さて、アーナンダの続きです。アーナンダは謙虚で優しく、多くの人々から慕われていました。釈尊も、入滅直前に、このようにおっしゃっています。「アーナンダには、四つの不思議な珍しい特徴がある。比丘(比丘尼、男女の在俗信者)たちが、アーナンダに会うために近づいて行くと、彼らは、アーナンダに会っただけで心が喜ばしくなる。そこで、もしもアーナンダが説法するならば、説法を聞いただけでも彼らは心喜ばしくなる。またもしもアーナンダが沈黙しているならば、彼らはアーナンダを見ているだけで飽きることがない」と。 しかし、人望の集まるところ誹謗・中傷も集まるのが世の常でして、アーナンダもその例外ではありませんでした。アーナンダを非難する記述は、経典中のあちこちに出てまいりますが、少しまとまって見られるのは釈尊入滅後の経典編集会議(結集)の場面です。その席で、アーナンダは、マハーカッサパから六つの罪を数えられて、懺悔を迫られています。その六つの罪とは、次のようなものです。
(1)世尊は入滅の際に「些細な戒は廃止してもよい」とおっしゃったが、「些細な戒」とは具体的にどの戒を指しているのか、傍に居ながらアーナンダが問わなかったこと。 アーナンダは、これに対して一々事情を述べて、自分に非があるとは思わないけれども、マハーカッサパを信じているから、懺悔せよと言われるのなら懺悔しましょうと応じています。思えば、マハーカッサパの非難はほとんど言いがかりのようなものですが、ともかくそういった非難が生まれてきた事情を簡単に記しておきます。 まず、(1)「些細な戒は廃止してよい」という釈尊のお言葉は、経典編集時に大きな問題となりました。どれが些細な戒なのか、比丘たちには判断できなかったからです。だからこそ、どうして問うておかなかったのかとアーナンダが責められたわけです。ですが、「些細な戒は廃止してよい」とおっしゃったとき、世尊は死の病を得ておられたのです。アーナンダが具体的に問わなかったのは、そんな衰弱の激しい世尊に質問するのは憚られたからなのです。 (2)世尊の大衣を足で踏んだのは、アーナンダが世尊の大衣を縫っていたときのことだったようです。そのとき強風のために布が飛ばされ、近くに誰も布をつかまえてくれる人がいなかったから、やむおえず、足で押さえただけだった。私の知る限り、経典にこのようなエピソードは出てこないように思いますが、まあ、そんなこともあったのかもしれませんね。 (3)女性の出家を再三請うた、というのは、アーナンダが、釈尊の養母マハーパジャーパティーの出家を取りなしたことを言っているのです。釈尊は、あらゆる社会的差別を認められなかった方でしたが、当時の出家集団は男性ばかりでしたから、そこに女性を受け入れることには消極的でした。しかし、アーナンダの情理をつくした取りなしに、釈尊もついに女性の出家をお許しになりました。 極端な男尊女卑社会で育ったバラモン出身の比丘たちは、内心大いに不満でしたが、釈尊やその養母への遠慮から、表立った反対はしませんでした。その、釈尊には向けられない不満が、アーナンダに向けられたわけです。しかし、アーナンダは、女性に偏見を持っていませんでしたから、自らの行為に非があるとは思っていませんでした。 (4)アーナンダが、釈尊に延命を請わなかったこと。これには少々説明がいります。伝説によれば、死を予感された釈尊は、アーナンダに、「如来は、自ら望むならば、どれだけ久しい間でも、この世にとどまることができるのだ」とおっしゃった。それに対して、アーナンダは何も応えなかった。もしもそのとき、アーナンダが、「それでは、いつまでも世のため人のために、とどまって下さいますように」と御願いしていたなら、世尊は、入滅なさらなかったはずだ、というのです。つまりは、世尊がお亡くなりになったのは、延命を請わなかったアーナンダの責任だというわけです。 この伝説は、釈尊滅後かなりたってから出来たものと考えられておりますから、実際にマハーカッサパがこんなことを言ったはずもないのですが、まあ、時がたつにつれてアーナンダへの中傷が深められていったということでしょうか。 (5)クシナガラへ向かう途中、釈尊は疲労の極に達せられ、水が飲みたいとおっしゃいましたが、今しがた500台の馬車が通ったばかりで、河の水がたいそう濁っていた。そんな水を召し上がって、お身体に障ると大変。そこで、事情を説明して、「この少し先に清らかな水がありますので、飲み水はそれまでお待ち下さい」と、アーナンダは、ひとまず濁った水をくんできて、世尊の顔と足を洗って差し上げた。そういう話が伝わっていますが、ここで非難されているのは、どうしてそのときに飲み水を差し上げなかったのか、ということなのですね。単なる言いがかりのような気もするのですが、どんなものでしょうか。 (6)ある女性の信者が、釈尊の御遺骸の足にとりすがって泣いた。その涙が、御足を汚した、と言うのです。とりわけ説明も不用かと思いますが、比丘たちの気に入らないことは、みな待者であるアーナンダの責任になる。まあ、待者というのは、なんとも大変なお役目ですね。アーナンダが待者の役目をお受けするときに慎重だったのも、よく分かるような気がします。 別の伝承によると、「待者をお受けするまでに、世尊に三度も請わしめた罪」という非難まで加わっています。アーナンダは、「高慢でそうしたのではなく、本当に自分には、とても務まらないと思ったからです」と答えていますが、こうなると、何でも非難の対象になってくる。 アーナンダは、ことのほか心の優しい人だったうえに、そうとうな美男だったようです。説法を頼まれたら滅多に断らない。また、女性信者や比丘尼から慕われて、ときには誘惑やストーカーまがいのことまでされたこともあるようです。それもこれも、気に入らない人には気に入らないわけで、いくらでもアーナンダを非難するネタはあったのでしょうが、実際のアーナンダは、はなはだ真面目で純粋な人でした。次回は、そんなアーナンダの晩年について、お話しいたします。
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