いま考えていること 225(2005年11月)
――「養生訓」を読んで――

貝原益軒は寛永七年(1630)、福岡に生まれました。黒田藩に仕えましたが藩主の怒りにふれ、数年間の浪人生活を余儀なくされ、この間に、「民生日用の学」を志すようになりました。その後、京都で本草学や朱子学を学び、藩に戻ってからは藩主や藩士に儒書を講義していますが、この経歴からも明らかなように医師ではありません。敢えていうならば偉大な教養人でしょう。「養生訓」が有名ですが他にも著書がいろいろあります。ちかごろこの養生訓を読みましたので、思うところを記します。

八巻からなりますが、巻一と巻二が総論、以下飲食のことから始まって最後は鍼灸に至る各論が述べられています。「養生」という立場で見ますと益軒が述べたかったのは「内慾と外邪」から身を守ることにあります。「内慾とは飲食の慾、好色の慾、睡の慾、言語をほしゐままにするの慾と、喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の七情の慾を云。外邪とは天の四気なり。風・寒・暑・湿を云。内慾をこらゑて、すくなくし、外邪をおそれてふせぐ、是を以(て)、元気をそこなはず、病なくして天年を永くたもつべし。」という言葉に尽きるのです。ことに「内慾」を忍ぶことが大切で、全て欲は控えめにせよということです。

それでも病気になったっらどうするか、ここにも耳を傾けなければならないことが書かれています。「劉仲達(りゅうちゅうたつ)が鴻書(こうしょ)に、疾(やまい)あつて、もし名医なくば薬をのまず、只病のいゆるを、しづかにまつべし。身を愛し過し、医の良否をゑらばずして、みだりに早く、薬を用る事なかれ。古人、病あれども治せざるは中医を得ると云、此言、至論也といへり。庸医の薬は、病に応ずる事はすくなく、応ぜざる事多し。薬は皆、偏性(へんしょう)ある物なれば、其病に応ぜざれば、必(ず)毒となる。此故に、一切の病に、みだりに薬を服すべからず。病の災(わざわい)より薬の災多し。薬を用ずして、養生を慎みてよくせば、薬の害なくして癒(いえ)やすかるべし」 というのがこれで、医者を選ぶことの大切さと、薬、といっても漢方ですが、の持つ副作用の恐ろしさを説き、むやみに薬は呑むなといっているのです。私達の間では漢方は古くから使われているのだから副作用はそれほどでもないという迷信が聴かれるのですが、益軒は当時用いられていた漢方の薬にもその使用を誤ると大変だと警告しています。以下の文章も基本的には今なお聴くべきものがあるように思います。ここでも病気になってからの薬よりも元気な内に「欲」を謹んで養生せよといっています。「丘処機(きゅうしょき)が、衛生の道ありて長生の薬なし、といへるは、養生の道はあれど、むまれ付かざるいのちを、長くする薬はなし。養生は、只むまれ付(き)たる天年をたもつ道なり。古(いにしえ)の人も術者にたぶらかされて、長生の薬とて用ひし人、多かりしかど、其しるしなく、かへつて薬毒にそこなはれし人あり。是長生の薬なき也。久しく苦労して、長生の薬とて用ゆれども益なし。信ずべからず。内慾を節にし、外邪をふせぎ、起居をつゝしみ、動静を時にせば、生れ付(き)たる天年をたもつべし。是養生の道あるなり。丘処機が説は、千古の迷(まよい)をやぶれり。此説信ずべし。凡(そ)うたがふべきをうたがひ、信ずべきを信ずるは迷をとく道なり。」 益軒はよく勉強していましたから、至る所に中国の偉人たちの言葉が引用されています。それらの言葉にも常に批判的な態度で接しようという合理性を説いているのです。

政府の財政の行き詰まりから、これから益々医療の制約が大きくなることと思われます。社会の高齢化が進みますが、医療制度はその進展に野放しに沿うことはできず、老人の負担も現役並に三割負担になりそうです。「養生訓」には病気になってからの注意も記されていますが、医学のよって立つ基盤とレベルが全く異なっていますから、「養生訓」から学べることは少ないと思います。問題は病気にならずに天命を全うするには、日常どういうことを心がけなければならないか、そういう各自の覚悟が記されているところに現代もなお意味深いものがあります。「養生訓」を読んで私達も益軒に倣って病気になったときの医療保険の効用を考える前に健康を保持することを考え、各自自分の「養生訓」を考えて見たいと思いました。益軒の説く[欲は控えめに][心は平静に]という教えの根本は現在も大切な姿勢だと思われます。

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いま考えていること  226(2005年11月)
――帰ってきたQちゃん――

正直なところ高橋尚子さんが小出監督から独立したとき、これでQちゃんも終わりだ,引くべき時を逸した。人生引け際が大事なのに。と思ったのです。それから2年、昨日の東京マラソンのQちゃんはどこか余裕の感じられる走りっぷりで、ずっと3位を保って静かに走っていました。最後の坂に差し掛かるすこし手前でペースを挙げたかと思うとそれからは独走態勢でグランドに走り込みました。この2年間の雌伏ののち小出監督から独立して、この六月からチームQを作ったQちゃんはチームメンバーと共にアメリカの空気の薄い高地で懸命な独自の努力をしていました。小出監督始め周りの人々に対する感謝の気持ちを語り、「暗闇に入っても夢を持つことで、一日一日が充実する。皆さんにもそのことを感じてほしい」、これが走り終えたQちゃんの声です。説教じみかねない内容ですが彼女自身が体験し、実践してきた裏付けを持っていましたからこの声は素直に聞けました。彼女も33才。体にもいろいろなところに故障があり、今度のレースでも右足の肉離れをテーピングでカバーしての出場でしたが、見事な走りでした。35.7キロからのスパート!、マラソンも頭脳のスポーツだということを如実に示していました。精神的にも肉体的にも降り止まなかった苦難の日々であったと思うのですが、それを乗り越えた強靱な精神力に心から敬意を捧げます。北京オリンピックまでの日々、彼女だと栄光を手にするかも知れません。

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いま考えていること 227(2005年11月)
――第九条第二項――

今、NHKでは自民党の憲法案に付いての討論が放送・放映されています。第九条第二項について自民党の桝添氏は現在の自衛隊は軍隊ではないのか、その現状を成文化したものだと主張しています。私も科学者の一人として憲法は現実に機能する法律でありますから、現状と食い違ってきた場合その矛盾は正しく補正しなければならないとは思っているのです。だがしかし・・・

私の思考の原則が目覚めるのです。「一つのものごとがどういう環境の下で行われようとしているのかフィールドの吟味こそが大事だ」と。

憲法改訂でいちばん喜ぶのはアメリカであり、現在のサマワへのイラク出兵でも イギリスやオーストラリアの軍事的保護のもとで日本の自衛隊活動は人道的援助の段階で止まっていて軍事的対応はできず、ましてアメリカ主導のイラク出兵に軍事の面では参加できないのは明らかに現在の戦力放棄の第二項が作用しているからでしょう。米第一軍団司令部が日本に進出し、日本そのものがアメリカの一部になりかねない現状では、自衛隊と軍隊の矛盾を孕んでいる現第二項の文章の上での整合性を問題とするよりも、嘗て、アジアの諸国に戦争で多大の迷惑を掛けてきた我々の心からの反省として戦争を放棄しようとした精神を守るために、死に体でなく現に大きな力を発揮している第九条第二項の放棄改訂をする必要はもっとアメリカとの関係がすっきりしてからでも遅くないと思うのです、時期尚早です。現在の日米関係のもとで憲法特に第九条第二項を替える必要は聊かも感じません。現在替えて喜ぶのはアメリカですから。、

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いま考えていること 228(2005年11月)
――Stick to your bush――

この間も朝のラジオでニートのことが話されていました。現にニートに接しておられる方のようでしたが、ニートの若者を仕事に就かせる助言として「仕事にも楽しいこともある」と言うことで解決を図られているようでした。私はすこし頭をかしげたくなりました。なぜなら私が大学を出た昭和28年もたいへんな就職難の年でした。私などはどうしても食べなければなりませんし、父や弟を食べさせなければなりませんでしたから、まず「食べるため、生きていくため」に就職を必死の思いで探したものです。何か楽しみがあるからではなかったのです。

このところ建築設計の杜撰さが地震に対する崩壊を予想させ、マンションを放棄せざるを得なくなった問題が発生し、「建築基準法に則って設計されているのだから初めから疑わなかった」検査機関の出現に、検査が民間に渡ったのが間違っていたのかと思ったら、平塚市や渋川市などの6公的検査機関の審査でも同様の形式的な実質的無審査が発覚しています。姉歯建築士の設計も言語道断と言うべきでしょう。
かと思ったら無資格の人に交通事故の示談をさせて自らも現金収入をふところにしていたあきれた西村弁護士の話しも公になりました。民主党の代議士で、政治資金を得る手段にしていた模様です。

この二例に見られるのはいずれも当然守るべきことを守っていたら起こらなかった ものです。先頃のJR西日本の事故も、その他の事故も同様の原因からのものが多すぎますが、私の中学時代の英語教科書に「Stick to your bush」という一節がありました。詳しい内容は忘れているのですが、この表題は頭に焼き付いており、自分の使命を大切にせよということであったように思います。ニートの皆さんにもお話ししたいのは、人間は働かなければ食えないし、いったんある仕事に就いたらそれを使命と思って、その時の好き嫌いの感情を抑えてでも、一生自分を捧げる覚悟を持って、当たってほしいということです。その仕事を一生懸命していると自分の意志とは独立して、世の中の人が自分にもっと適しているという仕事を与えて下さることも多いのです。振り返れば昭和25年から今日に至る55年間私は全て与えられて生きてきたのです。与えられたものにはその時々に使命感を持って当たってきました。

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いま考えていること 229(2005年12月)
――クロヨン・トウゴウサン――

今朝のNHK第一・ビジネス展望は鈴田 敦之氏でした。私の思考の盲点がつかれていましたので、ここで取り上げます。クロヨン・トウゴウサンというのは近頃はほとんど聞かれなくなりましたが、サラリーマン・自営業者・農家所得の捕捉率を揶揄していわれたのです。この問題はいつの間にかほとんど聞かれなくなりましたが、久しぶりで聞きました。鈴田氏の論点はこの捕捉率を放置して、何の税制改革・医療改革ぞやというにありました。

三位一体の改革で所得税3兆円が地方に移りますと国税よりも地方税の方が課税最低限が低く、これまで国税では課税されていなかった人にも課税されるようになる指摘でした。医療改革で70才〜74才の高齢者の自己負担が1割から2割に引き上げられ更に高所得者は3割に引き上げられるようです。問題はこの「更に高所得者」という場合その線は所得によるのですが、所得の捕捉が公平でなければいろいろな制度そのものの妥当性が問われるという指摘でした。聞いてみるとなるほどと思いました。所得の捕捉率は税金だけでなく他のいろいろな面にも影響することを私は忘れていたのです。

反対の強い消費税の引き上げですが、税の公平さという点では消費税は公平です。でも低所得者への負担の重さは否定できません。どのような制度でも長所短所は見られるのですが、納税者番号制度もプライバシーの上で反対が多いのです。もうすでにいろいろな面で個人の番号化は進んでいるのが実情ですから、私は納税者番号導入反対は仮名預金口座の摘発反対のための「錦の御旗」に過ぎないと思っています。納税者番号導入が少しでも所得の捕捉にプラスの側面を持つなら導入賛成です。

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いま考えていること 230(2005年12月)
――世界の潮流の変化――

冷泉彰彦氏は「ある季節の終わり」というレポートの中でアメリカ映画の質の変化などを論じながらアメリカの人々の911以来の熱狂的な空気が変わってきたことを指摘されています。今朝のNHKラジオ第一放送ニュースアップの早稲田大学政治経済学部の坪井善明(つぼいよしはる)教授の「ブッシュ演説に見える今後」でもブッシュ大統領の最近の変化、例えばイラクに大量破壊兵器はなく情報網の誤りで開戦したことを率直に認めたり、取り調べに於いて冒した盗聴 も認めるなどの変化が論じられていましたが、これはアメリカ国内の世論がブッシュ流のテロの脅威というスローガンから次第に冷静に考える目を回復し始めたことの表れなのでしょう。見かけの上ではブッシュは強気の姿勢を変えてはいませんが、蕩々たる時の流れは抗すべきもなく、突如病魔に倒れたイスラエルのシャロン首相の姿勢にも変化が窺えます。

大胆に来年を予測しますと、イラクは石油利権が、あるいは、宗教上の各派の対立、民族的なクルド人の分裂の形でより深刻化していくでしょうが、アメリカの姿勢には大きな変化、結局は撤兵の形で終わるのかも知れません。アメリカ国内の空気の変化は無視できない意味を持つのではないでしょうか。

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いま考えていること 231(2006年01月)
――年頭雑感――

お屠蘇気分で浮かんでくることを気ままに書いてみます。

◆昨年末に建築設計の偽装が大きい問題になりました。よもやと思っているようなことが現実に起こっているのですから、人間の良心などというものも信じられない状態です。「勝ち組」「負け組」ということもいわれるようになりました。資本主義の欠点を改める社会主義の理念もおそらく将来改めて大きく現実のものとなるのでしょうが、社会主義の前提になっているのは『人間というのは働くことに喜びを基本的に感じ、怠けるなどということはない』『指導的立場にあるものは人々の幸福を目指し、私利私欲で動くものではない』などが想定されていると思うのです。現実にはその様な神様のような人ばかりでなく自己の権力欲を充たすための行動を伴い、自分に反対する考えを持つものには粛清の行動で望んできたことはこれまでの歴史を繙けば容易に見いだされるところです。権力のおこぼれに与ろうとナチス党員になっていった若者も大勢見られたものです。思えばこれらの前提に基づくところに誤りがあります。人間は神様でもなければ悪魔でもなく、正に善悪を心情の奥に兼有する「人間」であることを前提にしないと、妙に理想主義や絶望に走るのではないでしょうか。「勝ち組」という言葉には『不平等」をなじる言葉の調子も感じられるのですが、この「不平等」も人間社会には昔から存在してきたので平等を『善』とする妄想がないでしょうか。大学だってそれぞれに特長はありますが、教育内容は同じでなく、誰もがその大学に入りたいと思っても「不平等」にそれぞれの能力に応じた大学に進まざるを得ないのです。
国に強大な権力を持たせ、その統制力の下に保障される平等は、嘗ての戦争中のように「一億総動員」の枠内でしか自由な言論も、生存さえも許さない世の中でした。日本もこれから国民の間で格差が大きくなっていくでしょうが、自由な生き方からは格差が生まれます。問題はすべての人が努力すればそれぞれの生き方を獲得できるような社会の柔軟性、階層間の移動の可能性が社会的にも経済的にも与えられていて、いつでも努力次第で移動できることの方が重要だと思います。ただ格差社会はひずみを進ませ、社会全体を不安定にする結果が生まれますから、政治の大事な点は本当に生活に困っている階層には医療・奨学金を始め手厚い保護を忘れてはならないことです。

◆2050年には日本の人口の4割が老人になり、老人の6割は女性と推定されているようです。60年前に家族制度が廃止されて、親のために子供が身売りするようなことはほぼ無くなりました。また財産の大半を長男に譲りその代わり将来長男始め子供たちに食べさせてもらおうと子供を多産することも無くなり、少子社会が到来しました。50年前年金制度が一般化され、その当時これからは老後の生活は保障されて心配はないという気分が社会には充ち満ちていました。それがどうでしょう。今日の失望に満ちた年金改革を迎えているのです。考えれば考えるほど最早十分な年金制度を立案することは人口構成の上から無理です。完全に消滅することは無いでしょうが、年金制度に全てを託することはできないのが現状です。かといって昔の家族制度に戻ることもあり得ません。いつの時代も全ては変化していき、その変化の中でどうするべきかの対策を柔軟に考えていかなくてはなりません。判断は自分に掛かっています。勿論友だちや先輩、先生の意見を求め、論述を参考にすることは大事ですが、帰する所、自分の判断になります。国も頼れず子供も頼れず100万円の預金の年利が10円というこの時代、年金を補うものとして成長性のある会社の株式投資に目を向け、会社の成長と歩調を合わせていくことも必要なのかも知れません。

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いま考えていること 232(2006年01月)
――つむじ曲がりの弁――

どうも私は生まれついてのつむじ曲がりらしいのです。今年は小泉後継者がクローズアップされますし、我が京都でも知事選挙が行われます

◆。最近の新聞もテレビもポスト小泉には安倍だと人々に思い込ませるような作戦があまりにも露骨で、これは用心しないではおれません。安倍さんの政治的手腕は私には未知数で、彼独自の何らかの政治的見解もはっきり聞いたこともありません。どうやら彼も靖国神社賛成だなというくらいのものです。小泉さんの「我」で靖国参拝に固執するのは自由ですが、一国の総理としてアジア外交から我が国を孤立させていることは嘆きてもあまりある現実です。個人の心情よりも政治家として何を為すべきかが理解できない総理というのも困ったものです。次期総理にはこの混迷を打破してほしいのですが、おそらく安倍さんではこの混迷を持続することになるのでしょう。マスコミを動員した安倍キャンぺ−んはなぜ安倍を推すのか理由もつけておりませんから、巨大な広告機構−マスコミ−の目的を持った動きは国民を欺くものとしか思えないのです。誰がこの動きの黒幕なのでしょう?

◆知事選についても、腑に落ちないことを感じます。早くも現知事の再選に備えて対抗馬が推されていますが、この方の経歴からは行政の手腕を窺うデータはありません。やはり知事というのは地方行政の長として一定の行政手腕・個人としての見識を立証するものがほしいのです。でないと取り巻き連中の判断が先行することになりましょう。それでは、困ると思うのです。もっとも選挙に当たっては、現知事の仕事が人々の満幅の信頼を得ているのでないことを数の形で表現するために反対派に一票を投ずるつもりですが、立候補者は推薦団体の政策ではなく、はっきりした自分の見識を訴えてほしいと思います。推薦している人たちも立候補者独自の見解を裏付け立証するデータを提示してほしいものです。やはり私は素直でないつむじ曲がりのようです。

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いま考えていること 233(2006年06月)
――少子の問題――

借家改築の問題で疲れてしまい、約半年この欄に書き付ける気力もなくなっていましたが、少しばかり元気も出てきたので久しぶりに筆を執ることにします。

2000		1.36         2005年の合計特殊出生率は1.25になりました。現行の年金制度の維持の前提として1 .39が予想されていますから
2001		1.33         これは大変なことで各方面で論議が活発です。

2002 1.32 世界の国々の中にはスウエーデン、デンマーク、フランスのように「子供を3人9年間養育した場合には年金を加算する」等で 2003    1.29     政策的に出生率の回復に成功しているいる国もありますが、日本では低下の一途をたどっています。 2004 1.29 2005 1.25

               
確かに人口の減少は国力の衰退をもたらすでしょうが、静かに考えてみると現在のこの合計特殊出生率1.25という数字は多額の国債残高を持つ我が国にふさわしい数字なのかもしれません。言い換えればこの数字がもっとも日本の現状を集約的に反映した数字ともみられます。限りある国土を考えると、いつも人口増大を前提にすることは無理でしょう。江戸時代を通じて人口は3000万であったことを思うと今の1億2000万の人口もこの国土には多すぎるともみられます。

私は人口が減少したらしたでそれなりの絵は描けるものだという考えがあります。私たちも子孫のために計画的でなければなりませんが、私の若いとき日本が軍国主義に決別して民主主義の国になると考えていた人がいたとしてもそれはごく一部の人でした。敗戦・占領を前提に将来を考えていた人などまず皆無だったでしょう。忽然と転換しすべてを失っても当時の人々はそれなりに新しい夢の中で努力して新しい日本を作り上げてきたのです。未来の人々は縮小した日本でそれなりに生きるための絵を描いていくことでしょう。その点私は楽観的なのです。年金問題でも現状の延長の上で考えると悲観的になるのですが、まず国の赤字の解消に努め、国債の利息に現在のように多額を使うことをなくし、全国民に一律に年金を一定額給付し、厚生年金や国民年金に自発的に保険料を支払った人にはそれに応じた年金を上乗せ給付するようにすればよいと思うのです。小国には小国の良さが生まれてくると思います。国の事情が変わればそれに応じていつの日にか人口増加も自然にみられるようになるでしょう。

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