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back.gifC・G・ユング「錬金術研究」

論考

ホムンクルスとその祖先
術知と自然の不思議

(The Homunculus and His Forebears : Wonders of Art and Nature)



[出典]
William Newman
The Homunculus and His Forebears: Wonders of Art and Nature William Newman
Nature and the Disciplines in Renaissance Europe, ed. by Anthony Grafton and Nancy Sisais. Cambridge, 1999.






双子のホムンクルス

 『クリスチャン・ローゼンクロイツの化学の結婚(Chymical Wedding of Christian Rosencreuz)』(1616)の怖れを知らぬ読者は、以下の一連の奇妙な出来事に遭遇する。物語の主人公ローゼンクロイツは、王と王妃の神秘的な結婚式への匿名の招待状を受け取る、これは美しい有翼の婦人によって彼に届けられたものである。目に見えない召使たちのいる城;ライオンたち、一角獣たち、鳩たちの出演する神秘的な劇;そして部屋いっぱいの、自分で動く神秘的な表象たちを見たあと、ローゼンクロイツはついに新郎新婦に会う。精巧な喜劇を伴う豪華な晩餐の終わりに、喜びに満ちたカップルは、その王室の従者とともに、「背の高い非常に cole-black な男」によって突然斬首される [001]。彼らの血が注意深く集められた後、その身体は、ローゼンクロイツと仲間の錬金術師のグループによって、別の赤い酒に溶解される。これらの術者たちは、空の球体内の液体をあっさり凝固させ、それはさらに卵になる。それから錬金術師たちは卵を孵化させると、それは獰猛な黒い鳥をかえす:この鳥は先に集められた斬首の血をついばむと、それは羽が生え替わって白くなり、それから虹色になる。さらに一連の作業の後、この、おのれの善のためにあまりにも優しく成長した鳥は、その頭をみずから奪われて、燃え尽きて灰となった [002]

Faust.jpg  この一連の行程は、哲学者たちの石 [003] という金属変成の動因につながると想定された伝統的な養生法ないし色彩段階の明白な列挙である。実際、哲学者たちの石は、殺害されて再生した王と女王の交合という術語で、図像的に描かれた行程の最後の結果として叙述されることしばしばであった。しかし、最終的に、この新郎新婦の遺体は、湿った塊を2つの小さな型に収めることにより、不幸な鳥の灰から組み立て直される。彼らが加熱されると、「美しく輝く、ほとんど透明な2つの像が現れる……男性と女性、それらはそれぞれわずかインチの背丈で」、その後生命を吹きこまれる。これらは欄外に、「双子のホムンクルス(Homunculi duo)」[004] と同定されている。最終結末は哲学者たちの石であると期待していた読者は、この結末に多少驚かされるかもしれない。少なくともそれが、首を刎ねられたカップルの宮廷で従事した錬金術師たちの反応であった、というのは、ローゼンクロイツがわれわれに告げているからである、この行程が「黄金のために」実行されたと彼らは想像した、として、こう付け加えた、「黄金のために働くことが……、実際、この技術の一片でもあったが、大原則ではなく、必要不可欠であり、また最善であった」と [005] 。要するに、『クリスチャン・ローゼンクロイツの化学の結婚(Chymical Wedding of Christian Rosencreuz)』によれば、錬金術の真の目標は人間の人工生成であり、貴金属の製造は片手間仕事にすぎなかったのである。

 『化学の結婚(Chymical Wedding)』の著者は、有名なルーテル派の神学者であり、『キリスト教徒の都市(Christianopolis)』の著者 ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ(1586-1654)であった [006]。アンドレーエにとっては、ホムンクルスの創造は、フランケンシュタインになるようこれに教えるよりも、読者を魅了する目的で、霊的再生の寓喩 [007]。人間の霊的再生のためにするアンドレーエの錬金術への指向は、ローゼンクロイツによって記述された作戦と同じくらい長く不道徳な歴史を有する。しかし、ホムンクルスがアンドレーエに達した経路は、『化学の結婚(Chymical Wedding)』の中にその起源を示唆するものが何もないだけに、曲がりくねってさえいる。というのは、奇妙なことに、アンドレーエのホムンクルスは、オカルト科学内の2つの異なった伝統の合流から生まれた;その1つは、生き物の技術的産出に専念する実践的ジャンル、もう1つは、その目的が錬金術の中傷者に対する錬金術の防御を目標とした御教文学である。わたしが示すように、アンドレーエの典拠であるパラケルスス・フォン・ホーエンハイム(1493―1541)とその信奉者たちは、すでにこの伝統の融合を行っていた。実際、ホムンクルスあるいは人工人間の生成という、ゲーテの『ファウスト』が、その第2部のおかげでその肩に担うことになったテーマを、西欧文明にとって十分に重要なものにしたのはパラケルススである。以下の論文は、パラケルススのホムンクルス思索をその目的とする;しかしその目的を達成するため、先ずパラケルスス主義と中世後期の錬金術との関係を再検討しなければならない。

 13世紀の錬金術の諸作品を比較する人は誰しも、この学問分野が中世西欧に最初に適用された時、パラケルススとその信奉者たちの出力によって、医化学者たちがその錬金術に想いを廻らせた広大な景観に衝撃を受けるだろう。パラケスス派の3元素 — 水銀、硫黄、塩 — は、アラブ人たちから受け継いだ古い水銀や硫黄のごとき、もはや単なる金属や一部の鉱物の成分ではない。代わりにパラケルスス派が議論するのは、地球全体の構成要素とその内容であり、諸天そのものが彼らの3つの原理で構成されていると主張しさえした [008]。同様の景観の拡張は、化学的技術の医学的役割に対するパラケルスス派の主張の中に見られるだろう。ゲベル〔ジャービル・イブン・ハイヤーン〕またはアルベルトゥス・マグヌスの錬金術は、無生物の複製と研究に限定されていたが、パラケルススの拡大された学問分野が、錬金術の諸技術の医学的応用すべてを超えていた様たるや、生命過程の主催者を説明するために錬金術を使用した真の化学生理学と同様であった。パラケルススは、ルペシッサのジョンや偽-ルルのような初期の医学の錬金術師たちに多大な恩恵を受けていたが、公正に言って、中世における彼の宇宙論的医化学ほど包括的なものは何もないのである [009]

 この論文でわたしが議論しようとするのは、類似した拡大が、天然産物を複製する錬金術の力に関するパラケルススの見解中に行われ、彼と彼の信奉者たちを、人間の創造力は実質的に無制限であるという立場に導いた、ということである。人工人間としてのホムンクルスは、人間の創造力の最高傑作であり、その技術者を、下位の神の水準における一種の創造者にした。自然魔術というルネサンスの伝統が、「人間の創造者」という見解を促進したと長らく認められてきた;だがわたし示すように、ホムンクルスの使用は人間の技術の驚異として、厳密には魔法よりはむしろ錬金術に焦点を当てた中世の議論にその起源を有し、この議論は数世紀間ルネサンスに先行しているのである[010]。最後には、ホムンクルスがパラケルススに提示した性的および宗教的曖昧性について記述するつもりである、というのは、これらが彼の精神的風景に斜光を投げかけ、いくつかの特徴を鮮明に浮き彫りするからである。しかし、これらの問題を議論する前に、先ず、人間の創造力に関するパラケルススの議論に対する哲学的背景を調べなければならない。

Ⅰ.技術の力

 アリストテレースの自然哲学の有名な特徴は、自然的制作と人工的制作との区別を強調したところにある。『自然学(Physics)』(2.1, 192b28―33)においてアリストテレースは、自然的制作と人工的制作を区別して、前者は、「それ自身のうちに制作の原理を」(th;n ajrch;n ejn eJautw/ th:V poihvsewV)有するだろうが、これに対して後者の場合は、その原理が「何らか外なる動因に」(a[lloiV kai; e[xwqen)備わることを指摘した [011]。種子は自然に樹木に生長するが、木片は自然に家に生長することはない。人工的制作は、材木で家を建てることによって「外部の動因」として機能する大工を必要とする。したがって、自然的制作と人工的制作は本質的に異なる。にもかかわらずアリストテレースは、『自然学(Physics)』(2.8, 199al6)において 、「一般に、技術は、一方では、自然がなしとげえないところの物事を完成させ、他方では、自然のなすことろを模倣する」(o{lwV te hJ tevcnh ta; me;n ejpitelei: a} hJ fuvsiV ajdunatei: ajpergavsasqai, ta; de; mimei:tai)ことを許容し、かくして技術は自然を向上させることができるという議論の道を開いたのである [012]

 わたしが他の場所で引証したごとく、中世ラテンの錬金術は、技術は自然を向上させることができるというアリストテレースの告白に基づいて、自然的制作と人工的制作の間の伝統的なアリストテレース的二分法を侵食するための持続的な努力を開始した [013]。この動きは、4世紀後、無数の錬金術師たちを、フランシス・ベーコンの『(Descriptio globi intellectualis)』の中でなされた並行する主張の際立った洞察—「技術と自然の作品が分岐するのは、形態や本質においてではなく、効率性においてのみ」[014] に導いた。この主題は、すでに中世盛期と後期の錬金術作品におけるquaestio disputataになっており、ペルシアの哲学者アビセンナ〔イブン・スィーナー(980-1037)イスラームを代表する哲学者・医学者〕の『(De congelatione et conglutinatione)』に達し、アヴィセンナの『治癒の書(Kitaâb al-shifâ')』の1節は、13世紀の初めのシャレシェルのアルフレッド〔〕によってアリストテレースの『(Meteors)』に誤って付加されたものである [015] 。心ならずもアリストテレースの偽名のもとに、アヴィセンナはここで錬金術の正体を暴露し、一般的に「技術は自然に劣り、どれほど頑張ろうとも、これに匹敵することはできない」と主張する [016] 。したがって、錬金術に対するアヴィセンナの攻撃は、強いことばで、全体として科学技術に関連して 強い ne plus ultra〔極致〕のことばに中に組み込まれていることを理解することが不可欠である。このように、それはさまざまな領域で人間の技術を議論するための locus classicus〔標準的典拠〕となり、17世紀においてもそうでありつづけたのである [017]

 アビセンナが彼の他の作品で人間の技術についてどのようなことを言ったとしても、『(De congelatione)』における彼の立場は、当のスタゲイロス人〔=アリストテレース〕本人が採ったいかなる立場よりもはるかに強力であった。「(sciant artifices alkimie species metallorum non posse transmutari)」という言い廻しにとどまるアビセンナの攻撃は、sciant artifices〔科学的技術〕という語頭の句の単純なラテン語で知られるようになった。sciant artifices〔科学的技術〕は、無視できない錬金術への挑戦であった:こうしてそれは、後続する錬金術師たちの軍団に採りあげられ、数多くの錬金術の「テオリカ(Theorica)の中で反論された。そのような一例を考えてみよう。

 13世紀にすでに流通していた影響力のある「ヘルメス書」は、錬金術への一連の攻撃と、それに続く反論を中心に構成されている [018] 。これらの攻撃の1つは、アヴィセンナの棍棒を取り上げて言う、「金属体は、それが自然の作品であるかぎり、自然的であるが、人間の作品は人工的であって、自然的ではない」[019]

 錬金術の反対者は、ここで、自然の作品と人間の作品の違いを述べているにすぎない:その意味するところは、明らかに、同じ産出物に導くことができない根本的に異なる2つの領域があるということである。「ヘルメース」は以下の答えを以て答える:

 しかし人間の作品は、自然のそれと同様、火、空気、水、土、鉱物、木、動物らの如く様々である。例えば、自然に発光する火と、石によって発火される火とは同じ火である。周囲の自然の空気と、煮沸によって生成される人工的な空気〔蒸気〕とはどちらも空気である。われわれの足下にある自然の大地と、水をじっとさせておくことで生産される人工的な土とは、どちらも土である。緑色の塩、硫酸、酸化亜鉛、および塩化アンモニウムは、人工のものでも自然のものでもある。しかし、人工物は天然物よりも優れており、鉱物について知っている者は誰も反対しない。自然の野生の木と人工的に接ぎ木されたものとはどちらも木である。自然の蜂と、分解された牡牛から生まれる人工的な蜂 [※] とは、どちらも蜂である。技術はこれらすべてをするわけではない;むしろ、それらをするよう自然を助けるのである。それゆえ、この技術の助力が事物の自然性を変えることはない。だから、ひとの作品は本質に関しては自然であるとともに、生産の様式に関しては人工的でもあり得るのである。[020](強調は引用者)

 ヘルメースの答えは、火、空気、水、土という4元素によって提供される一連の経験的な例から始まる。この著者は、自然に発生する形態と完全に同一の「人工的要素」をひとが産出できることを示したい。同様に、彼は「緑の塩」(おそらく緑青 ― 酢酸銅)、硫酸(硫酸銅または硫酸鉄)、テュティア(炭酸亜鉛)、およびアンモニア塩(塩化アンモニウム)の人工的な形を作ることができる。これらの人工的に産出された鉱物は、その自然の対応物と単純に同等ではない — それらはよりよくなるだろう。結局、接ぎ木によって産出される新しい型の樹木や、死んだ家畜から「自発発生的に産出された」蜜蜂は、それらの自然の模範と同一である。ヘルメースはこの経験的証拠から、技術は自然を助けることによってのみ、これらの多種多様な産物を作る、という結論を下す。ベーコンの視点に驚くほど密接な線で、人間の作品と自然の作品とは、たとえ生産の方法(secundum artificium〔二次加工〕)において異なっていても、本質(secundum essentiam〔第二の本質〕において同一である、とヘルメースは言う。これは、技術的作品と自然的作品とは、「形式ないし本質においてではなく、効率においてのみ」分かれるというベーコンの主張と事実上同一である。

 現時点で特に重要なのは、無生物のみならず下等な生物をも複製する錬金術師の能力に対するヘルメースの主張である。単に牝牛の身体を腐敗させるだけでひとはおのずから蜂を生殖できるという一般的な信念に基づいて、ヘルメースは、これが自然にとっての効率的な原因として作用する人間のさらに別の例を提供すると主張する。同じ考えは、「ゲベル〔ジャービル・イブン・ハイヤーン(8世紀後半)イスラーム世界における最初期の錬金術師〕」の『(Summa perfectionis)』という中世盛期の錬金術の古典的テキストに現れる [021]。ここでこの著者が反-錬金術的議論として退けるのは、占星術という精密ならざる科学によってはその正確な位置は決定できないところの星辰や惑星の行動に基づいているがゆえに、技術は成功しえないという主張であった [022]。これに対してゲベルは答える、「われわれが、犬から、あるいは他の腐敗しやすい動物から在るものへと蛆虫を導こうとするとき、われわれはすぐに星辰の位置を熟慮するのではなく、むしろ周囲の大気の傾向や、それよりは他の腐敗の完全な原因を熟慮するのをわれわれは見る」[023]。ヘルメース同様ゲベルは、腐る屍体から昆虫を生殖することにおける積極的役割を錬金術師に与える、というのは、「まわりの空気の状態」を考慮するのが彼だからである。これこそ、人間の技術の力の他の例である。さらにヘルメース同様ゲベルは、この力をより下等な生命体の産出に制限しようとしている。他の点では、モノの中に魂を吹きこむことのできるひとの能力を、『(Summa)』は明示的に拒否さえしている [024]

 「ヘルメース」と「ゲベル」の位置は、中世ラテンの錬金術師たちの大半が採用したものであった。錬金術師たちは、われわれなら「脊椎動物」の生命体と呼ぶものを産出する試みについてほとんど言及していない;また、これらが起こるとき、彼らは通常否定的な用語で描かれる。この傾向の好例は、トマス・アクィナスに疑いをもって帰せられる14世紀の『(De essentiis essentiarum)』に見られるかもしれない。偽名の著者は、容器の中の人工人間を創造すべく、ラーズィー〔アブー・バクル〕によって行われた試みを報告しているが、これが起こり得たとしても、多分その被造物にはまだ理性的な魂が欠けている可能性があることに注意を促している [025]。それゆえ、そのような疑いをいだいたこともないらしい後世の思索者たちに移るとしよう。

Ⅱ.パラケルススと人工の生命

 1572年、医化学医師のアダム・フォン・ボーデンスタインは、1537年にパラケルススによって書かれたと思われる作品を出版した。この『自然の王国について(De natura rerum)』は、本物のパラケルスス派のテキスト [026] を書き直したものである可能性があり、技術/自然という二分法の議論から始まる。

 あらゆる自然物の生成には2種類ある、1つはいかなる技術もなしに自然の方法だけで起こるものがあり、もう1つは技術 — つまり錬金術によって起こるものである。しかしながら、一般的に、あらゆるものは腐敗という方法によって土から生まれるとひとは言うことができる。というのは、腐敗は最高の段階であり、生成の初めであり、腐敗はその起源と初めを湿った温かさに取るからである。というのは、持続的な湿った温かさが腐敗を引き起こし、あらゆる自然物を最初の形と本質から、したがってまた力と美徳を変容させるからである。というのは、胃の中での腐敗があらゆる食物を糞に変え、これを変質させるのと同じように、胃の外側で起こる腐敗が、硝子[すなわち、フラスコ]の内側であらゆるものを1つのものから他のものへと変成させるからである [027]

 『自然の王国について(De natura rerum)』は、あらゆる自然物は2つの方法— 技術なしに自然の方法によってか、技術の助けすなわち錬金術によってか — で出現すると主張することで、人工物と自然物に関する錬金術的議論の文脈の中にただちに身を置く。この著者は哲学的な微妙さにはあまり気にかけていないが、自然的生成と人工的生成は、温かく湿った腐敗という方法によって両方とも「土」からやってくると主張して、自然的生成と人工的生成とをすぐに同化する。こうして、胃の中で起こる腐敗は、硝子容器の中で起こるそれと本質的に異ならない;偽-ヘルメースが断言したとおり、それらが異なるのはsecundum artificum〔第2の技術において〕のみである。

 ひとつのモノが他のモノに変成することを許す腐敗の驚異に関するわずかな言葉の後で、『自然の王国について(De natura rerum)』は前述の論理を卵の議論にまで敷衍する。彼女〔雌鶏〕の卵を孵す際に、雌鶏は内なる「粘液性の粘液」(mucilaginische phlegma)に、腐らせるのに必要な熱を供給するだけで、そうすることで、雛鳥に生長しようとする生きモノになる [028]。もう一度、鍵となる代行者は腐敗である。しかし、よく知られているように、この孵化とそれにつづく腐敗は、抱卵する雌鶏がいなくても、温かい灰によって人為的に行うことができる。これ以上に、生きている鳥が密閉容器で燃えて粉と灰になり、その残骸が「馬の子宮」(venter equinus — 腐らせる熱い糞を意味する専門用語である)の中で腐ってべとべとした粘液になるに任せるなら、その同じ粘液が再び孵化して、「もとどおりに生まれ変わった小鳥」(ein renovirter und restaurirter vogel)を産出するだろう。このようにして、あらゆる小鳥が殺され生まれ変わって、その結果、錬金術師は一種の小さな神 — 最後の審判に随伴するそれのように、モノの「生まれ変わりと浄化」(widergeburt und clarificirung)をもって、完全な小型の突発をもたらす。審判の日の火によるこの問題の明確化は、パラケルススの習慣的な常習的な主題の1つである;彼はその晩年の『(Astronomia magna)』、彼の哲学の確定的声明の中で長々と詳述している [029]。われわれは間もなく、かかる幾分実体のない別の例に遭遇するだろう、それは異なった意味で明らかにされるものではあるが。『自然の王国について(De natura rerum)』は、小鳥たちの死と再生が「の最高かつ最も偉大なmangnale〔〕にして神秘、至高の秘密にして奇蹟」[030]を形成する、と告知しつづける。

 この定言的な声明にもかかわらず、『自然の王国について(De natura rerum)』が偉大でさえある著者が次のように述べているように、『自然の王国について(De natura rerum)』にはさらに素晴らしいものがある。また、男性も自然な父親や母親なしで生まれることを知っておく必要がある。つまり、他の子供が生まれたように自然に女性の身体から生まれたわけではないが、男性は、以下に示すように、芸術と経験豊富なスパギリストのスキルによって生まれ育つ」[031]「ホムンクルス」を導入した。その後、テキストは、「異端なしではない」が、子孫を生み出す可能性のある人間と動物の不自然な結合について議論する。 kezerei nicht wol Qeschehen)。それでも、動物を出産した女性を「自然に反して行動した」ために異端者として自動的に扱うべきではない(これは、より広い死体である)。彼女の無秩序な想像力。

 諸々の動物も、その子孫が両親と同じ種でない場合、怪物を産出できる。しかし、『自然の王国について(De natura rerum)』の著者は、「硝子の中で、技術によって生き返らされる(durch kunst darzu gebracht werden in einem glas)実例にもっと興味を持つ。そのような人工の怪物の好例が、フラスコに密封された月経血から作られ、「馬の子宮」の熱にさらされるバシリスクである [032]。バシリスクが「あらゆる怪物中の怪物」(ein monstrum uber alle monstra)である所以は、たった一瞥で殺すことができるからである。月経血から作られているので、月経中の女性に似て、「その眼の中に隠された毒を持っており」(die auch ein verborgenen gift in augen hat)、鏡を毀すことができ、その一瞥で傷を治すことを不可能にするか、その気息で葡萄酒を台無しにする。しかし、バシリスクの毒は、女性自身(per se)のそれよりもはるかに強力である、彼女の有毒な異常生成物の活きた稀釈されざる具体化だからである:

 今やわが主題にもどって、バシリスクがその一瞥と眼の中に毒を持っている理由とその目的を説明しよう。そこで知られねばならないのは、それが不純な[つまり月経中の]女性からの特性と起源を持っているということは、上述のとおりである。というのは、バシリスクは成長し、女性の最大の不純物から、経血と精子の血とから生まれるからである。[033]

したがって、『自然の王国について(De natura rerum)』の著者にとって、バシリスクは女性自身の縮図であり、パラケルススの議論の余地なき全集と矛盾するようには見えない変奏である、と言うことができよう。[034]

 この記憶に残る説明の後すぐに、『自然の王国について(De natura rerum)』は、ホムンクルスとその生成様式の長い記述に到達する。一種の人工的単為生殖によって作られたバシリスクの議論の直後に来て、ホムンクルスはその男性の双子のらしい。バシリスクが女性の不純物の真髄を具体化したように、いかなる女性的なものなしで創造されたホムンクルスは、男性性の知的で英雄的な美徳の拡大像として機能する。しかし先ず、その生産モ様式を関説しよう:

 さて、われわれはホムンクルスの生成を決して忘れてはならない。なぜなら、それは非常に秘密に保たれ、今まで隠されていましたが、古い哲学者の間には、人間ができる自然や芸術さえ可能かどうかに少しの疑問や疑問はありませんでした女性の体の外で生まれ、自然な母親が(なしで)。この答えは、スパジリックアートや自然に決して反対するものではないが、実際に可能であるということです。しかし、これがどのように起こり、どのように進むべきか―そのプロセスは、男性の精子が密閉されたウリで40日間腐敗し、馬のすり切れで最高の腐敗、または少なくともそれが来るまで生きて自分自身を動かし、かき混ぜます。これは簡単に観察できます。この時間の後、それはいくらかのようになります人、しかし透明、体なし。この後、人間の血の秘薬を賢く与えられ、最大40週間養われ、馬の子宮の均一な暑さの中に保たれると、生きている人間の子供がそこから成長し、そのすべてのメンバーが他のメンバーのようになります女性から生まれたが、はるかに小さい子ども。[035]

 われわれが見ることができるように、『自然の王国について(De natura rerum)』の著者は、人間の技術の限界という伝統的な問題の枠組みの中で、彼のホムンクルスを紹介している。昔の臆病な哲学者とは異なり、この著者は、試験管べいびーを作る上で人間の技術の力を喜んで断言すると言う。そして、この創造物が疑いもなく驚異的なのは、バシリスクがその起源をもった有毒な母体に汚染されることなく、精子だけから生長したからである。女性という下品な物質性からのその自由さ故に、ホムンクルスは半透明、いわば非-身体である。錬金術の手法で産出された「清められた」鳥のように、ホムンクルスはほとんど霊的である。だからこの著者は、人間の技術の力を誇示するためのさらなる別の口実にホムンクルスを使うことができ、彼はすぐにそうすべく踏み出す。 『自然の王国について(De natura rerum)』は、そのようなホムンクルスから、彼らが成人期に達すると、巨人や小人たちのさらに驚異的な生きものが起こることを告げる。これらの被造物は、その敵を「大いなる、力強い勝利(grossen, gewaltigen sig)」打ち倒し、「あらゆる隠された秘密の物事」(alle heimlichen und verborgne ding)を知る能力のごとき驚異的な強さと力を有する。彼らは何ゆえにそれほどの才能があるのか? 「彼らはその生を技術から受け取り、技術を通してその身体、肉、骨、そして血を受け取る」からである。彼らは技術を通して生まれ、それゆえ技術が受肉し、その中で生まれ、そして彼らは誰からもそれを学ぶ必要がない」[036]

 ここでの推論は一直線である。ホムンクルスは技術の産物であるため、その成熟した状態では、それは諸々の技術と自動的かつ親密な親交を持ち、その結果、「あらゆる秘密と隠されたもの」を知る。だから、ホムンクルスはそれ自体人工的驚異であるばかりでなく、さらなる驚異への鍵でもある。この著者が言うように、それは自然に対する人間の力の最終的な表現であり、「奇跡……そしてあらゆる秘中の秘である」[037]


『自然の王国』と初期の伝統

 この時点で、『自然の王国について(De natura rerum)』の作者がこの幻想を完全な布地から創作したのか、それとも以前の情報源から描いたのかどうかを尋ねるのは公平である。わたしが示したように、『自然の王国について(De natura rerum)』の文脈は、おもに人工的産物と自然的産物の問題によって決定される。ヘルメス文書と「ゲベル」の『(Summa perfectionis)』にあるように、動物のより低次の形の創造が、その議論の一部を成していることをわれわれは見てきた。しかし『自然の王国について(De natura rerum)』は、その細部と、人口的生成の誇大な記述において、そのテキストの範囲をはるかに超えている。この著者は、この資料をどこで入手したのか? 先ず、ゲルショム・ショーレムによってなされた議論と、ホムンクルスはユダヤ人のゴーレム(golem)[038] の中世の伝説にそのルーツを見出しているというウォルター・ペイゲルによって確認された議論を考えてみよう。ゴーレムは、ヘブライ文字を含むカバリストの祭儀の方法で、「処女の土」から創造された人工人間であった。しかしながら、モーシェ・アイデルが主張したように、ゴーレムが人間の精子でできているとか、フラスコに密封されているという証拠はほとんど、あるいはまったくない [039]。ホムンクルスの本源について、われわれはもっと近い典拠を探究すべきである。

 事実、『自然の王国について(De natura rerum)』のホムンクルスの典拠は、主に人工的動物の生成に関する中世のアラビア文学の中に見出され、この伝統はすでに、1942年刊のジャービル・イブン・ハイヤーンに関する Paul Krauss の有名な本の中に記述されている。19世紀に帰せられる全集において、ペルシアの賢者ジャービル・イブン・ハイヤーンは2000を超える作品を著したが、そのほとんどは9世紀と10世紀に書かれた。これらの作品のほとんどは、錬金術と自然魔術を扱っており、それらの中に人工の人間を作るための指示が見つけられる。例えば、ジャービルの『(kitâb al-tajmî)』は、未定義の「要素」、「もの」、「本質」、「身体」、あるいは「精子」を取り、 取り外し可能な部品のついた型の中に密封することを勧めている [040]。 次に、これを穴あき容器に挿入し、これが腐敗するよう温水の中で加熱される。型の形状を変えることで、男の子の顔を持つ若い女の子や、男の知性を持つ若者のような、いかなる種類の存在物をもひとは産出することができる [041]

 ジャービルの処方と『自然の王国について(De natura rerum)』のそれとの類似にもかかわらず、ジャービルのアラビア語からわれわれのスイスの魔術師へのいかなる直線的な経路もわたしは見つけることができなかった。しかし、彼の説明の過程でジャービルは、プラトーンに帰せられるが、ペルシアの錬金術師は関係を否認しているところの別の伝統に言及している [042]。わたしが言及しているのは、偽-プラトーンの『(Kitßb al-nawaâmiîs)』つまり『法律』であるが、これは、パリの13世紀の司教オーヴェルニューのウィリアムによるラテン語で既に知られている。ウィリアムはこの作品、アラビア語nawâmîs の転訛『(Liber neumich)』として言及しているが、その最初の生贄である牝牛に敬意を表して『(Liber vaccae)』とも呼ばれている [043]。『自然の王国について(De natura rerum)』の著者が『(Liber neumich)』をも知っていて、その奇抜な処方が、彼のホムンクルス処方のひとつの源泉になるということは、ありそうにもないことである。

 偽-プラトーンはこの書を、「理性的な動物」をつくるための方向性から始める、これをわたしは以下のように要約しよう:「何びとであれ理性的動物をつくることを望む者は、自分の水を温かいうちに取り、これを、太陽の石と呼ばれる石の等量と混ぜ(conficiat)させるべし。これは、光っているのが見つかった場所まで、夜間、燈火のように輝く石である」[044]。次いで、ひとは牝牛または雌羊を取らなければならない。それの外陰部は薬で綺麗にされ、その子宮は中に入れられるものを受け入れることができるようになる。牝牛が使用される場合は、雌羊の血がその外陰部に置かれる;雌羊の場合は逆である。次いで、その開口部が太陽の石で塞がれる。この後、その動物は暗い家に入れられ、毎週、他の動物の血1ポンドが食料として与えられる。それから、幾つかの日長石、同量の硫黄、同量の磁石、そして同量の緑のテュティアをひとは取るべし。これらを粉砕し、柳の樹液と混ぜ、日陰で乾燥させるべし。その牝牛ないし雌羊が出産したら、ひとは「その形を取り、これをその粉末の中に入れるべし。すぐに人間の皮で覆われるからである」[045]。それから、その形は「大きなガラスまたは鉛の容器に」入れるべし。3日後にはそれは空腹になり、動き回るであろう。「それゆえ、母から出た血でそれを養うこと」7日間。こうして、「多くの奇跡と一致する動物の形が完成[046]。これは月の進行を変えるために、あるいはひとを牝牛または雌羊に変えるために使用することができる。 「そしてもし汝がこの形を取り、これを40日間養い育て、血と乳のみで他に何も与えずに養い、太陽がこれを見ることなければ」、そこで汝はこれを生体解剖し、その液を汝の葭の塗布に使うがよい、そうすれば汝は水の上を歩くことができる。結局、「ひとがそれを立ち上がらせ、まる1年経過するまでこれを養い、乳と雨水の中にこれを留めるなら、それは欠如しているものすべてを彼に教えてくれるだろう」[047]

 理性的な動物のための偽-プラトーンの処方と、『自然の王国について(De natura rerum)』のホムンクルスとの間には、無数の類似点があるが、そこにはまた明らかな違いもある。人間の精子の選択、血による養い、フラスコ内での40日間の最初の養いと、それに続くより長い期間の成熟、そして最終的に、超自然的な知性の賜物は、両方のテキストで共有されている主題である。しかし、そこには同じくらい多様な違いがある、例えば、偽-プラトーンがその理性的な動物を皮膚で包むために使う鉱物の複雑な混合物、あるいは、それは撤去さるべきであるというアドバイスなど。 『自然の王国について(De natura rerum)』の著者は、さまざまな情報源に基づいているか、あるいは彼はその主要な情報源をかなり弱めている。とにかく、技術的誕生という『自然の王国について(De natura rerum)』とこのアラビア文学との間には、全体として、妥当性と必要性との両方の伝統に基づかせるに十分な類似性があることに、ひとは同意しなければならないとわたしは思う。

 『自然の王国について(De natura rerum)』から、より確実に本物のパラケルスス全集に属する作品に移れば、われわれの網をもう少し広く投げることが可能になるだろう。人為的誕のアラビアの伝統に加えて、パラケルススがそのホムンクルス考に用いたかもしれぬ別の典拠がある。わたしが言っているのは、中高ドイツ語でもAlraunないしAlrauneとしても知られているマンドラゴラ mandragora の通俗的な伝統である [048]。彼の年代不定の『(Liber de amaginibus)』の中でパラケルススは、人間のように見えるよう根を彫刻して、これをアルラウン Alraum として売る薬剤師を攻撃している。彼は、人間のような恰好をした何らかの根が本当に自然に生長することを断固として否定している [049]。にもかかわらず、パラケルススは別の箇所で、たとえ自然哲学者たちや医師たちが誤ってそれを包み隠したとしても、マンダラゲは本当に産出されうると断言している。『長寿論(De vita longa)』(1526/1527) の中で、真珠は精子から生成されるという理論について議論した後、彼は言う:

 ホムンクルス — 降霊術師たちが誤って「アロレオナ」と呼び、自然哲学者たちが「マンドラゴラ」と呼ぶ — は、彼らがその真の用途を隠してきた混沌のせいで、一般的な過誤の話題になっている。その起源は精子である、というのは、腹部で venter equinus 起こる非常に大きな消化により、身体と血をもち、原理とより少ない手足をもった、あらゆるものの中で[ひと]のようなホムンクルスが誕生するからである。[050]

 ここでパラケルススは、降霊術師たちや哲学者によって誤って記述されているマンドラゴラは、実際にはホムンクルスであり、彼らはそれを誤認している、と主張する。パラケルススはここで、吊された罪人たちの精子ないし尿から誕生した Alraun が、初めは絞首台の下で生長するというドイツの古い民間伝承のことを考えているのかもしれない:その出自に敬意を表して、AlaunGalgenmann とも呼ばれていた [051]。彼の推論を理解するために、パラケルススは通常、下位の孵化させるいかなる熱源をも意味する、腐った糞の錬金術における専門用語である venter equinus〔〕という表現を使用していることをひとは理解する必要がある。かくして彼にとっては、マンドラゴラ伝説を、ホムンクルスの歪曲された処方として解釈するのは容易なことであった、そこでは、絞首台の下の土が、 venter equinus〔〕として機能したのである。


パラケルススにとってのホムンクルスの含意

 パラケルスス派のホムンクルスの近接した典拠を特定したので、彼にとってのその意味の議論に移ろう。パラケルススの『ホムンクルスについて(De homunculis)』(1529-1532頃)に目を向けると、すぐに明らかになることは、人工的人間の産出は、驚異の対象であり、人間の技術の力を前進させる手段でもあるが、罪の強力な表象でもあるということである。パラケルススは『ホムンクルス論(De homunculis)』を始めるにあたり、人間は霊的能力と動物的能力の両方を持っていることを観察する;人を狼や犬と呼ぶことは、直喩ではなく同一性の問題である。これはパラケルススの小宇宙論に属し、それによれば、limus とか地球の塵からつくられ、ex nihilo〔無から創造されたの〕でない人は、自身の内に創造のあらゆる力と美徳を含んでいる [052]。何者かが野獣的振る舞いの行道をするとき、彼はそれゆえ内なる獣を実現し、文字どおり、その振る舞いを彼が模倣する当の獣になるのである。その同一性を決定するのは、外観ではなく物の本質である。人間の動物的身体は魂とは無関係に存在し、ひとがそれに所有されている場合、欠陥のある無魂の精子を産出するのである。この欠陥つまり獣の精子からだ、とパラケルスス今やわれわれに告げるのである、ホムンクルスや怪物どもが産出されるのは:それゆえ、彼らは無魂なのである。

 しかし、この過程はさまざまな方法で発生し得る。先ず、男が快楽を経験するや否や、彼の中で精液が生成される。その時点で彼には選択肢がある:その快楽に基づいて行動し、その精液を流し出すか、それが内部で腐敗するところにそれを内に保持するか、である。精液が彼の体外に流出するのを許可する必要がある場合、それは Digestif〔〕に着くや否や、孵化させるものとして活動しうる温かく、湿ったものとして、誕生に進む。この「汚染された精子」は、それが「消化」されたとき、怪物ないしホムンクルスを産出するにちがいない [053]。パラケルススは、これは女性にも可能であると述べているが、この場合は、よくあるのは、快楽によっていったん誕生して、種子が内部にとどまることである。すると、内部で腐敗し、奇胎(uterine mole)のような病気を惹き起こす、これは妊娠のふりをするが、怪物的な成長にのみつながる可能性がある [054]。男性の場合には、精液の保持と腐敗は、陰嚢ヘルニア(Carnoeffel)または他の生長につながる可能性がある、というのは、方向転換した精液が「肉、衰退、塊」を産出するからである [055]。興味深いことに、パラケルススはこの結果を「肛門性愛の誕生」に帰する、彼にとっては、放出のない精液の内部産出さえ、肛門性愛の一形なのである [056]

 肛門性愛の主題は、相当長くパラケルススの心を占めている。彼の議論の理路は彼を導いて、回虫やさまざまな直腸の動物相が、歩行者の行動によって引き起こされること、腸内のホムンクルスたちを産出する可能性が、子どもの虐待者に対する聖パウロの差し止め命令の本当の理由である、と結論づけるに至る。同様に、精子の全能的な産出力は、この危険な液体を摂取した肛門性愛者たちの胃や喉の中での恐ろしい生長や、ホムンクルスたちさえの存在を説明するためによく使われる [057]

 この点で読者は、魂のない子孫がそのような非正統的な性的慣行によってのみ産出されるわけではないことを考えると、彼ないし彼女自身の種の破壊力からひとはどうしたら逃れられるのか、大いに不審に思うかもしれない;それらは、単なる単に精液の保持だけから生じる可能性がある。これに対する答えは、衝撃的なほど簡単である。親として読者に集中してパラケルススは告げる、われわれはわれわれの息子たちが結婚するよう世話すべきか、さもなければ、この悪の根がそのすべての枝もろともに掘りあげられるようわれわれは彼らを去勢しなければならない [058]。女性の場合には、結婚以外の解決策はない。最初は、親孝行なこの処方を単なる誇張として読むように誘惑されるが、『ホムンクルス論(De homunculis)』からのいくつかの初期の註釈は、パラケルススが極度に真剣であることを明らかにしている。断片から突然始まる節で、彼は言う:

 [神]はペテロ、つまり自分の選んだ者の上に教会を建てたので、彼は他の処女(jungfrauの上に教会を建てることはないだろう。ひとが同じものを信頼してはならないのは、水中の葦はより安定しているからである。わたしがこのことを汝らに告げるは、キリストは自分が選ばなかった処女たち(jungfrauen)をもちたくないのは、彼女らは葦のように不安定であるからということを、汝らが理解するためである;むしろ彼が選ぶことを欲するのは、彼に対して信実でありつづける者である。しかし、もし人間が力づくで、自身の力によって、純潔を保持したいなら、去勢された者として自身をもつか、自身を去勢するか(sol man beschneiden oder sich selbs beschneiden)、すなわち、わたしが書くあのものが横たわる源泉を除去すべきである。だからは — このことが容易に起こるように — 胃や肝臓のようにではなく、体の外にそれを形成したのである。これは女性には与えられていない:だから彼女らは男たちに命令されるのである。[もし彼らが去勢者でアルなら、]彼らは自然本性的にそうであるか、さもなければ、が一種の力で、彼ら自身の意志によってではなく、彼らを受け入れるのである。[059]

 ここでパラケルススが、真正な純潔は去勢によってのみもたらされることができるという彼の観念を拡張するのは、快楽には種を生み出す避けがたい効果があるからである。自称処女は、彼自身の種のまさに根源を根絶しないかぎり、本当にそうにはならない。この声明から、パラケルススは真に並外れた結論に到達する:彼ら自身の自傷行為制定の便宜のために、神は男たちを外部性器で祝福したもうたのである。かくて、この選択肢を受けていない女たちは、男の支配下に置かれなければならない。この一連の推論を結論づけるために、男たちは簡単な選択ができる — 彼らは結婚してもよい、その場合、彼らの精液は、魂の宿る子どもたちを産出するために、絶えず放出され適切に使い果たされるか、あるいは、彼らは自己去勢によってさらに無用な種子の産出を排除すべきかである。さもなければ、ホムンクルスたちの不本意な父親になるのみである。

 最も冷淡な読者でさえ、パラケルススの『ホムンクルス論(De homunculis)』が桁外れの文書であることを見逃すことはありえない。性的公害、不自然な生殖、病気、去勢による宗教的な浄化に関する複合観念は、16世紀の基準からみても奇抜である。間違いもなく、『ホムンクルス論(De homunculis)』は、パラケルススの膨大な文学作品の一つである短編小説として、異常だという議論に傾くひともいよう。しかし、実情はそうではない。パラケルススの他の論文に目を向けると、同じ複合体の一部が現れるが、いくつかの修正をともなう。1535年頃の断片的な『(De praedestinatione et libera voluntate)』は、人間は種を生殖するか否かを選択する自由を有すると主張しているらしく、その自由が存するのは部分的には「精液の中の血の受容においてである……かくして汝は純潔の内にか、[あるいは]淫蕩の内にか、いずれにしろ汝の望むところに生きるだろう」と言う [060]。この箇所は、多かれ少なかれそのままでは理解しがたいが、パラケルススは、精液の生殖は選択の問題であり、『ホムンクルス論(De homunculis)』 中で忘れられないほど厳しい用語でに彼がこめた伝言を言っているかに見える。事実、種子は選択によって生殖されるという観念は、パラケルスス初期の『真理における感覚物の生成に関する書(Buch von der Geberung der Empfintlichen Dingen in der Vernunft)』(1520年頃)の中でさらなる敷衍を受けるのである。ここでパラケルススは言う、男どもや女どもは種子なくして生まれる」[061]。種子は選択によって男や女の中に産出するにすぎないが、その仕方は以下による。火が木に点火するように、幻想(speculatio)が点火することのできる liquor vitae〔生命のリキュール〕とともに、血は身体の中に共存する。この発火が起こると、パラケルススが egestio〔〕と呼ぶ過程によって、種子は身体じゅうに分散している liquor vitae から分離し、次いで vasa spermatia に移行する [062]。種子が産出するたびに、とパラケルススは言う、「あるのは自然の光ではなく、死である」;すなわち、理解力は消滅する。その結果、彼は付言する、必要なのは哲学者が種子を生殖しないことである、と。実際、御自身が欲するのは「純粋なひとであって、変化するひとではない」;すなわち、彼が欲するのは、精液の生殖によって汚されないひとである [063]

 しかしながら、『(Das Buch von der Geberung)』における他の点でパラケルススが明らかにしているのは、不純な人間に対する純粋な人間のの優先にもかかわらず、子を生むことは罪ではないということである。彼の伝言は基本的には『ホムンクルス論(De homunculis)』のそれ — 良いクリスチャンは、その種子を生殖のために使うか、その産出をまったく避けるか(後者の目標を達成しうるのは、自傷行為によってのみという公然たる指令を『(Das Buch von der Geberung)』は欠いているけれども)— 2つの選択肢を持つということである。本質的に、パラケルススは男たちに2つの命令を確立しているかに見える — 種子を誕生させることは決してない完全に純潔な哲学的選択と生殖する平民とである。彼は、完全に純潔な男は、洗礼を通して身体的な再生を体験できることを示唆するところまでゆきさえし、彼のアダム的元素的身体を、新生した肉によって文字通り置き換える。このような生まれ変わった男は、magus coelestisapostolus coelestismissus coelestisあるいはmedicus coelestis となることができる [064]。しかしながら、子を生む男の運命ははるかに明瞭でない、というのは、他の多くの箇所で、パラケルススは合法的結婚を支持しているからである >[065]。ここでパラケルスス哲学のこの厄介な点を解決しようとすると、わたしの能力範囲を超えてしまう。『(Das Buch von der Geberung)』にとっては、少なくとも伝言は、生殖、または種の生成でさえ、自然の光から学ぶ可能性を排除する、ということを繰り返すにとどめせしめよ。


ほむんくるすハ自分ノ運命ヲモツ

 われわれが先に見たように、パラケルススは種子を生殖する問題に関して極度に両義的な見解を有し、時々、子づくりの不法取り引きする「一般大衆」に対するほとんどマニ教的拒否に陥る。とはいえ、明白な一事がある。もしひとが実際に種子を生殖したら、彼ないし彼女は、その究極的な休息の場を非情に注意深く見守らなければならない、ということである。ひとたび精子が産出されたら、禁欲も放出そのもの (per se) も容認されない、というのは、どちらも制御不能で危険な怪物どもの発生につながる可能性があるからである。パラケルススの『ホムンクルス論(De homunculis)』によると、男性の精子の唯一の適切な行き先は女性の子宮であり、これこそはホムンクルスを産出しないことが保証されている1つの環境である。他方、『(De natura rerum)』の方は、それが真正であれ否であれ、人間の種子の汎生的悪徳を美徳に変えた。適度な熱でフラスコを熱して孵化に従事する「錬金術的」手法により、ひとは雄の種子を雌から隔離することができ、それにより透明な「身体のない」ホムンクルスを産出することができる。このようにして、人間の技術は、通常の女性の出生の重要性によって妨げられない、それゆえ自然の人工物を凌ぐ存在を生殖できるのである。

 ここにわれわれは、上に述べられた伝統のあの合流の結実を見る — 自発的な子づくりに関するアラビアの作家たちの「理性的動物」は、アヴィセンナに対するラテンの応答と結び合って、パラケルススのホムンクルスを生み出した。しかし、この結合にはその危険がなかったわけではない。中世においてさえ、錬金術は鉱物の再現というその主張において、神性の創造力を侵犯したという強力な感情があった [066]。偽-アリストテレースの『秘中の秘(Secret of Secrets)』の1つの幻想は、次の当を得た一節を含む:「真正の銀と金をいかにして産出するかを知ることは不可能であると知られねばならない、彼自身の作品で至高者-と同等(equipqri Deo Altissimo)になることは不可能だからである」[067]

 ホムンクルスに対する拒否反応はどれほど強かったことであろうか! 17世紀のイギリスの例を3つだけ挙げよう。ヘンリー・モア〔1614-87〕— その酷評は「Eugenius Philalethes」ないし〔その著者である〕トーマス・ヴォーン〔1621-1666〕に対するものであり、その『熱狂的勝利(Enthusiamus Triumphatus)』を書くための口実をつくったものだが、彼はパラケルスス主義を哲学的熱狂の具体化とみなした。モーアにとって、パラケルススはパラケルススは「大法螺吹き」であり、その「譫妄状態の諸々の幻想」と「無様でだらしない発明」は、「ホムンクルスをつくる人工的な方法がある」という奇抜な思い込みという種図の中に見つけた。ホムンクルスを寓意化せんと試みた Johann Valentin Andreae〔1586-1654。薔薇十字団三大基本文書の1つ『化学の結婚』を著したとされた唯一身元がはっきりしている人物〕のような作家たちにホムンクルスをallえようとしたヨハン・バレンティン・アンドレアエのような作家によっても、モーアは宥められることはなかったであろう。モーアがこの人工的人間に見たのは、「キリスト教徒であれ異教徒であれ、どちらにも切り出されたことのない最も粗野な哲学的熱狂者」に孔を開けるスイス人の大法螺吹きの単なる他の例にすぎなかった[068]

 同じくホムンクルスの同情的な見解は、モーアの正確な同時代に見られるが、その〔同時代の〕哲学的抑制のせいで通常は言及されなかった。わたしが言及しているのは、1653年に現れたマーガレット・キャベンディッシュ〔1623?-1673〕のエピクロス派的な『詩と幻想(Poems and Fancies)』である。カヴェンディッシュは、奇抜さに対するその世評にもかかわらず、錬金術の主張には常に反対であった。ホムンクルスに関する彼女の意見は、モーアとは違って、特に啓発的で、人工的生命の論点を、技術/自然の議論の文脈内で扱う:

 最も偉大な化学者たちは強力な見解を持っています、彼らは自然を強制して、その自然な速度からこれを踏み出させて、自然が1001000かかってもできないこと、これをエリキサとして、の中で技術によってさせることができる;彼らの技術は、彼女〔自然〕が原物に加えたのとは別の方法で、その原物をつくることで、自然と同じだけのことをすることができる、というのです;あたかもパラケルススの小さなが、幾つかのがひとつのに集結して、諸々の空想が形をなし、群雲に集まった水蒸気が、幾つかの物の形象になるように。[069]

 ヘンリー・モーアのように、キャベンディッシュは、ホムンクルスをフラスコ内の残留物からの自由な結合によって形成されたパラケルススの贅沢な空想の息子とみなそうとしている。しかし、彼女は、ホムンクルスが具現化する錬金術的事業 — 技術によって自然を凌駕することに対する彼女の糾弾においては議論の余地はない。確かに、技術が自然と対等であるという考えにさえ彼女は反対している、というのは、彼女が忠告し続けているように、それは人間を小さな神にするであろうからである。

 然り、彼らは私たちが今まで見た以上のことをして、あたかも彼らが自然であり、自然働きではないかのように、死んだものに生命を戻すふりをするでしょう……というのは、人類技術や他の諸々の創造物はとても素晴らしく有益ではありますが、自然の諸作品と比較すると、比較されたとき、それらは無です。かてて加えて、自然がするとおりにして自然を模倣することは不可能らしい、というのは、その流儀とその原作とはまったく知られていないからです:例えば、ひとはそれらを、あるいは実際はそれらのうちの幾つかだけを推測するのみです……彼は抽出できますが、つくることはできません;例えば彼は物からを抽出するかもしれませんが、の原理的要素をつくることはできません;も同様です;彼が太陽大地……をつくることができる以上に、エリザール[すなわちエリクシル]をつくることができることはあり得ないのです……しかし自然人類にこれほどまでに図々しい自己愛を与え、あの有力な技術に対する軽信性で満たした結果、自然の流儀学んだのみならず、その方法と能力を知り、自然の主人となったばかりか、彼女を支配し、彼女を自分の服従下に置くまでになったと考えるに至ったのです。[070]

 この一節で、アヴィセンナのsciant artifices〔科学技術〕の共鳴を聞き、『ヘルメスの書(Book of Hermes)』によって提起された技術のまさしく防禦 — ひとは4つの元素を「創造」できるという — に対する、キャベンディッシュの否定を目撃することは魅力的である。『秘中の秘(Secret of Secrets)』注釈者の敬虔な疑問さえここ、「最高の化学者たち」は自身を「自然」と混同しているというキャベンディッシュの不満の中に反響している。キャベンディッシュの攻撃の主たる焦点は、せいぜい金属の単なる変成にすぎない(これを彼女はたいてい脚註として付加する)とはいえ、人工的な人間をつくることである。何よりもホムンクルスの無言の証人が、錬金術師を不敬虔なペテン師として告発する。素面の自然哲学者が悟らなければならないのは、「われわれが自然の作品の影を目にすることは稀で、せいぜい黄昏の地に生きて、そこでわれわれは遍歴の彷徨でわれわれの頭を叩き割られるのがふさわしい」ということである。

 ホムンクルスの運命への最終的なひねりは、カルヴァン主義者の神学者ジョン・エドワーズ〔1637-1716〕によって1696年に出版された『神の存在と摂理の(Demonstaration of the Existence and Providence of God)』の中に見られるだろう。エドワーズの本は、何よりも自然神学であり、そのようなものとして人体の不思議な複雑さについて長々と敷衍している。この著者は、身体の部分の対称性と相互接続性が、その制作者の超越性を証明しているという自分の見解に、格段の支持を見出している。これは、単なる地上的な働き手 — 彼らはその産出物に真正の生命を付与するごとき有機的完全性を創造することができない — から彼を引き離す。エドワーズが言うところでは、

 これは、人間的手腕の技量ではない、ここに技術でつくられた自動人形なく、ダイダロスの歩くウェヌスなく、アルキュタスの鳩なく、レギオモンタヌス〔1436 - 1476〕のはいない。ここには、アルベルトゥス・マグヌス〔1193年頃 - 1280〕のもの、ないし修道士ベーコン〔ロジャー・ベーコン(1219年頃 - 1292年頃〕の話す頭、あるいはパラケルススの人工のホムンクルスもない。ここにあるのは、神的な原理技術から発展したもの以外の何ものでもない、それゆえ、暫時外的な感覚と生命の外観を有するが、生動的なをもたぬあの機械的な発明の間には考えられないのである。[071]

 ここでエドワーズが、ロジャー・ベーコンの青銅の頭やアルキタスの鳩のような有名な機械的自動人形たちの中にホムンクルスを位置づけるのは、それが真正の自動原理のいずれかであることを否定するためである。ホムンクルスが本当に存在できるとしても、それは生命の巧妙な偽造品であり、真に生気溢れる存在ではない。注目すべきことに、エドワーズはパラケルススの『(De natura rerum)』— ここでは、このテキストのホムンクルスを、自然を超える人力の最終的実例として使われている — の冒頭に議論をまわすよう操作して、エドワーズはこれを人間の技術の弱さを立証するために費やしている。自然のみが、神的意志の生きた証であり、真の生命を産出することができる:錬金術師や機械工は、青ざめた模像を捏造することができるにすぎない。

 そこで、17世紀のパラケルススの読者たちが、彼らが人工的人間をペテンないし妄想として退けたときでさえ、技術の英雄としてのホムンクルスの像に警戒したのはまったく明らかである。ホムンクルスをキリスト教救済論の軛に役立たせるというアンドレアの道を辿った人はほとんどいないようである。そして実際、『自然の王国について(De natura rerum)』にしろ、『ホムンクルス論(De homunculis)』にしろ、そこに描かれているホムンクルスは、救いの手に負えない乗り物である。人間の職人技による「身体なき」産物も、抑制なき快楽の卑猥で誇大な生長も、再生した魂の世話に奉仕することはできない。要するに、人工的生殖、錬金術的論戦、そして非正統的なカトリックの伝統を融合することで、パラケルススとその亜流は、神性そのものの創造的な力に接近し、錬金術師の表象をmagus coelestis〔〕として創造すべく操作した。この聖なるマギたちがもったのが技術の鍵と自然であった:そのホムンクルスを捏造することで、彼はの超越的な創造行為を模倣することさえ、小規模ではあったができた。マーガレット・キャベンディッシュとは異なり、創世記第3章5節の背景にある言葉かすかに聞くこともなしに、誰がこの表象を受け容れられようか —「汝らの目は開かれ、神々のごとく、善と悪を知る者となろう」。

2019.09.16. 訳了。

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