仏教夜話・32

岳父帰浄

法爾院釋了徹師追悼記事

法名 法爾院 釋了徹
大正十三年三月二十日 誕生
平成十八年五月十四日 往生
俗名 般若 倭文雄 享年 八十二歳



 去る5月2日、岳父は、突然の脳内出血で倒れ、意識の戻らぬまま14日に帰浄いたしました。82歳でした。…ひとつの時代が終わった。そんな思いが胸に迫ります。

 岳父は、数え年10歳で先代に死別し、幼い頃から、家族と寺の行く末を一身に担いながら、聞法とお念仏の生涯を歩み続けました。心は常に法城護持にあって、多くの人々に慕われ、専教寺の歴史に大きな足跡を残した生涯でした。

 とくに、昭和二十三年の福井大震災で倒壊した寺屋の復興をただちに発願し、昭和四十年に本堂を再建し、庫裏を建て、昭和五十二年に鐘楼を建立したことは、後生に残る大事業でした。全ては門信徒同行方の尽力の賜物ですが、住職への厚い信望があればこそ為し得たことと、葬儀表白でも「専教寺中興の祖」と讃えられています。

 岳父は、幼少より、無常の嵐のなかに常住の光を認め、常に信心を深めていった希有の人です。晩年の平成十二年三月四日に、住職継承間もない長男(還相院)の思いもかけぬ帰浄にあい、臓腑を断たれる悲しみの、光も差さぬ闇底にあっても、はたと弥陀の強縁を領じ、求道聞法の志いよいよ高く、毎月三日の聞法会(還相忌)を発願。その聞法会を帰浄の直前まで続けました。

 最後の聞法会(還相忌)は、四月二十九日でした。四月の中頃に、岳父は、「次は三日では間に合わないから、少し繰り上げて、今月の二十九日にする」と言いだしまして、皆が首をかしげておりましたところ、五月の二日に倒れました。後で分かったことですが、本堂も庭も、書斎も居間も、綺麗に掃除されていて、机や箪笥の引き出しには全て付箋が付いていました。中身が分かるように整理されていたのです。机上には、愛用の赤表紙の『真宗聖典』がきちんと閉じてあり、その上に、手首からはずしたことのなかった腕輪念珠が置かれていました。…見事に命を見切っていた。…ただただ襟を正して合掌するばかりでした。

 岳父は、真摯な聞法者で、一途な念仏者でしたが、学識豊かで、数冊の著書を出版し、如導上人の『愚暗記返札』の研究をライフワークにしておりました。また、書を好み、達筆でした。80歳を越えてからも、親鸞聖人の『教行信証』の書写を始め、17万字ほどの書き下し文を、帰浄の少し前に写し終わっていました。綺麗な楷書で書写した、半切ほどの和紙の束が、装束箱一杯になっています。これはいずれ、二十巻ほどの巻物に表装して、専教寺の寺宝とする。総代方は、そう念じておられます。

 帰浄する少し前、4月25日に、娘(私の妻)に、こんなメールを送ってくれました。  「……こころ豊に自分の生き方に徹したいと思っても、それは無理ですが、我が身勝手というものでしょう。我が身の宿業は逃れられないし、寧ろそこにこそ生きる意味があったと聞法大事お念仏にかえります。まがりなりにも自分の生き方を生きる…生涯聞法…です……」と。

 今も専教寺の山門掲示板には、「生涯聞法」と大書され、参道掲示板には、高見順の詩集『死の淵から』の言葉が、掲げられています。これは、岳父の書いた最後の掲示板ですが、そこには、自らの深い信心と、同行への真摯な呼びかけがにじみでているように思います。




 七月二日に満中陰の法要を勤めさせて頂きました。あれやこれや思い出すたびに、こみあげてくるものがありますけれど、あんまり見事に逝ってしまわれましたので、正直なところ、亡くなったということが、いまだにピンときませんでね。柿原に行くとまた会えるような気がします。着流しにスリッパをつっかけて、パタパタと廊下を歩いてこられるような、そんな気がいたします。

 実際、柿原に行くと、いたるところに岳父の思い出が染みついている。離れの書斎なんか、そのままです。「安田理深と曽我量深の全集は、ぜひ読みなさい」とおっしゃったのも、そこでした。

 京都にも2ヶ月に一度くらい来てくれましたが、毎回、最初に、私の書棚をチェックする。今、どういう本を読んでいるのかと、常に関心を持ってくれていたようでしたが、いつも雑本ばかり並んでいるものですから、「いろんな本を読んでるね」と、よく笑われましてね。

 毎回、法話の原稿を読んでくださり、細やかな情のこもった批評をしてくださいました。ところが、最後には必ず、「お念仏が足りんね」と言われましてね。それが、昨年秋の報恩講法話「報恩」の原稿を読まれたときには、「…もう何を話してもいいね…」と言われまして、今年の春の彼岸会法話「ドングリの教えてくれること」を読まれたときには、「感動した」という言葉を頂きました。この言葉を思い出すと、涙がでます。…なんとか間に合ったようで。

 岳父は、私にとって生涯の師でした。お粗末な私を、「それでいいんだよ」と、あるがままに受け容れ、認め、励ましてくださった。思えば、私には勿体ない師でした。…忘れ難き無量の恩愛を思いつつ、こころより合掌いたします。南無阿弥陀仏。



【追記】(9月23日、彼岸会の夜)

 上に記しましたように、確かに、岳父は、去年の秋の報恩講法話の原稿を読んでくれたときには、「…うん…もう何を話してもいいね…」と言ってくれ、今年の春の彼岸会法話の原稿を読んでくれたときには、「…感動した…」と言ってくれました。

 岳父の体調が優れませんでしたから、会うたびに、これで最後かもしれないと思っておりましたので、そんな言葉をもらったときには、「ようやく及第点がもらえたか、何とか間に合ったか」などと、浅はかなことを考えて、内心喜んでおりましたが、そうではないのです。

 岳父は、おそらく、今年の春が桜の見納めだと知っていたのです。それで、手を放す準備を、去年の秋から始めていたのです。「…もう何を話してもいいね…」というのは、「そのまま真っ直ぐ進め」ということ。「…感動した…」というのは、「そうそう、それでいい」ということだった。いわば、すこしづつ手を放しながら、最後の励ましを送ってくれていたのです。

 このたび、秋の彼岸会(永代経)法話を考えているときに、はたと、そのことに気づきました。まことにお恥ずかしい限りです。感謝をこめて、岳父に、合掌いたします。ありがとうございました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…


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