title.gifBarbaroi!
back.gifII-3 諸々の擬人化

C・G・ユング
「錬金術研究」II

ゾーシモスの幻像

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II-4 石の象徴的意義

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 ゾーシモスは、身体(「肉」を意味するsavrx)を、霊的なひと(pneumatikovV)と対比させている[001]。霊的なひとの他と違う徴は、彼が自知[002]つまりの知を求めるということである。土的・肉的ひとは、トートあるいはアダムと呼ばれる。彼は自分の中に霊的なひとを含有しており、その名は光(fw:V)である。この最初のひと、トート-アダムは、四元素によって象徴される。霊的にして肉的なひとは、プロメーテウスとエピメーテウスとも名づけられる。しかし「寓意的言語では」、彼らは「ただ一人のひと、つまり魂と身体」である。霊的なひとは、身体を着るようそそのかされ、「パンドーラ」によってそれに結びつけられるのだが、彼女のことをヘブライ人たちはイヴと呼ぶ[0003]。それゆえ、彼女はアニマの役割を演じ、身体と霊との連接環として機能する、それはちょうど、シャクティとマーヤが、ひとの意識を世界と絡ませるようなものである。『クラテースの書』の中で霊的なひとは言う:「おまえはおまえの魂を完全に知ることができるか? おまえが然るべくそれを知れば、そして、より善くすべき方法を知れば、哲学者たちが昔からそれに与えてきた名前は、その真の名前ではないことを知ることができよう」[004]。この最後の文は、lapis〔石〕の名前に適用されてきた決まり文句である。lapis〔石〕は内的なひと、霊的人間(a[nqrwpoV pneumatikovV)、錬金術師たちが解放することを求めるnatura abscondita〔隠れたる自然本性〕を意味する。この意味で『立ち昇る曙光』Aurora consurgensは言う、火による洗礼を通して、「前もって死んだひとが、活きた魂とされる」[005]

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 石の諸々の属性 — 不朽性、永遠性、神聖性、三位一体、等々 — は、繰り返し強調されるあまりに、ひとはこれを物質の中のdeus absconditus〔隠れたる神〕と解さずにはいられない。これはおそらくlapis〔石〕-クリスト並行の基礎であり、ゾーシモスと同じくらい早期から[006]現れるものである(疑問の一節が後世の書き込みでなければだが)。クリストは「受難のできる人間の身体」を身につけ、物質を身に着るのだから、彼はlapis〔石〕 — その有体である性質が絶えず迫害される — との並行を形成する。その偏在性は、クリストがいついかなる所にもましますことと対応する。その「安っぽさ」は、しかしながら、教義上の見解に反する。クリストの神聖性は、ひととの関わりを何ら持たないが、癒しの石はひとから「抽出される」のであり、あらゆるひとが潜在的な運搬人であり創造者である。石-哲学が、いかなる種類の意識状況を補償しているのかを見ることは困難ではない:クリストを意味すること(signifying)からはかけ離れて、lapis〔石〕は、当時のクリスト像の普通の概念を補完している(complement)[007]。自然がlapis〔石〕の表象を産出するとき、いかなる無意識的自然本性が究極的に目的とされたかは、それが物質の中とひとの中に発源するということ、いたるところに見出されるということ、その作り事は少なくともひとの手の届く範囲内に潜在的に存するということ、に注目すれば、最もはっきりと見られうる。これらの性質はすべて、当時クリスト表象に何が欠点と感じられたかを暴露する:大気は人間の必需品にとってあまりに高遠で、遠さはあまりに大きく、人間の心の中の場所は空虚なままである。ひとは、おのおののひとに属する「内なる」クリストの不在を感じた。クリストの霊性はあまりに高く、ひとの自然性はあまりに低かった。メルクリウスとlapis〔石〕の表象の中で、「肉」はそれ自身のやり方で自分を栄光化した:それは自分を霊に変容するのではなく、逆に、霊を石の中に「固定」し、3つの位格の属性をすべて石に授けることであった。それゆえlapis〔石〕は内的クリスト、ひとの内なるの象徴として理解されえた。わたしが「象徴」という表現を故意に用いるのは、lapis〔石〕はクリストと並行であるにもかかわらず、それは彼に取って代えることを意味しないからである。逆に、数世紀の間に、錬金術師たちはますます、lapis〔石〕をクリストの贖いの働きの極致とみなすようになっていった。これはクリスト像を、「の科学」という哲学へと同化する試みであった。16世紀に初めてlapis〔石〕の「神学的」位置を定式化したのはクーンラートであった:それはfilius microcosmi〔ミクロコスモスの子〕である「ひとの子」の対立するものとしてfilius macrocosmi〔マクロコスモスの子〕であった。「大いなる世界の子」というこの表象は、いかなる源泉からそれが引き出されたかをわれわれに告げている:それは個々のひとの意識的な心に由来すのではなく、宇宙的な物質の神秘に開かれた魂のあの境界領域に由来している。クリスト表象の霊的な一側面を正しく認識することで、神学的な思弁は、非常に早期から、みずからとクリストの身体、つまり、その物質性、とを関連させ始め、よみがえった身体という仮定によって問題を一時的に解決した。しかし、これは暫定的な答えにすぎず、それゆえ完全には満足のゆく答えではなかったので、理論的な問題は聖-処女聖母被昇天の中に再び浮上した。最初は無原罪懐胎の教義に、最終的には聖母被昇天のそれに導いたのである。これは真実の答えを延期するにすぎないにもかかわらず、それに至る道はやはり用意されている。マリアの被昇天と戴冠は中世の挿し絵の中に描かれたとおり、男性的な三位一体に第4の、女性原理を付け加える。その結果は四位一体であり、これが真実の、そして全体性の単なる仮定ならざる象徴を形成するものである。三位一体の全体性は単なる仮定である、というのは、それの外側に立つのは、自律的で永遠なる敵と、その堕天使たちの合唱隊と地獄の住人たちである。全体性の自然な象徴は、このようにわれわれの夢や幻像の中に出現し、東方では曼荼羅の形をとり、四位一体ないし四の倍数、あるいはそのほかには方形にされた円である。

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aborigines_tjuringa.jpg 物質の力説は、とりわけ-表象としてのの選択に明白である。われわれはきわめて早期のギリシア錬金術の中でこの象徴に出会うが、石象徴がその錬金術的用法よりも非常に古いと考えるには、ちゃんとした理由がある。神々の誕生地(すなわち石からのミトラスの誕生)としての石は、石からの誕生という原始的伝説によって証拠づけられ、これはさらに古くさえある諸観念にさかのぼる — 例えば、オーストラリアの原住民たちの見解では、子どもたちの魂は、「子ども-石」と呼ばれる特別な石の中に住んでいるという。かれらはチュリンガchuringaで「子ども-石」をこすることで、子宮の中に移住させられることができる。チュリンガchuringaとは技巧的に形づくられ飾られた丸い石ないし楕円形の石、あるいは、同じように装飾された楕円形の平らな木っ端である。これらは祭具として用いられる。オーストラリア人やメラネシア人たちの主張では、チュリンガchuringaはトーテムtotem祖先に由来し、それらはその身体ないしその行動の遺物であり、arunquilthaあるいはマナmanaに満たされているという。それらは祖先の魂と、また、後にこれを所有する者たちみなの霊と一体である。それらはタブーtabooであり、隠し場に埋められたり、岩の割れ目に隠されたりする。これらを「充電する」ために、それらは墓の間に埋められ、それによって、それらは死者のマナを吸収できる。それらは畑の作物の成長を促進させ、ひとや動物の繁殖を増し、傷を癒し、身体や魂の病気を治す。このようにして、ひとの生命力が感情によってもつれきったときには、オーストラリアのアボリジニたちは、彼の腹の中に石のチュリンガchuringaで息を吹きこむ[008]儀式目的で用いられるチュリンガchuringaは、赤い黄土で彩色され、脂肪を塗られ、寝床を与えられ草木の葉でくるまれ、たっぷりと唾(唾=マナmana)をかけられる[009]

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 魔法の石というこれらの観念が見出せるのは、オーストラリアやメラネシアのみならず、インドやビルマにおいても、また当のヨーロッパにおいてもである。例えば、オレステースの狂気は、ラコーニアにある石によって治された[010]。ゼウスは、レウカディアにある石〔レウカスの岩〕の上に座ることで、愛の哀しみからの休息を見出した。インドでは、若者は確乎たる性格を得るために石の上を歩き、花嫁は自分自身の誠実さを保証するために同じことをするだろう。サクソ・グラムマティクスによると、王の選挙人たちは、自分たちの投票に永久性を与えるために石の上に立った[011]という。アッランの緑の石は、治療のためと、それにかけて誓いを立てるためとの両方に用いられた[012]。チュリンガchuringaに似た「魂-石」の充電は、バーゼルに近いビールス河畔の洞窟に見出され、〔スイス〕ゾーロトゥルン州にあるBurgaeschiの小さな湖畔でpole-dwelling住居の最近の発掘の間に、樺の木の樹皮にくるまれた一群の玉石が発見された。石の魔力という非常に古いこの考えは、文化のより高い水準を、あらゆる種類の魔術的・医療的な所有物が帰せられる宝石に似た重要性へと導いた。歴史上最も有名な宝石は、その所有者たちに降りかかった悲劇を招いたとさえ想像される。

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 〔北米〕アリゾナのナヴァホ・インディアンの神話は、石のまわりに密集する原始的な諸幻想の特別に絵画的な記事を与える[013]。大いなる暗黒の時代に[014]、英雄の祖先たちは、空-父親が下がり、これに出会うために大地-母親が上るのを見た。彼らは合体し、合体が起こった山の上に、祖先たちは土耳古石からできた小さな人物[015]を見つけた。それはエスツァナトレヒEstsánatlehiに変わった(あるいは異文では、生んだ)。「みずから若返る、あるいは、変身する女」である。彼女は、原始時代から存在する怪物を退治する双子神の母であり、神々(yéi)の母ないし祖母と呼ばれた。エスツァナトレヒEstsánatlehiは、ナヴァホの母権的な万神殿においては最も重要な人物である。彼女は「みずから変身する女」であるばかりか、彼女はまた2つの姿を双子の姉妹Yolkaíestsanにとっては、似たような力を授けるのである。エスツァナトレヒEstsánatlehiは不死である、というのは、衰えて老女になっても、彼女は若い少女 — 真実のDea Natura〔自然-女神〕として再びよみがえるからである。彼女の身体の異なった部分から、4人の娘が、彼女の霊から第五の者が彼女に生まれた。太陽は土耳古石の寝床から出てきて、彼女の右胸に隠れ、月は白い貝から〔出てきて〕彼女の左胸に〔隠れた〕。彼女の生まれ変わりは、自分の左胸の下から一片の皮を転がすことで起こる。彼女は西のかた、海の中にある島に住んでいる。彼女の愛人は粗野で残酷な太陽-運び人であり、これは他に妻をもっている;しかし彼女は、雨が降るときだけは、自分の家にとどまらねばならない。土耳古石の女神はあまりに神聖なため、彼女のいかなる表象もつくれず、神々でさえ彼女の顔を直視できないほどである。彼女の双子の息子たちが、自分たちの父親は誰かと彼女に尋ねたとき、彼女は彼らに間違った答えを与えたのは、明らかに英雄の危険な運命から彼らを守るためであった。

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 母権的女神は、明白に、同時に自我を象徴するアニマ像である。ここに〔由来するのが〕、彼女の石-自然本性、彼女の不死性、身体から生まれた彼女の4人の娘たち、霊から生まれたもうひとり、太陽と月という彼女の二面性、彼女の情婦としての役割、自分の姿を変える彼女の能力〔である〕[016]。母権的社会に生きるひと〔男〕の自我が、その無意識の女性性にまだ浸されていることは、男性のマザー・コンプレックスのあらゆる場合に、今日でも、観察されとおりである。しかしながら、土耳古石の女神はまた母権的女の心理学のよい例ともなる。彼女は、アニマ像として、彼女の周辺にいるすべての男のマザー・コンプレックスを魅惑し、彼らからその自立心を奪うこと、あたかもオムパレーがヘーラクレースを虜にしたがごとく、あるいは、キルケーがその捕虜を動物的無意識の状態に転落させたがごとくである — 自分の愛人たちを木乃伊にして蒐集したベノイトのアトランティダは触れるまでもない。こういったあらゆることが起こるのは、アニマが宝石の秘密を含むからであり、ニーチェが言うように、「あらゆる喜びは永遠を欲する」からである。こうして伝説的なオスタネースは、「哲学」の秘密について語るなかで、弟子のクレオパトラに言う:x「汝の中にあらゆる恐るべき、かつ、驚くべき秘密が隠されている……いかにして最も高きものが最も低きものへと下り、いかにして最も低きものが最も高きものへと上り、いかにして中間のものが最も高きものへと引き寄せ、これと一つにさせられるかをわれわれに知らしめよ」[017]。この「中間のもの」が石であり、反対のものをひとつにする仲裁者である。これらの主張は、深遠な心理学的意味に理解されないかぎり、意味をなさない。

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 石-誕生のモティーフは広く行き渡った(cf. デウカリオーンとピュッラの創造神話)けれども、アメリカ伝説圏は、石-身体、あるいは、命を吹きこまれた石のモティーフ[018]に、特別の重点を置いているように思われる。われわれはイロコイ族の双子の兄弟の物語[019]の中で、このモティーフに出会う。奇跡的な仕方で処女の身体の中にもうけられ、一組の双子が生まれた、そのひとりは普通の仕方で出てきたけれど、他方は普通でない出口を探し、脇から、そのせいで自分の母を殺して現れた。この双子は火打ち石でできた身体をもっていた。後者は脆弱、残酷で、自分の普通に生まれた兄弟に似ていなかった。スー族の異文では、母親は亀であった。ウィチタ族の間では、救い主は南の大いなる星であり、彼は「火打石-人間」として地上で救済の働きを果たした。彼の息子は「若い火打石」と呼ばれた。彼らの仕事が完成した後、二人はともに空にもどった[020]。この神話では、中世の錬金術においてのように、救い主は石、星、「息子」と表裏一体であり、〔「息子」は〕「super omina lumina〔万物を超越した光〕」である。ナチズ・インディアンの文化的英雄は、太陽から地上に降り立ち、耐え難いような輝きで光り輝いた。彼の一瞥は死の仕打ちであった。これを緩和するため、また、彼の身体を地上の堕落から防ぐために、彼はみずから石の状態に変身し、この〔石〕から、ナチズ族の聖職者兼酋長は血統を受け継いでいるのである[021]。タオス〔?〕・プエブロ族の間では、処女が美しい石によって妊娠させられ、息子の英雄を生むが[022]、これはスペインの影響を受けて、子どものクリストの様相を呈している[023]。石はアステカ伝説圏では似た役割を演じる。例えば、ケツァコアルは貴重な緑の石によって妊娠させられた[024]。彼自身は「宝石の司祭」という家名を持ち、土耳古石でできた仮面をつけていた[025]。貴重な緑の石は、アニマを吹きこむ原理であり、死者の口の中に置かれた[026]。ひとのもともとの家は「宝石の鉢」[027]であった。石への変容、あるいは石化のモティーフは、ペルー人やコロンビア人の伝説に共通であり、おそらくは巨石文化と結びつき[028]、たぶんチュリンガ風の魂-石という旧石器時代の文化とも結びついている。ここにある並行は、巨石文化のメンヒルで、これは太平洋の群島にまで及ぶ。ナイル渓谷の文明は、巨石時代に源を発するが、王のkaを永遠にすることを表す目的で、その神聖な王たちを石の像に変えた。シャーマニズムでは、奉仕する霊たちの役割を演じる水晶に触れることが非常に重要である[029]。彼ら〔霊たち〕は、超越的な存在である水晶の王座から、あるいは、空のアーチ形天井からやって来る。彼らは、世界で何が進行しているか、病気の魂に何が起こっているかを示し、彼らはまたひとに飛行する力を与える[030]

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 lapis〔石〕と不死性との結合は、非常に早い時代から証言がある。オスタネース(おそらく紀元前4世紀ころ)は、「霊をもったナイルの石」[031]について語っている。lapis〔石〕はpanacea〔万能薬〕、普遍的な薬、解毒剤、粗悪な金属を黄金に、砂利を宝石に変成させるチンキ剤である。それは富、権力、健康をもたらす;憂鬱症を治し、vivus lapis philosophicus〔命をもった哲学者の石〕のように、救済者の象徴、アントローポス〔原人〕であり、不死である。その不朽性はまた聖者の身体が石になるという古代の観念の内にも示される。こうして『エリアの黙示録』[032]は、アンティ−メシアによる迫害を逃れる人々について次のように言う:「は彼らの霊と彼らの魂を自分のもとに引き取り、彼らの肉は石となり、大いなる最後の日にいたるまで、野獣が彼らを貪ることはないであろう」。フロベニウスによって報告された伝説バストー族[033]においては、英雄がその追跡者たちのせいで川の堤の上に立ち往生させられてしまった。彼はみずから石に変身し、その追跡者たちは彼を向こう岸に投げ渡したという。これはtransitus〔通過儀礼〕のモティーフである:「向こう岸」とは、永遠と同じことである。

forward.gifII-5 水の象徴的意義