太閤秀吉の「花見」で有名な名刹醍醐寺の三宝院には静かな落ち着いた、しかも桃山時代の華やかさも湛えた庭園があります。表書院から眺めると、この横長な庭園のほぼ正面南東の対岸に白い美しい「藤戸石」が舞い降りた鷺のように気品高く据わっています。この銘石は室町時代から名石として知られ、信長が足利義昭のために二条御所に据えたといいます。信長の没後秀吉が聚楽第を建てた時に二条御所から運ばれ、1598年、醍醐三宝院の庭が造られたときに秀吉が聚楽第から寄進したと伝えられます。藤戸の瀬戸を挟む源平の合戦を勝利に導いた佐々木盛綱に、殺された漁師の死骸が隠されたのは潮の満ち引きにしたがって浮きつ沈みつしていた「浮洲岩」の傍らでした。この石が「藤戸石」なのです。藤戸の一帯は現在は倉敷市内の陸地ですが、付近にはいろいろの関係する史跡が現在も残っています。「藤戸石」を三宝院で目の当たりにするとき、藤戸の出来事が現実のものとして幻のように見えてくるのです。
藤戸のもとになったのは平家物語巻十の十四『藤戸の事』です。このなかの一部を引用しましょう。
同じき二十五日の辰の刻ばかり、平家の方の逸男(はやりを)の兵(つわもの)ども、小舟に乗って、漕ぎ出し、扇を上げて、「源氏ここを渡せ」とぞ招きける。源氏の方の兵ども、「いかがせん」と云ふ所に、近江国の住人、佐々木三郎盛綱、二十五日の夜に入って、浦の男を一人語らひ、直垂・小袖・大口・白鞘巻なんどを取らせ、賺(スカ)しおほせて、「この海に馬にて渡しぬべき所やある」と問ひければ、男申しけるは、「浦の者どもいくらも候へども、案内知りたるは稀に候。知らぬ者こそ多う候へ。この男は案内よく存じて候。たとへば、川の瀬のやうなる所の候ふが、月頭(つきがしら)には東に候、月末(つきずえ)には西に候。件(くだん)の瀬の間(あはひ)海の面(おもて)十町ばかりも候ふらん。これは御馬などにては、たやすう渡らせ給ふべし」と申しければ、佐々木、「いざさらば、渡らいて見ん」とて、かの男と二人(ににん)紛れ出でて、裸になり、件の川の瀬のやうなる所を渡ってみるに、げにもいたう深うはなかりけり。膝腰肩にたつ所もあり、鬢の濡るる所もあり。深き所を泳いで、浅き所に泳ぎつく。男申しけるは、「これより南は、北よりはるかに浅う候。敵(かたき)矢先を揃へて待ち参らせ候ふ所に、裸にてはいかにも叶はせ候まじ。ただこれより帰らせ給へ」と云ひければ、「げにも」とて、帰りけるが、 下臈(げらふ)は、どこともなき者にて、又人にも語らはれて、案内もや教へんずらん。わればかりこそ知らめ」とて、かの男を刺し殺し、頸かききってぞ捨ててげる。 |