竹茂の周辺

極楽寺
   山号は吉祥山。江戸中期の正保3年(1646)、光誉雲哲によって創建された。平安末期にすぐ隣の出雲大神宮(島根の出雲大社ではありません、京都です)の神宮寺として造られたともいわれる。本尊は平安時代の十一面観音。
   山門には丹波七福神の毘沙門さんがお出迎え。浄土宗だが、素朴な禅寺のようなたたずまいだ。
あたご神社
  愛宕山の山頂にはあたご神社があって火伏せの神として今でも多くの参拝者がお札と櫁(しきみ)をもらってくる。明治の廃仏運動まではお寺もたくさん建っていて、比叡山と並ぶ修験霊場だった。
  明治以後はスキー場ができてケーブルカーも通っていたらしい。比叡山と同じように“愛宕山ホテル”なるものまであったというからずいぶんだ。戦後はそんなものはない。いたって静かである。
  タケモ小生も子供のころ登ったが、清和天皇で有名な水尾の里から急な斜面を延々と登り、疲れ果てた記憶が残る。嵯峨野をはじめ、京都市内が一望できる山頂。奥のほうに、愛宕神社がある。桧皮葺の控えめな、しかしどこかすがすがしさのある社殿である。
左が牛松山、右に遠くかすんでいる
のが愛宕山。愛宕山のふもと水尾を
経て保津峡や嵯峨野にぬけるハイキ
ングコースがタケモの前をとおります。
明智光秀が本能寺に攻め入るさい、
軍勢の一部をここから京へ通したこ
とから“明智越え”ともよばれている。
土日ともなるとハイキングの人々が往
来します。
菩提山穴太寺


穴太村は昔、村に大きな穴のある木があって、その穴に毎年稲穂が実ったことから“穴穂”と呼ばれたのが始ま名の由来となったといわれている。
 穴太寺は穴太の南端にあり、天台宗・西国三十三ヶ所の二十一番礼所。開基は文武天皇AD705年で、一時期さびれていた。
 本尊は薬師如来と聖観音だが、聖観音の由来が「扶桑略記」にある。平安時代中ごろ、丹波に宇治の宿禰宮成という意地悪な男がいて、ねだる妻にしかたなく観音を造る。京から法華経を厚く信仰している感世という
仏師であった。金色の観音を造って感世が帰ろうとしたとき途中の大江山で宮成は感世に矢をはなち、与えられた彼の禄を奪いとってしまった。宮成は家に帰って新しい観音をみると胸のあたりに矢が刺さっていて血も流れて
、苦しそうな顔をしている。京に遣いをやると、感世は無事だった。その観音の妙法威力に宮成らは感じ入ったという話がある。
 本堂の隅っこには明治になって屋根裏から発見された釈迦涅槃像がある。痛いところをさすればきくとされる。
くれぐれも指輪などで傷をつけないように。
 写真の山門を入って左には文化年間に造られた下の写真のように多宝塔がある。こじんまりしているが、手の込んだ装飾が目をひく。庭には四季の花があり、多宝塔をより美しく見せる。
  毎年一月三日に「福たまわり」がある。三千枚の紙札をとばし、その中の三枚だけある赤い札を拾うと長者になれるという。
他に海北友松「稚児物語図」、足利義持「御判御教書」などの文化財あり。
亀岡駅から学園大学行きバス、穴太口下車徒歩十五分
 愛宕山
 タケモから東北の方に牛松山の背後に遠慮がちに見えるのが愛宕山。小さく見えるが本当は924メートルのおおきな山。もっと遠ざかって見ると尾根が広がって大きさが実感できる。この山は古代は丹波に属していたが今は山城の国(京都市右京区嵯峨野)に属する。
  別名は愛宕権現太郎坊とよばれ、修験道のメッカだった。神仏習合なので勝軍地蔵という本地仏もいる。戦国武将の信仰が厚く、徳川家康は江戸に、最上義勝は山形に愛宕権現を勧請した。
 愛宕神社は山頂の古墳の跡に作られている。写真は亀岡の城下町である中心街とタケモがある川東地域を結ぶ保津橋。後ろに川下りの守り神金毘羅神社を抱える牛松山が。少し奥まって、愛宕山が見える。昔愛宕講の代参月参りを終えて保津橋までかえってきた人達を村の人たちが待ちうけて迎えたという話が亀岡じゅうの集落に伝わる。それを象徴するかのように橋のたもとに愛宕灯籠がとり付けられている。 

七十年以上人や車を通しつづけた。
ここを過ぎるとまもなく愛宕の霊域に入る。
 


市役所前の通りを中に入る。西町の通りは威風堂々たる開山堂の大恩寺などがあり、昔ながらの雰囲気。まっすぐ行く。あれれ?いきなり道が左にまがっている。ちょっと不気味だけど曲がってみる。おおっ!また右に曲がって、紺屋町の通りに続いている。実はこれ、亀岡(当時亀山)の城下町の工夫なのです。敵が攻めてきたとき、まっすぐだとすぐに城へ追いつかれてしまう。そこで見通しが悪く、敵の進軍の遅くなるよう道をまげたのだ。「鍵の手」という。


奥まった岩からとうとうと涌き出る宮水

出雲大神宮
保津橋をわたると静かな集落が続きます。千歳山を神体山にした出雲大神宮があります。ここはおいしい涌き水が後ろの山から涌き出ます。泉が数カ所あり、味量ともに京都研究家も「こんなおいしい水がこんなにたくさん出続けているなんて初めてだなー」とべた誉め。金銀、硅石、アルカリ、カルシューム等が入っていて万病に効く。今日も人々がおいしい水を求めて遠方からも汲みにやってきます。
祭神は大国主の命・三穂津姫命です。昔は愛宕山や大原に神領がありましたが、各時代の武将たちの騒乱で大方は失われてしまいました。こじんまりした境内には国の重要文化財の延喜式の本殿(和同二年)があり、なんとも薄暗い良い雰囲気を醸し出しています。
  奥の神体山には石造りの古墳があり、国常立命という人と、その人の墓を守った出雲毘女(美穂津姫命)がまつられている。

  

    △ 







巡礼道
  西国三十三ヵ所観音霊場20番善峰寺と21番穴太寺(あなおじ)を結ぶ道は諸霊場の中でもとくに厳しい山道だった。平らな老の坂峠から行ってもいいが、遠まわりになるためつい50年前までは山間部を直線に横断した。余部風の口,医王谷、鍬山神社、篠寒谷(しのさぶたに)、高槻方面の明神が岳、乙訓の杉谷を経て善峰に着く。善峰道とも呼ばれ、穴太に向かうと穴太道だった。
善峯寺
西国三十三ヶ所観音札所の二十番札所。
十一世紀前半、(平安時代半ば)源算上人
が自作の十一面千手観音を祭ったのがはじめ。
浄土は西方にあるという思想から西山に法華
院というお堂を建てた。歌人であり、「愚管抄」
の著者である慈円もこの寺に住んだ。源頼朝
とも親交があり、越前の寺領をもらったり天台
座主に就任したり、運慶仏師に金剛力士を造
らせて善峰寺に安置したりと頼朝の恩恵もか
なり厚いものがある。
 一番はじめに目にするのは元禄五年徳川
家光の大奥で五代目将軍綱吉の母桂昌院が
再建した山門。この山門の二階は仏堂になっ
ていて、本堂かと見まがうほどの大きさです。山
門をくぐり、石段を上がると金堂である観音堂
があります。月に一度第二日曜日に開帳され
ます。なだらかな屋根の勾配。中にはご本尊で
ある千手観音がどっしり黒光りした宮殿に安置
されています。脇には全国からの参詣者が願い
事をしたためた三州瓦が重なっていました。
  さらに右の石段を登ると一番人気の遊竜の松
(40メートル)。私が子供のころ見たときはもっと長
かったのですが最近病気にかかり,十数メートル
切ってしまったそうです。元和年間に建てられた
多宝塔と六角の形をした経堂も遊竜の松をひき
たてています。経堂は薄暗い中にお経が六角錘
の棚にびっしりと納められています。
とにかく四季の花や堂々とした木々に圧倒される。

そして薬師堂から見下ろす京都市街は山に囲まれて,市街地の尽きたところには意外なほど広々とした水田が広がっており、どこかのんびりした小地方都市を思わせます。薬師堂に入ると、古びた薬師と下半身金箔のはげた脇侍。桂昌院の両親はここで拝んで子を授かったので出世薬師と呼ばれている

  
薬師堂から再び下がり、少し広場になったところにこの寺にしては質素な釈迦堂がある、薄暗い内部に上がると、一番奥に
もう目鼻立ちがはっきりしないほど古ぼけた釈迦像。開山した源算上人が自らつくったと伝えられている。古いけれど威風堂々としていて、衣文線がしっかりと描かれていて印象的です。

 
とにかく四季の花や堂々とした木々に圧倒される。桂昌院お手植えのしだれ桜、さつき、牡丹、松に高野榎木。西山の迫るような山にいだかれています。高野榎木はわざわざ高野山から移植した貴重なもの。今では立派な大木です
  阪急桂駅からバス、国道中山交差点からタクシーで。マイカーでも行けることは行ける。

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