いま考えていること 44(2000年04月)
――変革の道――
小渕さんが病気で倒れ、森さんが総理になりました。所信表明演説からは特に新味は感じられませんでした。自由党の代わりに保守党が連立の一つとして加わりましたが、これも連立を掲げるのみで政党としての理念・具体的綱領は見えないのです。党首の扇千景さんは連立を離脱した小沢さんの政策を褒め、それを継承するといわんばかりなのも納得できません。そんなに小沢さんが優秀なのなら、なぜ扇さんは小沢さんと袂を分かつことが必要だったのでしょう。
政治の先行きは一向に見えない中で、この四月からいよいよ会計基準の変更が始まりました。この変革は政治の主導権が自民党から他の政党に移ったときに現れるであろう変革よりもすさまじいものだと思います。次世紀はインターネットをはじめとする情報革命による大きな変革の波のうちに幕を開けるでしょう。変革の主体は政治ではなくて、どういう道具や制度が社会に持ち込まれるかによるのです。政治はそこで起こってくる変革をどう処理するかが問われるのです。社会の根底で進んでいく技術や制度の変革と今までの現実とのギャップを埋められない政治はきっと人々に受け入れられないでしょう。
21世紀を目前にして、会計基準の変更はまづ連結決算採用の結果、今までのように債務を子会社に振って黒字経営をしているように見せかける道を封じます。子会社の定義も出資比率の問題ではなくなります。役員の派遣や取引関係も洗われた結果として子会社と位置づけられます。地方自治体参加の、赤字に悩む多くの第三セクターも改革を迫られながら、これまで政治屋の関与で息を保ってきましたが、こういう変革の結果、改革せざるを得なくなりましょう。これが私のいう「変革の主体は政治ではなくて、どういう道具や制度が社会に持ち込まれるかによるのです」ということの例です。また、今までは株式や土地は購入したときの原価で記載すればよかったのですが、これからは決算期ごとに時価で記載しなければなりません。決算ごとにこの時価が大きく意味を持ち、経常収支で黒字であっても最終的には赤字で配当も出来ないということも出てくるでしょう。不要な株式や土地の放出がますます進行するでしょう。もう一つは退職金や企業年金の原資が全従業員について確保されているかどうかを公表しなくてはならず、現在の低金利では原資の確保が出来ないところも多いでしょうから大変です。日本の社会も終身雇用制で多くの人を雇用する形態から離脱せざるを得なくなります。従業員は正社員でない人の割合が増えていくでしょう。失業者の概念も大きく変わらざるを得ないでしょう。なぜなら今までの統計では定年まで勤められる正規の従業員以外を失業者と見ていましたから、フリーターなども失業者扱いされているのでしょうが、これからはその組織が必要とする人材をその時期に限って雇用し、必要がなくなれば雇用関係を終結するという形態も一般的になっていくでしょう。簡単にいえば野球の選手の雇用と似たものになるだろうと思うのです。
自分は何が出来るかということ、またそういうものを持つことが大事な時代となるでしょう。若い人にとっては大変ですが、一面やりがいのある21世紀を迎えるのです。賃金も年齢による一律支給の形の崩壊を迎えます。戦後まだソ連が健在であった頃は国民が社会主義にあこがれ、共産党支持へ動くのをおそれた資本主義諸国は競って自国の社会制度に社会主義的制度の導入を計ったものですが、今や社会主義は凋落しましたから、一時的にもせよ、いわば遠慮なく純粋な資本主義への復帰を意図していくのでしょう。
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貯蓄に戻る方は
いま考えていること 45(2000年04月;04月;07月改訂)
――看護ミス――
このところ病院での看護ミスが続いています。その原因として看護スタッフの数が十分でなく、ミスが多くなったのだということを否定する気はありません。金沢大学病院を始めいろいろな病院で事故を防ぐために、薬剤の種類ごとに容器を区別するとか、薬剤瓶を色で判別できるようにするとか試みがあります。しかし容器の種類が増えたり薬瓶の色を変えると言っても多くなり過ぎますと、かえって混乱を生みかねません。所詮は対症療法の域を出ません。私はもっと根深い原因があるように思えるのです。この4月から介護保険がスタートしましたが、かっての看護婦の仕事の内容はどちらかといえば介護に近かったと思います。最近では医療が高度化して理科の研究でぶつかるような器具の操作や薬品の使用がずいぶん増えているように思えます。化学の研究で必要な器具の操作はかなりの訓練と細心の神経の集中を必要とします。これは本をいくら読んでも身に付くものでなく、長期にわたる職人的な修練が要請されます。試薬類の持つ恐さも実際に自分が薬品を扱う中で育って行きます。最近の事故で見られた水とエタノールの取り違いなどはここで指摘している訓練ミスの結果としかいいようがありません。
私は女子大学の食物学科で長く基礎教育を担当していましたが、栄養士課程の内容が10年以上も前に改訂され、化学や生物の基礎的訓練を取り扱うことが乏しくなって、栄養士としての実務にすぐに役立つような、上っ面をかすめるような、内容に重きが置かれるようになっています。看護婦養成課程の内容は知りませんから、あるいは的はずれな議論を今しているのかもしれませんが、最近の基礎的な訓練内容軽視の風潮からすると、看護婦さんたちが科学器具や薬品の慎重な取り扱いをするような実験がカリキュラムに見られないのではないかと思っています。長期にわたる実験訓練を通じて、器具や薬品の慎重な取り扱い態度が養成されるのですが、学習課程でこの種の訓練の不足が、ただいまの各地に見られる看護ミスに連なっているのではないかというのが、わたしの見解です。おそらくいくら病院で責任者が深々と頭を下げてその過失について「今後は十分注意をして繰り返しません」といっても、教育訓練課程の欠落が原因だとすると、また再び同様なミスが起こるのを避けられません。看護教育カリキュラムを根本的に改めることが必要なのです。特に男子以上に女子には徹底したこの基礎訓練が、本来の女性の資質面(なぜ板場さんに女子はほとんど見られないのでしょう?)からも要るように思っています。
私は医師とも同僚としておつきあいしましたが、医師の化学知識も怪しいものです。旧制高校で施されていた化学教育のレベルも現在の医師には無いように思えます。家内も入院中はMRSAの兆候が見られましたが、退院して家で療養するようになって急速にその兆候は消えていきました。また、尿道カテーテルの使用中は尿が濁って、よく生理食塩水での膀胱洗浄が必要になり、また発熱が見られましたが、医師に申し出て尿道カテーテルの使用を止め、オムツの交換で看護してから発熱もなく、尿の濁りもなくなりました。病気になったから直ぐに医師や病院に任せるのは危険です。入院したために院内感染で死ぬことも多く見られるようになってきました。医師や病院の過信は危険で、病気になれば病院にすべてお任せするのは危険です。医師にも看護婦さんにも高度になった医療のレベルに対応するだけの基礎知識が残念ながら欠けており、進歩に応ずる勉学が不足しているからです。すべての医師がそうだとはいいませんが、医術が算術に化し、医師の生業の手段にあまりにも現在は堕していることが多すぎます。
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いま考えていること 46(2000年05月;2001年05月)
――勘――
知人などで「もっとコンピューターも安くなるだろうからそれから買って・・・」という人もいますが、私の感じではコンピューターに限らず万事、勘が働くようにならないと使い物にならないのです。コンピューターでも勘が働くまでには3年はかかるでしょう。昔の人はすべて体で覚えよと言ったものですが、それはやはり真理だと思います。思わず行き詰まることがどんなことをしていてもあるものです。そのとき解決策がひらめかないとお手上げです。ひらめいたことが必ずしも正しいとは申しませんが、まずひらめくことが策のはじめです。後はそのひらめきを手がかりとして、しかも囚われないで柔軟に策を展開していけばおそらく目的が果たせると思います。このひらめきが“勘”です。
“勘”が働くようになるにはどうすればよいか。私はまず時間をかけ体ごと今やっている例えばコンピューターにのめり込むこと、もう一つは、一見無関係と思われるようなことにも興味を持って、入っていくことです。人間何によらず、やったことはどこかで生きてくるものです。無関係と思ったことでも自分の体の中で静かに発酵熟成し、当面している難問の解決策を組み立てる助けを無意識の世界から送ってくれます。これがこれまで永年にわたりメインにやってきたことから体内に自然に澱りつもったものと一体化して“勘”と呼ばれるものになるのです。
海外にインターネットショッピングして大丈夫ですかという質問も受けますが、この場合も、必要なのは“勘“です。その会社のホームページの作り方や注文の仕方、気に入らない場合の返品の仕方、それからクレジットカードでの注文書がhttp://ではなくてhttps://で始まるURLを使っているかなどを総合的に見ますと自然に“勘”が働きます。私の経験ではこれまで取り引きした海外の店は、いずれも驚くほど対応が良く、間違いなく品物が届いています。ただ一度私が先方から送ってきた確認書(order confirmation)をしっかり確かめなかったので、送り先がJapanでなくJordanになってしまっていたのに気付かず先方にも迷惑を掛けてしまったことがあります。
インターネットで國の内外を問わず有用な豊富な情報は居ながらにして得ることができます。大事でかつ必要なのは、その情報をどう判断し、どう活かすかの人間としての判断能力です。これが“勘”です。 |
いま考えていること 47(2000年06月)
――独創の大道――
2000年5月29日23時からのETV2000「“独創”は@こうして生まれた青色発光ダイオード発明の秘密」は見応えのある番組でした。主人公は中村修二氏で徳島の日亜化学でこの仕事をされたのですが、独創の道は昔となにも変わっていないのだなあという印象を改めて受けました。
優れた研究は最新の高価な設備がないと出来ないと思っている若い人も多いのですが、西堀栄三郎さんの「南極越冬記」に地表からの高度ごとの積雪量を量る話が出てきますが、なにもかも乏しかった当時、西堀さんはタバコの“PEACE"の空き缶を高さを変えて棒に取り付け一定時間後に缶中の雪の目方を量って推定されます。昔は着想するとその装置はまず手作りし、一応測定してさらに精度が必要ならそれに応じて改良を重ね、金をかけるのが普通でした。今は大学などでも研究成果、しかも論文の数を重視するものですから、化学をやる人も今は試薬の手に入りやすいもので済ます傾向がありますが、我々の時代は売っていなければ必要な薬品は自分で合成するのが当たり前でした。この一見迂遠なように見える過程の中で学ぶことも随分ありました。中村修二さんは79年に徳島大学大学院を終了されてから20年一人でこの仕事に没頭されてきました。番組を見ていて社長は中村氏を理解しておられたのだなという印象ですが、研究の環境は恵まれないものでした。その中での苦心がすべて中村氏の不屈の精神を刺激し、未踏峰の山を登るような結果を招かれたのでした。ダイオード原料合成のために石英管が必要でしたが、新しいものは高価で買ってもらえず古い石英管を自分で溶接して長い管にされました。後日この経験が独創的な装置作りに活かされることになったのです。また世界中がセレン化亜鉛を使って青色ダイオードを作ろうとしていたときに窒化ガリウムを使う少数派として会社の中でも孤立した形で研究を進められました。「一人でやっていたから窒化ガリウムがやれた。グループでやっていたら相談の結果セレン化亜鉛に移ってしまわなければならなかっただろう。」とも言っておられました。流行に乗ったマネからは独創は生まれないのです。現在は青色のダイオードやレーザーは中村さんの結果をもとに世界中が追いかけているのですが、マネが出来ないのです。私の経験でも、論文は言葉で表現して書かれますから隠すというのでなくてもノウハウのすべてを伝えることは出来ないのです。中村さんの開拓された方法を論文だけから知ることは出来ないのです。
中村さんは昨年末、日亜化学を退社され、この2月カリフォルニア大学サンタバーバラ校工学部教授として渡米されました。アメリカからは15の大学企業から誘いがありましたが、日本ではどこからも誘いはなかったようです。アメリカは国としては嫌いな国ですが、アメリカの懐の深さと本当にすばらしい物・人はその人の出身校や経歴とは無関係に評価し、待遇する風土は健在で、尊敬します。
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いま考えていること 48(2000年07月)
――あたまは柔軟でなくちゃ――
私のインターネット史上今年最大の出来事は音の処理に成功したことでしょう。1998年2月に「三高私説」を上梓し、それ以来どなたにも三高歌集を音として楽しんでいただけているものと思っていました。この5月14日秋田県能代の岳志塾NAOと言う方から「聴けないぞ、本当に載せているのか」とご注意頂いたのです。実は以前にもご注意くださった方はあったのです。そのときはもう一度こういう点に注意して試みてくださいと、丸で相手の方が悪いようにご返事したのですが、そのまま反論が参りませんでした。今度は違いました。根気強く反論し試みてくださってまだ駄目、聴けないと言ってくださったのです。私もいろいろ試みること数度それでもNAOさんからはOKをいただけなかったのです。RealProducerで作ったファイルの中に次のような記述があります。
Alterations to this section or any file references
listed below or contained in the associated RAM or RPM metafiles may cause
errors when publishing your web page to a remote server. These values should
not be altered.
それでもう一つの必要ファイルRPMは変えてはいけないものだと信じ込んでしまったのです。NAOさんとのやりとりの最後に「今度は思い切った修正をします。これで駄目ならしばらく休みます。」と送り、このRPMファイルを手直ししたのです。NAOさんから折り返し「聴けました」とメールを頂いたときは本当に嬉しかったです。
このことから改めてどのようなときも自分の頭で考え、そのときの状況に応じて”頭を柔らかくして対応すること”の大切さを再認識しました。その後私のソース原稿はNetscapeで検討しながら作っているのですが、Internet Explorerで開くと音がうまく出ない部分があることを知らせてくださった方がありました。以前の私ですと「それはあなたのやり方がまずいのか、あなたのパソコンが駄目なのです」と言っていたでしょうが、NAOさんとのやりとりを経験したので、声に謙虚に耳を傾け修正しました。どうしてもInternet Explorerで見ていただくときに解決できない点はありますが、“聴く”と言う点では今は満足していただけると思います。音の質にはサーバーコンピューターの能力も絡んでくるようです。ここでは他人の批評に耳を傾け冷静に分析対応して、初めて自分も満足のいく結果が得られたのです。批評・批判の貴重さをこの年になって改めて学ばせていただいたのです。
いま考えていること 49(2000年07月)
――宗教家というのは――
私は昭和30年代の大半を同志社高校の教員として過ごしました。入学式には理事長と総長がお出でになりました。当時の理事長は同志社出身で、横浜でかっては実業に携わっておられた秦 孝治郎氏。総長は大塚節治先生、後には住谷悦治先生でした。印象に残っているのは私学のことですから当然経営をなおざりに出来ず、生徒の父母に協力を要請しなければならないのです。理事長は同志社の理念など教育的問題には全く触れられることなく、具体的な経営上の数値をあげながら、詳しくなぜ協力を願わなくてはならないかを説明されました。一方、総長は経営上の問題にはいっさい触れられることなく、もっぱら新島先生以来の同志社教育の本質を説かれました。後年私は某女子大学へ転じましたが、経営首脳のこのような明瞭な分担は見られませんでした。総長と理事長、当然役割が違うはずです。
昨日、律宗の管長が宗務長益田快範師に替わったことが報ぜられました。少なくともテレビで拝聴した限りでは、益田師の第一声は「貴重な文化財を守ること」「(唐招提寺)金堂の再建に取り組むこと」の2点でした。一言も律宗の管長としての宗教的抱負は聴かれませんでした。つまり宗務長の仕事から一歩も出ていなかったのです。管長からは、仏教者として、また宗派としてこの社会に何を貢献するかの抱負を聴かせて欲しかったのです。このあたりに現代日本の宗教の堕落を見ることが出来ます。
いま考えていること 50(2000年07月)
――ディジタル デバイド――
今度のサミットでもIT革命が主要議題の一つになるようですね。IT革命の進行に伴って
国内についても国際的にもディジタル デバイドという言葉が登場するようになりました。これはコンピューターを使える人とそうでない人との間に、情報面での格差が出来てきて引いては所得や取引面でも利益を受ける人とそうでない人が出来ると言うのです。
これは確かに無視できない問題で、言葉の響きには悲観的なものがあります。しかし視点を変えればディジタルつまりITをマスターすれば誰にでも最新の情報とその実りを手に入れるチャンスがあると言うことです。遅れた国の人々もこの技術を身につければ、最先端の実りを居ながらにして、どこででも手に入れられると言うことです。世界にはまだまだ識字の出来ない人が大勢いることはコンピューターを学び、利用する上で障害になりますが、我が国でも長い鎖国の眠りから覚めて、後進国から急速に世界の進歩に追いついて行けたのは明治以前、以後に亘る人々の進歩への渇望とそれに応える熱心な教育普及の賜物でした。コンピューター技術はそれほど難しいものではありません。数年前に比べると技術もすばらしく進歩して、嘗てはインターネットに接続するだけでも苦労したのが嘘のような今日です。すばらしいソフトも日夜新しく開発され、今ではその選択に苦労するくらいになっています。英語の力と言う点では我が国の学生よりも海外の後進国と言われる国々の学生の方が優れているのでは無いでしょうか。インターネットの使用に英語は現在不可欠ですが、我々が未開発国と思っている国々の人々の方がこの点では優っているのではないでしょうか。コンピューターは丁寧に教育すれば、また学習すれば誰もが使えるものです。インターネットを利用すれば膨大な図書館を備えなくても、少なくとも最新の知識は湯水のように利用できます。勘所を押さえた教育・学習の機会を作れば誰もが最先端の知識と便利さ、有利さを享受できるのです。ディジタル デバイドを克服するのは適切な方策さえ確立すれば克服できますし、また克服する努力は避けて通れません。その努力にふさわしい見返りは期待できるのです。消費電力も小さく省エネルギーの立場からみても、その見返りは大きいと思われます。
昨日次のメールを文部省に送りました。皆さん方のご感想をお聴かせください。
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文部大臣 殿
大変残念に思うのは、G8でITを重要な議題にすると
いう我が国で、夏休みと言う絶好のシーズンに学校による特別授業
あるいは特別講座”インターネット”が文部省の主導で行われな
かったことです。生徒の希望者だけ対象にすればよいのです。それでもす
ごい起爆剤になったでしょう。初等・中等学校に十分なコンピュー
ターがなくても、このシーズン大学のコンピューター教室設備が空
いているところもあります。協力を求めることも不可能ではないで
しょう。いままでどうりの夏休みの宿題に悩む子供達に簡単なホー
ムページを自分で作らせ、それをフローッピーディスクにコピーさ
せて提出させ、それを作品として評価することもどれだけ意味があ
るか分かりません。普段忙しい小・中・高の生徒に十分な時間を与
えてくれる夏休み、こんな絶好の季節を放置する貴省の生ぬるさに
歯がゆさを感じているのです。来年までに是非真剣に検討されるよ
う望みます。