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謡曲について 能のことも

能楽鑑賞の手引き 6−−俊寛を例に

能楽鑑賞の手引きというよりも、自分が謡を謡ったり仕舞を舞うときの心の準備の話といった方がよいかもしれません。自分に対峙する「舞台」として見るだけでなく、また意気込んで取り組む「謡」という考え方ではなくて、その時間変身して普段の自分でない存在になることに意味を求め、精神的なストレスをも癒そうという方へのアドバイスとお考え下されば結構です。

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平家物語は人間の運命のはかなさを描いていて、私にとって中学時代以来の好きな書物です。中学三年の時の国語副読本でもあり、意味も分かりやすく、声を出して読むとその響きの心地よさにも酔ったものです。さて、私は京都の大徳寺の近くに住んでいますが、千利休の木像で有名な金毛閣の直ぐ傍に、今でも「平康頼之塔」が建っています。昔は塔があったのかも知れませんが、今は石仏が据えてあるだけです−−−。この古都は歴史に満ちていて、謡曲も京都のあちこちを舞台にしているものが随分あります。俊寛僧都が平家打倒を相談した山荘のあとも未だに訪ねることができます。随分昔に訪ねたので行く道を忘れてしまったのですが、天王町辺りから東山の方へ辿りました。大文字山の南西の麓に当たります。いかにも山荘にふさわしい雰囲気で、その少し先には美しい、いかにも京都的な「楼門の滝」がありました。楼門の字が示すように、そこには昔立派な寺があったようで、その礎石と思われる石の間を滝の水は流れていきました。京都の街中からそんなに離れてもいませんのに静かで、平家の昔に帰ったような錯覚にみまわれます。謡曲の素材には、遠い東北地方の「殺生石」や「柏崎」あるいは九州を舞台とする「砧」などもありますが、京都近辺の物語も多く、私はできる限りその土地を訪ねました。感覚的に曲の主人公達と出会ったような気分になり、その人達がぐんと近い人に思えるようになるのです。そうしますと自分が謡を謡う時も、その能を見るときも、その人物に同化できる気持ちになりやすいのです。感情の移入が違って来ます。「敦盛」の時は須磨寺を訪ね、真偽のほどはともかく『青葉の笛』というものも見てきました。その帰りには「松風」の遺跡も訪ねました。弱法師の時は四天王寺を訪ね、その西門に立つと、弱法師の気持ちになれるのです。その土地の持つ雰囲気が体を包み、頭の中を変えてくれて、写真で見ているだけとは根本的に違うのです。
もう一つ感情移入のことをお話ししましょう。私の師匠が話してくれたことにこんなことがありました。修業時代、師匠が能を舞われるとき、師匠の師匠から当日になって「今日はこの面で」と面を渡されたものだそうです。その時、例えば“小面”でも一つ一つ皆違いますから瞬間的にその時渡された面の訴えてくるものを感じ取って、その日の能をそれに応じるように自分で演出していかなくてはならないのだということでした。面の眼の所は小さい穴が開いていて、ほとんど外部は見えないので、演ずる人は自分の内面を見つめ、役を作りながら能を舞います。皮肉なことに盲目の弱法師の面は眼の所は細くではありますが全部刳られていて外部を見やすいようです。しかし弱法師では演者は自分の眼を半ば閉じて半眼で舞うのです。これも自分の内面を見つめる為の手だてなのでしょう。我々の立場では実物を手にすることはできませんから、こちらは写真で済ませています。本当は実物を手にして見る角度を変え、光の当たり具合も変えて、しみじみ眺めたいのですが仕方ありません。ここに一つ俊寛の能面写真を収めました。俊寛の面には決まった型というものはありませんが、どれか気に入った面をじっくり眺めていますと、その表情から何か訴えてくるものがきっとあり、謡を謡ったり仕舞を舞うときの自分の気持ちを作る手助けになります。京都の町の土産物屋にも能面まがいの面が売られていますが、本当の良い面は奥が深く訴えてくるものが重厚で、やはり全く違うものです。

近松門左衛門の『平家女護嶋』(俊寛)は謡曲「俊寛」から生まれたのでしょうが、俊寛と共に流された成経は島の蜑“千鳥”と契る仲となっていて、これをいたぶる瀬尾のなにがしを、薩摩までの帰還を許されていた俊寛が差し殺して、千鳥を成経と一緒に舟に乗せてやり、自分は島に残るという組立で、いかにも歌舞伎調の展開になっているのですが、謡曲ではこういう脚色はなく、ひたすら純粋に俊寛の哀れを描いています。ここにも能には歌舞伎とのあいだに純粋性の点で基本的に取り組みの違いがある例を見ることができます。

この物語の端緒に触れますと、成経の父成親や平判官康頼らは山荘で後白河法王の臨御も受けて平家滅亡の謀議を俊寛と共にしたのでしたが、多田蔵人行綱の裏切りによる謀議露見の後には成親は非業の死を遂げ、嫡子成経も先ず備中の瀬尾へ流され、次いで俊寛、康頼とともどもに鬼界が島へ流されたのです。「俊寛」で演じられるこの後の展開は、敢えて注釈を加えなくてもよく分かるので省こうと思います。



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能楽鑑賞の手引き 7−−藤戸を例に

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太閤秀吉の「花見」で有名な名刹醍醐寺の三宝院には静かな落ち着いた、しかも桃山時代の華やかさも湛えた庭園があります。表書院から眺めると、この横長な庭園のほぼ正面南東の対岸に白い美しい「藤戸石」が舞い降りた鷺のように気品高く据わっています。この銘石は室町時代から名石として知られ、信長が足利義昭のために二条御所に据えたといいます。信長の没後秀吉が聚楽第を建てた時に二条御所から運ばれ、1598年、醍醐三宝院の庭が造られたときに秀吉が聚楽第から寄進したと伝えられます。藤戸の瀬戸を挟む源平の合戦を勝利に導いた佐々木盛綱に、殺された漁師の死骸が隠されたのは潮の満ち引きにしたがって浮きつ沈みつしていた「浮洲岩」の傍らでした。この石が「藤戸石」なのです。藤戸の一帯は現在は倉敷市内の陸地ですが、付近にはいろいろの関係する史跡が現在も残っています。「藤戸石」を三宝院で目の当たりにするとき、藤戸の出来事が現実のものとして幻のように見えてくるのです。

藤戸のもとになったのは平家物語巻十の十四『藤戸の事』です。このなかの一部を引用しましょう。

同じき二十五日の辰の刻ばかり、平家の方の逸男(はやりを)の兵(つわもの)ども、小舟に乗って、漕ぎ出し、扇を上げて、「源氏ここを渡せ」とぞ招きける。源氏の方の兵ども、「いかがせん」と云ふ所に、近江国の住人、佐々木三郎盛綱、二十五日の夜に入って、浦の男を一人語らひ、直垂・小袖・大口・白鞘巻なんどを取らせ、賺(スカ)しおほせて、「この海に馬にて渡しぬべき所やある」と問ひければ、男申しけるは、「浦の者どもいくらも候へども、案内知りたるは稀に候。知らぬ者こそ多う候へ。この男は案内よく存じて候。たとへば、川の瀬のやうなる所の候ふが、月頭(つきがしら)には東に候、月末(つきずえ)には西に候。件(くだん)の瀬の間(あはひ)海の面(おもて)十町ばかりも候ふらん。これは御馬などにては、たやすう渡らせ給ふべし」と申しければ、佐々木、「いざさらば、渡らいて見ん」とて、かの男と二人(ににん)紛れ出でて、裸になり、件の川の瀬のやうなる所を渡ってみるに、げにもいたう深うはなかりけり。膝腰肩にたつ所もあり、鬢の濡るる所もあり。深き所を泳いで、浅き所に泳ぎつく。男申しけるは、「これより南は、北よりはるかに浅う候。敵(かたき)矢先を揃へて待ち参らせ候ふ所に、裸にてはいかにも叶はせ候まじ。ただこれより帰らせ給へ」と云ひければ、「げにも」とて、帰りけるが、 下臈(げらふ)は、どこともなき者にて、又人にも語らはれて、案内もや教へんずらん。わればかりこそ知らめ」とて、かの男を刺し殺し、頸かききってぞ捨ててげる。


上の物語に続けて翌十六日、佐々木の開いた突破口をもとに源氏は大勝を収め児島に進出、平家は屋島に逃亡し、恩賞に佐々木は備前の児島を賜ったと平家物語は語ります。海を渡る佐々木の勇姿は藤戸寺所蔵:藤戸の合戦絵巻にも描かれています。

平家物語の話はこれだけですが、この後日談として作者はどのような能を作ったのでしょうか。前場のシテには殺された浦の男の母が登場します。意気揚々と新領主としてお国入りした盛綱(ワキ)の触れに応えて、息子の殺された理不尽さを切々と訴えるのです。一セイの「老の波。越えて藤戸の明暮に。昔の春の。帰れかし」に老いた母の嘆きがもう聴かれます。ワキは初めの内はしらを切っていますが、シテの気持ちを語る上歌「住み果てぬ。この世は仮の宿なるを。この世は仮の宿なるを。親子とて何やらん。まぼろしに生まれ来て。別るれば悲しみの。絆となって苦しみの。・・」に遂にその夜の自分の振舞いを告白します。それに続くクセは更に母の心情を謡っていきます。悲しみが戦いの儚さを背景にして深く胸を打ちます。後場には浦の男の幽霊が登場し、殺されたときの有様をリアルに再現し、「浮洲の岩」につれて行かれて刺し通されそのまま海に押し入れられた有様を演じます。作者は世阿弥と謡本には書いてありますが実は不明なのだそうです。流れるような構想はなかなかの名作だと思います。

同じように前場で息子の悲劇を悲しむ能に「天鼓」がありますが、こちらはどちらかというと後場の天鼓の幽霊の舞が、曲のすばらしさと共に感銘を与えます。藤戸は後場もさることながら、前場の母親の悲しみと戦いの虚しさが、人間すべての共通の感情であるだけに、これを劇化したこの能は現代の多くの人達の心をも打ち、野上弥生子は戯曲「藤戸」を、有吉佐和子は義太夫「藤戸」を書きました。また先々代中村雁治郎も松竹文芸部にいた座付作者大森痴雪に依頼して義太夫に直させ、歌舞伎で初演しています。(能楽百話 サンケイ新聞社編 駸々堂出版 昭53 p.100)

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能楽鑑賞の手引き 8−−天鼓を例に

1999年9月18日のNHK教育テレビ芸能花舞台は 長唄「新曲浦島」を聴かせてくれました。クラッシク音楽にもベートーベンの「田園」とかビバルディの「四季」、ドビュッシーの「月の光」のように自然を感じさせてくれる曲がないわけでもありませんが、日本の長唄などには自然そのものを彷彿とさせてくれる、現代の人間の意識から次第に遠くなって行っている自然との交流、深い描写の優れた曲が少なくないように思います。武原はんの地唄舞「雪」は正に雪そのものを感じさせてくれるではありませんか。このシリーズでもたびたびこの点に触れてきましたが、一見古くさくて現代人の感覚から離れて化石になってしまったように取り扱われる日本の古典音楽の中に、私たちの心の中で求めている自然との対話の糸口が、新鮮に、生々しく発見できるのではないでしょうか。そう感じるとき日本の古典は新しい生命を回復し、永遠に息づき続けるのです。秋の近い今日、天鼓の終わりの部分は天鼓の喜びの舞姿と共にその背景にある夜空の美しさ、水との戯れと暁のさわやかさをしみじみと感じさせてくれます。

四季の変化に恵まれたこの国の能衣装や鬘帯のデザインも自然に由来するものが多く、このほか芸術一般例えば漆工芸の題材にも同様のことが窺えます。

夢で天からの鼓が胎内に宿るとみた母から生まれた少年は天鼓と名付けられ、その後本当に天から鼓が降り下り、天鼓が打つと妙音を奏でました。これを聞いた帝が、その鼓を献上するように命じたので、天鼓は鼓を持って山中に隠れます。天鼓を捕まえた帝は少年を呂水に沈め、鼓を奪ったのですが、鼓は鳴らず遂に天鼓の父王伯ならと宮中に召します。王伯が打つと不思議にも鼓は鳴り、感動した帝も天鼓の霊を慰めるべく呂水のほとりで管弦講を催します。亡霊として現れた天鼓は、怨みを言うこともなく喜びの鼓を打ち、舞を舞い、夜明けと共に姿は消えていくのです。この天鼓の舞には自然の妙が伺われるのです。

面白や時もげに。秋風樂なれや松の聲。柳葉を拂って月も涼しく星も相逢う 空なれや。烏鵲の橋のもとに。紅葉を敷き。二星の館の前に風。 冷やかに夜も更けて。夜半楽にもはやなりぬ。人間の水は南。星は北に拱くの。 天の海面雲の波 立ち添ふや。呂水の堤の月に嘯き水に戯れ波を穿ち。袖を返すや。 夜遊の舞楽も時去りて。五更の一點 鐘も鳴り。鶏は八聲のほのぼのと。夜も明け白む。時の鼓。數は六つの巷の聲に。また打ち寄りて 現か夢か。また打ち寄りて現か夢 幻とこそ。なりにけれ。

星も相逢う:七夕の夕べ、牽牛(ひこ星)と織女
(おりひめ星)がかささぎの架けた橋を渡っ
て互いに逢う

二星の館:二星が互いに会う家    

tanabata

さて、現在Realplayer(無料)をダウンロード後インストール(Netscapeなら\Netscape\Communicator\Program\Pluginsに)されますと、Realplayerが組み込まれます。右側の星空の絵をクリックして、暫く気長にお待ち下さい(viewer起動に少し時間が必要です)。 もちろんRealplayer plusでも流れます。最新のRealplayerは音質が大変よくなりました。viewの大きさはcompactでよろしい。

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