仏教夜話・4

仏舎利奉迎と覚王山日泰寺(その4)

 おりしも明治35年12月に、シャム国皇太子が米国よりの帰途に日本にも立ち寄られることとなり、是が否でもその時までに、せめて建設地だけでも決定しておかねばならぬという事態に至り、急遽7月28日から各宗派管長会議が京都で開かれました。その結果、建設地の競争は京都派と名古屋派とに分かれ、両々対立して譲らず、策謀をめぐらし、手段を尽くし、宗派会議は名古屋派と京都派の戦場のごとき有様を呈し、怪文書・醜聞が乱れ飛ぶという、仏教界にあるまじき異常事態へと発展しました。

 かくして11月12日午前の宗派会が覚王殿問題を決定する天下分け目の関ケ原とあって、京都派も名古屋派もここを先途と熱心な運動を展開。京都派は建仁寺内久院に会合して作戦計画に余念なく、名古屋派は一同打ち揃って会議場の建仁寺に先着し、会場の近傍は殺気暗澹として、今にも大衝突が起こりそうな気配。

 この日の会議は、名古屋派が優勢のうちに昼の休憩に入りました。態勢を憂慮した京都派は記名投票にて決しようと名古屋派に交渉したところ、名古屋派は遺恨を他日に残す恐れがあるため無記名投票にすべきと京都派の提案を拒絶。ここにおいて京都派の臨済宗各宗派等は欠席届を議長に提出して午後の会議をボイコット。日蓮宗の津田日厚師は、このような仏教各派の不協和を露呈した恥の上塗りのごとき決議を潔しとせず、議事日程変更の緊急動議を提出したが否決され、決然と退席。これに続いて、大谷派を除く真宗諸派の委員達もまた憤然と議席を去って、議場騒然。その後、残った委員で無記名投票による採決を強行し、37対1でついに名古屋に決定となりました。

 ただちに11月15日には御遺形を名古屋市に奉遷することとなり、仮奉安所を名古屋市門前町の万松寺に選定しました。当日は名古屋から数百名の僧侶が京都に奉迎し、別仕立ての汽車にて11時に名古屋駅到着。名古屋市中は家毎に仏旗を掲揚して大菩提の文字を記した軒燈を掲げ、万松寺までの奉迎行列は十数町の長さに渡り、その壮麗にして厳粛なること前の大阪京都の比ではなく、名古屋市未曽有の盛況だったと当時の記録には記されています。

 翌明治36年10月、名古屋市東区田代町(現在の千草区)の建設用地にて奉安所、覚王山日暹寺(かくのうざん・にっせんじ)の造営が始まり、明治37年11月に仮本堂ならびに玄関書院落成。越えて大正3年1月、更に諸堂の工事に着手。その後、1932年(昭和7年)にシャムからタイへと国名が変更されるにともない、この寺も1941年(昭和16年3月31日)に日泰寺(にったいじ)と改称され、現在に至っています。


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 JR名古屋駅から地下鉄東山線の藤ケ丘・東山公園行きに乗って約12分、覚王山駅で下車。そこから徒歩で約10分のところに覚王山日泰寺があります。現在でもどの宗派にも属さない単立寺院で、創建当時の関係19宗派で共同して管理し、交互に輪番住職を置いています。

 10万余坪の広大な境内には白壁瓦屋根の壮大な堂宇が点在し、平日には散歩の市民たちが静かに憩っています。境域のほぼ中央には、シャム国王から日本仏教徒に寄贈された釈迦座像を納めた本堂、大雄宝殿があり、その東北500メートルほどの放生池畔の丘上には、ガンダーラ様式で総大理石造りの仏舎利奉安塔がそびえたっています。仏舎利奉迎後の奉安所建設地選定騒動のおりに見られた日本仏教界の狂態ぶりなど、今の日泰寺からは想像もつきません。つわものどもの夢の跡とでも申しますか、思い出しては、お釈迦さまも苦笑いなさっているのかもしれません。

 現在の日泰寺の境内は、桜やツツジの花見や観月の名所で、名古屋市民の行楽地となっています。また、2月15日の涅槃会、4月8日の花祭り、6月15日の奉安記念法要、11月15日の奉遷記念法要、12月8日の成道会など、年に数回は仏舎利奉安塔が御開帳になり、仏舎利を拝観することができます。毎月21日には縁日が催されて、境内から参道にかけて多数の露店が並び、参拝者で終日賑わっています。

 車でおいでになる場合には、名神高速道路を名古屋インターチェンジで降り、市内に向かって東山通りを西に約6キロ。東山公園を過ぎてしばらく走ると大きな交差点にぶつかり、覚王山日泰寺の交通案内板に従って右折すると、すぐ左側に見えてきます。


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