パラケルススとアグリコラ−−中世からのメッセージ−−

化学は日本人にとっては幕末オランダから輸入されたものです。全てのものにはそのものの歴史がつきまとっていて、深く理解し、新しい発展を志すときにはその歴史の理解が不可欠だと私は思っています。専門は有機化学反応機構といって化学反応の過程を細かく検討することでしたが、このような考えから原子論や錬金術から化学への発展の過程も大変興味があり多少研究しました。末期錬金術が近代化学に変身する過程に貢献した現場技術の役割にも注目しました。ここに載せましたのは、このような仕事の一つです。表題はいかめしいのですが、内容は推理小説のようなものですから、読んでくださればおもしろいと思っていただけるかも知れません。

T.錬金術とパラケルスス

19世紀のフランスの著名な化学者ベルトウロ(M.Berthelot)はその著『錬金術の起源』の中で、化学は天文学・幾何学のように古代に発生してから現代まで、まっすぐに発展してきた学問ではなく、古代科学−−錬金術−−の形骸の上にうち立てられたところにその特徴があると述べている。錬金術は文字どおり金以外のものから金を作る術であり、その起源についてはこの本に詳しいが、地上の女との愛に夢中になった天使達がその代償として教えたという伝説は錬金術の持つ秘儀性を示している。ホール(M.P.Hall)もまたその著『錬金術』の中で、錬金術は「神」から直接人間に啓示されたものだとか山に降り立った2000人の天使が教えたものだという考えがあったことを述べている。中世において錬金術は一つの哲学、学問であるばかりでなく魔法でもあった。錬金術師が得た秘密はさまざまの寓意的象徴の中に隠匿されて表現され、言葉どうりに解釈してもまったく意味をなさないものであった。水銀、スズ、鉄、銅、鉛、銀、金は、それぞれ天上の水星、木星、火星、金星、土星、月、太陽に比定されて記述された。

ベルトウロによれば、錬金術の基本的理論が結びついているのは古代ギリシャのイオニア派、ピタゴラス派の哲学であり、特にプラトン派であったという。アリストテレスの師プラトンは著書テイマイオスの中で、基本物質−−諸始原(アルカイ)−−が4元素(空気、水、土、火)の形をとり、この4元素により、この世界はつくられていると考えている。4元素は互いに変わりあうことが可能なことも説いたが、それらはもともと唯一の基本物質アルカイの転化したものであるから当然であった。プラトンに先立つアナクシマンドロスも基本の始原としてト・アペイロンを想定している。これらの思想が、それ以後の元素変換の試みの哲学的根拠ともなった。テイマイオスには可融解性の“水”のうち、もっとも完璧で純粋なものが金であり、これにわずかばかり“土”を含んだものが銅であるとも記されている。このプラトンの思想は新プラトン主義者達に受け継がれていくが、1530年に公刊されたアグリッパ(C. von Agrippa)(1486〜1535)の大著『隠秘哲学』では神秘的色彩が濃厚となり,至高の完全なるもの−−アルケティプス−−霊界、天界、地上に順次実体として現れ、下位の実体はそれぞれに上位の実体に対応し、上位から下位のものへ、また下位から上位のものへと変動も出来、この変化は第五実体(キンタ・エッセンティア)によって媒介されるという。この第五実体はプラトンには見られなかったもので、4つの元素でできたものではなく、現実から距離をおいた神秘的実体であったから、その導入は錬金術を秘儀の魔法に導くものとなった。錬金術師の中には、金銀は多量の第五実体を含むものでこの第五実体を抽出して他の金属に付与すれば金銀が得られると信じるものもあった。

paracelsus
錬金術は形而上の世界にもその座を持ち、第五実体はいわば隠された力−−オカルト−−となり、第五実体に恵まれた人は魔力を持つのであった。今日でもオカルトを信じる人々にとって、錬金術はなお現実のものである。アグリッパよりやや遅れて生まれたパラケルスス(Philippus Aureolus Paracelsus:本名Theophrastus Bombastus von Hohenheim)(1493〜1541)もこの時代の風潮と無縁ではなかったし、彼の強烈な個性とふるまいは、その周辺に錬金術の神秘主義的側面をますます強調するものとなり、今日に至るまで、伝説はパラケルスス自身をも魔力を身につけた神秘の人としてしまっている。しかしながら彼の経歴や彼が著書に記述していることを良く洞察すると、本質的には過去の権威に囚われず、自力で新しい道を模索した醒めた人であったと思われる。

1493年スイスのアインジーデルンで生まれたホーヘンハイムは、1502年医師であった父ウイルヘルムに連れられて、オーストリア大公領ケルンテンの商都フィラッハに移った。この町はアドリア海におけるイスラム文化の受容点であったイストリア半島から騎行一日ほどのところにあり、諸国の錬金術師、鉱物学者の集散する町であった。種村季弘氏によれば、パラケルスス自身晩年の著作『この国ケルンテンの年代記ならびに起源』の中で「鉱山技術はこの国ではじめて習得され、それから他の国にもたらされた。・・・・・鉱業と医学に関する限り、ケルンテンこそは濫觴の地である」と記している。1509年父と同様に医学を志したテオフラストはおそらくこのフィラッハからウイーンに赴いたと推定され、その後一端フィラッハに帰省してから、1513〜1516年イタリアのフェラーラ大学に学び、ジョバンニ・マナルディ(Giovanni Manardi)に師事した。マナルディの学風は革新的で、空疎な解剖学的知識に陥ることなく、生きた植物や野草を採取して薬とし、患者を臨床的に観察して病状や治療処置を現場で考究するというものであった。これは後年医師としてのパラケルススの実証的な態度にかなりの影響を及ぼしているものと思われる。これ以後約12年にわたる遍歴時代が続くが、1515年シュウアッツを訪問し、錬金術師ジークムント・フューガー(Siegmund Fueger)およびその弟子たちから本格的に錬金術を学んだことは、フィラッハでの経験とともに、彼が植物系の医薬のみならず鉱物系の薬品を採用し、金属の変成にも関心を持ったことと深い関係をもつものであろう。後年1536年に著した『大外科学』の中でパラケルススは遍歴中「医学博士の許のみに限らず、理髪外科医、浴場主、経験を積んだ内科医、女たち、医療をこととする黒魔術師、錬金術師、僧院をも訪ね、貴人の家でも賤民の家でも、知性ある人の許でも無学文盲の許でも」訪れて教えを受けたと述べている。当時は理髪師が外科医を兼ね、身分的には下層に属していた。現在も理髪店のしるしとして普通に見かける赤帯と青帯を組み合わせたデザインもこの名残で、動脈と静脈を象徴している。このパラケルススの遍歴は、もはや形骸化した権威をはなれて、事実の中に真の知識を求めようとした若き日の彼の姿を物語っている。

ホーヘンハイムが明確にパラケルススを名乗ったのは30歳の時であるが、ギリシャ時代の名医ケルススを越えるものという自負に満ちた名称であった。その一生を通じて医師であった彼は錬金術についても、医薬への応用面では評価したが、いっこうに成果の見られない当時の錬金術そのものは軽蔑していたと思われる。『大外科学』の中でパラケルススは、「錬金術のなかで行われた探求において、彼等(錬金術師)はあまたの驚くべきことどもに直面し、日々長生きに役立つ薬剤に出逢い、とりわけ大いなる奇跡が経験されたところの薬剤や、なかんずく秘薬(チンクトウラ)と称されたものにめぐりあうことになった。しかるに日を追うにつれて、金属を変成させようと企むの徒がはびこってきた。」と述べている。


U.「哲学の天国」と灰吹き法

錬金術を軽蔑したはずのパラケルススに錬金術の著作があるのは矛盾した話であるが、「哲学の天国」がそれである。この作品はK.ズートホフ、W.マッティセン(K.Sudhoff, W.Matthiessen)編のパラケルスス全著作集の14巻にも載せられているが、パラケルスス研究の権威ゴルトアンマー(K.Goldammer)教授によれば、に収容されているにもかかわらず偽典とされている。

しかしながらこの書を当時の錬金術書の一つの典型例として読んでみるとなかなか興味深いものがある。記述の様式は難解な表現を用いた当時の一般的な様式に則っている。一見、荒唐無稽とも思えるのであるが、それはその時代の様式として当然のことであり、じっくり検討してみると化学の母胎としてある種の合理性を感ぜずにはいられない。この書についての考察はもう少し後にすることにし、ゴルトアンマー教授の著書によってパラケルスス自身の元素観に触れておこう。それによると、「世界の創造は神のつくりたもうた原資料“大いなる神秘(mysterium magnum”を用いて行われ、火・水・風・土の4元素が生まれた。これがやがて大空・大地・水・空気の4つの生命領域によって取って換わられるが、この生命領域の根底には“万物の母”なる“コルプス(corpus)"が存在する。このコルプスには三つの種−−硫黄・塩・水銀−−があり、三つのコルプスはどの元素にも含まれ、本質的には力であり精神であるとされる。物質の中に存在する造形力 コルプスの割合を変化させることによって元素の変換も可能となる。また、金属にも生命が与えられ、その生命は七つの惑星に由来する。」こうパラケルススは考えていた。非金属を金に変えようと試みたり、あるいは自分はこの変換に成功したと称した多くの錬金術師をペテン師と断じたパラケルススは、錬金術は本来誤っていないのだが、正しい道は隠されていて容易に探り出せず、またそれを行う人が技術的にも未熟であるためにうまく行かないのだと考えていたようである。

さて「哲学の天国」は前述のごとくパラケルスス自身の著作ではないようであるが、パラケルススの著作と信じられたほどその基本的性格はパラケルスス的であり、また当時の錬金術著作表現の典型とも思われるので、少し長くなるが訳書から引用させてもらおう。

「この本では、錬金術をこれまでの方法とは異なった取り扱い方で述べよう。 この方法は、七つの規範によって、金属の七つの系列から導き出されたものである。実際この規範によれば、言葉を大袈裟に並べたてる必要はない。しかしこれらの規範を考察するに当たって、錬金術から切り離すべきものについては十分の言葉を尽くして述べることにしよう。その上、ここでは他の事物の多くの秘密も含まれよう。したがって、また古代の錬金術師や自然哲学者の記述や意見とは異なり、完全な証明と実験によって確かめられたいくつかのすばらしい構想と新しい操作が含まれる。

その上、この術においては、まだ良く知られていないし、十分な信頼も得られていないけれども、以下に述べることほど真実なことはない。多くの人々を貧困に追い込み、多くの人々の労働を無駄にした錬金術の欠点と困難の原因は、全くもって術者の手腕の不足、材料の量または質における不足か過剰である。この過不足のため、操作の途中で物質は浪費されたり、無に帰せられたりする。もし真の方法が発見されるならば、物質は変成の間、日々完成に近づくだろう。正しい道は用意に辿れるが、それを発見できる人はきわめて希なのである。」

「・・・・破壊は良きものを完成する。何故ならば、良いものは隠されているために外に現れないからである。良いものが自由にそれ自身の輝きを現しうるためには隠蔽を取り除かなければならない。たとえば、金属がその中で生成する山、砂、土、石などはこの種の隠蔽である。目に見える金属の一つ一つは、他の六種の金属の隠れ場所である。

火の元素によって、たとえば五種の金属、水星(水銀)、木星(スズ)、火星(鉄)、金星(銅)、および土星(鉛)のような不完全なものは、すべて打ち砕かれ、取り除かれる。これに対して完全な金属、太陽(金)と月(銀)は、この同じ火によって失われることはない。それらは火に耐えることができる。そしてそれと同時に、打ち砕かれた他の不完全なものから離れて、それら完全な金属はそれ自身の実体を現し、目に見えるものとなる。いかにして、またどのような方法でこのことが起こるかは、七つの規範によって求められる。」

ここでは、それぞれの金属は錬金術の常道に従って太陽、月、惑星で表現されている。個々の金属が他の金属の隠れ場であり、火によって金と銀とは他の金属から区別されるというのは現代風に表現すると、現実の金属は決して純粋でなく混在し、火の作用に対して、異なった挙動を示すから、高温での酸化反応における挙動の差を利用して金銀の分離が可能であることを述べているものと解釈できる。続いて重々しく

「しかし、まず最初に注意しておかねばならない。どんな読者も軽率に一瞥したり、一読しただけでは、この「七つの規範」を完全に理解することはできない。低い知性の持ち主は神秘・難解な主題を容易には読み取れない。これらの規範のどれも、少しばかりの議論が必要という代物ではない。・・・・・」

と述べたのち「七つの規範」が示される。これは上に挙げられた七つの金属のそれぞれについて、性質を錬金術風に記したもので、独特の比喩が使ってあるため分かりにくいが、その中の『第一の規範 水星の本性と性質に関して』は水銀について記されたもので、単純で理解しやすい。パラケルスス化学の一例として引用すると

「・・・・火の神、つまり火の仲立ちによって、すべての金属は水星からつくられる。一方、金属としては水星は不完全である。水銀は中途半端にしか生成しておらず、金属の最終形態である凝縮性に欠けている。その生成の中途の段階まで、すべての金属は水星である。たとえば金もまた水星である。しかし金は凝縮によってその水星的性質を失う。水星的性質は残っているのだが、それは生きておらず、その生命力は凝縮によって破壊される。」

と書かれてある。金属の中で珍しく液体の状態にある水銀は未完成の金属であり、他の金属に成長するものとされている。あるいはアマルガムは古くから知られているから、アマルガムを加熱したあとに、金が残るという事実の投影が個々にはあるのかも知れない。他の金属についての六つの規範に引き続いて『七つの規範から生じる若干の論説と補足』が記され、この中の『水星の凝縮に関して考えるべきこと』には水星(水銀)からいくらでも金、銀をつくる方法があることを次のようにほのめかしてある。だが、具体的には何も書かれていない。

「・・・・この方法によって、短時間に好きなだけの金と銀をつくることができる。長ったらしい説明を読むのは骨が折れるので、誰でも単刀直入に説明してほしいと思うだろうからそうしよう。次のように操作しなさい。そうすれば太陽と月を得、それによって君は大金持ちになるだろう。しかし、その方法を簡単に記述する間待っていてほしい。そうしてこれらの言葉を良く理解してほしい。そうすれば水星から太陽と月を作ることができるだろう。見出し、実行するのにこれほどやさしい、またそれ自体これほど有用な術は他にないし、またこれからもないだろう。太陽と月を錬金術によって作る方法はきわめて手っ取り早いものなので、これ以上本もいらなければ、念入りな解説もいらない。それは人が昨年の雪について書こうとするのと同様であろう。」

この表現はベルトウロが著書の中で原子論者デモクリトスの名をかたる偽デモクリトスや3世紀頃のゾシムスの時代には、錬金術の奥義は口頭でだけ連絡するように決められた部分があったようだと述べ、偽デモクリトスの書に「これらが金と銀をつくるのに必要なすべてである。何も忘れられていないし、蒸気と水の蒸発を除いて何も欠けてはいない。私は、私の他の著作品において十分にそれらを説明したので、ここではわざと省いたのだ」と書かれて詳細が記述されていないことを例に挙げているのを思い起こさせる。偽パラケルススの叙述もこの表現と軌を一にしている。

その後にふたたび太陽と月、すなわち金と銀の製法に関する謎に満ちた文章が現れるが、この文も錬金術の文章としては異常とは言えないのであろう。先にも述べたように錬金術は秘術であり、隠語を用いて書かれ、すべてを明らかにしないのが通例であったからである。ふたたび原文の日本語訳を引用しよう。

「・・・・きっと誰かが尋ねるだろう。それならば、太陽と月をつくることができるようなこの端的でやさしい方法とは何なのか、と。私どもの答えは、それはもう既に完全に、明白に七つの規範に述べられている。これを理解できない人をこれ以上教えようとしても、それは骨折り損というべきだ。そのような人たちに、この種の事柄は表面的にでなく、神秘的にではあるが、容易に理解できるということを納得させるのは難しい。

その術は以下のようである。あなたが天、または土星の球をつくり、その生命が地球の上を走るようにしたら、それをすべての惑星の上か、あるいはあなたの好きなだけの数の惑星の上に置け、その際月の割合が最小になるようにせよ。天または土星が完全に消失するまですべてを走らせよ。そうすると、これらすべての惑星の古い侵されやすい実体は死んだままである一方、新しい、完全な、侵されない実体を得るであろう。
この実体は天の精気である。これから惑星たちは再び実体と生命を受け、以前のように生きる。この実体を生命と地球とから取れ。それを保て。それは太陽(金)と月(銀)である。
これであなたは術のすべてを、はっきりと、完全に知った。ましまだあなたがこれを理解しなくても、またそれに習熟していなくてもそれはよろしい。これは秘密の中に保つ方が良いのであり、公表しない方が良いのである。」

一読しても全く不可解なこの文章−−特に色を変えておいた部分(筆者)−−は現在のわれわれに、錬金術は所詮魔法であり、でたらめで理解できないものという印象を与えるのであるが、この中にも何ほどかの化学的真理が隠されてはいないのだろうか。前にも述べたように、パラケルスス(偽パラケルスス)によれば、惑星はそれぞれ水銀(水星)、スズ(木星)、鉄(火星)、銅(金星)、鉛(土星)と一体のものである。生命は空気によって維持され、また古代のエジプト人の宇宙観の中に「地球」を皿のようなものと見る思想があったことを思い起こすならば、「生命」を空気、「地球」を灰でつくった皿と解釈することもできるであろう。筆者のこの推定が妥当であれば、この部分は灰吹き法による金銀の分離を物語るように思われる。ベルトウロの前掲書によれば灰吹き法は錬金術師によって広く用いられていた方法であり、8世紀末のアルジャビル ゲーベル(Al-Djaber Geber)の実験の記述の中にも灰吹き法は見え、起源はギリシャの錬金術師の著作に及ぶという。現代風にいえば金銀は鉛と合金を作りやすいので種々の金属を鉛とともに熔融し、中に含まれる金銀を鉛中に抽出濃縮したのち、植物灰や動物の骨灰で作った皿に載せ、高温で空気を送って鉛をはじめ卑金属を塩基性酸化物とし、これを酸性成分を成分として含有する灰皿と反応吸収させると後に金銀が残る。これが灰吹き法である。銅や鉛の鉱石には一般に金銀が含まれており、例えば銅のかわ1トンから金が約20グラム、銀が200〜300グラム取れる。錬金術によって、まがい物でない金銀が得られるケースとしては、始めから存在してはいたが混在し、微量のために認知できなかった金銀が単離されてくるケースがもっとも確実な可能性を与える。その方法として灰吹き法が適切であり、偽パラケルススの文章も灰皿(地球)に入れた卑金属の上に鉛(土星)を乗せ、高温で空気(生命)を送って鉛とともに卑金属を酸化し、除去し尽くすと金(太陽)銀(月)が取れるということを述べているのだと理解すれば、この内容はあながち魔法使いの戯言とは言えず、化学の真理を錬金術風に表現していることになる。


V.アグリコラのデ・レ・メタリカと灰吹き法

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パラケルススの生まれた翌年ゲオルギウス・アグリコラ(Georgius Agricola:本名Georg Bauer)もザクセンのグラウハウで生まれた。パラケルススは1541年に亡くなっているが、アグリコラは1550年に大著デ・レ・メタリカを著している。この本は“デ・レ・メタリカ−−全訳とその研究−−近世技術の集大成”として1968年岩崎学術出版社から邦訳が公刊されている。三枝博音博士の労作である。この本によって当時の技術水準を検討すると、われわれは中世における理論と技術の跛行性に非常な驚きの念を抱かざるを得なくなる。

まずアグリコラの経歴を眺めることにする。アグリコラという名は本名のBauer(農夫)の意味をラテン語で表現したものである。パラケルススにも見られるように、名前をラテン風にすることは、当時、教養のある人たちの間で一種の流行であったと思われる。アグリコラは最初言語学者の道を歩み、ライプツィヒ大学のモゼラヌス(P.Mosellanus)教授に師事したが、1524年モゼラヌスが亡くなり、イタリアに遊学することを余儀なくされた。イタリアでは言語学のほか医学、化学を学んだが、この間に深められた鉱物学、地質学への関心から帰途ボヘミアのヨアヒムスタールに立ち寄ったばかりか、ついにこの地で医師として開業し、定住7年に及んだ。その間もっぱら鉱物学、岩石学の研究に励み、また言語に関心の深かったアグリコラはギリシャ・ローマの鉱山業に関する著作にも親しんだ。その後1530年頃ケムニッツ移り、以後この地にとどまった。デ・レ・メタリカが書かれたのもこの地であり(1550年)、後にはモーリッツ侯から同市の市長にも任命され、以後要職を歴任した。1555年11月21日カトリックの外的儀礼を守り通した彼は、新教徒との口論中脳卒中で倒れ、この世を去った。

アグリコラが知識としてどういうものを重んじたか、またどのような学習方法を実践したかについては彼自身がデ・レ・メタリカの序文の中に「私は私が見なかったもの、もしくは信ずべき人から実際に聞かなかったものはすべて叙述から除きました。ですから、私が見なかった、読まなかった、また聞かなかった、さらに試さなかったものは、一切書き込んでおりません」と記していることから推察できる。彼が書物の上の知識だけでなく鉱山業に詳しい人の話を聞き、自ら鉱山や冶金場を訪ねて鉱物学・岩石学と医術を結びつけようとしたことは、若き日のパラケルススがケルンテンで鉱山技術に接し、また遍歴中に錬金術を学び鉱物系の薬品を医療に取り入れようとしたのと非常に共通している。錬金術についてのアグリコラの見解もデ・レ・メタリカの序文に詳しい。

「・・・・私に不可解に思えますのは、ある金属を他の金属に変える術を持っていたあの錬金術師たちがいたということでございます。・・・・けれども、みながみなわけの分からぬものでございます。・・・・あの先生たちは弟子らに次のような教え方をいたします。まずつまらない金属をさまざまな溶解方法で破壊しておき、次にそれを何とかして元の物質に還す方法、さらにそれらの金属の中にある要らざるものを取りのけ、欠けているものをそこに入れ込み、こうしてそこから貴重なものたる金銀を作りだす、つまり精錬において砕いても溶かしても変わらないものを作り出すという術、これらの方術を授けるのでございます。彼らが実際にそれができるかどうかについては、私は決定いたすことができません。あのようにたくさんな著述家たちが成功すると申して、懸命になって私たちに確信させようとしていますのですから、これは彼らのいうことに信頼を置かざるを得ないということになるように思えるのでございます。しかしです、私たちが読んで知りました範囲でも、誰一人あんな方術によって金持ちになっていないのですし、そしてまた、私たちが自分で実見しましたところでも、至る所あんなにたくさんな錬金術師が過去にいましたし、また現にいまして、彼らの力と根のある限りを昼夜となく使い、山なす金銀を生み出そうとしておるのであります。それなのに、人がそれで金持ちになったということをついぞ見ないのでございますから、結局大いに疑ってよいものだと申せましょう。・・・・彼らの書きました書物、これにはプラトンやアリストテレスその他の名前が載せてありまして、質朴な人たちに対しては麗々しい表題が博学の見せかけの利き目を奏しているようにしてあるのですが、これが第一彼らの空虚さを露呈しているのでございます。なおこのほかに錬金術師の第二のグループがございます。この人たちは、つまらぬ金属の実質を変えたりなぞいたしませんで、それらを金や銀の色でもって着色いたしまして、新しい装いをさせ、本来のものとは違って見えるようにいたします。・・・・これらの錬金術師は人を欺くのですから、もちろん憎まれるだけでなく彼らの詐欺は極刑でもって報いられます。錬金術師の第三のグループも同様に狡猾な詐欺をいたします。この人たちは予め炭のうちに金か銀を忍ばせ、これをるつぼの中に投入します。こうしてあしらいものを混入しますと、それがある新しいものを不思議にもつくり出す力を持っていて、これで雄黄(ヒ鉱石)から金を、あるいはスズもしくはこれに類する金属から銀を、生み出せるのだという具合に見せかけます。・・・・」

パラケルススが錬金術師たちを軽蔑していたようにアグリコラもまた錬金術を詐術と見ていたことは明らかである。今日われわれが錬金術を批判するのは簡単であるが、この序文が書かれたのは正に錬金術が横行していた時代であり、その中にあってこのような論評を大胆に展開する彼の理性にまず驚嘆の念を禁じ得ないものがある。ゲーテもデ・レ・メタリカを愛し、その著“色彩論”の中で、「私たちはなお今日でもその書物の存在を驚嘆をもって見ている。というのは、その著述は、古い鉱山業と新しい鉱山業、そういったものの全体を包含していて、しかもその全体が私たちに一つの美しい贈り物として提供されているからである。アグリコラは1494年に生まれて、1555年に没した。だから、彼は新しく勃興しまもなくその最高の頂点に達し得たあの美術と文学のこの上もなく高く美しかった時代のうちに生きたのだった。」と述べている。その挿し絵である緻密な美しい273枚の木版画とともに、全編に流れる合理性に満ちた、克明な、かつ秩序ある記述が彼の精神に喜びを与えたのであろう。この本は前に挙げた神秘に彩られた「哲学の天国」とは全く異質なもので、二つの著作が同時代のものとは到底思えない。

デ・レ・メタリカは12巻よりなり、次の内容からなっている。1の巻は、鉱山に関する仕事および金属そのものに寄せられるいわれなき中傷に対する堂々たる弁護。2〜4の巻では鉱山業者が採鉱に着手するに当たって必要な知識から始めて、鉱脈の亀裂、継ぎ目、走り方を述べ、鉱抗作業者の役目に及んでいる。5の巻では鉱脈を掘ることおよび測量術、6の巻では鉱業の道具と機械が記され、7の巻以降で精錬のことが述べられている。7の巻では「試金」について,8の巻では鉱石の焙焼、粉砕、選鉱、V(か)焼などの熔融前の作業、9の巻では熔融の技術、10の巻では金から銀の、また金銀から鉛の分離の仕方、11の巻では銀と銅との分離が述べられる。最後の12の巻では鉱山の仕事に必要な薬品類たとえば塩、ソーダ、ミョウバン、瀝青、ガラスなどの製法が示される。その記述は精細を極め、金属精錬の方法にしてもいくつかの異なった方法が見られるときは、そのすべてについて記している。鉱石試験法について書かれた7の巻には、「金属含量を突き止めるための鉱石試験が、鉱石の熔解と異なるところは、ただ用いられる鉱石量が少ないことだけである。」と記され、当時の鉱業で行われていた灰吹き法について基本的なことはこの巻の記述で十分に理解できる。

まず鉱石試験に用いられるいろいろの器具について順を追って詳しく語られる。はじめに三種の試験炉−−鉄炉、煉瓦炉、粘土の炉−−について、続いてふいご、烙室、るつぼにについて説明される。烙室というのは粘土でつくられ、波形瓦を逆さまにした形をしていて、これをるつぼにかぶせ、操作中に炭などがるつぼの中に落ち込むのを防ぐ。るつぼには二種類あり、その一つが金銀鉱の中にどれくらい金銀が含まれているかを調べるのに用いられる。これは壺の形をしており、主な目的は鉱石を鉛その他の種々媒熔剤とともに熔かし、金銀を熔かし込んだ鉛の“かわ”と鉱滓とに分離することにある。現代風にいえば、ケイ酸あるいは軽金属の塩や酸化物を比重の小さい鉱滓に変え、金銀と合金化した鉛から分離するわけである。金銀を含んだ鉛は最後に灰皿にいれて強熱される。これが灰吹き法であるが、アグリコラは各種の灰および灰皿について詳しくつぎのように記述している。 

「灰皿は試験係が自分で作るものであるから、この製造に用いられる材料およびその方法について、2,3述べなければならない。・・・・灰は古ければ古いほどいい。従って骨とくに動物の頭蓋骨を焼いた灰は皿を作るのにもっとも適したものである。その次には鹿の角および魚の背骨の灰がよい。・・・・多くの人びとは混合灰を用いる。混合灰のうちでは骨あるいは魚の背骨の灰が1荷1/2、山毛欅灰が1、皮くずの灰が1/2という配合がいいとされている。・・・・しかし皮くずの灰と、羊と犢の頭蓋骨の灰と、鹿の灰を右と同率に配合したものからは、もっとずっといいものができる。最後にとびきり一等品は鹿の角の灰を粉末にしたものだけを用いて作った皿である。・・・・・」

鉱石試験に先立って、鉱石は洗鉱等の処理をされ、媒熔剤と混じて熔かされる。媒熔剤にはいろいろの種類があり、@媒熔剤自身がきわめて熔けやすいために、鉱石も簡単に熔けるもの A鉱石自身に熱を持たせ、あるいは鉱石中に侵入する作用があるために、火の力を助けて不純物から容易に金属を分離させ、熔けた金属を鉛と混ずるもの B鉱石を火力から保護して、その金属成分が燃焼しあるいは煙とともに炉外に逃げないようにするもの C最後にまた金属を吸収する媒熔剤もある。と書かれ、@について

「最初に挙げた種類に属するものは鉛である。これはまた粒に作った粒鉛あるいは鉛に火を掛けて作った鉛灰として用いられる。その他鉛丹、鉛黄、密陀僧、窯鉛、方鉛鉱、銅がある。銅は焼くかあるいは薄板やヤスリくずにして用いる。さらに金、銀、銅、鉛の鉱滓、ソーダ、その鉱滓、硝石、焼明礬、礬油、加熱塩または熔解塩、炉の中で熔けやすい岩石類、熔けやすい石を精製した砂、柔らかな石灰石およびある種の白色頁岩などがある。最初に挙げたもの、鉛、鉛灰、鉛丹、鉛黄および密陀僧は特に熔けやすい鉱石の媒熔に適し、窯鉛は熔けにくいものに、方鉛鉱はもっとも熔けにくい鉱石の媒熔に適している。」
と記されている。

鉛だけでなくいろいろの鉛の化合物も用いられたことが分かる。操作としては、

「試験炉にまずるつぼを入れて、これを熱した、しかも良質の木炭で包む。・・・・次に火ばさみで焙焼皿をるつぼの下に入れて、皿が早く熱せられるようにるつぼの前部に赤くなった炭を一つ寄せる。焙焼皿に鉛を入れたら、火ばさみで皿を再び引き出す。皿が火力のために熱していたら、長さ2フィート直径1伏せの1本の鉄管で吹いて皿の中に落ち込んだ灰ないし炭屑を除去する。灰皿の場合もこれに灰あるいは炭屑が落ち込んだ場合には、同様の操作が必要である。次に火ばさみで鉛弾を1個投ずる。鉛弾が煙を上げ始める頃を見計らって、媒熔剤を加えた鉱石を紙袋に包んで投ずる。・・・・紙袋が燃え終わったら、小さな炭を火ばさみに挟んでそれで鉱石をかき混ぜ、鉱石が鉛に吸収されて、鉱石内に含まれた金属が鉛と混じ合うようにする。この混合が終わったとき、鉱滓のある部分は鉛を含み、焙焼皿の壁面に付着して一種の黒い輪形になるだろう。ある部分は金および銀を吸収した鉛の面に浮き出るが、これは速やかに取り去らねばいけない。

試験用の鉛は一片の銀でも含んでいてはならない。・・・・さらにまた火力のため鉛が消滅しかけると、金ないし銀の粒はその表面にいろいろな色を現す。そして鉛が残らずなくなると、金銀の粒だけが灰吹き皿に残るのである。」 

銅鉱石ではまず三角るつぼで銅かわとして分離されるが、かわの中に含まれた金銀はその後で鉛を加えて灰吹きされる。先に鉛を加える方法と後で鉛を加える方法の二つはこのように対象とする金属によって選ばれる。金属鉱石の種類によってどちらが適切か、事実に即して批判的検討が事細かに展開されている。その態度は正に現代のわれわれと比べても遜色のないものである。デ・レ・メタリカにおいては灰吹き法の記述をはじめどの巻の記述も事実に即して進められ、近代的な批判精神にみちみちている。中世的な神秘主義、あいまいさのかけらもなく、先の錬金術師の著作と比べるととても同時代の作品とは考えられない明晰さがみなぎっている。

アグリコラもパラケルススも共に自分自身の眼で見、耳で聞いたものから知識を得ようとした。偏見を抱くことなくいろいろの階層の人に接したという点では、むしろパラケルススの方が積極的であったと思われる。しかしパラケルススの関心は医療に重きが置かれ、接した人たちも理髪外科医、浴場主、内科医、女たち、医療をこととする黒魔術師、僧院の修道僧、その他であった。当時の医学の理論、技術はまだ未発達の段階にあり、迷信的要素の濃いものであった。まだガレノス以来の四体液説が信じられており、パラケルススの生涯はこの理論との戦いであった。彼は新しい理論を対置した。その“原理”は独創的ではあったが秘教主義的な四柱説−−哲学・占星術・錬金術・美徳(倫理学)−−の上に建設されようとしていた。このため彼自身が新たな、見方によってはよりいっそう深い迷妄の中に落ち込まざるを得なかったのである。こうして教祖的存在として多くの偽パラケルススを生み出し、彼自身も神秘の人として後生に伝えられるに至った。一方アグリコラの対象であった鉱業は、さまざまな鉱山の、特殊な条件の中で生まれた技術に工夫を凝らし、改良を加える過程を辿った。技術の正否は直ちに鉱山での作業の結果が応えた。アグリコラの記述の明晰さはこの技術の忠実な描写に基本を置いたことにある。先にも述べたようにアグリコラは単に描写に終始しただけでなく、事実に即した比較検討を行っているが、彼の頭脳には隠微な理論や独断的な解釈はなく、デ・レ・メタリカ序文に記されたとおりの錬金術批判が据えられていた。同時代に生きた二人の巨人に見られる驚くべき違いは、個人の能力の違いというよりも、空疎な理論から独立して事実の検証のなかに着実な進歩を重ねていく技術の持つ歩みの確かさと、まだ混迷から脱却できずひたすら古代からの幻影の枠の中で苦闘しつつ、空想を展開せざるを得なかった理論的思考とのギャップが、この中世の二冊の著書に特徴的に現れていると見られるのである。パラケルススも古代の四元素−−火・水・風・土−−に困惑し、三つのコルプス−−硫黄・塩・水銀−−を対置して、これが元素に含まれると考えて四元素説との妥協を謀った。三つのコルプスこそが本質的なものと信じたのだから、古代の四元素説との明確な訣別の一歩手前と見ることができる。この訣別は、若いときのパラケルススの観察に基づこうとする実証的な姿勢に由来するものと思われるのであるが、当時の実験水準ではこれを検討実証するレベルになく、理論的思考だけでは古代からの伝統の枠を脱することができなかったのであろう。当時においては現場は巨大な実験室の機能を果たし、現場の技術の進歩が突きつける現実が、古代に発する形式の枠内で右往左往する理論の空虚さを打破して、近代から現代に通ずる合理性、批判的精神を育てる母胎となり、近代化学の基盤を準備したのである。

ラボアジェ(A.L.Lavoisier)は その著にこう記している。

「われわれが、もともとギリシャ哲学者からとった自然界のすべての物体は三つ、または四つの元素から成り立つという偏見を取ろうとする傾向について、ここで注意を喚起したい。われわれが知るすべての物体を、この四元素がさまざまの割合になって構成しているということは、われわれが実験物理と化学について最初の知見をもつまで、長い間まったく想像の仮説であったのである。われわれは、まだ四元素が事実であることを見ていないし、またそれでシステムをつくってもいない。今日ではいろいろの事実があつめられている。それが仮説と一致しない場合は、仮説を捨てるべきであろう。いくら本当に、人間が“哲学の石”の威力を信じているといっても、それはきたるべき時代には消え去るであろう。」

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