釈尊は何を食べておられたのか。仏教の本筋とは余り関係ないかもしれませんが、道草には道草の味わいというものがありまして、こんなことも少し知っていると、釈尊をもっと身近に感じられるかも知れません。まず今回は、出家される前の釈尊、つまりシャカ族のシッダールタ王子の食卓からのぞいてみたいと思います。 シャカ族は、現在のインドとネパールにまたがった東西約80キロ、南北約60キロほどの狭い地域(京都府より少し広い地域)に住みつき、稲を栽培していました。インドに白米が現われるのはヨーロッパ諸国のインド侵略以降のことと言われておりますが、当時の資料によると玄米以外に精白した白米もあったようです。 シッダールタの父親シュッドーダナは小豪族でしたが相当裕福だったようです。釈尊は少年時代のことを回想してこう述べておられます。「他の人々の邸では、奴僕・傭人・使用人には屑米の飯に酸い粥をそえて与えていたが、私の父の邸では奴僕・傭人・使用人にはまともな米と肉との飯が与えられていた」。 仏典には当時の食生活についてほとんど記されていませんので、王族たちがどのような食事をしていたのか定かではありません。釈尊を招待した富豪たちは金銀の器に山海の珍味を盛って供したそうですが、その内容については「美味なる硬い食物と柔らかい食物」と記されているだけです。 学者によると、この「硬い食物」とは、米・粟・麦・キビなどの飯、米や麦の粉にヨーグルトや蜜をまぶした団子、携帯用の乾飯(炊いた穀物を乾燥させたもの)や薄餅(チャパティーやナンの類)などのことであり、「柔らかい食物」とは粥(かゆ)の類のことだそうです。また、粥の種類としては、胡麻・豆・米の三種を煮込んだ粥、乳粥、ヨーグルト粥、魚肉粥、小豆粥、胡麻粥などがあったといいます。 こんな記述を見ている限りでは、当時の食文化は極めて素朴なもののように考えてしまいますが、仏典以外の資料(『カウティリヤ実利論』など)によると、古代インドには驚くほど豊かな食文化があったことが分かります。それを確かめておかねば、本当の古代インドが見えてきません。 当時の王宮では肉食と飲酒が普通だったようです。まず食品の種類から見ていきましょう。穀物としては、ヴリーヒ米、シャーリ米、大麦、小麦、粟、黍、胡麻、シャインビヤ(莢豆類)、マスーラ(レンズ豆)などがありました。王の食事には欠けることのない精白した米粒が用いられたようです。釈尊時代は分かりませんが、もう少し時代が下ると、米は家畜の飼料にできるほど豊富だったようです。 獣肉は、牛、水牛、羊、山羊、馬、驢馬、駱駝、鹿、豚、野猪、羚羊、野兎などが、生肉、乾肉、調理肉で売られていたようですし、変ったところでは、ヤマアラシ、ハリネズミ、大トカゲ、犀、亀なども食べられたようです。乳製品としては、牛、水牛、山羊、羊からとれる乳、バター、精製バター(サルピス、ギー)、バターミルク、ヨーグルト(ダディ・凝乳)、チーズ(クールチカー)、乳奬(キラータ)などがありました。魚も、湖、川、池、運河などに棲む種々の淡水魚が食用にされ、鳥類では、鶏、ガチョウ、雉、雀、鶴、鴫、鷭などが食べられていたようです。 その他、種々様々な野菜、蔓草の実、葡萄、きのこ類、ニンニク、玉葱、ニラなどもありましたし、タマリンド、カラマルダ、マンゴー、石榴、アーマラカ、マートゥルンガ(シトロンの一種)、コーラ、バダラ、サウヴィーラカ、パルーシャカなどの酸味のある果物も好まれたようです。 調味料には、砂糖キビの濃縮液、糖蜜、粗糖、グラニュー糖などの「砂糖類」、蜂蜜と葡萄液から作られる「蜜」、シンドゥ産の塩、海水塩、ビダ塩、硝酸塩、ホウ砂、塩分を含んだ土から採れた塩などの「塩類」、砂糖キビの汁、糖蜜、砂糖キビの濃縮液、ジャンブーの果汁、パナサの果汁などを原料とした「酢」、亜麻仁油、ニンバ油、クシャ油、マンゴー油、カピッタ(ウッド・アップル)油、胡麻油、クスンバ油、マドゥーカ油、イングディー油などの「油類」がありました。 香辛料には、長胡椒(ピッパリー)、黒胡椒(マリチヤ)、シュリンギ(生姜?)、ベーラージャージー(カミンの実?)、キラータ・ティクタ、白芥子、クストゥンブル(コエンドロ)、チョーラカ、ダマナカ、マルヴァカ、シグルの茎などがありました。チリ(唐辛子)は16世紀に新大陸から伝えられるまで、インドにはありませんでした。 酒には、水・米・酵母で作ったメーダカ酒、穀粉・酵母・クラムカの樹皮と果実で作ったプラサンナー酒、カピッタ樹の果実・砂糖の濃縮液・蜜で作ったアーサヴァ酒、医師によって処方された薬用のアリシタ酒、メーシャシュリンギーの樹皮の煎じ汁・糖蜜・長胡椒・黒胡椒・任意の果実三種で作ったマイレーヤ酒、産地名によってカーピシーヤナとハーラフーラカと呼ばれたマドゥ酒(葡萄酒)などがありました。また、特に王には、マハースラーという濃度の高いマンゴー酒を透明にし、砂糖濃縮液を加えて芳醇さを増させたものが供されたようです。 一般人の食事としてこんな記事が残っています。「1プラスタ(約1リットル、5.5合)の米粒、その4分の1のスープ、スープの16分の1の塩分、4分の1のサルピス(精製バター)か胡麻油、以上がアーリア人の男子の1食分である。6分の1プラスタのスープと半分の油脂が下層階級の1食分である。女子の場合は4分の1だけ少ない。子供の場合は半分の量である」。インドだけでなく、ヨーロッパでも日本でも、18世紀頃までは1日の食事は朝夕2食が普通でした。 当時、食物に関する職業としては、猟師、漁師、耕夫、家畜番人、屠殺人、雑魚商人、料理人、肉切人、カレー製造人、塩製造人、飯売、菓子売、魚売、酒売、肉屋などがありましたし、町には、居酒屋、調理米店、調理肉店、賭博場、女郎屋などもあって賑わっていたようです。 このようにざっと見ただけでも、釈尊当時のインドは非常に豊かだったことが分かります(インドが本当に貧しくなるのはイギリスの植民地支配以降のことです)。こういった豊富な食品がシッダールタ王子の食卓にも並んだはずです。ですが、釈尊は生れ付き虚弱な体質だったそうですし、よく食後に右脇を下にして寝られたのも消化器系統が弱かったからだという説もありますので、こういった豊かな食事にどの程度手を付けられたかは分かりません。では次回は、出家以降の食事を見ていこうと思います。
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