竹茂の周辺

 
 保津川の河原に浮かぶ、何艘もの川舟。
容赦なき奔流に、巧みにのる。
静かに浮かぶこの姿からは、万丈の山千仞の谷連なる保津峡の渓谷を疾駆する様子は、想像し難い。
 
亀山城

 
亀岡は山陰道と丹後道(京街道)が行きかう交通の要衝でした。室町時代、細川家の守護代だった内藤氏が勢力を持っていたが、後に篠山に勢力のあった波多野秀治が今の余部町の小高いところに丸岡城をきづく。
  
  1575(天承3)年、明智光秀は波多野秀治の本拠の八木城を残酷なまでの執念で開城させ、1578(天正6)年、丸岡から少し南の亀山に大きな城を建てた。周囲には商工業者が住み、今の呉服町、紺屋町、旅籠町等の町名に名残が見られる。お土居を築いたり、二重に堀を造ったりしてかなりの防備だった。

  全国に立派なおしろを築いた岡部長盛は江戸時代はじめ、5重の天守閣を擁する亀山城を完成させたとされる。いろんな城主が入れ替わり、江戸時代半ばからは松平(形原)氏が続き、幕末まで至った。

 
愛宕灯籠
ここタケモから東北の方に愛宕山がみえる。全国に散らばっている愛宕神社の総本山がある。私が子供のころはお三夜といって蝋燭の入った木箱を町内会でまわし、火の用心を願う行事があった。その信仰活動を継続的、組織的に行うのが村落単位で結成する愛宕講なのだ。一月に一回代参者が愛宕山に登り,樒(しきみ)と『阿多古祀符 火廼要慎』と書いたお札をもらってくる。毎月二十三日当番の家で講が集まり、ちょっとした食事をし、男達なら遅くまで飲む。なぜ二十三日なのか。新月が出てくるのがこの日で、真っ暗な夜から開放されたからという理由が有力だ。他には愛宕神社の本地仏が勝軍地蔵で、縁日がちょうどその日あたりだとかいう理由もある。もっとも代参月参りは現在年一回に省略されている。
  そんな彼らのシンボル的存在は市内に203基ある愛宕灯籠だ。そこには毎晩愛宕講や町内会、有志の方が火を灯す。『火とぼし』と呼ばれる。「あたごさん」とも呼ばれる。私が幼いころよく見た蝋燭の入った木箱をまわして夕暮れになると点火していたのだ。皆石造りで、いちばん古いもので元禄、新しいものでは大正のものまである。いちばんよく見かけるのは文化文政、あるいは天保年間に造られたもの。ぼろぼろになって、中には朽ち果てて原型をとどめないものもある。
  立っている場所は集会所や農業倉庫等の人のよく集まるところがよく目につく。防火意識を高めるためにはもっとも意義あるポジションであろう。ついで多いのは防火水槽、火の見やぐら、防火用具貯蔵庫などやはり火の神様らしいところに立っている。
 地域には愛宕講だけでなく、秋葉講、伊勢講、大峰講、金毘羅講があるのでそれらが一ヶ所に寺院や神社に集まっている場合もある。もとは違うところにあったものを神社に移動してきたものも多い。どの神もいちどに拝めるとあって、喜ばれたのだろう。
  京都市内から入ってくると一番に出会う集落が王子である。そこから城下町を経て亀岡最北端の川関まで山陰道が通る。その道沿いに愛宕灯籠が多い。参拝する人々の道しるべがわりになった。
  お地蔵さんはこの世からあの世へ行く境目にある人を地獄から救ってくれる役割があるとされた。ここから、国や村境に地蔵を建て、たびの安全を祈ったとされる。愛宕灯籠も地蔵といっしょに置かれているところが多く見られる。多いところでは三十体もの地蔵とともに建っている灯籠もある。

   
寄せ、というタイプの灯籠。自然の形のまま軸やひさしがこしらえてある。たいがいはひさしがやたら大きくてワイルドな印象をあたえます。 最もよく見るタイプ。タケモのすぐそばにあります。これは軸が丸いですが四角もあります。横の岩は神が天から降りてくるとき、初めて足をつける場所とされている。 神前型といい、神社、寺院に多い。篠町の植木市で有名な念仏寺の前にあるのもこの型。 道識と呼ばれるタイプ。一本の四角い棒のようであり、てっぺんの珠も他と比べて小さい。大概の灯籠は窓が三日月型にくりぬかれている。    
道識型の屋根つきタイプ。普通の民家でなく神社の屋根を型どる。こんなのは珍しいほうだと思う。
お地蔵さんと並んでいるタイプ。市内に16ヶ所ある。三十体くらい並んでいるのも篠町や曽我部町にある。集落の境目に建っている場合が多かった。今でも地蔵盆にはお地蔵さん供養に人々が寄る。
     

 

極楽寺
   山号は吉祥山。江戸中期の正保3年(1646)、光誉雲哲によって創建された。平安末期にすぐ隣の出雲大神宮(島根の出雲大社ではありません、京都です)の神宮寺として造られたともいわれる。本尊は平安時代の十一面観音。
   山門には丹波七福神の毘沙門さんがお出迎え。浄土宗だが、素朴な禅寺のようなたたずまいだ。
あたご神社
  愛宕山の山頂にはあたご神社があって火伏せの神として今でも多くの参拝者がお札と櫁(しきみ)をもらってくる。明治の廃仏運動まではお寺もたくさん建っていて、比叡山と並ぶ修験霊場だった。
  明治以後はスキー場ができてケーブルカーも通っていたらしい。比叡山と同じように“愛宕山ホテル”なるものまであったというからずいぶんだ。戦後はそんなものはない。いたって静かである。
  タケモ小生も子供のころ登ったが、清和天皇で有名な水尾の里から急な斜面を延々と登り、疲れ果てた記憶が残る。嵯峨野をはじめ、京都市内が一望できる山頂。奥のほうに、愛宕神社がある。桧皮葺の控えめな、しかしどこかすがすがしさのある社殿である。
左が牛松山、右に遠くかすんでいる
のが愛宕山。愛宕山のふもと水尾を
経て保津峡や嵯峨野にぬけるハイキ
ングコースがタケモの前をとおります。
明智光秀が本能寺に攻め入るさい、
軍勢の一部をここから京へ通したこ
とから“明智越え”ともよばれている。
土日ともなるとハイキングの人々が往
来します。
菩提山穴太寺


穴太村は昔、村に大きな穴のある木があって、その穴に毎年稲穂が実ったことから“穴穂”と呼ばれたのが始ま名の由来となったといわれている。
 穴太寺は穴太の南端にあり、天台宗・西国三十三ヶ所の二十一番礼所。開基は文武天皇AD705年で、一時期さびれていた。
 本尊は薬師如来と聖観音だが、聖観音の由来が「扶桑略記」にある。平安時代中ごろ、丹波に宇治の宿禰宮成という意地悪な男がいて、ねだる妻にしかたなく観音を造る。京から法華経を厚く信仰している感世という
仏師であった。金色の観音を造って感世が帰ろうとしたとき途中の大江山で宮成は感世に矢をはなち、与えられた彼の禄を奪いとってしまった。宮成は家に帰って新しい観音をみると胸のあたりに矢が刺さっていて血も流れて
、苦しそうな顔をしている。京に遣いをやると、感世は無事だった。その観音の妙法威力に宮成らは感じ入ったという話がある。
 本堂の隅っこには明治になって屋根裏から発見された釈迦涅槃像がある。痛いところをさすればきくとされる。
くれぐれも指輪などで傷をつけないように。
 写真の山門を入って左には文化年間に造られた下の写真のように多宝塔がある。こじんまりしているが、手の込んだ装飾が目をひく。庭には四季の花があり、多宝塔をより美しく見せる。
  毎年一月三日に「福たまわり」がある。三千枚の紙札をとばし、その中の三枚だけある赤い札を拾うと長者になれるという。
他に海北友松「稚児物語図」、足利義持「御判御教書」などの文化財あり。
亀岡駅から学園大学行きバス、穴太口下車徒歩十五分
 愛宕山
 タケモから東北の方に牛松山の背後に遠慮がちに見えるのが愛宕山。小さく見えるが本当は924メートルのおおきな山。もっと遠ざかって見ると尾根が広がって大きさが実感できる。この山は古代は丹波に属していたが今は山城の国(京都市右京区嵯峨野)に属する。
  別名は愛宕権現太郎坊とよばれ、修験道のメッカだった。神仏習合なので勝軍地蔵という本地仏もいる。戦国武将の信仰が厚く、徳川家康は江戸に、最上義勝は山形に愛宕権現を勧請した。
 愛宕神社は山頂の古墳の跡に作られている。写真は亀岡の城下町である中心街とタケモがある川東地域を結ぶ保津橋。後ろに川下りの守り神金毘羅神社を抱える牛松山が。少し奥まって、愛宕山が見える。昔愛宕講の代参月参りを終えて保津橋までかえってきた人達を村の人たちが待ちうけて迎えたという話が亀岡じゅうの集落に伝わる。それを象徴するかのように橋のたもとに愛宕灯籠がとり付けられている。 

七十年以上人や車を通しつづけた。
ここを過ぎるとまもなく愛宕の霊域に入る。
 


市役所前の通りを中に入る。西町の通りは威風堂々たる開山堂の大恩寺などがあり、昔ながらの雰囲気。まっすぐ行く。あれれ?いきなり道が左にまがっている。ちょっと不気味だけど曲がってみる。おおっ!また右に曲がって、紺屋町の通りに続いている。実はこれ、亀岡(当時亀山)の城下町の工夫なのです。敵が攻めてきたとき、まっすぐだとすぐに城へ追いつかれてしまう。そこで見通しが悪く、敵の進軍の遅くなるよう道をまげたのだ。「鍵の手」という。

  

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