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back.gifII-4 石の象徴的意義

C・G・ユング
「錬金術研究」II

ゾーシモスの幻像

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II-5 水の象徴的意義

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 心理学的調査研究が示してきたのは、歴史的あるいは民俗学的な諸々象徴は、無意識によって自発的に生み出されたものらと一致するということ、また、lapis〔石〕は、分析的心理学が自我と呼ぶところのものと表裏一体の超越的な全体性の観念を表現するということである。この観点から、われわれは、lapis〔石〕は身体、魂、霊からできており、生き物であり、homunculusあるいは「homo〔人間〕」であるという、錬金術師たちの明らかに馬鹿げた主張を困難なく理解することができる。それが象徴するのはひと、あるいはむしろ、内的なひとであり、これに関する逆説的な主張は、内的なひとの真の記述であり定義である。lapis〔石〕のこの含意に基づいているのが、キリストとの対応関係である。教会や錬金術の無数の隠喩の背後に見出されるのは、ヘレニズムの折衷主義の言説であり、これはもともと両者に共通していた。4世紀のグノーシス主義的-マニ教的異端プリスキニアヌス[011]から引いた次の1節は、錬金術師たちにとってきわめて示唆にとんだものであったにちがいない:「神は一角、クリストはわれらにとって岩、イエスは隅石、クリストは人々の子」[001] — 物質があべこべでなく、自然哲学から採られた隠喩が、聖ヨハネの福音を通して、教会の言語に至る道を見つけないかぎりは。

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 ゾーシモスの幻像の中で擬人化されている原理は、奇跡を起こす水であり、これは水であるとともに霊であり、殺すとともに生命を与える。もしゾーシモスが、その夢から覚め、「水の構成」について直接に考えれば、それは錬金術の観点からの明らかな結論である。長い間探し求められた水は、われわれが示したごとく[002]、誕生と死の循環を表現するから、死と再生から成るすべての過程は、自然本然的に、神聖な水の象徴である。

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 『ヨハネ伝』第3章のニコデモの対話との並行をわれわれはゾーシモスの中にもっていると考えられる。ヨハネ福音書が書かれたとき、神聖な水の観念は、あらゆる錬金術師に親しいものであった。「だれでも、水と霊とから生まれなければ、……」とイエスが言ったとき、当時の錬金術師はただちに彼が何を意味しているのかを理解したであろう。イエスは、ニコデモの無知を不思議に思い、彼に尋ねた:「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか」。彼は、明らかに、教師(didavskaloV)であれば水と霊、すなわち、死と再生の秘密を知っていることを当然のことと考えた。だから、錬金術の諸々の文書の中で何度も木魂した発言を語り続けたのだ:「わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことを証ししている」。じっさいには、錬金術師たちがこの1節を引用することはないが、彼らは類似した仕方で考えた。彼らはあたかもarcanum〔霊薬〕ないしは聖霊の恩寵にわれとわが手で触れ、神聖な水の働きをわれとわが目で見た[003]かのように語る。こういった諸々の主張は後世のものであるにしても、錬金術の精神は、最初期から、中世後期に至るまで、ほぼ同じままであった。

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 ニコデモ対話の結びの言葉は、「地上のことと天上のこと」に関係し、やはり、デーモクリトスが「自然と神秘」 — 「体と非体」、「身体に関することと霊に関すること」[004]とも呼ばれた — について書いて以来、錬金術の共有財産となった。イエスのこれらの言葉は、天への上昇と地上への下降というモティーフ[005]に直接連続する。錬金術においては、これは抑圧された身体からの魂の上昇と、生き返る露の形[006]でのその下降となるはずである。そして、次の詩行では、イエスは荒野で取りあげられたヘビについて語り、そしてこれを自分の自己犠牲と同等視し、「主」は、uroborosの思想に結びつけらる。これ〔uroboros〕はみずからを殺し、みずからを再び生き返らせる。これは「永遠の生」のモティーフと、panakea〔万能薬〕(キリストに対する信)に続く。じっさい、opus〔作業〕のすべての目的は不朽の身体、「死ぬことのないもの」、可視的・霊的な石、あるいはlapis aethereus〔霊気(アイテール)石〕をつくることであった。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった……」という詩行の中で、イエスは自分をモーゼの癒しのヘビと同一視した;というのは、ひとり子とはヌゥスと同義であり、これはまた蛇-救済者あるいはアガトダイモーンとも同義である。蛇はまた聖なる水とも同義である。この対話は、『ヨハネ伝』4:14におけるサマリアの女に対するイエスの言葉「……永遠の命に至る水がわきあがる井戸」[007]と比較される。井戸による議論は、充分意味深く、「神は霊である」[008](ヨハネ伝4:24)という教えのための文脈を形成する。

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 錬金術の言説の必ずしも意図的でなくはない曖昧さにもかかわらず、聖なる水あるいはその象徴、つまりウロボロスuroborosが意味するのが、deus absconditus〔隠れたる神〕、物質の中に隠れた神、自然に下降し、その抱擁に我を忘れた聖なるヌゥス[009]以外の何ものでもないということを見るのは難しいことではない。この「形而下的なものとなった神」の神秘が基礎となっているのは、古典的錬金術のみならず、ヘレニズム折衷主義の他の多くの霊的な表明[010]もそうである。

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