或る比丘は、釈尊が「この路から行こう」と言われても他の路から行き、また、或る比丘は、釈尊の鉢や衣を地面に投げ出すというふうだったと言います。彼らは、釈尊に付き従っていても、我が儘勝手な振る舞いが多く、従順ではなかったのです。

55歳になられた釈尊は、「比丘たちよ、私はもう年をとった。身体も衰え、記憶力も弱ってきた。ひとつ、あなたがたで私の待者を選んでもらえまいか」とおっしゃいました。居並ぶ長老たちは、次々に「私がその待者のお役を仰せつかりとう存じます」と申し出るのですが、残念ながら、ご当人が待者を必要とするような高齢の方ばかり。釈尊は、彼らに感謝されながらも、その申し出をお断りになりました。釈尊は、心中、心優しい従弟のアーナンダが待者になってくれないかとお考えになっておられたのでした。

 モッガッラーナは、そんな釈尊の心を察し、比丘たちとともにアーナンダを訪れ、世尊の待者になってくれるよう伝えます。アーナンダは、「自分は、とうてい、そのような任に堪えうる者ではございません」と辞退するのですが、それが師の意向であると言われれば、どうしても拒むというわけにはいきません。とうとう、アーナンダは、「私の三つの願いをかなえてくださるのでしたら」という条件付きで、この重大な待者の役目をお受けすることになりました。

 その三つの願いとは、(1)「世尊に供養された衣は、新古を問わず、私は身に着けません」、(2)「世尊が世俗の人々から招待された食事を、私は頂きません」、(3)「時ならざるに世尊にお目にかかりません」というものでした。釈尊のただ一人の待者となれば、どうしても特別の恩恵に浴することもあるでしょう。ですが、そんな特権や恩恵にはあずかりたくない。いつも世尊の傍にあって、お世話申し上げ、説法を聞けるだけでも望外の幸せだと言うのです。釈尊は、その謙虚な願いを喜んでお許しになりました。

 アーナンダが三つの条件を出したというのは、実は、北方系の伝説です。いわゆる正統派であるマハーカッサパ一派の南伝系の伝承によれば、このとき、アーナンダは八つの条件を出して、特別な恩恵を要求したことになっています。たとえば、「遠来の客を直ちに世尊に面会させることができること」、「いつでも世尊に質問できること」、「自分が招待された食事には、世尊も同行なさること」、「自分が不在中の説法は、後で自分に再説してもらえること」といったもので、謙虚なアーナンダには何とも不似合いな内容です。このあたりにも、アーナンダを貶めようとする意図がうかがえるように思えるのですが、いかがでしょうか。

 その後アーナンダは、釈尊入滅までの25年間、常随の待者として片時も釈尊の傍を離れず、影のごとく付き従いました。釈尊はアーナンダをことのほか信頼され、「教団内にもめごとがあるときは、アーナンダ(阿難)とサーリプッタ(舎利弗)とモッガッラーナ(目蓮)で処理せよ」と指示されたほどでした。

 アーナンダは、まことに優れた比丘でした。しかし、待者として常に釈尊の傍にあることへの妬みを受けてか、非難や中傷が後を絶たなかったようです。また、アーナンダは釈尊と同じシャカ族の出身でしたから、シャカ族を毛嫌いしていたバラモン階級出身の比丘たちは、アーナンダの評判を快く思っていなかったということもあったのでしょう。そんな思いが、釈尊の入滅を境に、あからさまになってきます。次回は、そのあたりのことをお話しいたします。


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