仏教夜話・9

釈尊の食事(中)

苦行者の食事

 インドでは伝統的に苦行によって様々な神秘的能力(神通力)が得られると考えられています。苦行によって一種の実体的エネルギーであるタパス(熱力)が体内に蓄積され、このタパスによって超能力(神通力)が発動されると考えられているのです。(これは恐らく、生命を危機に陥れるような非日常的な情況に肉体をさらして内分泌系の爆発的活性を誘発する技術ではないかと思います。)

 釈尊は29歳のときに出家され、6年間苦行をなさって、35歳のときに悟りを開かれました。釈尊は最終的に過激な苦行を捨てられますが、出家当初は自分が何をめざしているのかという明確なヴィジョンを持っておられたわけではないようです。そこでまず、伝統的な修行法である苦行の道を選ばれたのだと思います。

 苦行には大別して、節食による苦行と、肉体に苦痛を与える苦行とがあります。節食による苦行は究極的に断食へと進む性格のものです。肉体に苦痛を与えるものとしては、長期に渡って不自然な姿勢を継続する行法、炎天下に四方に焚火をたいて身をあぶる行法(五火の行)、極寒時に水篭りする行法、呼吸を止める行法などがあります。釈尊もこういった苦行を一通りなさったようですが、ここでは食事との関係から「釈尊の節食断食行」に限って見ていきましょう。

 初期の経典には次のように記されています(以下、引用は全て中村元博士の訳によっています)。「魚・肉を食せず、穀酒・果実酒・粥汁を飲まない。…またわたし(釈尊)は一日に一食を摂り、あるいは二日に一食を摂り…七日に一食を摂った。このようにして、わたしは半月に一食を摂るにいたるまで、定期的食事の修行に従事していた。わたしは野菜のみを食し、あるいはキビのみを食し、あるいは生米のみを食し、あるいはダッドゥラ米のみを食し、あるいはハタ草のみを食し、あるいはこごめ(糠)のみを食し、あるいは米汁の浮きかす(薄皮)のみを食し、あるいは胡麻の粉のみを食し、あるいは草のみを食し、あるいは牛糞のみを食する者であった。またわたしは森の樹の根や果実を食し、あるいは自然に落ちた果実を食して暮らしていた」。「…母牛は追いやられ牧牛者が他に行ったとき、牛舎のなかでわたしは四肢にて匍って行って、幼くて乳くさい犢の糞を食べた。わたしは自分の糞尿が終わらないうちに、自分の糞尿を食べた」。

 「その少食のためにわたくしの肢節は、アーシーティカ草の節またはカーラー草の節のようになった。…臀部は駱駝の足のようになった。…脊柱は紡錘の連鎖のように凹凸あるものとなった。…たとえば老朽家屋の桷が腐食して破れているように、わたしの肋骨は腐食して破れてしまった。…たとえば深い井戸における水の光が深くくぼんで見えるように、わたしの眼窩における瞳の光は深くくぼんで見えた。…たとえばなまのうちに切り取られた苦い瓢箪が風や熱によって皺よって萎縮してしまうように、わたしの頭皮も皺よって萎縮してしまった。 …腹皮に触れようとすると、脊柱をとらえてしまい、脊柱に触れようとすると、腹皮をとらえてしまった。その少食のために、わたしの腹皮なるものは、脊柱に密着してしまった。…そこでわたしはこの身体をいたわりつつ、掌で身体を按摩した。すると…わが身毛は腐食したその根とともに、身体から脱落した」。

 苦行は激烈を極めました。身体は痩せ衰えて骨と皮になり、皮膚は黒ずんで腐臭を放ち、毛は抜け落ち、眼は落ち窪み、意識は朦朧として、立ち上がる力も残っていません。(左は、その凄味漂う姿をリアルに描いた彫刻、「釈尊苦行像」。ガンダーラ出土、3世紀頃、ラホール博物館蔵。)そこで釈尊は思いました。「わたしはこの激しい苦行をもってしても、なお、人間を超えた、全き妙なるすぐれた智見に達することができない。おそらくは、さとりにいたるには他の道があるのであろう」と。そこで釈尊は6年間に及ぶ苦行をやめ、ナイランジャナー河で沐浴し、「通常の食物をとるために、村や町で托鉢して食物を得られた」のです。

 何でもそうですが、断食が肉体に与える影響にも個人差があります。肉体的素質だけでなく、断食時の精神状態も大きく影響します。もっとも、これを極限まで実験してみるわけにはいきません。生命に関わりますからね。ギネスブックによると、食物も水もなしに生き続けた最長記録は18日だそうです。また、固形食なしに過ごした最長記録は382日、ハンガーストライキの記録は385日だそうです。それはともかく、宗教的断食というのは、いわば「食べない」という方向での食文化と言えるかもしれません。さて次回は、苦行を捨てられてからの釈尊の食事を見てみたいと思います。


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