仏教夜話・7

地獄

 「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」「悪い事をすると仏様の罰が当たる」。そこそこの年令の人なら、幼い頃に一度は聞かされた言葉だと思う。これは凡夫を仏道に導く初歩的方便にすぎない言葉だが、幼い子供たちを不安に陥れる程度の効果は十分持っている。だが、子供たちもいつまでも子供ではない。そのうち大人たちの所業に不信を抱き始めるのである。どうやら大人たちには、「舌を抜かれる」ことや「罰が当たる」ことをさほど恐れていないような節がある。ひょっとすると地獄など無いのかもしれない、仏様などいないのかもしれない、と。…仏教への不信は、あるいはこの頃に芽生え始めるのかもしれない。方便の否定が短絡して仏教の否定に結び付く。思えばこれは、仏教にとっても子供たちにとっても不幸な出会いだったというしかない。

 世間では、人には本音と建前があると言う。この本音と建前という言葉を使って言えば、倫理や道徳は建前を強化する道であり、多分に他律的なものである。そのうえ、狭い人間社会を対象にした倫理や道徳には、全人類・全生命・全世界を包括的に慈しむというビジョンがない。だが仏教は違う。仏教は本音を鍛える道であり、どこまでも自律的なものである。そして、本音を鍛えるということは、世界を慈悲の光で包むことでもある。仏教徒の耕す畑は心の内側にある。この心の内側にある畑を豊かに耕して、飢餓のなかにあっても餓鬼道に陥らず、戦乱のなかにあっても修羅道を歩まないだけの、光り輝く実りを収穫するのが仏教徒である。心の内側にある畑が荒れていると、表情や言動を通じて自ずと外界世界も荒れていく。そして、この外界世界が荒れ果てたときになって、ようやく人は自分が地獄にいることに気付くのである。

 地獄は荒れ果てた人の心の産物である。だが、人類が自分の内面世界の存在に気付いたのは、そんなに昔のことではない。だから、今だに世界には、苦楽の原因を外界世界にしか見出だせない人々に満ちている。そんな人々は、地獄を自分の心の生み出す現実と見ることはできない。せいぜいが、どこか遠くにある異界、もしくは死後の世界と考えるにとどまるか、あるいは、偏執的狂人の妄想から生まれた怪奇残酷趣味のフィクションだと考える。ひとたび地獄を自分とは本質的に関わりのない世界と見れば、これは格好の脅しの道具となる。脅しは他律的世界の常道である。ここに地獄が倫理や道徳の小道具となり、あるいは宗教的似非権威が衆生を搾取する手段ともなった理由がある。

 何度も言うように、仏教は人間の心の内面を問題としているのである。これを短絡的に社会正義などと結び付けるものだから、仏教の社会的責任を問うなどという倫理道徳レベルの議論を生むことになる。正義は邪悪と対になっている。正義と邪悪は、いわば同一平面上にある概念である。同じレベルにあればこそ、ぶつかりあうのである。我が手に「正義」があるという妄想から醒めるためには、地獄を見るのが早道かと思う。

 源信の著した『往生要集』によって、仏典に説かれた地獄の有様を覗いてみよう。地獄には、大別して「等活」「黒縄」「衆合」「叫喚」「大叫喚」「焦熱」「大焦熱」「阿鼻」という8部門があり、これを八大地獄という。その大略を見れば次のようである。…「地獄に落ちた罪人は互いに敵愾心を抱いて鉄のような爪でひっかき傷つけ合い、ついには血も肉もすっかり無くなり骨だけになる。あるいは、地獄の鬼が鉄の杖や棒で罪人の身体をくまなく打ち突き、土塊のように砕く。鋭利な刃物や鋸でばらばらに肉を切り裂き、あちこちにまき散らす。罪人を灼熱の糞尿に投げ込み、なかに充満する鋭利な嘴をした虫に食い破らせる。陰部に鉄の錐を刺す。熱い炎をあげている縄で縛って、刀剣の林立する穴に突き落とす。逆さに吊して、どろどろに溶けた銅を肛門から流し込む。あるいは口から流し込む。紅蓮の炎のなかに追い落とす。鉄板で焼く。鍋で煮る。舌を抜く。眼をくり抜く。爪を剥ぐ。鼻を削ぐ。皮膚を剥ぎとり、溶けた鉄を注ぎかける。怪鳥や怪獣にくわせる。等々」

 仏典の地獄を偏執的狂人の妄想から生まれた怪奇残酷趣味のフィクションにすぎないと考えるのなら、これはどう思われるか。…「村民を銃剣で追い立てて並ばせ、機銃掃射で薙ぎ倒す。泣き叫ぶ乳幼児や子供たちを銃剣で突き殺し、妊婦の腹を切り裂いて胎児を放り出す。死体の山に石油をかけて焼き尽くす。木に縛り付けて鞭打っては冷水をかけ、凍死させる。殴り殺す。蹴り殺す。死体を野犬に食わせる。背中に石を結わえて水中に投げ込む。輪姦し、その女の赤ん坊を銃剣に刺して肩に担ぎ、軍歌を歌って歩き回る。赤ん坊を投げ殺す。踏み殺す。巨大な石を担がせて圧死させる。鞭で殴って焼けた棒を押しつけ、冷水をかけて極寒の場に捨てて凍死させる。婦女子を狩り集めて輪姦し、腹を裂いて内蔵をえぐりだす。生き埋めにする。眼をえぐる。耳を切る。鼻を削ぐ。首を切り、その数を競う。生きながら解剖する。銃剣で突き刺し、崖から落とす。等々」

 これはフィクションではない。「正義」を掲げた日本軍が中国でやったことである。といっても、ここでは戦争の是非を論じようというわけではない。地獄は決してフィクションなどではなく、スーパーリアリズムの世界だと言いたかったのである。我々の心の内側にある畑が荒れ果てたとき、地獄はどこにでも出現する。地獄の発生は倫理や道徳では抑えられない。かつて倫理や道徳が声高に叫ばれていた時期に、戦争が絶えたことはなかった。いや、むしろ、戦争は倫理や道徳の意図的操作によって遂行されたと言ってもよい。これは歴史の教えるところである。

 心は、肉体を伴っていようといまいと、その内容に応じた世界を周りに構築する力を持っている。地獄はまさしく心の構築物である。だが、本音を鍛えれば心に浄土が生まれる。心に浄土が生まれれば、世界は浄土へと変貌する。だからこそ、護るべきは心であり、鍛えるべきは本音なのである。では、どうやって鍛えるのか。実は、そのためにこそ、念仏行があるのである。


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